今までとこれから
今ほど動物を羨ましいと思ったことはなかった。あいつらみたいな毛皮があれば、ここまで辛い思いはしないだろう。
人里の上空にある厚い雲は、真昼間にも関わらず、街灯が必要なほどに辺りを暗くしていた。そのせいか、初秋にも関わらず酷く寒い。寒いのは苦手だ。はやく、暖かい蕎麦でも食べに行きたい。だが、もはや私にはそれをすることは出来ない。心が、重くなる。
結局、妖怪の山を出た私は人里へ戻ってきていた。本来ならば、烏に永遠に養ってもらう腹積もりだったのだが、「流石に部外者を匿っていることがばれたら、私もまずいです」と情けない事をいう烏に追い出されてしまった。最初こそ人里外の各地で生活していたが、病み上がりの体で妖怪に襲われる危険性を考えると、ここに戻ってくるしかなかった。
幸いな事に、寝床には困らなかった。かつて彼の家があった跡地。その瓦礫の山に体を隠し、休むことができる。布団も、時計も無いが、そこまでの苦ではない。写真はある。
そう考えると、今までの生活と大して変わらないのかもしれない。唯一違うとすれば、甘味屋も、居酒屋も私には食べ物を出してくれなくなったことだろうか。
冷たい風が肌を刺した。木にこびりついた煤が鼻をかすめる。組み合わさるように連なっている瓦礫の隙間に落とした腰が、酷く痛んだ。手元にある焼けて黒くなった木片を持ち上げ、軽くはたく。ぽろぽろと黒い表面が剥がれ落ち、比較的きれいになったところで、口に放り込んだ。硬く、筋だらけで喰えたもんじゃない。苦みとえぐみが舌を襲い、反射的に吐き出しそうになる。が、堪えて強引に飲み込んだ。何かを腹に入れなければ、このまま動けなくなりそうだった。妖怪なのに、なんで腹が減るのだろうか。どうせなら、もっと効率的な体に産まれたかったものだ。それこそ、小人ならば、僅かな食糧で生きていけるに違いない。
平たい場所を手で探し、横になる。硬く、冷たい地面が体を蝕んでいった。閉じそうになる目に力を入れる。真っ黒に曇った空が目に映った。じっと見つめると、鼻先に冷たい何かが触れる。雨だ。ぽつぽつと音を立て始めたかと思うと、蛇口をひねるように段々と勢いが強くなっていく。服が肌に張り付いて気持ち悪い。だが、雨宿りをする場所なんて、心当たりはなかった。
目の端に小さなものがこそこそと動くのが見えた。反射的に手を伸ばし、つかむ。小さな爪が皮膚に引っかかり、くすぐったい。顔の前に持っていって、初めてそれの正体が分かった。蜘蛛だ。八本の足を不規則に動かしている。黄と黒のまだら模様が目に付いた。運がいい。ついている。大きく口を開き、重力に任せるまま、蜘蛛を口に放り込もうとした。
その時ふと、蜘蛛の糸の話を思い出した。地獄に落ちたカンダタという男が、生前に蜘蛛を助けたことがあったという理由で、仏に手を差し伸べられる、という話だ。もしかすると、この蜘蛛を食べずに助けたら、私も地獄から助けてもらえるのだろうか。
そんなことを考えている内に手から蜘蛛が零れ落ち、カサカサと逃げていった。これで、救われるのだろうか。いや、絶対に無理だ。そもそも、本当に私は地獄に行けるのかさえ、怪しい。もし行けるのならば、連れて行ってほしいものだ。
今の現実は、地獄よりも、辛い。
私は寺子屋の前にいた。人里の中心地からやや北東に進んだ場所、木造の小奇麗な長屋だ。中からは甲高い子供の声が溢れ出ており、時々それを窘める女性の声も聞こえてくる。手に持った写真が、風で揺れた。真っ暗な不気味な雲が空を覆い、人里の気温をより下げている。
寒いのは嫌いだ。以前から嫌いであったが、最近はますます嫌いになった。夜、蒲団代わりに使っている薄いベニヤ板が霜でぬれ、身体の隅々から寒さで感覚が無くなっていくあの状況は、耐え切れないほどに恐ろしい。
時計を見る。15時を5分ほどまわった。知り合いがくれた情報によると、そろそろ授業が終わる時間だ、と思っていると子供たちが勢いよく飛び出してきた。
