ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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2.2 英雄の証、獅子の星 (上)

 

 

 

 

 

 野生に生きている限り。あるいは戦場に身を置く限り。

 運命に紐付けられた死の邂逅は、いつだって突然で理不尽に降り掛かる。

 

 勤めとして人に害なす神獣の退治を命じられた『英雄』からすれば、その邂逅は意図してのものである。しかしどれほど血塗れたものであれ、平凡な日々に身を窶していたネメアの谷の獅子にとって、『英雄』の襲来は宿命を感じながらも唐突なものだ。

 日常が突然に闘争のそれへと侵食される。常ならば事態の急変を呑み込むのに難儀するだろう。だが獅子に恨み言はない。自然界に於いて不意の殺し合い、喰らい合いは当たり前のもの。そこに文句などあるはずもない。情けなくも不平不満を態度に出そうものなら、ネメアの獅子は恥の余りに自死を選ぶ。寝込みを襲われ満足に戦えないまま殺されたとしても、それは相手の方が上手だっただけだと獅子は割り切るだろう。

 

 今、黄金の獅子は――後世『英雄』との対決により、『獅子こそが百獣の王である』という人類の共通認識を築くに至った神獣は――全くの未知の狩場に立っていた。

 

 神ではなく、人でもなく、『肉』でもなく、獣でもない。半神半人の『英雄』が、対等の個として目の前に立ちはだかっていた。

 敵として。己の命を奪うため。

 獣の王には分かる。神格を持つ獣には分かった。この『英雄』は己の欲のために来たのではない。己の意志以外の何かに従って此処にいる。そして逃げない、己の姿を見た者は余程の戯けか神以外逃げ去ったというのに。己の敵として戦おうとしている。

 見事。王としてはその勇気を讃える他ない。故に讃えながら殺し、喰らう。何よりも誇り高き『英雄』として、何よりも丁寧に血の一滴も無駄にせず喰らい尽くそう。神の獣は『英雄』を見据える。

 

 『英雄』はその偉容に感嘆し、感動の念を禁じ得ないでいた。

 

 四肢で地に在る状態ですら、獅子の視線は己の身長を超えている。後ろ足で立ち上がれば己よりも二倍は大きい。見たことも聞いたこともない獣だ。

 何よりもその、不純なものなど一寸たりとも介在しない純粋な生命に感動した。

 ただ強く、ただ大きく、ただただ気高く誇り高い。純然たる王気というものをはじめて肌に感じた。この獣と比べたら、あらゆる神や人の王など畜生にも劣るのではないか――畏敬の念を懐かずにおれない。これが神獣か、と。そしてそれを有するという神に侮蔑の気持ちが湧く。これほどの品格、気品だ。所有物にするのではなく、対等の友にするべきではないのか。言葉が通じずとも築ける想いがあるのではないか。

 その想いを秘めたまま『英雄』は剣を構える。名剣の類だが、ネメアの獅子……その名を住処になぞらえて『ネメアー』と呼ばれる獣の爪牙に比べれば、まるっきし子供の玩具に思えてしまう。

 

 だが獅子は侮らない。野生を生きる者が闘争に於いて油断することはない。ネメアーは『英雄』を見る。名も知らぬ、知る必要もない強き敵手を。

 ネメアーは重心を落としたまま、慎重に『英雄』の出方を待った。さあどうする、挑みに来たのは貴様だろう。ならばそれに相応しい姿勢があるのではないか。来い、己からは往かぬぞ。

 

 その獣にあるまじき知性と、豪壮な王者の余裕が宿った瞳に『英雄』は微笑む。真実裸一貫、剥き出しの魂だけで相対しているかのようだ。

 野生の戦いも悪いものではないと、この時『英雄』は初めて思った。笑う。ネメアーも笑っている気がする。こんな出会い方でなければ友になれたのかもしれぬと。尤も、ネメアーは徹頭徹尾喰おうとしてくるだろうが。

 

「往くぞ」

 

 『英雄』が馳せる。獣の神王が迎え撃つ。

 神速で踏み込む『英雄』の疾さを、獣は余裕を持って見定めた。構えは刺突、片手を自由にするために空けた、槍のように伸びる剣穿。狙いは眉間だ。

 

