ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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2.1 ネメアの谷の獅子

 

 

 

 

「――すると、なんだ。貴様、神託で命じられたから俺に仕えるのか」

 

 臣になるというのに跪きもせず、高台の上の玉座に坐す王の顔を見据える半神半人の化物がいる。戦慄が過ぎった。 

 エウリュステウスは自身の王位が盤石ではなく、臣下にも侮られていることを知っている。というのもミュケナイ王の座は、本来自分のものになるはずがなかったのだ。

 自分が生まれる前、神々の首魁たるオリンポスの主神ゼウスは、目の前の化物をミュケナイの王にするべくこう宣言した。『次に生まれるペルセウスの子孫をミュケナイの王にする』と。それがこの化物だ。しかしゼウスの不貞の子への嫉妬からヘラが出産を司る女神に手を回し、化物の後に生まれるはずだったエウリュステウスが先に生まれるようにした。ゼウスはまさか自分の宣言を翻すわけにも行かず、結果エウリュステウスがミュケナイ王となったのだ。

 エウリュステウスは正当な王に非ずと、口さがない者が噂をしている。エウリュステウスは常々それが面白くないと思っていたが、これまでは無視していられた。しかし、今日この日から無視できなくなってしまう。他者が言うところの正当な王アルケイデスがミュケナイに来て、神託があったから自分に仕えるなどと言い出したからだ。

 

 この化物が王位への野心を持っていない保証はない。仮に王位を望まぬと言われたところで信じられるものか。一目で悟ったのだ。この男は紛れもない怪物だと。半神半人の英雄? ゼウスの子? だからどうだという。神託があった以上、この男はたしかに十の勤めを果たすまでは己に仕えるだろう。だがその後は? 禊は済んだと言って王位を望まないと? もしもアルケイデスが王位を望まなかったとしても、その血族はどうだ。アルケイデスの子供が『正当な王の子だから王位を継ぐ』などと言い出せば、己の王権を脅かすのではないか。

 その恐れを妄想だとは、エウリュステウスには思えなかった。半分だけとはいえ奴も人間。欲がないわけがない。むしろ半分が神であるなら野心が大きくとも不思議ではないし、欲があるなら王位を得ようとしても不思議ではない。力のある英雄が目指すものなど己の栄達以外に有り得ないのだから。ならこの澄まし顔の男もまた、エウリュステウスを殺そうとするだろう。

 恐ろしい。エウリュステウスはアルケイデスの――ヘラクレスという、神の栄光を意味する名の持ち主に脅威を感じた。神の栄光という名をデルポイの巫女に与えられたのだ、英雄として以外の格もエウリュステウスを遥かに凌駕している。

 

(十の勤めを果たす前に、この男が死ぬようにしなければ俺の未来はない)

 

 エウリュステウスがそのように思い詰めるのは、至極当然の心情であると言える。

 ――ヘラクレスは終始、そんなエウリュステウスを無感動に見ていた。彼の意識に、そしてその目の中に、エウリュステウスの存在は寸毫たりとも収まっていない。

 究極的に無関心だった。例えるなら仕事の関係上、派遣先の上司から仕事を割り振られるだけと感じているのだ。業務を片付け契約期間が満了すれば二度と顔を見ることもあるまいと、ヘラクレスの中では綺麗に完結していたのである。

 

 エウリュステウスはおよそ不可能と思われる試練を出すだろう。しかしヘラクレスに否はない。彼は不可能としか思えない願望のために動いている。ただの人間の出す試練も乗り越えられずして、それが果たせる道理はない。ともするとエウリュステウスがヘラクレスを殺そうとすればするほど、己を高めるいい材料になるとすら思っていた。

 故に傅かない。阿らない。むしろ挑発的に嘯く。我が身に艱難辛苦を与え給え、それでこそ償いとなる、などと。果たしてエウリュステウスの腹は決まった。十の勤めなどとは言わない、最初の勤めで死なせてやると。

 

「ヘラクレスに命じるぞ!」

 

 玉座から立ち上がった男は、眼下の化物を見据えて怒鳴るように言った。

 

「ここより南東へ進んだ先に谷がある。そこを通り掛かった民草や商人、旅人が恐ろしい神獣に襲われ無残に食い殺されてしまう事例が山のように報告されている! これを見事討ち果たしてみせろ! これを第一の勤めとする!」

 

 それは、本来ミュケナイ王エウリュステウスが解決せねばならない使命だった。

 しかしその件の谷に住む神獣は、幾多の人々を喰らい、何度か討伐に向かったミュケナイの軍勢を散々に打ち破った真正の怪物だ。

 それも当然の結果である。なにせその怪物とは『ネメアの谷の獅子』だ。あの強大な魔獣を何体も産み落とした『魔獣母胎エキドナ』と、ゼウスに匹敵する巨大にして強大なる怪物の王テュポーンの間に生まれた、魔性の怪物の御曹司。