怪しまれないように、笠を深く被り直して、ゆっくりと寺子屋へと足を進める。扉の前で、目当ての人物が腰を落としているのが見える。帰っていく生徒の背中へと、笑顔で手を振っている彼女の姿は、どこか寂しげに見えた。綺麗に整えられた青白い長髪は、青いワンピースによく似合っている。だが、その顔には暗い隈が刻まれている。不自然に吊り上がった頬は痩せこけ、くぼみができていた。見るからに疲労がたまっており、それは子供たちも薄々感づいているのだろう、どこか労わるように去っていく。出来ればお近づきになりたくない人種だが、これも情報のためだ。やむを得ない。
大股で、寺子屋へと歩いていく。ちょうど彼女の前を横切るタイミングを見計らって、小さく声をかけた。後ろを振り返らないよう意識しながら、少し歩幅を小さくする。
「あ」と声がした。トタトタと足音がしたかと思うと、後ろから無邪気な声で呼びかけられる。
振り返らずに、後ろの様子を伺う。慧音の陰から飛び出し、お椀を揺らしながらミニマムな少女が近づいているのが分かった。追いつかれないように、無言で走る。待ってー! と声が聞こえた気がしたが、気にせず足を進めた。慧音の、宥めるような声が聞こえてくる。あいつも大変だろうに、子守りまでするとなると、きっと過労死してしまうだろう。
まあ、知ったことではないのだが。
「まさか正邪から話しかけてくるとはな」
枝豆の皮をぷにぷにといじりながら、慧音は笑った。
「いったい、どういう風の吹き回しだ?」
昼過ぎにも関わらず、居酒屋は混雑していた。だが、酒の席特有の活気はなく、誰もが沈んだ顔で黙々と酒を飲んでいる。愛想を振りまきながら酒瓶片手に店内を駆け回っていた店員も、今日は淡々と食器を片付けていた。カチャカチャと皿の擦れる音だけが耳につく。
「室内だから風なんて吹くわけないだろ」
「そういう意味じゃない」
弱弱しく慧音は微笑む。明らかに衰弱していて、人間の老婆のように覇気がない。ここまで疲れている人里の守護者を見るのは、久しぶりだ。何が彼女をここまで追いつめているのか、大した理由は無いが、気になった。
「慧音に話しかける理由なんて、一つしかないだろう」
「針妙丸の近況報告か?」
「なんであいつが出てくる」
充血した目を細め、にやにやと笑っている慧音に箸を向ける。烏の家を追い出されてから、針妙丸とは一度も会っていない。正確にいえば、姿を見かけることはあるが、会話をしたことはなかった。特に残念とも思わないし、会話したいとも思わない。むしろ、煩わしさが減って、気分がいいくらいだ。
「そうじゃねぇよ。もっと単純だ。ただ飯を食いに来たんだよ」
「はあ?」
慧音が呆れのあまり机に肘をつけるのと、店員が皿を落とし、ガチャリと悲痛な音が鳴るのは同時だった。
「私に奢ってもらうためだけにわざわざ呼び出したのか?」
「悪いか」
「なんで悪くないと思うんだ」
乾いた笑い声を上げようとし、上手くいかずにため息を吐いた慧音は、すみませーん、と店員に声をかけた。先程皿を落とした、女性店員だ。どうやら皿が割れてしまったらしく、箒で床を掃いていた彼女は、慧音の声が聞こえていないのか、なかなかやってこない。
慧音がもう一度声を張った。声帯が直に擦れているんじゃないかと思えるほど、がさついた声だったが、それでも店中に響くくらいには大きい声だ。だが、店員はやってこない。私が慧音の皿に載っていた枝豆を食べつくしても、まだ来なかった。ちなみに、私の頼んだシシャモは当然のように来ていない。
「慧音先生、困りますよ」
店員の代わりに来たのは、二つ右の席に座っていた大柄な青年だった。短く刈り上げた髪と、黒縁眼鏡は絶望的なまでに似合わず、髪を伸ばすか、それとも眼鏡を変えるかしたほうがいい、と思わず助言してしまったほどだ。
私の素敵な助言を鼻で笑った青年は「この妖怪は」と私に箸を向けた。人に箸を向けるのは人生で一番やってはいけないことだ、と指摘すると、机の下で慧音に爪先を踏まれる。
「この妖怪は、あの仲のいい夫婦を殺したような奴ですよ。そんな奴と一緒にいたら、あなたの品格すら疑われてしまう。まして餌付けだなんて、絶対にやっちゃだめです」
