ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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前話あらすじ

言質を取るため集団心理と苛めっ子的陰湿なやり口を駆使し、現日倫理を利用するギリシア人の鏡〈ヘラクレス


今回と次回はコミュコミュのおはなし。





6.1 アルゴノーツでの一時 (上)

 

 

 

「綱は放したな? よぉし桟橋より離れェ、帆ォ張れェ――! 錨上げェ――ッ! 我が船の同胞(はらから)達よ(かい)を持て、左舷と右舷に十人ずつ別れ、力一杯に漕ぎ出すんだ! 出港ォ――!」

 

 イオルコスのパガサイ湾より船出を迎えた、ギリシア世界を代表する英雄達(アルゴノーツ)。意気軒昂としたイアソンの檄に応え、威勢のいい男達の返答が返る。

 船長なんだからと宣ったイアソンは、一度として櫂を握る気はないらしい。それに文句はなかった。船長だからというだけでなくイアソンはどう見ても非力で、アルゴノーツの中で最も弱いのではないだろうか。腕力も、武力も。故に端から戦力外と見做され期待されていない。

 逆の意味でヘラクレスも同様だった。ヘラクレスの場合、最初こそ櫂を握ったのだが力が強すぎ、どんなに手加減しても周りに合わせられなかったのだ。力が強すぎて船首が傾くのだから、漕ぎ手として失格であり船に乗っているだけでいいと端に追いやられてしまっている。

 尤も力加減に関しても一級以上であるヘラクレスが周りに合わせられなかったのは、故意だ。櫂を漕ぐのが面倒臭かったからではなく二つの懸念事項があった故に、わざと櫂の漕ぎ手から外されるように仕向けたのである。

 漕ぎ手からヘラクレスが外れても、アルゴノーツに反発はない。ヘラクレスがいる、それだけであらゆる困難を乗り越えるのに不安がなくなるのだ。無論アルゴノーツにヘラクレスに頼り切る軟弱者は一人もいない。いないが、やはり絶対強者の存在は、どうしても安心感に繋がるものなのである。

 

 ヘラクレスが懐く一つの懸念事項はケリュネイアだ。神格を持つ獣で、他者から見たら凄まじく価値のある宝なのだ。その毛皮を欲し傷つけようとする者が現れるかもしれない。だからできる限り自由な時間を作り、傍で見張っておこうと考えたわけである。

 そしてもう一つ。アルゴノーツの中に、イオラオスを性的な目で見る男がいた……。伯父として見過ごせない懸念材料である。断じてイオラオスの後ろの純潔を散らせるわけにはいかない。自分の旅の道連れが処女ではない……それは色んな意味で耐え難い、ある意味精神的な死活問題だった。間違ってもイオラオスにその手の趣味に目覚めては欲しくなかった。被保護者の身の安全を守る義務があると自認している。

 

 それにしてもこのアルゴー号とやらは、今まで見たことがないほど快速の船である。帆で風に乗り、櫂を漕ぎ、波を切って進む様は気持ちがよく、当たる潮風が心地よい。ヘラクレスは海上を往くアルゴー号と、その帆を操るイアソンに感心していた。己も帆の操術には通じているが、イアソンには勝てる気がしない。帆を操ることに関しては、イアソンはギリシア一の天才だろう。

 

 何もしないで漫然と佇むのは時間が勿体無い。誰かに話し掛けてみようか、とヘラクレスは考えてみる。今まで人間の友人が出来た試しはなかったが、此処でならできるのではないかという仄かな期待が芽生えていた。

 かといってケリュネイアという、人外の友を疎かにしたのでは不義理だろう。まずはケリュネイアの機嫌でも取っておくかと、ヘラクレスは船内の倉庫の一つに居場所を造られた、牝鹿の部屋に向かうことにする。

 

「む、貴様は……」

 

