ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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1.0 『ヘラクレスの選択』

 

 

 

 

 

 ――その後、アルケイデスは無事イオラオスと合流する。

 

 イオラオスは普通の人間で、まだ十代も半ばの少年だ。普通に歩いて徒歩で四日は掛かるティーリュンスを目指していたのだから、アルケイデスが本気で追えば半日と経たずに追いつけるのは当然のことである。

 寄り道と称して別れてから一日だ。

 僅か一日、されど一日、野盗や獣の数多くいるギリシアで少年が一人で歩むには中々過酷な道のりだったかもしれない。

 しかしアルケイデスは知っている。イオラオスは普通の人間だが、並の英雄に比肩するイピクレスの息子で、アルケイデスの甥なのだ。魔獣や反英雄が相手でもない限り、たかが野盗や獣如きに遅れは取らない。機転も利く。尤もそうでもなければアルケイデスの従者は務まらないだろうが。

 

「どこに行ってたんだよ」

「なに、昔馴染みの顔を見にな」

 

 それでも一人旅が危険なのに変わりはない。不貞腐れたように伯父を責めるイオラオスだが、伯父の返答に答える気はないと悟り溜息を吐いた。

 

「別に伯父上がどこ行ってもいいけどさ、今度からは行き先ぐらい教えてくれよ。おれの手に負えないことがあった時に、どこに逃げればいいか分からないんじゃあ困っちまうじゃないか」

「一から十まで私に面倒を見させる気か? そんな心構えならミュケナイに行ったイピクレスの許に帰れ。これから先、何があるか分からんのだからな」

「うぇ……勘弁してよ、従者辞めて帰ったら母上に何言われて何されるか……」

 

 ぶるりと震えるイオラオスである。男上位の世の中、母とはいえ女を恐れるイオラオスを臆病者と嘲笑する声もあるかもしれない。しかしイピクレスは女の身ではあってもテーバイに於いてアルケイデスに次ぐ戦士だったのだ。イオラオスを嗤うのはイピクレスを知らぬ者だけである。

 

「まったく、母上ってばいつまで経っても伯父上のこと好き過ぎるっての」

 

 イオラオスは頭を掻いてぼやいた。そのぼやきにアルケイデスはなんとも言えない。

 双子だから、というのもある。女のくせに剣なんか振るなと、貞淑さを求められていた幼少期、常にイピクレスの味方をしていたのはアルケイデスだけだった。そんな背景があるものだから、妹が兄を敬愛すること甚だしく、心ない者達は二人の関係が不貞のそれではないかと邪推していたのを知っていた。

 勿論そんな事実はない。アルケイデスには親族と姦淫を行う気は絶無である。また、そんな爛れた欲望を持ち合わせてもいなかった。

 

 淡々と旅の路を歩む。道中、肉食の獣が散見されたが、アルケイデスを見るなり脱兎の如く逃げ出したので何事もなく進むことができた。

 ようして数日間歩き詰め、目的の地に到達する。

 

「……見えたぞ」

 

 ティーリュンス神殿だ。

 魔術的な結界の張られた神聖な領域。荘厳な趣の大神殿は、来る者を包み込むような寛容さを漂わせている。

 しかしアルケイデスに対してだけは、疎んじているような雰囲気があった。

 祀られている女神が、アルケイデスに対して良い感情を持っていないのだろう。生憎とこんな底の浅い嫉妬による排他的な圧力よりも、この男の方が遥かに煮詰めた憎悪を抱いていることを女神は知るまい。尤も彼の女神だけではなく、あらゆる神々が家畜に等しい人間の心情を慮る気など皆無に等しいのだから、この神殿の女神だけが格別に浅ましい訳ではないのだが。

 

「すごい……これがティーリュンス神殿……」

 

 傍らで息を呑むイオラオスは、何も感じることなく神聖な神殿の偉容に感動しているようだ。無邪気なものだと苦笑いする男は女神の圧力など歯牙にも掛けていなかった。

 堂々と、誰に憚ることもなく道の真ん中を歩く。武装したまま歩む偉丈夫の迫力に、神殿の神官達は気圧されて道を空けた。そうして祭祀の間に続く門の前で立ち止まる。城塞の門にも比する重厚なそれだ。高さは五メートルにも及ぶだろう。

 居並ぶ神官。淑やかな女性たちの姿もあった。それらはやって来た男の正体が既知なのか、道を空けては聞こえぬようにひそひそと何事かを囁き合っている。それを横目にすることもなく、アルケイデスは神殿の祀る秘宝を目にも入れたくない思いで、その場で朗々と大音声を発した。

 

「――聞け。我が父はゼウス、母はアルクメネ。そして我が名はアルケイデス。オリンポスを統べし神、ゼウスの命によって参上した。狂気に駆られ妻子を殺めたこの罪を償うべく神託を受けよと。いと高き者、ゼウスの意に叛する不敬は何者であろうとも赦されん。神意を告げる舌を持つ者が在るならば速やかに姿を現し、この身に贖いへの道を示すがいい」

 

 敢えて傲然と命じた。

 その姿勢、その在り方、その名乗り。ティーリュンスがどの神を奉じているか知らぬでもないのにそうしたアルケイデスからは、あたかも贖罪を求めているのではなく、女神に挑戦しているかのような気概が感じられた。