「私は野良猫か何かか」
「可愛げがないから、イノシシじゃないか?」慧音は、また力なく笑う。
「何でだよ。イノシシ可愛いだろ」
「可愛くない」
「何でもいいんですよ! 猪でも豚でも!」
青年は声を張り上げた。そのあまりの剣幕に、私は少し後ろに仰け反ってしまう。慧音も同じようで、不格好に椅子にもたれていた。
「とにかく、鬼人正邪と関わるのを止めてください。迷惑なんです。慧音先生と一緒だったから店員さんも自重しましたが、本当だったらこんな奴店に入れませんよ」
青年は視線を店員に移した。当の彼女は、私たちに目もくれず、延々と箒で地面を掃いている。すでに欠片はないにも関わらず、だ。二、三回虚空を掃いた彼女は、私たちの視線に気がついたのか、はっと顔を上げた。だが、またすぐに俯き、手に持った箒を壁にかけ、店の奥へと去っていく。手垢で色が変わっている柄の部分を地面につけ、ボサボサの竹の細い枝を土壁に引っ掛けるようにして、器用にバランスをとっている。つまりは、彼女は箒を逆さに立てかけた。
箒を掃く音がなくなった居酒屋はしんと静まり返った。よくよく周りの客を見てみると、団体客や個人客問わず、酒を飲むばかりでつまみはほとんど頼んでいなかった。中には、誕生日だろうか、子供を中心に両親が座り、竹とんぼや水鉄砲をその子の手に持たせている。が、彼らの顔に笑顔はない。
眉を下げ、肩をすくめた慧音は、悪かった、と青年に謝った。
「どうやらお邪魔だったようだ。私たちは出ていくとするよ。迷惑をかけてすまなかった。お代はここに置いておくと伝えておいてくれ」
「お、おい。私はまだ奢ってもらって」
「いいから、行こう」
にべも無く言い切った慧音は、強引に私の襟を掴み、引きずるように店をでた。納得がいかない私を無視するように、ずんずんと歩みを進める。
「別に出ていかなくてもいいじゃないか」
慧音の手を引き離しながら、私は言った。
「居酒屋は枝豆専門店じゃない」
「そんな店があるのか」
今までのような取り繕った笑顔は消え去り、身体の内に溜まった疲れを吐き出すように、慧音は大きく深呼吸した。黒々とした雲で包まれた空と同じように、彼女の吐息にも黒色が混じっている。どうやら相当参っているようだ。
「さっきの店員、箒を逆さまに置いただろ? あれ、ぶぶ漬けと同じで、早く帰れって意味なんだ」
「へえ。折角ならぶぶ漬けを出してくれれば良かったのに」
「正邪なら帰らずに食べてしまうと思ったんじゃないか?」
「まさか」
おかわりを要求し、さらには酒も頼むに決まっている。
私たちの足は自然に寺子屋へと向かっていた。人里の中央付近にある寺子屋へ行くには、大通りを通るしか方法はない。今の時間は、昼飯を食べ終えた人々が盛んに外出するためか、非常に混雑していた。笠をより深く被りなおす。こんなもので顔が隠れるかは怪しかったが、他に手段もなかった。道行く人は私の顔を見るなり、舌打ちをし、睨みつけてくるが、気にしない。
人の波に流されないように、慎重に前へ進む。早足だった慧音の足も緩み、それどころかふらふらと千鳥足になっていた。酒に酔っぱらっているのか。先生が昼間っからなんて、いい身分だな。そう言おうと思ったが、それは叶わなかった。
視界の端に、恰幅のいい白髪の男が見えた。急いで振り返り、その男の背中に目を向ける。紺色のゆったりとした甚兵衛を羽織っていて、ぱっとみは人がいいおじさんのように見えた。が、その男の前に二人、後ろに二人と、明らかに堅気でない人間が付き添うように彼を囲んでいる。
喜知田だ。
胸がざわめく。頭の中に鉛が入ったかのように、重い。頭に血が上ぼりすぎて、頭頂部から鯨の潮吹きのように飛び出していないか心配になる。動悸が収まらない。足がふらつき、手に力が入る。私は怒ると、周りが見えなくなるのかと、驚いていた。蕎麦と同じだよ、と彼の口癖が頭をよぎる。蕎麦と同じで、お前は怒ると周りが見えなくなるんだ。そんなこと、言われたことがあったか?
