ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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5.2 軍神来たりて斯く語りき (下)

 

 

 

 

 何時もと違うと判断できるほど長い付き合いではない。だがケリュネイアの脚は明らかに軽やかだった。

 

「どうしたケリュネイア、いやに機嫌が良いな」

 

 毛並みの良い双角の付け根を撫でてやると、牝鹿は上機嫌に嘶き天を仰ぎ青銅の蹄で地を蹴った。

 言わんとすることをなんとなく察したヘラクレスは苦笑する。なるほど、アルテミス嫌いはアポロン嫌いに通ずるか、と。

 ヘラクレスはアルテミスよりもアポロンの方が余程に嫌悪に値した。というより概ね総てのオリンポスの男神は侮蔑している。下半身事情の宜しくない連中が勢揃いで、女性に対しての扱いが目に余るものばかりだからだ。例外は今のところ、ヘパイストスぐらいか……。

 風の噂に伝え聞く限りでも、男神連中の素行の悪さは目を覆うほどで、中でも生理的に受け付けないと感じてしまったアポロンへの印象は最低値である。これもある意味で例外だろう。ヘラクレスをして自制し切るのは今後も難儀すると確信している。

 

 知性あるモノというのは不思議なもので、嫌っているものに共通事項があるとグッと共感しやすく感じてしまうものだ。主従揃って月と太陽を毛嫌いしているともなれば、些か可笑しさを覚えてしまいもする。

 揃って含み笑いを溢していると、馬車の手綱を握っているイオラオスが呆れたように言ってきた。

 

「なに笑ってんだよ。もう巨人が出るっていう野まで来てるんだぞ。気を緩めすぎて怪我しましたってのだけはやめてくれよな。そうなったら情けないったらないぞ」

「案ずるな。相手が誰であろうとも、そうそう遅れを取りはしない」

 

 慢心のつもりはなかった。優れた師に学び、経験を積んで強敵と戦い、類稀な装備と友を得た。今のヘラクレスは根拠のある自負を持ち、己の力量を信じて疑っていない。

 嘯いた伯父の台詞に、イオラオスは反感を懐いたわけではない。実際彼はヘラクレスが誰かに遅れを取る光景が全く想像できなかった。

 だからこそなのか。イオラオスは少年らしい生意気さで反駁する。

 

「そういうの、油断っていうんじゃないのか。……ま、伯父上はそれぐらいで丁度良いのかもしれないけどさ」

「む……」

 

 思わぬ指摘に虚を突かれる。ヘラクレスは知らず知らずの内に気が大きくなりすぎていることを自覚した。

 とみに想像の中でとはいえ太陽を射落とし足蹴にして溜飲を下ろしていたところでもある。不必要に大胆で不注意な言動を取りかねない要素を持ちつつあったのだ。そうと気づいたヘラクレスは気を引き締め、甥の金言を戒めとする。

 

「忠告に感謝しよう、イオラオス。どうやら驕りつつあったらしい。また気がつくことがあれば遠慮せず諌めてくれ」

「えっ……?」

 

 フゥ、と細く鋭い呼気を吐く。ケリュネイアの手綱を振り意志を伝えると、軽やかに地面を蹴って馬車の前に躍り出た。

 甥は伯父の様子に暫し呆気にとられていたが、嘆息して頭を振ると後ろに手を回し、封のされた壺を掴んで伯父に投げる。振り向かずに掴み取ったヘラクレスの手の中で、ちゃぷ、と水の音がする。気遣いなのか、単なる気の紛らわしか。ともあれ一口飲んで封をし直し――気配を察知する。無造作に水壺をイオラオスに投げ返すと片手を上げて馬車を停止させた。

 

 前方に大きな岩がある。ヘラクレスはイオラオスを待たせたままケリュネイアを進ませて岩の近くまで来た。

 

