ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
イオラオスはヘラクレスの甥であり従者である。
――少年にとって英雄と呼べる男はこの地上に於いてただ一人。ヘラクレスのみだ。
小さな頃から遊んでくれる優しい伯父で、誰よりも強く、誰よりも頼りになった。そんなヘラクレスに少年は憧れ……しかし同時に近すぎる関係であり過ぎたから。だから少年は伯父の凄さというものを正確には感じ取れなくなっていた。
だがその近視眼的錯誤は取り除かれる。伯父がネメアの谷の獅子を討ち、圧倒的な武威と共に金色の鎧を纏って帰ってきたからだ。
伯父の鎧姿を見た瞬間、イオラオスの心は震えた。世界で最高の、最強の英雄を伯父に持てた幸運を思い知ったのである。伯父の冒険に付いていきたい。伯父と一緒にいたら伝説になる冒険をこの目で見られる。その思いに取り憑かれイオラオスはヘラクレスのヒュドラ退治について行ってしまった。
咎めるべき妄動であり軽挙だ。だがヘラクレスはあくまで叱責するに留める。
「私に付いてくるということは、それだけで命を縮める危険を犯すということだ。それを解っているのか?」
「解ってるよ。だけど伯父上、おれだって男だ。自分の命には責任を持つ。それに伯父上の冒険に付いていったら、いつかおれも伯父上ほどじゃないにしても英雄になれるかもしれないだろ?」
意志は固いのか生意気に胸を聳やかし、少年は強がってみせる。成人の扱いとはいえまだまだ子供だ。子供の強がりを尊重し、導いてやるのも大人の務めか……。変に反発されて制御不能になられたのでは始末に負えない。
イオラオスはヘラクレスに憧れている。しかし憧れとは理解とは程遠いものだ。英雄の名声など、ヘラクレスは惜しくもない。成りたいと思っていたわけでもない。利用できるから棄てないだけのことだ。それにその冒険とやらの終焉に待っているのは、甥が想像しているような栄光ではないとヘラクレスは思っている。
だが構わない。ヘラクレスはイオラオスを突き放さなかった。今のところ風聞ばかりだが、ヘラクレスは英雄と呼ばれる――己からすると野蛮人でしかない男達を知っている。罷り間違ってイオラオスがそんな輩に成り下がる可能性があるなら、自分の傍に置いて勝手に理想の英雄像を作ってもらった方が良い。せいぜい英雄らしく――あくまで己の思い描く、イオラオスに良い影響を与える振る舞いをすれば、イオラオスはヘラクレスが内心軽蔑している『英雄』とやらになることはないはずだろう。
謂わば甥の教育のために、付いてくることを許したのだ。それ以外の意図はない。
危険の付き纏う、ヘラクレスにすら何が起こるか分からない旅路だ。イオラオスというお荷物を抱えて旅するのを油断、慢心、傲慢となじる声もあるかもしれない。だがしかし、ヘラクレスは傲慢であっても構うものかと考えていた。
己は獅子神王を討ちし勇者である……その自負と誇りが、ヘラクレスを大胆不敵にしていた。そうで在ることがあの闘争の勝者に相応しいと信じている。甥の一人も守れずして何が誇りかとも思う。
「英雄になれるかも、か……お前も男だ。お前が決めた道を、私がどうこうと口出しする訳にもいかんな。だがイオラオス……解っているとは思うが、お前がそうしたいと言うのなら、例え何があろうと泣き言だけは口にするな。そしてよく私を見ろ、私がお前に英雄の何たるかを見せてやる」
「……! 解った。伯父上のこと見てるよ。けど伯父上がピンチになったら助けるよ、おれ」
「生意気な」