 藁を敷き簡易な獣の寝台となったそこに先客が居た。すわ不届き者かと殺気を放とうとして、しかし意外な光景が飛び込んできたことで殺気を霧散させる。

 そこには深緑の衣を纏った女狩人が居たのだ。四肢を畳んで座し寛いでいるケリュネイアの隣に座って、ケリュネイアに何かを語り掛けている。何が気に入らないのか、ケリュネイアは女狩人の髪を噛んで引っ張り「い、いたっ、痛い……や、やめてくれ……」と殆ど泣かせているではないか。

 だがまあ女狩人を苛めてはいるが、傍にいるのを嫌がってはいない。自分より弱いと見て苛めているのか、はたまた気に入らないことを言われて抗議しているのか……嘆息して声を掛ける。

 

「何をしている?」

「――ヘラクレスっ」

 

 跳ね起きて身構えようとする女狩人。しかし髪を噛まれたままだったからか、そちらに頭を持っていかれて体勢を崩した。

 眉を落とし弱った顔をしてケリュネイアを見るも、素知らぬ顔で牝鹿は女狩人の髪をモシャモシャと咀嚼しはじめる。やめてくれー! そう悲鳴を上げるのは、一応女の意識があるからなのだろう。再度嘆息した。

 

「やめてやれ」

(………)

 

 ヘラクレスが言うと、パッと離してやったケリュネイアが、感謝するんだなとでも言いたげに鼻を鳴らした。唾液で粘ついた髪を梳きながら、女狩人は涙目でヘラクレスを睨む。

 

「な、なんの用だ、ヘラクレス」

「………」

「……そんな目で私を見るなっ」

「ハァ……なんの用か、だったか。そのケリュネイアは私の友だ。友の許を訪ねた、そこに貴様が居た。それだけのことだ」

「む……そうか……」

「それより貴様は何者だ? そちらだけが私の名を知っていたのではやり辛い。せめて名乗れ」

「……私はアタランテ。女神アルテミス様を信奉するアルカディアの狩人だ」

「……」

 

 アルテミスの信奉者。その名乗りを聞いたヘラクレスは、ケリュネイアの当たりの強さの理由を察した。

 彼女の何処かから因縁の女神の臭いを感じ取り、女神嫌いが発作的に現れ、しかしアタランテ個人は気に入ったので傍にいることを赦した。だがアルテミスの気配のせいで苛めたくなったからあんな真似をしていたのだろう。ヘラクレスとしてはアルテミスは嫌いではない。単に二度と関わり合いになりたくないと思っているだけで……。

 アタランテは情けない顔でケリュネイアを横目に見た。それに、彼女は何用でケリュネイアの所に来たのか気に掛かる。害意があれば基本臆病なケリュネイアのこと、ヘラクレスに助けを求めるべく鳴き声を発するか、自分の所に逃げ込んでくるはず。獣はそうしたものに敏感だ。どれほど優れた狩人でも、不意打ちを仕掛けた上でさえ仕留めるのは困難である。

 

「同じ問いを返そう。アタランテ、貴様の方こそ私の友に何用だ?」

「それは……」

「答えられんといえば、なんらかの疚しい理由があったものと判断し、相応の対応をしなければならん。潔く正直に答えた方が賢明だと忠告しておこう」

「………」

 

 アタランテは答えたくなさそうだ。しかしヘラクレスが徐々に威圧感を発し始めると観念したのか、やや緊張した面持ちで口を開く。

 

「……この仔は、アルテミス様が欲され、汝に捕獲を依頼した牝鹿だと聞いている」

「そうだ」

「そして汝は見事、ケリュネイアの牝鹿を捕らえた。だが汝は自身の誓約に従い戦女神を通し、その女神よりこの仔を授けられたらしいな」

「ああ。それがどうした?」

 

 先を促すと言いづらそうに口をモゴモゴさせる。ヘラクレスに苦手意識がある故か、あるいは既にケリュネイアに拒絶されでもしたのか……。

 ともあれ此処で口を噤むのも情けない。アタランテは渋々白状した。

 

「……本来はアルテミス様の聖獣となられるはずだったんだ。なら幾ら戦女神よりヘラクレスの許に身を寄せるよう取り計らわれたとしても、アルテミス様の許へ向かうべきではないのか――と、そう説得しに来たんだ」