 すると五メートルはある大きな人影が飛び出してくる。風を切る不細工な質量の音源を、指示を受けるまでもなくケリュネイアは飛び退いて躱した。

 空を切り地面を叩いた棍棒が地鳴りをさせ、砂塵が舞う。ヘラクレスは粗末な軍旗を体に巻き付けただけの格好の巨人を視た。大きかった。……大きいだけとも言えるが。

 突然の襲撃にも動揺はない。上手く気配を隠していたが、いるだろうとは悟っていたのだ。兜の下にある表情にさざ波一つ立てず誰何する。

 

「巨人キュクノスだな」

「お……? おでをしってんのか……?」

 

 巨人は殺意を持って棍棒を振るい、襲撃した当人とは思えない無垢な表情で応じてくる。ヘラクレスの鎧と英雄本人、ケリュネイアから無意識に放たれている力の格ともいえるものを感じてもいないらしい。仮にも戦いの場に出てきた神の子とも思えない、鈍感で純朴な顔にヘラクレスは気が重くなってしまうのを自覚する。

 念の為、切り刻むような目を巨人の体に走らせた。……大きな体はそれなりに筋肉が付いているが、そこまででもなく。感じる力の密度、波動のようなものは脅威としては感じない。オリンポスでも一、二を争う美貌の神の血を引いているからか、あどけない顔は意外なほど整っていた。

 

 それだけだ。本当にそれだけ。物悲しい気持ちになる。邪気がないのだ。キュクノスの性根を感じたヘラクレスは天を仰ぎたくなる。これは――幼子だ。

 肉体年齢も、実年齢もそうではないかもしれない。しかし中身は子供なのである。手に掛けることが確定している故に遣る瀬ない気持ちにさせられた。

 

 そんなヘラクレスの様子など、気にするものでもないのかキュクノスは言った。

 

「ま、かんけいねえな。おではいまからおまえらころして、おまえらのムクロでりっぱな(トト)のヤシロをつくる。ここらだとトトはあなどられ、きらわれ、うとまれてる。トトがそんなふうなのはきにいらねえかんな」

「……故郷に帰れ。今ならば腕の一本で見逃してやろう」

 

 苦しいながらも一応は生き延びられる道を示す。殺さなくてはならない、だがそうする必要があるのはキュクノスがアポロンの領域で軍神の社を作ろうとしているからだ。それを取りやめて故郷に帰るのであれば、見逃せる。

 無論のことキュクノスの犯した罪は赦されるべきではない。なんらかの償いは必要で……それを腕の一本で済ませてやらうというのが、ヘラクレスの精一杯の慈悲だった。

 

 だがキュクノスは、きょとんとしていた。

 

「……? おまえ……おでのこと、ばかにしてるな?」

「………」

「おまえらは、しぬ。おでがころす。トトのヤシロのもとにしてやるんだ」

「……駄目か。許せ、弱き者。罪も知らぬ痴愚の巨人。――せめて一撃は受けてやろう」

 

 背に負う白剣を抜き取る。獅子の遠吠えが耳鳴りのように聞こえた気がした。獲物を狩るのだと……これは闘争ではないと告げるかの如く。

 やはり、キュクノスの反応は鈍い。しかしゆっくりとヘラクレスの言葉の意味を咀嚼し理解すると、あからさまに不快そうに吼えた。

 

「おまえ……おでのこと、ばかにしたな。ちびのくせに……ばかにすんなぁっ!」

 

 巨大な体躯を活かして一気に飛び掛かってくる。力任せに振り下ろされてくる棍棒を一瞥もせず、ヘラクレスはケリュネイアに一応声を掛けた。堪えろと。

 白剣を掲げ、棍棒を受け止める。衝撃が駆け抜けケリュネイアの足元が陥没した。ヘラクレスの腕はぴくりとも動かず、一切の痛痒を覚えていない。軽いなと嘆くだけだ。ケリュネイアもまた狩猟の女神から逃げ切れる脚力の持ち主、もろに受けた衝撃にも微動だにせず、それを確認するとヘラクレスは無造作に白剣を跳ね上げた。

 へっ、と間の抜けた声がする。棍棒を弾き飛ばされ、万歳する形で両手を上方にカチ上げられた巨人の前で神獣の牝鹿が回転していた。後ろ足での蹴りがキュクノスに炸裂する。吐瀉を撒き散らして吹き飛んだキュクノスは、地面を何度も転がって、なんとか立ち上がろうとするも体に力が入らない。