フッと笑みを零し、くしゃりと甥の髪を掻き回す。首がぐるぐると回ってイオラオスは慌てた。やめろよぉ! 暴れるイオラオスに、ヘラクレスは慈しみを向けた。
そうして伯父と甥の冒険が始まる。二人がまずはじめに取り掛かったのは、退治する怪物についての調査であった。
レルネーの沼に住み着いているという大怪物、ヒュドラ。
後世の魔術世界に於いて『ヒュドラ』と呼称される多頭竜とは完全に別物の、全生命体を絶命させる宇宙最強の猛毒を持つという神蛇。あのネメアの獅子の兄弟である。
神々の権能ですら解毒不能なそれは、風に乗って流れてきた毒液の臭いだけで、およそ総てのモノを行動不能に陥らせ、臭いを嗅ぎ続ければ筆舌に尽くし難い苦痛の中で死に絶えるという。その危険性はネメアの獅子の兄弟であるだけで、まさに推して知るべしといったところだろう。
目撃者の証言、実際に襲われた近隣の村落から発見した毒の残留物から、噂に違わぬ脅威であるとヘラクレスは判断した。
岩に付着していた一滴の毒液だけで、ヘラクレスですら激痛の余り死を選ぶだろうと直感する。それを採取し、白剣の柄に納める。中庸の剣はヒュドラの毒でも穢れずに、保存された。これは使えると、邪悪な笑みを一瞬だけ覗かせて。
ヘラクレスはイオラオスを伴い、レルネーの沼を一望できる崖の上にやって来た。
といってもヘラクレスほどの視力がなければ、まずまともに視認することも難しい。
「こんな所に来てどうするんだよ?」
甥の疑問に、ヘラクレスは肩を竦めた。
「毒の残留物は見ただろう。あれは近づくのも危険だ。私ですらな。ならば近寄らなければいい。それだけのことだ」
「はあ? でもさ、近づかないとどうしようもないだろ? 沼の周りには林も群生してるし……木が邪魔で見えっこないよ」
「そうか? そうでもないぞ」
ヘラクレスは白剣を地面に突き立て、白弓を手に取る。矢筒に魔力を込めて大矢を精製すると金色の弦に番えた。
そうしながら講義する。といっても、イオラオスには真似なんて出来ないのだが。
「テュポーンの子たるヒュドラはかなりの巨体だという。その巨体が通った後らしき道の痕跡からして、サイズはザッと私の五倍ほど。頭が九つあり、それぞれがあの毒を吐くのだとしたら、奴の住処には膨大な毒霧が発生しているはずだ。ならば……」
よく目を凝らせば、遠方からでも沼に異常が見つかる。
その推測通り、林の中の沼地辺りが毒々しい霧が発生しているのが見て取れた。
ヘラクレスは大雑把に狙いを沼に定める。ネメアの獅子の脊髄と、ヘパイストスの神鉄によって造られた白弓が、無二の担い手の魔力と戦意に呼応して唸りを上げる。
「覚えておけ、イオラオス。怪物狩りに於ける常道は、徹底して敵の土俵に立たぬことにある。我が祖ペルセウスもまた、怪物を相手に正面から戦う真似はしていない」
「伯父上はしたじゃん」
「……私の真似ができるならするといい。だができないと判断できる頭があるならやめておけ。お前では例えその身が不死であっても怪物狩りなどできん。やりたければ神に請い、加護と宝具を授かるのだな」
「ちぇっ……そりゃそうだろうけどさ……」
「――まずは炙り出す」
言うなり、ヘラクレスは限界まで引き絞った弦から大矢を解放した。
さながら獅子神王の咆哮が如き風切り音を発し、大矢はレーザーの如く一直線に虚空を奔る。20Km以上離れた地点から一切の減速・高度変更もない、直撃すれば同じ半神の英雄であろうと消し飛ばす威力の狙撃が飛翔した。
狙いは過たず、沼地の中心部を穿った。弾け飛ぶ樹木の欠片と、跳ねる沼の泥を遠くに見ながらヘラクレスは自嘲した。これで私が他の英雄と同じなら、真っ向から戦いを挑んで苦戦していたのだろうな、と。