「おい、大丈夫か?」
後ろから、しわがれた女性の声が聞こえた。今は忙しいから話しかけないでほしい。喜知田は私に気づいた様子はない。今ならば、こっそりと後ろに忍びより、彼を殺すことができるのではないか? いや、できるはずだ。タイミングを見計らえ。飛び出す準備と、あいつの首を締め上げる手順を頭に入れろ。そんな声が頭の中にこだましていた。
「正邪! 返事をしろ!」
目の前で火花が散った。最初は、自分の目の前で誰かが手持ち花火でもやったかと思ったが、違った。額に、もはや慣れてしまった痛みが走る。暗くなっていた視界が戻ると、すぐそこに慧音の顔があった。ぼろ雑巾のようにガサガサな肌は、とても清潔とは言えない。
「酷い顔だな、先生」
「お前に言われたくない」
ふっと笑い、両手を胸元に当てた慧音は、いったいどうしたんだ、と私の肩を撫でた。今日初めて見せる、本心からの笑みだ。
「急に震えだすから、心配した」
「発作だよ」
慧音を宥めるように、もう大丈夫だ、と繰り返し言う。後ろを目線だけで振り返るが、喜知田の姿はもうなかった。よかった。今行動を起こしても、返り討ちにあうことは分かっている。まだその時じゃない。彼は三十年も待ったんだ。私だって待とうじゃないか、そう自分に言い聞かせる。
「発作? なんの?」
空元気だろうが、いつものような調子で慧音が突っかかってくる。
「お前もたまにあるだろ。ほら。満月の時に角が生えてくるじゃないか。あれと同じだよ。私もたまに、頭に角が生えそうになるんだ」
「もう生えてるじゃないか。それに、あれは発作じゃない。白沢に変身しているんだ」
「同じだよ。私だって、変身するさ」
「何に?」
「イノシシ。どうだ、可愛いだろ」
「可愛くない」
声を上げて、慧音は笑った。
「生徒以外では、正邪が一番ここに来ているかもしれないな」
散らかっているが座ってくれ、と申し訳なさそうに言った慧音は、お茶を入れてくる、と部屋から出ていった。彼女が口にした、散らかっているという言葉は謙遜ではなく、じっさいに部屋はかなり汚かった。足の踏み場もないというほどではないが、本やちり紙があちらこちらに散乱し、不潔だ。几帳面な彼女の性格を考えると、仕方がなくこうなってしまったのだろう。
その、床に無造作に置かれている本の中から一冊を手に取る。かなり古い物なのか、全体的に茶色に変色していて、表紙が薄く削れている。表面についている埃を払っても、擦れていてタイトルを読むことはできなかった。
「その本、気になるか?」
いつの間にか戻ってきていた慧音は、机の上に湯呑を置くと、よいしょと腰を下ろした。
「もし良ければ譲ってやってもいい。やっぱり、お前もその本は気になるか」
「別にそういう訳じゃない。単純に邪魔だったからだ」
「あげるよ」
「いらねぇ」
「いいから貰っておけ。いらないなら、嫌いな奴にでもおしつけてくれ。”あなたの肌はこの本にそっくりですね”って」
「もらおう」
正邪らしいな、と薄く微笑んだ彼女は、両手を上にあげ、身体を捻り、大きくうなった。右肩を左手で殴りつけるように叩いている。その振動で、湯呑のお茶に輪が広がっていた。
「ずいぶんとお疲れだな」
「ん、まあな」
「何かあったのか?」
あー、と気の抜けた声を出した慧音は、頬をかき、目線を上にあげた。そうすると顔の疲れが強調され、より一層悲惨に見える。