 ネメアーは言語を持たぬ。それ故に曖昧模糊として漠然とした、それでいて何よりもダイレクトな思考が弾けた。

 

 疾い。迅い。速い。桁外れの膂力が目で見ただけで解る。突き込む剣身が空間を紙のように引き裂き迫ってきた。

 凄まじい剣速による負荷に、剣の方が堪えられず軋んでいる。あれではとても長くは振るえまい。――残念だ。決着は早く、呆気ないものとなる。

 強者には相応しい武器というものが必要だ。ネメアーにとっての爪と牙のように。それがない『英雄』は武器が通じるのが前提で振るっている。口惜しいがネメアーは容赦なく勝ちにいくことを選択した。只管に攻撃を躱し、『英雄』の武器の限界寸前に自らの体に斬撃を当てさせ、得物を砕かせ驚いた隙に『英雄』を噛み砕く。どんな強者でも武器の破損には、戦闘時であれば驚きで必ず一瞬の隙が生まれるのだと理解していた。 眉間への刺突は飛び退いて躱す。そして怒涛の勢力で突貫してくる『英雄』から、ネメアーは一貫して一定の距離を保った。自滅を待っての様子見ではある、しかしその前に隙があれば、当初の狙いに拘らずに爪で切り裂くつもりだった。

 

 『英雄』は剣を振るう。自身を遥かに上回る雄大な体躯の獣を向こうに回して恐れもせず。ネメアーの体を両断せんと振りかぶった名剣を閃かし――ネメアーに躱される。

 ネメアーは徹底していた。その眼光は『英雄』を喰らう隙を狙い、無闇に脅威へと身を晒さない。しかし注目すべきはそこではなかった。

 『英雄』は膂力に於いて並ぶ者がいないが、その技量に於いても当代無双に限りなく近い。長ずればその武練は並み居る英雄豪傑の中でも頂点に君臨するだろう。果ては座に刻まれし全英霊の中で、最強の一角に数えられるに至る。――その『英雄』の剣が、ネメアーに掠りもしないのだ。ネメアーは自前の反射神経と、危機を察知する嗅覚のみで『英雄』の剣技から逃れているのである。

 

 無論『英雄』が当てる(・・・)ことのみに注力した場合、防ぎもせずに躱し続けられる者は余程に特異な存在でもない限りいないと言える。だが当てるだけでは駄目なのだ、ネメアーの皮膚は特別な特性を考えなくとも分厚く、簡単には切り裂けない。

 渾身の一刀のみが痛打となる。『英雄』は手傷を負う覚悟を見せた。ネメアーの爪の脅威を受けながら踏み込み、前肢を断ち落とさんと裂帛の気勢で剣を薙いだ。

 

 瞬間、脳裏に警鐘。危機を察知し本能的に身を捻った。剣を振り抜く寸前であった故に体勢が崩れる。『英雄』の剣は虚空を掻いていた。

 ネメアーが跳んだ(・・・)。後肢のみの脚力で地面を蹴り、『英雄』の動体視力ですら捉えきれぬ速度でその脇を掠めていったのだ。激痛が走る。

 

「グ……ヌッ」

 

 『英雄』の脇腹から鮮血が吹き出た。浅く肉が抉れている。喰われた――戦慄するよりも先に『英雄』は背後に振り返ることすらせずに横っ飛びに跳躍した。左肩に浅い裂傷が刻まれる。『英雄』の脇を通り抜けたネメアーは谷の絶壁に着地し、跳ね返るようにして敵手の背中を襲ったのだ。

 再び『英雄』の目前に戻ったネメアーは、口元に着いた血をぺろりと嘗めた。そして挑発するように前肢で顔を掻く。退屈だとでも言いたいのか……『英雄』は苦笑し、背負っていた弓と矢筒を棄てた。右手で剣を構え、左手を添える。退屈にさせて申し訳ない、此処からは試し合いは終わりとしよう――言葉もなく目で語りかけると、ネメアーは『英雄』の意志が伝わったのか地に伏せるようにして身構える。『英雄』が地を蹴った。ネメアーも応じて跳んだ。

 

(此度の特別な狩りはこれまでか)

 

