ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
ヒュドラの神蛇が持つ、全生命体を侵す宇宙最強の猛毒。
有用性は計り知れない。不死の存在であろうと蝕む激毒は、ヘラクレスにとっても重大な切り札と成り得た。これをヒュドラの亡骸から採取しない手はなかったが、それでは量が多すぎる。扱い切れぬとは思わないが、神々は下手をするとヒュドラとヘラクレスの対決を見ていたかもしれない。故に採取しなかった。ヘラクレスはヒュドラの毒を持っていないと思わせる必要がある。
ヘラクレスが所持するヒュドラの猛毒は中庸の剣の柄に秘めた少量のみ。刀身に滴らせて振るえば二回しか使えないが、矢の鏃にのみ付着させて射つだけなら十二回使えるだろう。かなりの少量でも体内に送り込めれば効能の程度は同じ。狩りに移る前の下調べで、ヒュドラの痕跡から毒を入手していた場面さえ神に見られていなければいい。そして見られている可能性はグッと下がった。
なぜならヒュドラを狩ったヘラクレスが帰路につこうとすると、戦女神アテナが降臨して助言してきたのだ。『ヘラクレス、当世随一の英雄よ。あの蛇から毒の詰まった肝を抜き取ると良い。きっと貴様の助けになるだろう』と。
戦女神アテナといえば、オリンポスでも発言力と存在感の高い女神だ。それがそんなことを言いに来たということは、神々はヘラクレスが毒を手に入れた場面を見ていないと親切にも教えてくれたことになる。狂喜に顔が歪みそうなのを抑え、ヘラクレスはイオラオスを跪かせると自身は立ったままアテナに答えた。
「いと麗しく尊ぶべき、芸術と工芸を保護する文明の守護神よ。他の者ならばいざ知らず、この私にとって斯様な毒は不要なものだ」
『ほう?』
こんな賛辞など聞き飽きているだろうに、アテナは機嫌良さげに賛美を受け止めた。面白そうに呟く。戦女神としての私ではなく、知恵の女神としての私を賛美するかと。『英雄』というモノへの評価が低いヘラクレスだからこその陥穽だ。『英雄』なら戦女神としてのアテナを賛美し加護を欲するものなのである。
加護を請わぬでも、『英雄』なら戦女神を信奉するというのに。珍しい奴、とアテナは一層ヘラクレスへの関心を深めた。これほどの英雄だ、もはや後の世にこの偉丈夫を超える英雄は現れまい。ともすると人の身でありながら、神へと祀り上げられるやもしれぬとアテナをして思わせるほどなのである。
(半神とはいえ人の身でこの私を超える膂力……武勇
――アテナは世辞抜きに美しき女神だ。スッと通った鼻梁、司る芸術品のような白皙の美貌、豊かな金髪を馬の尾のように束ねて覗かせる、ハッとするほど細く絞めつけてやりたくなるうなじ。鋭利な双眸には深い知性と勇敢さが滲んでいる。
戦装束ではなくゆったりとした衣服を纏った女神は、ヘラクレスの言葉をさも意外そうに聞いていた。その内心に含むものがあるのを今は秘め、とりあえずは会話の流れに乗ってやる。
『――折角の戦利品なのにか。テュポーンの子にして神格を持ちし大蛇、宇宙最強の毒をただ消えるに任せると。如何なる思惑がある?』
「思惑など……武器に求められる格があるように、道具にも扱う者の格が求められる。過ぎたるものは持ち主をも滅ぼすだろう。そもこの私に毒などという小細工の種など不要のもの。総てこの身に積んだ研鑽と、我が身のみがあればいい。それだけで私は我が身に降り掛かる艱難辛苦の全てを乗り越えてみせよう」
『不死のモノを相手にして、同じことが言えるか? ヒュドラめは不死だ、その毒は厄介に過ぎる故に、封印され動けぬのを良いことに我が父ゼウスが星座にして無力化してしまったが、次も同じ事をするとは限らんぞ』
「愚問。
絶対の自負を覗かせた宣言に、アテナは上機嫌に頷いた。それは聞き様によっては、不死身のオリンポスの神々に対する不敵な宣告である。しかしそれが却ってアテナを刺激して満足させたのだ。