「あれだよ、あれ」
「どれだ」
「最近、食糧不足が深刻になってきてな。どうにかしてくれと」
「面倒だな。というか、お前にどうこうできるもんなのか」
冷える指先を温めるように、湯呑に両手を重ねる。じんわりとした温もりが私の心まで染み渡った。そういえば、お茶を飲むのも久しぶりだ。最近は文字通り泥水を啜るような生活だったから、それだけでも特別に感じてしまう。
「まあ、精々博麗の巫女に頼みに行くぐらいしかできんな」
「行ったのか」
「行った、だけど会えなかった。妖怪の賢者に足止めされてね。“まだ、その時じゃない”だそうだ」
「妖怪の賢者?」
「八雲紫だよ。この前の射命丸の新聞に載っていただろう」
甘味屋でみた烏の新聞を思い出す。写真にも関わらず、圧倒的な存在感を放っていた妖怪の写真が鮮明に頭に浮かんだ。あの、みるからに恐ろしい妖怪と話をする自分の姿が想像できない。私ならば、悲鳴をあげて逃げ出してしまうだろう。
「でも、原因は教えてもらえたよ。この前の異変、覚えているか」
「この前っていつだよ。あの神霊とかいう奴が大量発生した奴か?」
あれのおかげで塩がたくさん売れたと、満足そうに商人たちが喜んでいた。
「違う、もっと前だ。赤い霧が出たり、冬が長引いたりした時があったろ」
「ああ」
確かに、何年か前にそんなことがあったような気がする。結局は博麗の巫女が無事解決したという話だったはずだ。
「夏に霧が出たせいで農作物は駄目になり、冬が長引いたせいで備蓄が底をついた。そのしわ寄せがきているらしい」
「まあ、いずれにせよ私には関係ないがな」
「どうして?」
私は答える代わりに、湯呑を口元に運んだ。芯まで冷え切った体が段々と暖まっていく。どうして関係がないか。その答えは簡単だ。誰も私に物を売ってくれない。それどころか店にすら入れてもらえないのだから。
痺れた足を組みなおしていると、慧音が徐に腰を上げた。かと思えば、右足から膝立ちになり、自分のかかとに尻をのせる。そして綺麗な正座をしたかと思えば、私に向かい両手を合わせた。
「正邪に頼みがあるんだが」
「嫌だ」
まだ何も言ってないじゃないか、と困ったように眉を下げた彼女は、私が断ったにも関わらず、概要を話し始めた。寺子屋の先生は人の話を聞かなくてもいいと思っているらしい。
「霧の湖って分かるよな。お前がチルノに氷漬けにされたところだ」
「知らない」
「その奥に真っ赤な西洋風な建物があるんだ。紅魔館っていって、強力な妖怪が住んでいるんだが、そこに行ってきてくれないか? 行って、食べ物を恵んできてもらいたい」
「断る。というか、なぜ私なんだ」
合わせていた両手を組み替え、人差し指を互いにくるくると回している。あー、恥ずかしながら、と一寸の恥じらいもなく彼女は言った。
「頼れる友人が今いないんだ。射命丸は最近忙しそうだし」
「あいつは? あの白髪の人間だよ。人間なのに妖怪みたいなやつ。手から火とか出す」
「ああ、妹紅か」
あいつはなー、と首を捻った慧音は、いつの間に妹紅と知り合ったんだ? と訊いてきた。いつの間にも何も、そもそも知り合っていない。私が一方的に知っているだけだ。人間のくせに妖力を使えて、そして不老不死。そんな彼女が人里に受け入れられている理由が分からなかった。彼女が受け入れられて、私や針妙丸が隠れて生活しなければならない理由が分からなかった。