 ネメアーは言語として紡いだらそのような意味合いになる思惟を抱く。

 まだ『英雄』は本気を出していない。いや、本気ではあっても全力ではない。これから全力を出すのだろう。

 だが間違ってはならない。ネメアーは王であるが、獣である。その死生観は狩るか、狩られるか。悠長に全力を発揮させる気はない。黄金の獅子は得難い宿敵を相手に、心躍る死闘を望んではいたが、狩猟の場に於いてそんなものなど僅かにも価値はない。

 ネメアーは跳び、真っ向から『英雄』に向かう。己の爪で『英雄』を切り裂くべく。『英雄』の剣は正確にネメアーの眉間を貫かんとしていた。先に剣が直撃するだろう。そして黄金の獅子は剣を受けるしかない。

 それでいい。それがいい。その剣はネメアーには通じない。決着の時だ。

 

 ――この一合、釣り師は『英雄』ヘラクレス。

 

 剣の切っ先がネメアーの眉間に直撃した。ヘラクレスの度重なる剣箭による負荷を掛けられ、ネメアーの神速の突進を受けた剣は粉々に砕け散った。

 黄金の獅子の狙い通りだ。ヘラクレスはネメアーを仕留めたはずが、剣の方が砕け散るなど慮外のはず。その驚いた隙を――隙、を……。

 ネメアーは見た。誇り高き獅子の神王は目撃した。剣が砕けた瞬間、最初から分かっていたかのように剣の柄から手を離し、素早く身を屈めたヘラクレスの動きを。

 獅子の鋭利な爪が空を切る。その真下を通り抜けたヘラクレスは、無防備なネメアーの腹部に鉄拳を刳り込む。掬い上げるかのような拳撃は正真正銘掛け値なしの全力だ。地面を蹴る震脚に谷が振動し、握り込んだ力の塊がネメアーの腹に解放される。

 

 ネメアーが撃ち出された砲弾のように弾け飛んだ。その巨大な体が吹き飛んで谷の断崖絶壁に叩きつけられる。

 

 ヘラクレスは、狩人(・・)だ。であれば無論、獲物となる獣のことなど()()()調()()()()()。といってもできたのは聞き込み程度であるが、それでも幾つか知ることができた。

 

 ミュケナイの戦士隊は幾度かネメアーを退治に向かっている。仲間を見捨てて逃げた僅かな生き残りがいた。彼らに聞くところによると、刃が通らない、棍棒が効かない、矢が効かない――そして頭が良く狩りの獲物にされたかのようだった、と証言してくれた。

 ヘラクレスは『英雄』だ。しかしギリシア世界に於ける一般的な英雄の尺度に収まらず、またその価値観と行動原理は全く異なる。

 敵の持つ情報というものを軽視しない。敵を過小に評価したりはしない。武器が効かない、それを前提に動くことにしていた。無論自分が扱うなら通じるだろうという自負はあるが、生憎と今のヘラクレスは全幅の信頼を置ける武器という物を持っていなかった。

 

 人の作った名もなき剣を使う。自作の弓と矢を使う。はっきり言ってしまえば、そんなものはヘラクレスという五体の持ち主にとって拘束具(・・・)でしかないのだ。

 最強の武器は己である。この腕と拳、脚と足、肘、膝……剛力より繰り出す腕力こそ(・・・・)最強無比。ならば神の名を冠する獣を相手に手加減は無用、全力で殺しに掛かる前提で、最初から徒手空拳で挑むつもりだったのだ。

 

 奇襲の矢は、ただの撒き餌。武器を使うぞという宣言。剣を使っていたのはネメアーの反応と身体能力を測るため。ネメアーの知能が高いならヘラクレスが剣を振る度に、その剣が自壊していくのに着目する。わざと受けて破壊しようとするだろう。

 その読みは当たった。後はあらゆるモノを破壊し尽くす己の力の全てを叩きつけるだけ。それで決着である。この豪腕を受けて生きていられるとすれば、総ての神々の首魁が集うオリンポスの神ぐらいなものだろう。

 

 そう、思っていた。

 

「――――」

 

 だがその手応え(・・・)は――ネメアーを殴り飛ばした拳は、異様な感触をヘラクレスに覚えさせていた。

 

 硬い。そして軟らかい。殴り飛ばした瞬間に獣の五体が四散し、弾けるだろうと無意識に思っていたヘラクレスは、五体が無事なまま吹き飛んだ獣王に呆気に取られた。

 生き物が形を持ったまま……? 己に殴打されたのにか……?