 ざわめきは神官達のもの。驚く者、怒る者、恐れる者――千差万別の関心を向けられたアルケイデスは、後ろめたさは欠片もないとでも言うように胸を張っていた。

 

 俄に神威が天より落ちてくる。凄まじい圧迫感だ。誰もが跪き鎮静の祈りを捧げる中で、アルケイデスだけは仁王立ちをしていた。イオラオスは全身に鳥肌を立たせながらも伯父を見ている。神への畏れは薄い、アルケイデスへの信頼があった。伯父であるが主人である。主人が阿らぬのに従者が遜ったりしては主人の品位を損なうと、冷や汗を流しながらも毅然と立っていた。

 

 ゼウスの命で来たと言われては、彼の女神も無下にはできない。夫を立てねば顰蹙を買うのは自分なのだ。女神とて夫は恐ろしい。敵わないことを知っていて、恐れているからこそ主人の浮気を本人ではなく相手の咎として罰してきたのだから。

 かと言って直々に神託を授けるのは癪だ。自身の神体を悍ましい不義の子などに晒すのは矜持に反する。ましてや敬意を示さぬ不遜なる者なのだ。ゼウスの意を受けたからと、安易に降臨するのは品位を損なうとさえ言える。故に女神は命じた。自身の数いる巫女の一人に。

 

 門越しに、女神の意を受けた代弁者、デルポイより参内していた巫女が応じた。この時、巫女は女神に進言していた。この不届き者に皮肉となり、女神の溜飲を下ろす手を打ちましょう、と。女神はその内容に嗤った。それはいい、そうしてやれと。

 

『わたしは貞節を司り、あらゆる者より美しき光輝の君に仕えし者。神意を告げましょう。汝、己が妻と子、兄妹の子を殺めし咎人である』

「………」

 

 巫女の貞淑な声音。なるほど巫女の資格を有するに相応しい美しい声だ。

 しかしアルケイデスの罪の真実をこの巫女は知らぬらしい。知っていればそんな恥知らずなことを言葉にはすまい。知っていて口にしているのなら大した面の皮の厚さだ。

 ある意味で知っていて言葉にしている方が、厚顔無恥であの女神の巫女らしいとすら思えてしまう。

 アルケイデスは扉越しに語り掛けてくる巫女の背後に、憎悪する女神の嫌らしい笑みを幻視して。内心この場で神殿の全てを破壊し尽くしてやろうかと、短気に走りかけてしまいたくなる。それをしないのは、安易な行動で齎す結末では、到底満足できないと知るがため。今少し己に知恵と自制が足りねば目に着く神という神を滅ぼすべく武器を取っていただろう。その先には己が身の破滅しかないと分かっていても。

 

『これより先、汝は罪を償うことを望むのなら、我が神の神託に従いなさい。否やはありませんね』

「ない」

『ではアルケイデス。貴方はこれからミュケナイ王エウリュステウスに仕え、彼より仰せつかった十の勤めを果たしなさい。その儀を以て汝の償いは為されたものとします』

「なっ――」

 

 その神託に、アルケイデスよりもイオラオスの方が驚いていた。

 ミュケナイ王とは、本来アルケイデスがなっているはずのものである。ゼウスの真意がそれであり、しかしヘラの奸計によってそれは阻まれた。

 故にそれは悪辣な神託だ。自分がなるはずだった王位に就く者に仕えねばならないなどと、馬鹿にしているにもほどがある。普通ならアルケイデスは自尊心を傷つけられたことだろう。何よりエウリュステウスは、本来ミュケナイ王になっていたはずのアルケイデスが、王位を狙うのではないかと恐れ、無理難題を吹っかけてくるのが目に見えている。なんて悪質なとイオラオスは女神に反感を抱いた。

 

 しかし、アルケイデスは無関心だった。自分がミュケナイ王になるはずだったということを、幼い頃に聞いた覚えがあるが……それだけだ。関心がなかったから今の今まで忘れていたほどである。

 故にこそ、アルケイデスにとって痛烈な苦痛と成ったのは、その神託の後に続いた巫女の完全な善意。巫女の――否このギリシア世界に於いてはまず栄誉であると考えられる認識であり、女神にとって憎たらしい存在の名とするのに痛快な施しだった。

 

『アルケイデス。これより汝は名を【ヘラの栄光(ヘラクレス)】と改めなさい。さすれば汝の赤心は罪を栄光へと昇華できましょう』

「ッッッ――!」

 

 ヘラクレス。ギリシア神話に名高き大英雄の名。その身の由来と来歴、秘めた心情を想えば余りに皮肉な通称。その誕生の瞬間である。

 以後アルケイデスはその容姿から、誰が見てもヘラクレスであると伝わるようになり――以来アルケイデスは名を改めさせられた故に、自ら名乗ることを決してしなくなった。

 

 誰もがこの男をヘラクレスと呼ぶ。アルケイデスと呼ばない。

 ヘラクレスと呼ばれる度に、彼が何を思ったのか。それは、本人にしか分からぬものであり。彼の生涯に於いて、己をアルケイデスと呼んでほしいと願ったのは、僅かに三人のみであった。

 今はまだ、その一人とも出会えていない。

 

 

 

 

 


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