 聞くところによるとネメアの谷の獅子は、人の生み出したあらゆる道具を無効化する特性を持つらしい。そしてあらゆる魔獣の上位に君臨するに相応しい爪と牙を持ち合わせ、その強靭な四肢から繰り出される純粋な力はまさに神の如き獣のもの。魔術師達による魔術も効果がないというのだから、半分しか神ではないヘラクレスでは勝てないだろう。

 

 これは、神が出張って片付けるべき案件なのである。

 

 俗世とは離れて暮らしてきたヘラクレスだ。ネメアの谷の獅子の恐ろしさを知らないはず。行って殺されてしまえと睨まれて――しかしヘラクレスは淡々と応じた。

 例え国を落としてこいと言われたところで、彼はただ一言こう言っただろう。

 

「承知した」

 

 ――言うなればそれは、討伐を成し遂げれば叙事詩の主人公として語られるに足る難行である。

 偉大な英雄が生涯を賭け、さらに長い年月を掛けて成し遂げられるかどうか、といった難度。ネメアの谷の獅子とはそうした位階の存在なのだ。

 しかしヘラクレスは颯爽と去っていく。神獣と聞いた時点で、相応に梃子摺るか死ぬ羽目になるかもしれぬと感じたが、こうも思ったのである。たかが獅子一頭を殺せずして、どうして望みを果たせるのかと。

 

 それに、なんの特別な宝具を持たない身だ。いっそのことこの十の勤めの中で、自分だけの特別な武具防具を揃えるのもいいかもしれない。

 ヘラクレスは大望成就のため、死線に赴く。事実上、ヘラクレスが最も梃子摺った三つの勤め、その一つ目の幕が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肉を貪っていた。最初こそ何やら喚いていたが、体を押さえ込み腸を食い破ると、それだけで虫の息となり、更に暫くもしない内に息絶えた。

 美味なのかと問われれば、黄金の獅子は否と言うだろう。普通の家畜、普通の人間、そんなものはただの『肉』でしかなく、長い年月を過ごしてきた獅子にとって味気ない代物に過ぎない。

 

 それでも飯は飯だ。喰らわねば飢えるのだから、選り好みはしない。死ねば肉、死んでおらずとも肉、そこになんの違いもありはしない。

 

 骨も残さず肉を平らげると、ざらりとする舌で口を嘗めた。血の味がする。これも一応は栄養源だ。それなりに愉しめる。むしろ肉よりもこの血の方がまだ美味い。

 住み慣れた谷のねぐらに戻る。本能の赴くまま狩りをし、眠り、大地を駆け、また狩りをする。それだけで満たされていた。

 獅子は極めて高い知能と、獣王としての誇り高さを自然と備えていた。大岩に比する雄大な体躯、丸太の如き柔靭な四肢、あらゆるものを切り裂く爪と杭のような牙。うねる黄金の鬣と、人理を弾く皮膚、皮膚の内に蠢く竜の鱗の如き甲羅の硬さを発揮できる筋肉。何者も敵たり得ない、彼が警戒するのは神格の持ち主のみ。王者として、彼は在るがままに在る。偉大な父と愛しい母の許を巣立ち、ただ一個の生命として、己のみを率いる王者として己の領土に君臨していた。

 

 そんな獅子の王が楽しみとしているのは、特別な狩りだった。

 

 時折、己から逃げるのではなく、立ち向かってくる肉が有る。その肉は、他の肉とは違うご馳走だった。皮膚は張り、筋肉はそれなりに固く、ほどよい噛みごたえが有る。

 知っていた。それは英雄と呼ばれる特上の肉であると。その肉を蹴散らし、逃げ惑わせ、追い散らし、追い縋り、そして追い詰めた果てに喰らうとイイ声で鳴き、その肉を献上させるのだ。これが堪らなく愉しい。唯一の娯楽である。

 獅子は人理に属するモノ全てに対して一切の例外なく無敵だった。己が捕食者であると知る。だがかといって驕り高ぶってはいない。そうであるのが自然で、曲がりなりにも『喧嘩』や縄張り争いになるのは同じ神獣ぐらいなもの。ましてや闘争の相手と成り得るのは、この谷に住み着く前に邂逅した『神』ぐらいなものだ。

