ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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あ、兄者ぁー!


十二の試練
0.1 其れは神の栄光のためでなく


 

 

 

 ――汝は不義の子、罪ありき――

 

 ギリシア神話のオリンポス十二神を統べし神、ゼウス。

 宇宙をも溶解させる雷霆を持つ、並ぶ者なき全知全能の主神。

 

 彼の神はその権能の強大さに比例するかの如く、好色な性を持つ好色漢であった。

 

 時には実の兄妹を、男神でありながら紅顔の美少年を愛し、美しき女であれば他者の妻子を節操無く手籠めにした。それでいながら自身を凌ぐ子孫を赦さず、その誕生を恐れて妊婦を丸呑みにすることもあった。

 ゼウスは全知全能である。だがその性が限りなく人間に近しかった故か、その全知は全てを見透すことは能わず、その全能を万物に通ずることは叶わなかった。強すぎ、大きすぎる力を行使するには、ゼウスという『性格()』は余りに大きかったのだ。

 主神でさえなければ。神でさえなければ。その身が人でしかなければ……。あるいはゼウスはただの小人に過ぎなかったというのが、ゼウスという神格に与えられて然るべき評価であろう。

 

 しかしそんな不完全な神であるが故に、彼の統べる神話は様々な英雄豪傑を生み、後の世にまで続く文明文化の礎を築けたとも言えるかもしれない。

 そう――全ては主神ゼウスにより端を発していた。ゼウスの蒔いた種が様々な悲劇を生み。そして時にはあらゆる英雄を凌ぐ無双の大英雄をも産み出したのである。

 

 ミュケナイ王家に生まれし男児、アルケイデス。彼こそがゼウスの生んだ、ギリシア神話最大にして最強、無双の大戦士である。

 

 これは人類史の続く限り、連綿と受け継がれる不朽の英雄譚。『ヘラの栄光(ヘラクレス)』と呼ばれることを拒まずとも、その生涯に於いて自らその名を口にする事はただの一度もなかった漢の軌跡である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんだ?

 

 其れ(かれ)の自意識が芽生えたのは、その女の乳房に吸い付いた時である。

 さながら天に流れる箒星が如く、乳から己の口に流れ込んでくる力の奔流。あまりに大きなそれは赤子の身には過ぎたるもので、彼は思わず生まれ落ちてより生え揃っていた歯を閉じた。

 力の大きさに耐えかねて嘔吐き、それを本能的に拒むために口を閉じたのだ。彼に乳を与えていた女は乳房を噛まれ、その痛みによって咄嗟に赤子を放り出した。その時に零れ落ちた母乳は天に跡を残し、それは『天の川』となった。

 自意識の覚醒と共に、自身に宿った女神の性に赤子はその意識を闇に落とす。女神は赤子の正体に気づかぬまま、されど乳を噛まれた痛みに肩を怒らせてその場を去る。

 

 女神の名はヘラ。彼女が自らの憎む赤子に乳を与えたのは意図してのものではない。ゼウスが己の子に不死の力を与えるべくヘラの母乳を吸わせるため、寝所にて眠っていたヘラの胸に赤子を預けたのだ。ヘラが赤子の正体にこの時気づいていれば、後のヘラクレスの命はなかっただろう。

 

 次に赤子の意識が戻ったのは、自身の母らしき女と寝所で眠っていた時だった。

 

 穏やかな眠りに浸っていた彼は、母の悲鳴で目を覚ました。薄っすらと目を開いた彼は、寝所から飛び出して助けを求める姿である。そして自身の間近に迫る、見るからに悍ましい蛇。大口を開けて毒牙より毒液を滴らせ、今に自らへ噛みつかんとする蛇の存在は赤子の本能を直撃した。

 赤子は遮二無二に蛇に掴み掛かる。ただの毒蛇ではなかった故に知能があったのか、まさか無力なはずの赤子が反撃に打って出るとは思わなかったのだろう。その頭を鷲掴みにされた蛇は体をうねらせ、なんとか赤子の手から逃れようともがいた。

 だが、なんとしたことか。大の大人すら絞め殺す毒蛇は、なんと赤子の小さな手から逃れることすらできなかった。万力に締め付けられているかの如く、びくともしない。赤子の小さな腕に体を巻き付かせ、腕を粉砕しようとしても力は微塵も緩まなかった。やがて赤子は毒蛇の頭を握り潰す。生まれ落ちてよりはじめて発揮した無双の怪力、その片鱗。天地すら支えた剛力は、女神の寄越した刺客を一切の慈悲無く圧殺した。

 

 ――なんだ?