不遜な物言いである。しかし明確にオリンポスの神々に対して不敬を働く言葉でもない。なじればこじつけが過ぎると逆に批難されるだろう、ギリギリのラインを突いた言葉運びだ。これは、先程から気になっていたことを指摘しても、あっさりと躱されてしまうなと悟れてしまう。逆に小気味よく、アテナは薄い笑みを浮かべる。
ヘラクレスは極めて飛び抜けた、理想的な偉丈夫である。しかしそれでいて知恵にも秀で、武勇では並ぶ者がなく、勇敢で誇り高い。かといって狂気とは程遠く、戦で戦利品を略奪することに腐心する醜さもない。この人の血の混ざった弟は、アテナにとって絵に描いたように理想的な英雄だった。
試してやろう、少しでも慌ててしまえば失望するぞ――理不尽な期待は、神にとって当たり前のもの。しかし理不尽だからこそ報酬が高い。期待に応えた者には寛大で寛容なのがアテナである。アテナは言った。ヘラクレスに。
『なあ、ヘラクレス』
猫なで声に、ヘラクレスは微塵も顔色を変えない。控えている子供は顔を青褪めさせているのに。
『
虎のような笑みで問う。
アテナは女神だ。誰よりも気位は高い。神々の女王を向こうに回しても引かないほどに。しかし下の立場の人間を、いたずらに嬲る邪悪さはなかった。
これは礼節の欠如を糺すもの。神は人よりも高位の存在だ。例え神が、人が存在しなければ消えてしまうものだとしても、人が神に超越者であれと願われているのだから、それは揺るがない。
傅くべきだ。遜れと言っているのではない。高位の存在に不遜な様を見せて良い道理はない。神と人の関係だけではなく、人と人の関係でも同じこと。目上の者を態度の上だけでも敬わないのは上手くない。賢くない。ヘラクレスにそれが分からぬわけではないはすだ。分かった上で跪かないのなら、ネメアーとの戦いで勝利したことで、要らぬ誇りでも入ってしまったと判断するしかない。そうならば灸を据えてやるのが『英雄』を導く女神の務めだろう。
ヘラクレスはそんなアテナの思惑と迫力に、一寸たりとも動揺することはない。己の方が強い、そう驕っているのではなく。彼はただ単純に――極めて明快に、呆れるほど純粋に――
愚かである。愚昧である。忍従の時であると解っているはずだ。どんな無様も屈辱も呑み込み、嫌なことでもやってやるという気概が必要不可欠なのである。
しかしヘラクレスは……否、アルケイデスは。
言い逃れの余地があるなら、跪かない。阿らない。媚びない。流石に相手は選ぶが、幸いにもアテナは『自尊心と誇り高さの違いが解る』稀有な女神である。理屈と筋さえ通れば問題なくやり過ごせるだろう。
『驕ったか、ヘラクレス。貴様は神の御前にしていながら心得違いをしていないか?』
そう問いかける時点で試しているのだと理解できる。試す気がなく、咎める気なら、問答無用で罰を与えようとする。少なくともあの、例え善なる側面があろうと断固として赦さぬと誓った女神ならそうするはずだ。相手がヘラクレスともなれば確実に。
故にヘラクレスは言った。あくまで堂々と。右手で天を、左手で地を指さして。
「我が身は人であり、
『……ック、ハハハ……なるほど、
好きに解釈しろ。ただしその解釈は正しい。ヘラクレスは言葉にも態度にも、目や表情にも出さずに女神を見据える。
その威風堂々とした在り方に、真の誇り高さと意志の強さ、そして女神の慧眼に掠める底知れぬ激情を見て取ったアテナは愉快げに目を細めた。
『試すはずが試される。不敬であり処断すべきだが、形式的には問い掛け、あるいは諫言であるか。良いだろう気に入ったぞヘラクレス。その不遜を赦そう。相手が神であっても変えぬ物言いと姿勢も認めよう。ふふふ、久し振りに興じさせてくれた礼だ、何ぞ加護でもやろうではないか』
要らぬ。そう言ってやりたいが、断れば面倒なのがアテナの押しつけ。
が、歯牙にも掛けずに断ってやろうと思ったヘラクレスだが、不意に考えを改めた。
ささやかな嫌がらせ。あるいは神々に不和を投げ込む火種の元。ともすると保険にもなる一挙両得の計略を思いついたのだ。
ヘラクレスは一瞬考え込む素振りを見せながら、アテナについて考える。彼の女神は知恵も司る賢神だが、全知ではない。ならば問う。問える。