 

 山なりに擲たれた白剣が、キュクノスの胸の真ん中を穿ち、心臓を破壊して地面に巨人を縫い止めたのだ。キュクノスは訳が分からないといった表情で事切れる。

 

「あ、呆気ない……」

 

 一部始終を見ていたイオラオスが呟いた。

 呆気なくて当然だろう。戦士としての力量、膂力、技量、気概……総ての面に於いてキュクノスはヘラクレスの影さえ踏めない弱者だったのだ。

 戦いなど成立しない。ただの誅戮である。物憂い気分だ。こんなに気分が良くないのはやはり、相手が弱く精神が幼かったからだろう。

 

「来い」

 

 短く命じると、キュクノスの骸から白剣がひとりでに抜け、真っ直ぐにヘラクレスの手に飛来した。それを掴み取り血振りをする。血痕が地面を汚した。

 

 問題は此処からだ。

 

 キュクノスは軍神アレスの子である。それが殺められた。このヘラクレスに。子煩悩の気があるアレスなら怒り狂って襲い掛かってきても不思議ではない。

 例えキュクノスがアレスに愛されていなかったとしても、キュクノスはアレスの社を作ろうとしていた。それを阻止したのだ、侮辱されたと受け取って怒り心頭に発していても驚きはしないだろう。

 

 白剣を背中の留め具に固定し、ケリュネイアから飛び降りる。どうかしたのかと問いたげな牝鹿をイオラオスの方に向かわせた。

 何かあったのかと不可解そうなケリュネイアだったが、不意にケリュネイアの全身の毛が逆立つ。びくりとして、ケリュネイアは慌てて離れていった。

 随分と早かったなと驚く。そして――爆発的な神威の膨張を肌に感じた。

 光った、と思った瞬間である。城壁が倒壊したかのような爆音が轟く。膨大な神性が天上より降臨し、大きすぎる故にその形に収まらぬはずの人型を象っていった。

 

 血の色の赤い光……彼の神が司る火星の燦めき。夥しい神性の暴力が顕現する。

 

 光が収まると、そこには神が立っていた。

 

 人間を遥かに超えた美貌と、邪魔にならぬように乱雑に整えられた金の髪。纏うのは青銅の鎧であり、身の丈以上の巨大な神槍を携えている。常に従えている属神はおらず戦車もないが、あれはまさしく軍神そのものであった。

 軍神アレスはキュクノスの大きな骸の傍に忽然と出現し、その骸に手を触れていた。そして密やかに呟く。『遅きに逸したか』と。その噂で聞くのとは正反対な落ち着いた表情である。軍神は己の子の骸から目を離し、ヘラクレスに視線を向けた。

 

 その目を見て理解する。軍神は冷静ではなかった。その瞳の中に狂気じみた憤怒の炎が燃え盛っている。殺意に漲り、閉じた口の中で歯軋りしている。表情だけなら冷静なもの故に、却ってその怒りの総量が深刻なものであるのが洞察力の鋭いものからすると明々白々であった。

 体を動かさず、構えもせず、密かに戦闘態勢を整えておく。場は緊迫感に張り詰め、英雄の意識は戦闘のそれへと切り替わりつつある。そんなヘラクレスの警戒など歯牙にも掛けず、軍神は竜の顎のように重々しく口を開いた。

 

『貴様、ヘラクレスだな』

「……如何にもその通りだ。御身は軍神アレスだな」

『チッ』

 

 誰何には応えず、アレスは露骨に舌打ちした。分かりきったことを訊くなと。

 

 一瞥が向けられたイオラオスとケリュネイアが、緊張の余り身を凝固させる。彼らは神という存在に怒気と狂気、殺気を向けられたことがないのだ。

 アレスは別段、イオラオスらを害する気はない。目の前の英雄に総てを向けている。なのに恐ろしい。軍神の放つ殺気に一帯は澱み、酸素が鉛のように重くなって、呼吸が困難なものになったかのようだ。