 信じられない思いで、ヘラクレスは崖に叩きつけられたネメアーを見詰める。

 瓦礫を散らし、尾を振って砂塵を払い、地面に四肢で着地した獣の王は、口元から一筋の血を吐いてこそいたが未だ健在であった。

 

 苦痛がある。苦悶がある。膝を折ってしまいたい。だが立った。立って、ネメアーはヘラクレスを見ている。その目は据わり、何かを伝えようとしているようだ。

 

(……策に嵌ったか。侮っていたのは、こちらの方だったのだな。貴様を敵であると見ていながら、狩りの獲物と同列に見ていたらしい。詫びよう。これより先は『狩り』ではなく『闘争』である。喰らってやろうなどとは思わん、跡形もなく粉砕してくれん)

 

 そんな、思惟。神通力でも働いたのか、ヘラクレスはネメアーの思惟が感じられたような気がした。それが錯覚ではなかった証か、ネメアーは不意に、その身に神々しい神威を纏い始めた。

 黄金の神気。粒子となって光り輝くそれを纏った獅子の王の鬣が揺らぐ。息が詰まりそうになるほどに眩い神性と、渦を巻く神秘の結晶。揺らぐ金色の炎のような鬣の下、鋭利な牙が肥大化し、全身の筋肉が膨張していく。

 

 もとより巨大だった獅子が、更に一回りも大きくなった。これが恐るべき神獣の真の姿。もしもこの宿命の出会いがなくば、それだけで特異点化が決定するほどの猛威を振るう特異点級の神獣。名をネメアー。父を魔獣神テュポーン。あらゆる怪物達の神の子の中で最強と目される長兄。

 その覇気と神気、王気の溢れる荘厳な姿に、ヘラクレスは暫し呆然と見入っていた。

 やおらヘラクレスは笑い出す。絞り出すように、抑えきれぬように。そして大口を開いて呵々大笑した。

 

「は、ははは、ハハハハハハハ――ッ!!」

 

 圧倒され、勝てるわけがないと怯懦に侵され気が狂ってしまったのか。笑い転げんばかりの『英雄』を、真なる姿を顕した獅子王は静かに見守った。

 気が触れたのではない。悦んでいるのだ。ならばその無防備を突くことはしない。この己を讃え、敵として相対することを悦ぶ者を、どうして王者である己が咎めようか。ネメアーは『英雄』の笑いが収まるのをジッと待つ。

 そのネメアーの目に、ヘラクレスは徐々に歓喜の笑いを収めていく。そして拍にして六十、押し黙った。ヘラクレスは獅子の瞳を見詰める。

 

 ヘラクレスは、獣に対して頭を下げた。

 

「すまない、待たせた。望外にもまみえた強大な敵だ……つい嬉しくなってしまった」

(………)

「どうしてか……貴様が他人とは思えん。長年連れ添った友のように感じてしまう。貴様を討てと命じられた時から、あるいは貴様を狩るためにその力を知ろうとした時から……なぜだろうな……私は今ここで貴様と対峙できたことが、堪らなく幸運な巡り合わせに思えてならない」

 

 深く呼吸した。――ここからは本気だ。全力だ。そう宣言する。

 

 言ってしまえば最初から本気だった。剣を捨てた瞬間から全力だった。だがヘラクレスの言う全力とは、まさしく全身全霊。己の全てを出し尽くす気概を言う。

 遥か時の果てに待ち受ける英霊同士の戦争舞台、そこで相まみえる英雄王をして『人間の忍耐の究極』であると絶賛された男が、その強靭な意志力を攻撃性に転換する意識の変動――半神半人の英雄の断固とした決意。それが力になる存在だった。

 

 はじめてだった。否、師であるケイローンが最初か。否、否だ。ネメアーこそが真実最初の相手となる。全身全霊の殺し合い……そんなもの、体験するのは本当にはじめてなのだ。誰もヘラクレスと対等の敵足り得なかったのだから。故に昂揚する。故に心が沸き立つ。ヘラクレスは己の上半身を覆う衣服を剥ぎ取る。魔獣から剥ぎ取った赤い毛皮の衣を棄て去った。腰に巻き付けていた布一枚、ヘラクレスはそれだけで特異点級の神獣と正面から対峙した。

