一晩明ければ寒さは格段とマシになっていた。暖かいシチューと、隣に寄り添って寝ていたミュウの体が熱を与えてくれたみたいだ。タイプにもよるが、ポケモンの身体は人間と比べると体温が高いため冬場にはとても重宝する。
テントの中を見渡してもミュウはいなかった。彼女は大抵僕より早く起きて朝ごはんを作ってくれているのだ。今日の朝ごはんは残り物のシチューに少しきのみを足して風味を変えた物なんじゃないかと予想する。
料理に下手なアレンジは禁物だとよく言われるけれど、ミュウはそこの匙加減を上手く見極めていると思う。ポケモンとして自然の中で暮らしていた頃の勘なのかは分からないけど、自然由来の食材を扱うのがとても得意だった。僕がポケモントレーナーとして有名になってからは、星が何個も付いたり値段の書かれていないレストランに招待される事も少なくなかったけど、それでもミュウの料理には敵わないと思う。
それで本人にその旨を伝えても『別にあり合わせの簡単な物よ』だなんて言って、その癖に口許は嬉しそうに緩んでいる。そんな瞬間が僕は何よりも好きだった。
『ごはん出来たわよー、起きてー……って』
そうこう考えているうちにミュウの声が頭に響いてきた。テレパシーを使って脳に直接語りかけているから態々僕のいる所まで来る必要な無いのだけれどミュウはこうして毎回律儀に顔の見える所まで来てからテレパシーを使う。
『あら、もう起きてるの。今日は早いわね?』
「我が儘聞いて貰ったから、仕事はちゃんとしないとって思って……」
『立派じゃないの。ただマサゴタウンには午前中に着くと思うからもう少しゆっくりしてても良かったのよ?』
え、ならあと二時間は寝てても良かっ……。いやいやでも早く着くことに越した事は無いし。うーん。
「ていうかマサゴタウンまでの道、知ってたんだ」
僕は知らなかった。
『当たり前じゃない。私が知らなかったらいつまで経っても到着しないじゃないの』
「い、いや僕が頑張って……」
『無理に決まってるでしょ』
断言されては何も言い返せない。実を言うとついさっきまで自分がどこでキャンプしていたのかも知らなかったのだから。ともすればマサゴタウンまであと二日くらいはかかるものだと思っていた。
そういえば、彼女と初めて出会った日も僕は迷い子だったのを思い出す。父さんに連れられて、嫌々行った変な島で会った彼女はテレパシーなんて使わなかったし、今よりももっとツンツンしていた。少なくとも今みたいに軽口を叩けるような関係性ではなかった筈だ。
「ねえ、ミュウは──僕と初めて会った時のこと覚えてる?」
ふと、気になって聞いてみる。きっといつも通り『勿論よ』だなんて澄ました顔で答えるんだろうなって思ってたけど今日は違った。
ミュウはくるりとその場でポケモン姿に戻り、ふよふよと宙を漂って僕の顔を覗き込んで来る。鼻頭が掠れるかどうかの近距離まで顔を近づけたミュウはその蒼い瞳を二度、ぱちくりと瞬かせてにっこり笑う。
「……え、と」
僕は会話が苦手だが、その代わりに沈黙が得意というワケでもない。声を出していいのかも分からない空間はむしろ大の苦手だ。耐え切れず、すん、と鼻を鳴らすとミュウの匂いがした。僕からはどうやっても出ない女の子の匂いだった。
そうしている間にもミュウは僕の目を覗き込んでいる。顔が近くて照れている僕はまともにミュウを見返せないのがもどかしくてあたふたしながら問う。
「ど、どうしたの?」
ハッと我に返ったミュウが答えるべく口を開こうとして──背徳的な水音が微かに響いた。
私の一日の中で、最も気を遣う時間が朝である。
朝ご飯を作るために早起きをして、そっと静かにお布団から出る。音を立てず、めくるお布団も最小限に。彼が気持ち良く寝ていられるように、決して寒い思いをしないように。そしてテントから出るときに振り返れば私の心は幸せに包まれる。
彼の名の如く、
生きていて良かった。アレはこの世で最も尊い輝きだ。
彼の顔立ちはポケモンの私から見ても美しい。これが人間に対する形容として正しいのかは分からないが、美術品、というのが最も的確な表現だろう。目鼻からまつ毛の先まで、もし神様が存在するのなら彼は神様手ずから造形されたのだと思う。
彼が寝息を立てる度に胸が上下する。男性にしては華奢な身体。でも決して小さくは見えない。彼が朝日を嫌って寝返りをうつ。何も知らない
可愛いなぁ、ほんと可愛い。顔はむしろカッコいい系なのに。
もし私が起こさなかったらこのまま夜まで寝続けているかもしれない。そんな所が可愛い。好き。今ならちゅーしても起きないかな? ……いやいや、駄目だ駄目だ。私は朝ご飯を作らないと。かぶりを振って欲望も振り払う。
一日は朝から始まるのだから朝にこそ気合いを入れた食事をさせたい。寝起きだからきのみを多めに入れたいけど、彼はあまり野菜やきのみが好きではないから昨日のシチューに混ぜようと思う。きのみのさっぱりとした風味だけを残してシチューに合わせる。ご都合料理だけどそこを感覚で何とかするのが私の仕事だ。
『…………』
シチューが煮えるまで時間があるからもう少しだけ彼の事を考えたい。
私は彼を面倒臭がりで駄目っ子で甘えっ子と称したがそれだけではない事をだ。
勿論面倒臭がりで駄目っ子で甘えっ子である事は紛れも無い事実だが、彼は時折、変わらぬ表情を一層冷たく凍てつかせる。最近では滅多に見せる事の無くなった表情だ。少なくとも王座に就いて私以外のポケモンと道を違えてからは。
昔の彼は今よりもちょっとだけ苛烈だった。
私生活こそ今と変わらぬ乱れ具合であったが、殊にポケモンバトルとなると途端に意欲的になり、立ち塞がるトレーナー達を悉く打ち倒してきた。ポケモンの声が聞けた、他人より世界を俯瞰していた。その二つの才能だけで彼は幾万といるトレーナーの頂点に至ったのだ。
そして頂点に立ち世界を見下ろした時、全てが厭になった。
疲れていたのかもしれない。煩わしかったのかもしれない。或いはそのどちらでも無かったのかも。私には分からなかった。それが堪らなく寂しかった。
彼は一度だけ諦めたように笑って私以外のポケモンに分かれを告げ、その二日後にチャンピオンの座を降りてセキエイ高原から去った。
『……そろそろ煮えたかしら』
事の顛末はそれだけだ。
それ以上言うべき事は無い。私はポケモンだから、彼の想いに従うだけだから。
お鍋の火をしっかり消したのを確認してから彼のテントへ向かう。何となく今日は起きている気がした。
『ごはん出来たわよー、起きてー……って』
入り口の布を捲ると既に上体を起こしていた彼と目が合う。
まただ、またあの表情だ。
美しくも儚く、それでも決して壊れず。
私は、彼の瞳に凍える炎を見た。