 

 赤子は懐疑する。これはなんだ、と。自らの手の中にあるモノの死骸、己の身に余る力の大きさ、自身の置かれた寝所、その風景。何もかもが未知のものだった。

 しかしそれよりも、何よりも。己自身の姿にこそ驚いていた。

 小さな手。小さな体。思ったように動かない、もどかしい肉体。これは誰だ(・・・・・)? 自分の体、なのか。これが?

 そうであるのが当たり前であり、そうであるのが違和の元である。自身はもっと大きな、大人の体を持っていたはずだという懐疑があり、しかしこうであるのが自然であると感じる。

 何がなんだか分からない。知識は何もなく、だというのに自身の置かれた環境が理不尽なものであると感じるのだ。

 白紙であるはずの赤子の意識は、不自然なまでに成熟された理性を持っていた。まるで知識を焼かれ、記憶を溶かされ、ただ意識だけが赤子のそれと混ざりあったかのような異物感。純粋であったはずの彼は、しかし自意識の芽生えと共に純粋ではなくなっていたのである。

 

(………)

 

 赤子は以来、注意深く自身を取り巻く環境を観察した。自身の最も近くに、頻繁に姿を現すのが『母親』と呼ばれる者で。それと親しい『男』が『父親』らしい。

 言葉を解せる頃になると、自分の名が『アルケイデス』であると理解した。漫然と流れる時の中で、アルケイデスは異様に澄み切った意識で周囲を俯瞰していた。

 

 己の名はアルケイデス。母がアルクメネ、父がアムピトリュオン。自身の近くに寝かされている赤子が、アルケイデスの双子の妹のイピクレス。アムピトリュオンはミュケナイという国の王家に連なる血筋で、アルケイデスは王位継承権を持つらしい。

 本来ゼウスの計らいによって、アルケイデスがミュケナイ王になるはずだったが、アルケイデスを憎むヘラの妨害がありエウリュステウスというペルセウスの子孫が王位を継ぐ権利を得たようだが、神ならぬ人の身である者らにそれを知る術はない。そして周囲の者が知らぬのに、赤子であるアルケイデスが自身の運命がヘラに捻じ曲げられたことを知ることができるはずもなかった。

 

「………」

 

 月日が経ち、やがてアルケイデスは少年となった。

 その身に滲む神性故か、見目麗しい紅顔の美少年となったアルケイデスの所作は、自身の世話をする侍女達の関心をよくよく集めていた。

 だがそんな侍女達の目など、アルケイデスの興味を引く対象とは成り得ない。彼はただ只管に不思議だったのだ。自身が生まれ落ちてより十年、片時も想わなかったことはない。

 

 この空に感じる(視える)モノはなんだ。まるで父だと思っていたアムピトリュオンが異父で、そうと知った途端によそよそしくなる前に向けていた視線のようだ。

 実の父が己に向ける、愛情のようなモノを空から向けられている気がする。常にだ。そしてそんなものをはっきりと感じられる自分が不思議で仕方がない。自分はこの空に一体何を視ているのか、自分のことであるのにはっきりとは判じられなかった。

 

「また空を見てるんだね、兄さん」

「――ああ」

 

 宮殿の外れにある庭へ広がる庭園。そこに佇み、空を見上げるアルケイデスに声を掛けたのは、異父兄妹にして双子という奇妙な関係の妹イピクレスである。

 後にカリュドンの猪狩りにも参加したという英雄イピクレスも、この時はまだあどけない少女に過ぎなかった。

 

 イピクレスは想う。この神の血を引くという異父兄は、どこか他の人と違う雰囲気がある。それが神の血に由来する異質さなのか、はたまた異父兄だからこそ持つ特別なものなのか、イピクレスには判断がつかない。しかしどうしてだろう……イピクレスは、この異父兄の見ているものが気になって仕方がなかった。アルケイデスと同じものを見たい。彼と自分は違う(・・)のだと幼心に悟っていても、そう願わずにはいられなかった。