「妹紅はいま忙しいらしいんだ。何か変な商売をやっているらしい」
「変な商売?」
「殺され屋なんか名乗ってる。物騒だから止めろって言ってるんだがな」
殺され屋。まさか本当にあるとは。驚かないといったものの、それは無理な話だった。
「でも、一度も客は来てないらしいから、まだ殺されたことはないんだと」
「じゃあ、暇じゃねぇか」
しまった、という表情を隠そうともしなかった慧音は、わざとらしく咳払いをした。わざとであるはずなのに、口の端に血が滲んでいる。病気なのか疲れによるものなのか、どちらにしろ重症であることには変わりなかった。仕方がない。これは彼女のためでなく、自分のためだ。喜知田を殺すための人脈作り、そういう事にしよう。
「分かった、行ってやるよ」
「本当か!」
「ただし条件がある。成功したら、しばらく居候させてくれ」
もちろん! と威勢よく慧音は返事をした。私がいたんじゃ生徒は来なくなりそうだと思ったが、都合の悪いことは伏せておく。
これで少しは肩の荷が下りた、と意気揚々と席を立った慧音は私の横に来て、肩を掴んだ。力任せに引っ張り上げ、強引に私を立たせる。なんだよ、と文句を言う私を無視して、私の首元に何かを結びつける。最初はマフラーかと思ったが、そうではなく、手ぬぐいのようなものだった。紫色の市松模様が描かれた、大きめの布だ。それを器用に片結びにし、七夕の日に短冊を括りつけるようにして、首に固定した。
「何だこれは」
「まあ、お守りのようなものだ。貰っておけ」
「だせえ」
子供が付ける前掛けのようだ。こいつは本当に私を児童と勘違いしているのではない。そんな疑念を知ってか知らずか、一歩下がって私の全身を見た慧音は、よし、と呟いた。何が良しなのかまったく分からない。
「これで吸血鬼が来ても安心だな」
「そんな効果があるのか?」
「市松模様には子孫繁栄の意味があるんだ」
「関係ねぇじゃねえか。まだ石を投げつけたほうがいい」
「石じゃなくて、豆の方がいいぞ」
適当なことを嘯いた慧音は、いそいそと部屋を出ていった。いったい何をしに行ったのかと、一人ぽつんと部屋で佇んでいると、すぐに彼女は戻ってきた。右腕には丸まった布団が抱えられていて、左手には古びた竹ぼうきが握られている。その二つで何をしようというのか、さっぱり分からない。
呆然と立ち尽くしている私を尻目に、慧音はてきぱきと机を移動させ、その場所に布団を敷き始めた。ご丁寧に枕まで持ってきている。少し黄ばんだ掛布団を広げ終わると、思い出したかのように地面に置かれていた竹ぼうきを拾い上げた。
「竹ぼうきは外掃除用だぞ」
「分かっているよ」
面倒くさそうにのんびりとした声を出した慧音は、最近眠れていなかったんだ、と大きなあくびをした。そんなことは一目見た時から分かっている。
ふらふらと壁際によろけていった彼女は、よいしょと声を出し、箒を壁に立てかけた。細い竹が重力で垂れ下がり、まるで枯れた杉の木のようだ。つまり、そう。逆さまだ。
「私は寝るから、出ていってくれ」
「口ではっきり言うなら箒いらねえじゃねえか」
私がそう言い終わる頃には、すでに布団の中で寝息を立てていた。どこか釈然としないが、まあいいだろう。これで目的は達成された。
「慧音がしけた顔してると、あいつにも影響が出るからな」
眠っている慧音が、わずかに震えたような、そんな気がした。