 相応に高位の神だったのだろう。神は基本、不老不死だ。神獣の獅子は苦戦し、かなりの深手を負わされたものだが――その神は今、獅子の腹の中で(・・・・)今も生きている。肉片となり、こまかい肉塊に成り果てても、不死身故にまだ生きているのだ。その神の悲鳴と断末魔を、獅子は今も玩弄している。手傷を負った故にかつての住処から離れたのは、神との連戦は流石に手に余ったからだ。その傷も癒えた今、例え神がこの身を滅ぼしに来たとしても撤退はしない。

 

 寧ろ、神こそが極上の餌である。誇り高さも相俟って、逃げる道理はない。

 

 が、獅子は無謀でもなかった。自身を殺し得るモノに、いたずらに戦いを挑みはしない。挑まれれば逃げないが、そうでないなら放置する。黄金の獅子は慎重さも持ち合わせていた。

 

(――?)

 

 ふと、獅子は知覚する。横たえていた体を起こした。

 気配がしたのではない。そんなものは感じない。臭いがしたのでもない。そんな間抜けではないのか。

 知覚したのは『異物』だ。この谷は獅子の領土である。領域である。其処に侵入したモノは、冥界の神の『ハデスの隠れ兜』でもない限り獣の王の知覚を逃れる術はない。

 のっそりと起き上がる。本能が警鐘を鳴らしていた。己に気配を感じさせず、五感にも悟らせず、神獣としての本能でなければ察知できない相手など――『肉』では有り得ないことだ。

 

 神か。

 

 そう思う。王に油断はなかった。物音一つ立てずにねぐらから出て、侵入者を肉眼で捉えるつもりで動く。しかし相手が例え神であっても逃げるつもりはない。これは、迎撃のための行動だ。

 密かに歩み、谷に出る。あちらこちらに盛んに視線を走らせ姿を探す。

 その時だった。不意に察知した殺気に機敏に反応し、獅子は瞬時にその場から跳び退いた。ほんの紙一重、鬣を掠める閃光。レーザーの如く飛来した大矢が、獅子の残像を貫く。地面が爆ぜた。地表が抉れ、砂塵が舞う。神獣の獅子でなければ、当たれば痛手を避けられないもの。

 しかしその矢自体は人間の道具だった。避ける必要はない。獅子には通じない。だがその考えを獅子は改めさせられた。

 

 見たのだ。奇襲の一撃を避けられると、獅子の機敏な動きから例え己の弓であっても仕留めきれぬと判断し、射撃のみではなく接近戦を演じるべく剣を手に姿を現した男の姿を。

 

 それは英雄だった。『肉』ではない『英雄』である。神の臭いがし、別の臭いもすることから、これまでにない存在だと嗅ぎ分けた。

 偉丈夫。その身から滲み出る強者の臭い。獅子は――ネメアの谷の獅子は臨戦態勢を取った。大きな手で、器用にも剣を握りながらも大弓を構え、矢を放ってくる。それを獅子は躱した(・・・)。通じないそれを避けたのだ。

 

(………)

 

 ネメアの谷の獅子は強者である。他とは隔絶した神秘の獣。その本能は目の前の男と『闘争(たたか)』わねばならぬと洞察した。すなわち効かぬからと矢を受け、己の能力を無意味に知られる真似は避けるが上策。同等の敵だと断じた。

 己の血が叫んでいる。あれこそが生涯最大の宿敵であると。――それは期せずして、己の父テュポーンと『英雄』の父ゼウスの因縁を占う前哨戦の様相を呈している。

 獅子は唸った。

『英雄』は構えた。

 己の頭の位置よりも僅かに高い位置に視線のある獅子を目の前に、『英雄』は感嘆の念を示している。

 

「デカイな」

(………)

 

 貴様こそ、と神獣は笑う。表情では伝わらぬものがあった。

 敬意を払うつもりなのか、『英雄』は構えながらも動かない。

 

「その充溢せし生命の気高さに敬意を払おう。いざ尋常に勝負」

 

 応――そう応えるようにして黄金の獅子は咆哮した。

 谷が震撼する。

 

 それはあたかも、誇り高き戦士と戦士が決闘を行うかのような荘厳な趣があった。

 邂逅してまだ間もない。そして以後、永遠に会うことはあるまい。一期一会、生きるか死ぬか、どちらかが死にどちらかが生きる。

 だがその結末がいずれであろうと、神獣と英雄は同じ事を思った。――勝てばその勝利を誇りとしよう。負ければ勝者を永劫に讃えよう。

 

 生まれながらに逸脱した存在同士は奇妙なシンパシーを感じ合い、そして。

 

 英雄が挑み、王者が迎撃に打って出た。

 

 

 

 

 




第一の試練「ネメアの谷の獅子」戦、開始。

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