 

「兄さんは、どうして空を見ているの?」

「……さあな。私は別に、理由があって空を視ているわけではない」

 

 早熟に過ぎる――否、既に完成された精神を持つアルケイデスは、幼い身であるが故に歪な少年であった。彼を取り巻く環境が、アルケイデスをそうしてもいる。

 彼の実母であるアルクメネは夫のアムピトリュオンから愛されることはなくなった。というのも、ゼウスは己の子を次代のミュケナイ王にしたいと思い、アムピトリュオンが隣国との戦争に出ている時にアムピトリュオンに化け、アルクメネと一夜を三倍の時間に引き伸ばしてまぐわっていたのだ。アルクメネは相手がゼウスとは知らず、夫を相手にしているつもりであったが、その時に孕んだのがアルケイデスであり。アルクメネに非はないとはいえ、自分以外の男と寝てアムピトリュオンの子と双子として生んだアルクメネを疎むようになっていたのだ。

 愛していた夫に疎まれる原因であるゼウスの子であるアルケイデスは、実母アルクメネに愛されることはなかった。そして人間離れした美貌を持つアルケイデスの世話を侍女に任せたきり、遠ざけるようになっていたのだ。

 

 神の子であり、王家の血筋。そしてアルケイデスが見せる子供のものではない知性。その容貌とも合わさって、アルケイデスはミュケナイ王家の中で孤立しているに等しい幼年期を送っていたのである。

 

 そんなアルケイデスが、その性根を破綻させずにいるのは、傍らに自分を慕う異父妹がいるから――ではない。異父妹がいる必要性は皆無であった。この時点で、あるいは自意識が芽生えた時点で、アルケイデスの精神は既に大人のそれだったのだ。

 神の血を引く故の強固な精神は、孤立している自身を孤高なものとして、一切の苦を感じることがなかったのである。むしろ独りでいられる時間は、彼にとって救いであった。どうしようもなく自身を苛む違和感を、独りでいると忘れていられるのだから。

 

「お前は感じるか? この天空より落とされるものを」

「落とされる、もの……?」

「分からないならいい。私にも分からないものだ」

 

 愛のような慈しみ。それを感じるか否か、禅問答をしたいわけではない。故にアルケイデスはこの空より視線を切る。頭を振って庭園から去るようにイピクレスを促した。

 

「兄さん」

 

 異父妹は呼ぶ。兄は淡く微笑んだ。双子であるというのに、顔の造りから髪の色まで違う少女を、彼は庇護すべき存在であると認識していた。

 父は違えど母を同じくし、血を分けた肉親であるからだろうか。それとも自身よりも遥かに劣る存在だからか。恐らくはどちらでもあり、どちらでもない。曖昧な情がアルケイデスの中にある。

 

「父さんがわたし達に戦車の操術を教授してくれるんだって。兄さんを呼んで来いって、わたしが遣いに来たんだ」

 

 イピクレスの言葉に「そうか」と短く返し、アルケイデスは異父妹と連れ立って異父の許へ向かった。

 

 ――アルケイデスの精神は完成している。

 

 しかしその知は未だ拙く、その力は到っていない。その特異さ故か、アルケイデスは物事を学ぶことに真摯な姿勢を持っていた。

 例え自身を疎み、神の血を色濃く継ぐ半神としての自分を利用するつもりなのだとしても、異父が戦車を操る術を授けてくれるというのなら拒む理由はない。やがて長じれば育てられた恩義に報い、期待しているであろう己の力を振るうことになんら躊躇いはなかった。

 

 後にアルケイデスは異父から戦車の扱いを。

 アウトリュコスよりレスリングを。

 エウリュスより弓術、カストルから武器術、リノスから竪琴を学んだ。

 

 そして――余りにも強過ぎ(・・・)賢明に過ぎる(・・・・・・)と全ての師から匙を投げられ。彼はケンタウロス族の賢者ケイローンに預けられることとなる。

 

 

 

 

 

 


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