 ヘラクレスだけは平然としている。威圧感に警戒心を高めてはいるが、それだけだ。ヘラクレスはアレスと事を構える気はない。どう交渉したものかと言葉を紡ぎかける。それに先んじて、アレスが言った。ぼやくような語調だった。

 

『戦いの形式は取ったらしいな。俺のガキと』

「………」

『見りゃあ解る。貴様の剣と、アレの粗末なガラクタが触れ、原型を留めてんのはある種の僥倖だ。そんで以て蹄の跡と、胸の風穴で経過も瞭然。すぐに仕留めてくれたお蔭で苦しんではいねえみてえだな。そこだけは、認めてやる。本来戦いの形も成り立たねえってのに、俺のガキを戦士として死なせてくれたんだ。認めるしかあるめえよ』

「……私を罰さんと、鉾を向けはしないのか?」

 

 曲がりなりにも軍神、戦の跡から情報を読み取るなど、破壊と狂乱、侵略の蛮神でもおこなえるものらしい。

 忌々しげに認めてやると吐き捨てた軍神は、英雄の懐疑的な問い掛けに眉を顰め、バツが悪そうに視線を逸らすと絞り出すようにして溢す。

 

『馬鹿が……んな真似をするものか。貴様がアポロンの神殿に矢を射かけた噂はオリンポスに鳴り響いた。神託への抗議の証だってんだから笑わせてもらったぞ。そん時の奴の顔を思い浮かべたら、腹がよじれて死ぬんじゃねえかってくらい笑ってやった。だが噂の詳細を聞いたら笑いも引っ込んじまったよ。アポロンのクソ野郎が俺のガキを殺すように刺客を差し向けたって聞いて、呑気に笑ってなんぞいられるものか』

「………」

『しかも刺客はヘラクレスだっていうじゃねえか。こんな不出来なクソガキが敵う相手じゃあない。ぶっ飛んで来たんだが……間に合わなかった。ああ、率直に言って俺は貴様を殺してやりてえ。だが今貴様に死なれるのは困る。何せ来たるオリンポスとギガースの戦で、貴様が切り札の役を担うってんだからな』

「――――!?」

 

 なんのけなしに、あっさりと、今のヘラクレスには伏せられている機密をバラしたアレスに驚愕した。まさかそこまで愚かだったかと。こんなところでヘラクレスがギガースについて()()()()()と神々に()()()()()のは困る事情もある。

 愚かさも極まれば反転した成果を叩きつけられるものなのか。よもやそこまでアレスは考えなしの愚物だったのか……。苛立ちを覚え怒りによって内心そう思いかけるも、決めつけるのは早計であると気付かされる。

 

 晴天に雷鳴が轟いた。

 

 そこからのアレスの反応が、これまた意外なものだったのだ。雷はゼウスの怒りを顕している。勝手に機密を漏らした軍神に激怒しているのだ。

 例え今は伝える気がなくとも、いずれ自分で報せるつもりだったのか……明確に感じられる怒りの波動に、アレスは萎縮するものかと思われた。だが、アレスはこともあろうか雷鳴を迸らせる天に怒鳴り返したのだ。

 

『何時かは知らせなきゃなんねぇことだろうが! 偉大なる神々の王よ、まさか奴に何も知らさず、いきなり参戦を命じる気だったのか!? 準備が出来ておらず満足に戦えませんでした、なんて言われたらお仕舞になっちまうんだぞ! ガイアの差し向ける連中とはお遊びじゃ済まない、他とは違う本当の戦になる。負けたら終わりでやり直しも何も利かねえんだ、なら最低限の情報伝達ぐらいはしてねぇとマズイだろ!?』

 

 正論、だった。軍事的な観点から見て、ぐうの音も出ない真っ当な指摘だった。これがアテナの口から出た言葉ならすんなり納得もいったが、怒号を発したのはアレスだ。

 ゼウスすら唖然としたのか、雷鳴が消える。アレスは暫し空を睨んでいたが、やにわに視線を切った。居た堪れなくなったゼウスが去ったらしい。アレスは瞠目するヘラクレスの方を見ると、犬歯を剥き出しにして野卑な笑みを見せた。