彼の常軌を逸した動体視力は捉えていた。姿の見えない蛇を炙り出すための一矢が、見事に命中してその巨体に風穴を空けていたのを。
だがどうだ。林の沼地にあった木は軒並み剥がれ、高所から望める沼の中心にいた神蛇は、瞬く間に傷を癒やしていくではないか。
九つあった首は全再生し、一つの大きな首以外が二つずつ増え、十七の首となっている。蛇の瞳が忙しなく辺りを探っていた。襲撃者を探しているのだ。
「ふむ」
狙撃手の一撃を受けていながら、悠長に狙撃手を探している姿を見ていると、一つの考えが浮かぶ。
馬鹿なのか、それとも己が不死であるからどうとでもなると考えているのか。いずれにせよ今少しの観察が必要だ。
「怪物狩りに際して必要なのは知恵だ。怪物は特異な力を持つことが多い。それを知らずして挑むは愚か者以外に称せず、敵を知らずして対策は立てられん。さあイオラオスよ、考えてみると良い。敵は不死。首は九つだったのが、吹き飛んだ八つの首は倍に増え、中心の大きな首だけはそのままだ。加えて最も最初に再生した首も真ん中のそれ。お前が私だとしたらどうする?」
「え? えっと……」
ヘラクレスの質問に、イオラオスは考える素振りを見せた。その間にヘラクレスは弓を速射する。悉く的中させ、首は三十三となった。着弾の轟音が凄まじい。遠く離れているのにイオラオスの耳にも聞こえる。
「……首が増えるんだよな?」
「ああ、その通り」
「上限はないのか知りたい、かな。後はどうやったら再生を阻害できるか、不死の怪物をどうやったら退治できるのか……うーん……吹き飛ばした首の痕を焼いて、再生できなくする?」
「良い考えだ。だが真ん中の首はどうする? どうやらそれは本物の不死らしいぞ」
何せ何度吹き飛ばしても瞬く間に再生される。的撃ちの台としては面白いが、些か飽きが来てしまう。
そんなふうに揶揄していると、不意に神蛇の目がヘラクレスを捉えた。見えたのではなく、いる方角を把握したらしい。狙撃手なら一射ごとに狙撃地点を変えるべきだし、どんな事情があっても位置が割れたなら逃げねばならないのが鉄則。しかしヘラクレスはそうしなかった。
獰猛に笑う。蛇が真っ直ぐこちらに躙り寄りながら、毒液を固めたレーザーを放ってくるのを視認したのだ。ヘラクレスは真っ向からそれを迎撃する。
物質の矢では溶けてしまう。故に魔力の矢を精製して放ち毒のレーザーを相殺した。
「……伯父上、なんか遠くに土煙が見えるんだけど」
「そうだな」
「そうだな……って、もしかしてあれ……」
「ヒュドラだ。なるほど大した速さだぞ。私はともかくお前は逃げられん。さあどうするイオラオス。早くヒュドラを仕留める方策を考えねば、お前は死ぬことになる」
「はあ!?」
まさかの宣告にイオラオスは目を剥いた。
地響きが聴こえる。遠くから間にある障害物を踏み潰し、轢き潰し、巨大な質量を持つ何かが津波のように押し寄せてくる。
それを肌に感じるようになるにつれ、イオラオスに危機感が募る。やがてイオラオスの目でもヒュドラの金色の玉体を視認できるようになると、いよいよ以ってイオラオスは狼狽した。
何度もヒュドラとヘラクレスを見比べる。伯父がなんとかしてくれるはずだと希望を持って。しかしヘラクレスは動かない。イオラオスをジッと見ていた。早く考えろ、その眼がはっきりとそう言っているのを感じたイオラオスは、もうヤケになって吠え立てた。
「ああっ――もう! くそ! ばか伯父上! 鬼畜! なんでも良いから一回全部の首吹き飛ばして、デカイ首は岩かなんかの下敷きにして封印しちまえばいいだろ!」