「………」

「な、なんだ……睨むな……すこしこわい……」

 

 悪気はないのだろう。しかし仄かに滲んだ怒気にアタランテは怯んでしまっていた。

 か弱い婦女子を怯えさせるのも悪い。なんとか怒りを抑え、ヘラクレスは固い声で問い掛ける。

 

「貴様の論理で言えば、確かに月女神へケリュネイアを捧げた方がいいのかもしれん」

「む、分かってくれるか」

「だが曲がりなりにも戦女神より授かったのだ、それを無碍にしては要らぬ怒りを買うことになろう。それに……貴様は私とケリュネイアを引き裂く気か? 先も言ったが私とケリュネイアは友誼を結んでいる。それとも『獣との友情など』と嗤うか」

「嗤いなどしない。私の兄はアルテミス様の聖獣だった。人と獣の間にも想いは通じると私は知っている」

「ならばこれ以上の問答は無用だ。ケリュネイアを手放す気はない」

 

 アタランテの目を見詰めて断言する。アルテミスの信徒故に話を聞かず、強引に事を進めようとするのではないかという危惧はあった。もしそんなことをするのなら、男女平等の理念に基づき行動する。

 殺気は隠している。全力で抑え込んだ。悟られてはならない。諦める気がないのなら一撃で気絶させ、縛り上げ、最寄りの島に立ち寄った時に置き去りにしてやろう――そんなヘラクレスの危険な気配は、類稀な狩人であるアタランテも気づかなかった。それだけ巧妙に隠されているというのもある、しかしこの程度の殺気も隠せずして、神々への害意を隠し通せる道理はない。ヘラクレスはさざ波一つ立てぬ静かな瞳でアタランテの答えを待った。

 

 アルカディアの狩人は、そのヘラクレスの瞳に本気の色と、ケリュネイアに対する真摯な友情を感じ取っていた。ふっ、と肩から力を抜く。

 

「分かった。私は既にある友情を引き裂いてまで、アルテミス様へこの仔を捧げようとは思っていない。この仔も嫌がってるから……」

「……分かってくれるか」

 

 安堵する。アルテミスの信奉者だというのが信じられないほど話が通じた。それが途轍もなく意外ではあったが、喜ばしいことである。

 友と言えるのは今のところケリュネイアとネメアーのみ。ネメアの鎧、武具と共に、ケリュネイアもまた手放せる存在ではない。無論ケリュネイアに愛想を尽かされたり、嫌われたりして、あちらから去っていくのなら見送るしかないとも思うが……。

 

 ホッと息を吐いたヘラクレスに、アタランテもまた心底意外そうだった。

 

「……印象と違うな」

「何がだ?」

 

 思わず口に出してしまったといった様子だったが、訊ねてみる。するとアタランテはバツが悪そうに目を逸らした。

 

「……汝は我が子を手に掛けたと聞いた。故に武勇は凄まじくとも、その内面は唾棄すべき外道なのではないかと邪推していた。私が糺せぬ強者だ、苦手意識を持っていたのだが……」

「――その認識は遺憾だ」

 

 カッ、と頭に血が上りかける。それを瞬時に封殺して、ヘラクレスは殊更冷静に真実を伝える。このことに関して誤解されるのは我慢がならない。また隠しておかねばならない事情もない。

 

「私が妻子を手に掛け、殺めたのは女神ヘラから狂気を吹き込まれたが故だ。下手人は私であり、私が咎を負うものとされたが……この罪は女神ヘラのもの。贖罪として勤めを課されたこと自体納得がいっていない」

 

 この船にはゼウスの意思が宿っていると聞く。しかし聞かれても構わない。何故ならゼウスはヘラクレスという対ギガースの切り札を破滅させようとするヘラを苦々しく思い、勤めをヘラクレスが終えれば裁きを下す権利を与えるとまで言っているのだ。

 この程度のヘラクレスの不満は聞き流すだろう。実際自分の境遇に置かれたら、誰もが我慢ならずに投げ出している可能性は高い。ゼウスからしてみれば、ヘラクレスを罰して禍根を作れば、ギガースとの戦争にヘラクレスが参戦しない可能性が出ると考えているはずだ。