 平坦に鎮められた殺意は噴火寸前の火山を彷彿とさせられる。煮え滾る殺意を隠しもせず、軍神はその三白眼で英雄を睨む。そして嗤い、言った。

 

『――ってのは、建前だ』

「………?」

 

 建前とはどういうことか。眉を顰めると、流石に戦闘にならないなら兜を被り顔を隠したままなのは無礼であると判断して素顔を晒す。

 ヘラクレスの精悍な顔を見ながら、アレスは本音を明かした。

 

『俺は理屈じゃ止まらねえよ。んな理性的に振る舞えるんなら、破壊と狂乱なんぞ司れるものか。俺が貴様に報いを与えねえのは、アポロンのクソ野郎の神殿に矢を射掛け、抗議したっつう証があるからだ。アポロンのクソ野郎の鼻を明かした功績に報い、殺さないでいてやるだけなんだよ、ヘラクレス』

「……なるほど」

 

 神託に抗議してまで不服を申し立てるなど前代未聞。しかもその相手は軍神が常日頃から気に入らないと思っている太陽神であり、故に愉快で堪らなかった。

 我が子を殺めるのに神に抗議した証があり、ある程度は溜飲が下がっていた。それがあったから建前を出せる程度には冷静でいられた。でなければ殺していたとアレスは暗に言っている。納得して頷いたヘラクレスは思った。これからは定期的にアポロンの神殿に矢を射掛けてやろうかと。

 流石にやらないが、軍神の殺意を押し止める効果がある点では太陽神の加護を得られたとも言えないこともないのかもしれない。そんな加護なら是非ほしいと思わなくはなかった。衝動的なおこないだったが、存外役に立ってヘラクレスは矢を射かけてよかったと内心アポロンに感謝した。次も機会が有ればお世話になるぞと。

 

 冗談である。陰湿で執拗な気質も併せ持つヘラクレスならば、限りなく実行の可能性が高い冗談だが。

 

 だがヘラクレスは思う。我が子への情愛の深さはよく分かった。加えて真正の間抜けでもないことも。だからこそ分からぬことがある。

 軽侮に値する愚かな神だと、内心見下げ果てていたわけだが……彼の怒りには、軍神が困惑しかねないほど深く共感してしまった。我が子を殺されればヘラクレスも平静ではいられない。己の手で殺すように仕向けられたともなれば尚更に。しかし、だからこそだ。子を持つ親として共感してしまったからこそ問わねばなるまい。

 ヘラクレスは踵を返して帰ろうとするアレスを呼び止める。そして問いを投げた。何の意図もない、駆け引きも計算もない、親としての問い。同じ親であるアレスがどう答えるかを知りたかった。他の神では見え透いた、しかしアレスだけは違う答えを出す予感がして。

 

「軍神よ、私の問いを聞いてほしい」

『……あ? 問いを投げるか、神たるこの俺に向けて』

「御身にとっては愚問であるのかもしれん。しかし問い掛けずにはいられなかった。例え御身の不興を買ったとしても」

『は、その覚悟はあるか。ならいい、この俺に問うことを許す。事と次第によっては答えてやるのも吝かではない』

「……軍神アレス。貴様はキュクノスのおこないを知っていたな。己の社を作らんとする我が子の健気さを。事もあろうに反目し合うことの多い太陽神の領域で……。ならば太陽神が刺客を差し向けること自体は予測できたはず。なにゆえにキュクノスの軽挙を諌め故郷に帰らせなかった? キュクノスが通行人を無数に殺めているのを、なぜ止めなかった」

『……本当に愚問だったか』

 

 アレスは鼻を鳴らす。足を止めたのは間違いだったとでも言いたげに、やれやれと首を左右に振ってみせる。

 

『親としての俺に訊いたな?』

「………」

『だが、俺は神だ。親である前に神で、神である前に神々の王と女王の子だ。ならば俺が第一とするのは神としての神権で、それ以外は総て雑事とせねばならん。比べるのは愚かしいことだが、人間が言う王とやらもそうでなければならんものだろ』