「――ではそうしよう」
ニッと骨太な笑みを見せ、ヘラクレスはやっと白弓に再度大矢を番えた。
最初からそのつもりだったのだろう。ヘラクレスは危機が迫りくる恐怖をイオラオスに与えようとしていただけだ。そうと悟ったイオラオスは、弓を構えているヘラクレスの脛を蹴りつけた。ばか伯父上! と。しかし蹴った自分の足が痛いのか、ピョンピョンとその場で跳ねている。
それを尻目に、ヘラクレスは無茶無謀を平然と断行する。――総ての首をほぼ同時に消し飛ばし、大岩の下敷きにする。それはいいとして、まずどうやって首を吹き飛ばすのか。
弦を引き、矢を放つ。速射のそれ。
首が飛ぶ。しかしほぼ同時とはいかなかった。
弦を引く。こうか? と自問しながら矢を放つ。精度が増し速射速度が早くなった。
首が飛ぶ。まだ遅い。
ネメアの獅子との戦いで、最後に繰り出した一撃の感覚。あれを転用できないかと考え試してみる。すると明確に威力が増大し、速射の回転率が跳ね上がった。
「なるほど、
納得して頷く。幾度かの試行錯誤の結果、ヒュドラの首は百を数えていた。
――白弓を構える。全身を魔力で強化し、剛力を発揮しながらも随所を脱力し、力を溜め、技量の粋を掻き集め――速射ではなく九本の矢を同時に番える。
無理のある装填に、金色の弦は当たり前のように応えた。それに膨大な魔力を装填して射出する。
撃ち出されたのは九本の矢。込められた莫大な魔力が竜の形を象り、一斉にヒュドラへと襲い掛かる。それは百の首を悉く殲滅した。激甚なる破壊力に、ヒュドラが間近に迫っていたこともあり甚大な地震が起こった。
ヘラクレスは自身が奥義を開眼したのだと感じつつも、弓を収めると白剣を引っ掴みイオラオスを肩に担いだ。素早く剣を地面に振るい、崖を切り崩してその場から離脱する。崖の下まで迫っていたヒュドラは瓦礫に下敷きにされてしまった。
「名付けるなら……差し詰め『
そう溢し、離れた地に着地してイオラオスを降ろし、したり顔で言った。
「どうだ、怪物狩りの参考になっただろう」
「なるかぁっ!?」
また脛を蹴られる。鎧の足甲もあるのだから、まるで何も感じないのだが、ヘラクレスは奇妙なくすぐったさを感じて含み笑った。
そうしてヘラクレスによるヒュドラ退治は無事に終わり――
「ん?」
ふと、ヘラクレスの腰の高さまで届く大きさの化け蟹を発見した。
「………」
『………』
「………」
ヘラクレスとイオラオスは黙り込み、化け蟹も神妙に沈黙している。開いたハサミを閉じたり開いたり。口から泡がぶくぶくと出ている。
そのつぶらな瞳が、押し潰され身動きのできなくなっているヒュドラの方へ向けられて、悲しそうに湿った気がした。
「………」
「………」
『………』
こほん、とヘラクレスは咳払いをする。
反応してこちらを見た化け蟹に、ヘラクレスは訊ねてみることにした。言葉が通じるかは分からないが。
「奴は、貴様の友人だったのか?」
『………』
そうだ、と頷いた気がする。気がするだけだ。はっきりとはしない。
しかしなんだろう、この謎の罪悪感は……。ヘラクレスは頭を下げて侘び、イオラオスを伴いその場を後にする。
化け蟹は無言でヒュドラの惨状を見詰め続け、自分の来援が遅すぎた故に友が死んだのだと自責の念に駆られ、彼は悲嘆の内に自害して果てた。
流石に哀れに思ったゼウスは、ヒュドラと化け蟹を星座に上げた。これがウミヘビ座と蟹座となった。
書いてて最後らへんで蟹の存在を思い出し、急遽書き足したらこうなった。
……どうしてこうなるまで放っておいたんだ!