 

 そしてこの時。ヘラクレスは(・・・・・・)自らの限界を超えようと足掻いた(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 このままでは負ける、殺される。力及ばず敗れるのなら仕方ない。しかしまだだ、まだ己には上がある。まだ先に行ける、もっと先へと到れる。己のためではなく、その力を目の前の気高き王に示したくて仕方がない。

 ヘラクレスは全身に魔力を漲らせる。初の試み、されど『こうしたらいい』という直感がある。力よ(・・)、力よ――我に宿れ。我が身に降りよ。咆えろ、勇ましく。

 

「ォッ、ォォオオオ……!」

 

 活性化していく。神性が、肉体が、魂が――神話最大の大英雄の総ての細胞が。

 全身の筋肉が膨張していく。ぶわ、と肩に掛かっていた黒髪が波打った。そして彼の肉体に、赤い紋様が浮かび上がっていく。ヘラクレスが持つ霊格が飛躍した。

 

「オオオオオ――ァァアアッ!」

 

 爆発したかのようだ。――顕現するは豪力の具現。天地を支え、世界を支えた宇宙最強の怪力無双。充溢するは神威に非ず、溢れんばかりの生命力だ。ヘラクレスは此処にその素養を覚醒させた。

 凄絶な力の波動はまさに鬼神。人の身に在りながら神の域に在る、人であり人でなく神であり神ではない理不尽の権化。唯一無二の敵の誕生を目にし、ネメアーは頷くように頭を下げる。

 

(重ねて讃えよう。……見事だ。認めるしかあるまい。貴様こそが――)

「――そうとも。貴様は私の、私だけの宿敵だッ!」

 

 獅子が満身より力を溜め、咆哮する。まさに獅子吼。咆え声一つで谷は崩れ、天と地に在るモノが軋んだ。

 『英雄』が解放の雄叫びを上げ、突進する。赤く輝く紋様の魔力に呼応して万物が戦慄し、あらゆるモノの生存本能が狂ったように意識を薄れさせた。

 あたかも天変地異、どうしようもない天災を前にして観念してしまったかのように、周囲一帯の生あるモノは例外なく静寂に堕ちた。

 

 激突する。今の一人と一頭の世界には、互いしか存在しなかった。

 これより三日の間、死闘は片時も止むことなく続けられることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――最初に気づいたのは神々であった。

 

 その存在を識る。恐れと共に放置する。彼のモノの名はテュポーン。神々が心底より畏れ、恐れる怪物の神。それに似通った力の片鱗を察知した。

 総ての神が戦慄した。全身に鳥肌を立たせ、恐慌に陥り掛けさえした。それはオリンポスの神も例外ではない。ゼウスは己に勝ち得るとしたらテュポーン以外に有り得ぬと知っているからこそ、誰よりも過敏に反応したと言える。

 ゼウスは最強の神具『雷霆』を手に外界を覗き込んだ。自身の属神に命じ最強の鎧の準備さえさせた。テュポーンが現れたのなら自分が出るしかない。そう決意しての遠見は、果たしてその血戦を目撃させるに至る。

 

 咆哮がこだまする。信じ難いものを目撃した。

 

 片やテュポーンの血を感じさせる凄まじい神威の獣。黄金の獅子。オリンポスの神々以外の高位神格が、完全武装でようやく戦えるか否かといった桁外れの怪物。下手に暴れまわれば世界が荒廃しかねない規格外。この獣がテュポーンと結託して襲い掛かってくれば始末に負えない。テュポーンだけで手一杯になるからだ。故にゼウスは瞬間的に雷霆を投じんとする。此処で殺しておかねばまずいと最高神が判断したのだ。

 しかし直前でその手を止めた。争乱の元凶、そのもう一方を知っていたからである。

 ヘラクレスだ。その究極的なまでに鍛え上げられた肉体に宿った腕力のみで、最高位に近い神獣を相手に奮闘している。獣の爪牙を躱し、蹴り穿ち、殴り貫く。何度も、何度も、何度でも神獣を殴打していた。