「それは、そうだ」

 

 子であるからと、親であるからと、役職に就いている者が私情で公務に支障をきたすなど論外である。理解できる話であり、理解できる話をするアレスの見方がヘラクレスの中で変容しつつあった。

 その身の起こした醜聞や逸話からは、とても想像できないほど話の解る神であると。印象としては戦女神に似ている。しかし独身を貫くアテナとは違い同性で、同じ親で、だからこそ軍神の方が話しやすい気がする。少なくとも気兼ねがない。軍神はヘラクレスの、狭量ならば腹を立てるだろう態度をまるで気にしていないのだ。

 馬鹿だから気にならないのか、それとも度量が大きいから気にしていないのか。普通なら前者であると断じられる蛮神であるが、もしかすると後者かもしれないとヘラクレスは思いつつある。

 

 馬鹿だったら、こうも筋道を立てて話せはしない。狭量だったらわざわざこうして同じ地平に立ち話をしてはくれない。アポロンのように天界から語りかけるのみだ。

 思えば――ギリシア世界からすると、蛮族の地であるとされる国々では、このアレスこそが誰よりも厚く信仰されている。それこそゼウス以上に。アレスを信仰するのは、野蛮で血と酒を好むような蛮族とはいえ、ヘラクレスからするとギリシア世界も充分に野蛮だ。色眼鏡を抜きにするとアレスとは案外、賢神……善神の類である気がする。

 

 次第に己を見るヘラクレスの目が変わりつつあるのに気づいているのか、いないのか……後に英雄神とも呼ばれる偉大なる軍神(マルス)の未熟な時代、まだ覚醒していないアレスは構わずに続けた。

 

『火星を司りし猛き軍神とはこの俺のことだ。破壊と狂乱、侵略の神である俺は戦の暗黒面を体現する責務がある。トラキアをはじめとする俺の膝元で、斯く在れかしと祈られ、ギリシア世界に於いてはあのいけ好かねえアテナのクソと正反対の闇として望まれている。だがな、戦とはどれだけ綺麗に飾り立てようともクソを煮詰めたクソだ。あるのは略奪、殺戮、そして死。蛾を誘う光なんざ虚栄の塊でしかねえ』

「………」

『だからこその俺よ。知っているか? ギリシア世界で最も神であるこの俺の在り方を望んでいるのは、何時だって弱い女子供だ。奪われる側の弱者だ。戦を疎み、嫌い、憎み、そこに栄光と名誉と富を求めるあらゆる者を貶めてやりたいと望んでやがる。アテナはクソだ、そんな汚ねぇもんは見ようとも触ろうともしねえ。小奇麗な英雄とやらを贔屓するしか興味がねえ。自分以外の殆どを見下し、処女でいるのは自分に見合う男がいねえからだってお高くとまってやがる。英雄を贔屓すんのは、謂わば男漁りみてえなもんだ。いつかテメェに見合う男が出てくるって夢見てやがる。それ以外は見てねえのよ。なんせ自分の男を探すのに夢中なんだからな。女神に見合う人間の男なんざぁ、おしなべて人間としてブッ壊れてるってのを知らねえ。見たくないもんは見ねえ、触りたくないもんは触らねえ、女だから潔癖で、弱者は視るに値しないと本気で思ってやがる。なら――俺が掬い上げてやるしかねえだろうがよ。戦に関わる奴らは一切の例外なくクソだと示すために、俺が体現するしかねえだろうが。戦の暗黒面とやらが戦の正体だと訴え続ける必要がある。戦を司る二柱の片割れである俺が、愚かで醜く、下手やらかすばかりの間抜けだと見せ続けてやらねえとならねえのよ! ――人間総てが()()()()()、戦争はクソだと認めるまで。

 

 ――俺の子が血と怨嗟を振り撒き、愚かで野蛮な俺の社を作るってんなら大歓迎だ! それは俺の在り方を肯定し、俺の鮮血みてえに不気味な火星の神としての勤めを助ける最高の親孝行なんだからな! しかもガキは俺を慕ってくれやがる。なら神としても親としても、せめてその死や不幸に激怒してやらねえでどうするってんだッ!』