「加護を授かる前に、女神アテナに問いたい。答えてくれるか」
『ふむ? まあ物による。いいぞ、問いを投げるが良い』
「貴様は私が如何なる由縁によって禊の儀をおこなっているか、知っているか?」
『否だ。知っているのだろうが、私は全知ではない。見聞きしたこと以上のものは知り得ぬ。無論この私との知恵比べで勝るものなど、それこそ全知である我が父ぐらいなものだろうがな。……まあその知恵を発揮する機会はそうそうないわけだが……』
その答えで充分だ。加護を与えると言った手前、前言撤回は女神の気位からして有り得ない。そしてそれはヘラクレスの
「女神アテナよ。勿体無いながらも希う加護がある。与えてくれるだろうか」
『勿論だ。といっても私の権能に収まる範疇に限るがな』
「では――私に
その願いに、アテナは『ほう』と短く唸った。
流石に何か勘づくものがあるらしい。知恵の女神は伊達ではない。
『……意図を聞こう』
「言わぬが華となるものがあるように、聞かぬが華となるものもある。なに、いずれ貴様を愉しませる種になるだろう。無論見逃さなければだが」
『ック、なんだ貴様。私の笑いのツボでも抑えられてしまったか? ああ分かった、ノセられてやろう。面白いよ、ヘラクレス。貴様のように頭の回る英雄ばかりなら、私も退屈しないのだがな』
口元を抑えてクツクツと上品に笑い、アテナは心底愉快だと言わんばかりにヘラクレスの目の前まで歩み寄ってきた。
視線の高さから見下ろす英雄。見上げる女神。視線がぶつかろうと重さの変わらない瞳の色に、アテナはほぉ、と悩ましげに嘆息した。大した男ぶりだな? その笑みに、ヘラクレスは何も言わない。鎧を纏ったままだが、流石に兜は外している。そのヘラクレスの顔に手を添えて、膨大な神気を匂い立たせながら女神は権能を行使する。
己に流れ込む神威に嫌悪感を抱くヘラクレスだが、噛み殺す。強い精神力で嫌悪感を隠し抜く。アテナが離れた。そして言う。
『これで貴様はもう二度と狂わぬ。例え何者の干渉があろうとな。と言っても
「無論」
『では良い。よき狂気を、ヘラクレス。狂えぬ魂でどこまでも狂い抜け。狂わぬ狂気を飼いならす貴様ならば、その狂気を糧にさらなる飛躍を目指せよう』
アテナは天上に去っていく。その去り際に、アテナはふと思い出したように言った。
『――ああ、最後に予言をしてやろう。予言はアポロンの領分だが、知恵を巡らせれば未来を読み解くこともかなう』
女神は楽しげだ。ヘラクレスの受難を楽しんでいる。それは不幸を玩弄しているのではない、受難を乗り越えんとする英雄を愛しているのだ。
難儀な女神だ、二度と会いたくない。そう思うヘラクレスにアテナは彼女が知り得たものから推測できる未来を、予言としてヘラクレスに与えるのだった。
『貴様の次の勤めは、アルテミスの阿呆が絡むだろう。戦車を牽く神獣を五頭探し、四頭までは揃えたが、最後の一頭がどうしても捕まらぬと喚いておった。
フフン、もっと私を愉しませろよ、大英雄。褒美に私の名を使うことを、一度だけ赦してやろう。出来の良い弟というのは、なかなか可愛いものだからな』
アテナの御手
ランク・A
狂気を祓う女神の加護。これによって他者からの精神干渉を無効化するが、自身の裡から溢れる狂気は対象外。
ヘラクレスはその総ての始まりとなる逸話の知名度から、サーヴァントとして召喚された場合高い狂化適正を持つ。しかしこの加護によって狂化を受け付けず、バーサーカーで召喚されたとしても理性を保つ。狂化の恩恵は授かれないが、バーサーカーはヘラクレスのクラス適性としては燃費が良い方なので実質バーサーカークラスはマスターにとってメリットばかり。
なおこの女神の加護は歴史秘話的なもので後の世には伝わっていない。剪定事象として切り捨てられなかった場合の未来、逸話の認知度から狂化可能と判断した雪の城の一族さんはヘラクレスをバーサーカーで召喚する。その結果、燃費の良い(当社比)ヘラクレスを喚び出すミラクルを果たす。それが良いことか悪いことかは別として。