 

(よもや……これほどか……)

 

 己の血が流れているとはいえ、ここまでの英雄に成った子を、ゼウスは他には知らなかった。

 目が吸い寄せられる。ヘラクレスは全身を血に塗れさせている。総て己の血だ。全身傷のついていない所はなく、しかし凄絶に笑っている。歓喜しながら闘っていた。

 そして信じられないほど急激に強くなっていっている(・・・・・・・・・・)。その闘争にゼウスは()を見た。完成された英雄の美。力強く、逞しく、勇敢で恐れを知らない。強敵に怯えるのではなく喜び、相手を上回ってやろうと足掻き抜く。これを英雄と言わずしてどうするというのか。

 戦女神アテナが目を奪われている。玲瓏たる声音を熱っぽく湿らせ賛辞した。

 

『素晴らしい英雄だ。私は彼を応援したい』

『やめろ』

 

 ゼウスはヘラクレスに加護を与えようとしているアテナを止めようとした。

 だがそれよりも先に、あろうことか軍神アレスがアテナに待ったをかけた。

 

『無粋だぞ。これは奴と、あの獣の闘争だ。戦を司る二柱の一方が、神聖な決闘を穢すことはこの俺が赦さん』

『ほう……まさか戦の暗黒面、狂乱を司るお前に言われるとはな。どんな風の吹き回しだ?』

 

 アテナの揶揄に、アレスは鼻を鳴らした。まともに答えるつもりはないようだ。

 しかし気が変わったのだろう。端的に、一言だけ漏らした。

 

『……あの闘争は、男を熱くする。女の貴様には解るまい』

『………』

 

 その物言いは、アテナを激高させるにたる。だがアテナは激さなかった。

 不思議とアレスの顔が熱意を帯び、その視線が外界での戦いに釘付けになっていたからだろう。毒気を抜かれる。

 ゼウスは内心、アレスの評価を改めていた。まさかな、と。あの愚息がそんなことを言うようになるとは……。

 

 さても呆れるは己の妻だ。神々の女王は、ゼウスの子でありながら己の子ではない者が、あれほどの英雄であるのに嫉妬している。

 ヘラは自分で生んだ子供が悉く愚かであったり、醜かったりするのが受け入れられない。これではまるで、母胎としての自分が劣等であるかのようではないか。

 ――案の定、ヘラはアレスの言葉を聞いていなかった。ゼウスは嘆息する。そう嫉妬深くて束縛が強すぎるのも、ゼウスの浮気性の原因の一端なのだが……。

 

 そして、誰よりも英雄に対して入れ込んだのは、鍛冶の神ヘパイストスだった。

 

 彼はヘラからの仕打ちや境遇にひどく同情していた。同時に彼ほどの英雄が、武器も使わず肉体のみで闘っている姿に物足りなさも感じていた。

 あの英雄に剣があれば。あるいは弓があれば。そう思わずにはいられない。しかし生半可な武器では到底あの怪力には耐えられない。使う端から壊れていくだろう。

 ヘパイストスは密かに決める。あの者に剣を贈ろうと。尽きぬ矢を収めた筒と、豪腕に相応しい弓を贈ってやりたい。それは鍛冶の神としての欲求だった。

 それに――アレスに同意するのは癪だが、胸を熱くさせられる闘いである。個人的に後押ししてやりたいと思ったのはアテナだけではない。ヘパイストスは一人うなずき、自分の工房に引き返していった。

 

『……これならば、予言に間に合うか』

 

 ゼウスは確信する。我が血を受けたこの英雄がいれば、巨人族ギガースの軍勢に勝てると。ギガースは神には殺されない強大な相手だが、ゼウス一柱のみで負けはしないのである。勝てないだけで、負けることは絶対にない。

 勝ち切るための切り札があそこにいる。喜ばしいことだ。問題は……対ギガースの切り札に私情で絡むヘラだ。罰する必要がある。夫としてではなく神々の王として。

 

 だが、

 

『………』

 

 今だけは、あの英雄と獣の血戦を見守ろう。

 

 オリンポスの首魁、ゼウスは玉座の上で結末を見届ける。どこか他とは違う変わり種の英雄の闘いを。

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなったので分割。次に続く。

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