 

 長年溜め込んでいたからか。アレスは一旦吐き出すと止まらないまま一気に言った。

 沈黙が流れる。英雄は静かに軍神を見ていた。このギリシア世界では誰よりも異端である意味誰よりも傲慢な、しかし誰よりも情が厚く真摯な男は胸を打たれていた。

 バツが悪そうに軍神は目を逸らす。母から疎まれ、他の神々に侮られ、父からすらも呆れられる、報われていない神。その真意を図らずも、親としての質問で暴いてしまった男はただ、偉大な軍神の青い信念に感じ入っていた。その視線が堪らず、軍神は不機嫌そうに吐き捨てる。

 

『……今のは忘れろ。神命だ、拒否は赦さん。俺はこれからも無様に在る。人が相手であってもわざと負けもしよう、神々の中で醜態を晒しもしよう。だがこのことを口外すれば、一切の慈悲なく掛け値なし、正真正銘の本気で貴様を殺す』

「承った。――偉大なる軍神よ」

『……はあ? ……貴様、やはり変わってやがるな。ネメアの獅子を相手に殴り合う奴は頭がイカれてやがるとは思っていたが、本物だな。……だがまあ、あれは……あれだけはいい戦だった』

 

 ぶっきらぼうに言い捨てて、今度こそ踵を返したアレスは己の子の骸に歩み寄る。

 キュクノスの死骸に手を触れ、神気を込めて魔力を放った。粉微塵に爆散した骸は消え、その魂が冥府にいく。『ハデス、ガキを頼む』そう口が動いた気がする。

 軍神は戦死者を冥府の神ハデスに送り届ける……死者を冥府の住人にして、ハデスの国を大きくするためだ……と、言われているが。アレスの其れは、善き神に対して死を遂げた者を、平等に住める場所に案内しているだけのように見えた。

 死は誰にでも平等だ。そしてハデスは公平で平等な裁きを下す。その繋がりにヘラクレスは溢した。それは、彼の中にある確信であった。

 

「それでも人間は……未来永劫に争いを止められぬだろう」

『………』

「導く者が必要だ。そしてそれは、御身のような神にしかできるものではない」

『………阿呆。誰がそんな面倒なことなんざやるものかよ』

 

 唾を吐き、アレスは天上に戻る。光の粒子となって消えていくアレスは、しかし呟いた。

 それは、ヘラクレスにある行動を決意させる呟きだった。

 

『だが……俺は神だ。人間がそう望むってんなら……やってやらんでもないのかもな』

 

 ヘラクレスは神の消えていった空を見上げる。夕焼けに染まる空は火星の色に見え、誰かが導かねば人は変わらぬというなら、その役はあの()()だけがこなせるだろう。

 

 決意を懐く。誰よりも声望を高め、英雄として祀られる男に成ろうと。はじめて自らの意志で英雄への道を志す。

 そして誰も並ぶ者のない大英雄と成り、言うのだ。己が信仰せし第一位の神は軍神アレスであると。人の信仰を、アレスに集めようと。

 余計なお世話かもしれない。しかし、頂点に君臨する神がいるとすれば、それはあの神しかいないと……この身が真実、心から仕えられる神がいるとすれば、軍神アレスしかいないと思った。親として、人として、ヘラクレスはそう思ったのだ。

 

 異端の英雄は異端の思想を持つ神に惹かれた。これはただ、それだけのことであり。このギリシア神話世界に、覚醒するはずのない軍神()()()が誕生する可能性を生み出した邂逅であった。

 

 今はまだ、軍神の真の姿を誰も知らない。今はまだ――ヘラの栄光と呼ばれる英雄の立志を、本当の意味で理解している者はいなかった。

 故にまだ、彼はヘラクレスと呼ばれる。剪定されない未来に於いてもそう呼ばれる。だが彼の英雄を真に理解する者のみが、彼の真の名はヘラの栄光ではなく、マルスの栄光(アルケイデス)と――そう、呼ぶのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 


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