 ギガースとの戦争、ギガントマキアには参加するつもりではある。味方してオリンポスとゼウスを勝たせてもやろう。大願成就はまだその先になるだろうから。

 

「そうなのか? 結婚と母性、貞節を司る神々の女王がそんなことを……」

 

 アタランテの美貌は明確に嫌悪に歪んでいる。その顔は言っていた。『何が母性を司る、だ。とんだ邪神ではないか――』と。しかし口に出しはしない。迂闊に言葉にすれば我が身の破滅を齎されると弁えている。

 狩人は頭を下げる。なぜ頭を? 意味が解らずにいると、アタランテは悔やむように謝罪してきた。

 

「すまなかった。勝手に誤解して、勝手に苦手意識を持ち、汝を避けていた。汝の騎獣である牝鹿に、許可もなく近づいたのも先入観からの短慮だった。悪かったと思う。この通りだ、赦して欲しい」

「――気にするな。誤解されるのには慣れている」

 

 それだけを、なんとか口にした。安心したような表情になるアタランテを、複雑そうに見る。

 こうして頭を下げて謝られるのは妙な気分だ。弱肉強食を良しとする、獣に近い雰囲気の狩人だと思っていたのだが、意外なほど律儀で筋が通っている。

 時間は余っていた。だからだろうか、どちらともなく相互理解を深めるように、互いの身の上話をはじめた。

 

「――そうか、それで月女神を信仰していたのか……」

「ああ。しかし意外だな……汝の信奉する神が冥府神、そして軍神とは」

 

 アタランテは赤子の頃にアルテミスに拾われ、彼の女神の聖域である森の中で育ち、聖獣によって見守られながら健やかに成長したのだという。故にその恩義から信仰し、彼の女神に倣い処女を守って生きていくことにした。これまでは慣れ親しんだ森で狩りに勤しんできたが、イアソンがアルゴノーツを結成する話を聞いて腕試しがしたくなり参加したらしい。

 

「死は神以外の何者にも訪れる人生の終着点だ。死に別れた愛する者達、親しき者達の安寧を願うのは可笑しな話ではあるまい。私は実際に冥府神に拝謁の栄誉を賜ったことがある。そして知った。彼の神は偉大だが愛に脆く、非情な神ではないと。死したる我が子らと妻の安息を願い、信仰するには充分な御方だ。軍神は――」

 

 そうだな、と一拍置いて言葉を選ぶ。意外なほどアタランテは、話を真剣に聞いてくれていたからだ。

 

「――その大器、まさに晩成せしもの。長じたならば必ずやオリンポスに名を連ねるに相応しい、ゼウスの子らの中でも突出した……ゼウスすらもが誇りに思う偉大な戦神と成られるだろう。今は大衆の偏見や、彼の神の司りしもの故に斯様に振る舞われておいでだが、私は彼の神の忍従の時を支えるべく信仰を捧げることにした」

「……聞いていた話と、今の汝の話とは、軍神から受ける印象が違うな。その心象を懐くに至った理由は何だ?」

「それは話せない。口止めされた。誰にも話すなと厳命された故に、お前はおろか誰にも話すつもりはない」

 

 命令は守ろう。しかしヘラクレスが信仰していることを口外するなとは命令されていない。そもヘラクレスに信奉されるなど慮外の出来事だろう。

 難しい顔をするアタランテと、向かい合って座っている。身を寄せてくるケリュネイアの首筋を撫でながら、訥々と語りを続けた。

 

「――汝は己の子を愛していたか?」

「無論だ。我が妻と同様に何よりも愛していた……違うな、()()愛している。それがどうかしたのか?」

「いや……善き父で、善き夫だったのだな……」

「そうで在りたいと願い、彼女達に相応しい夫であり父で在ろうと努めていただけだ。愛とは諦めであると何処ぞの戯けがしたり顔で語っていたが、私はそうは思わん。互いが互いに愛し続けられるように努力する。その意志が作る関係こそが、善き家庭を形成するに至るのだ。諦めではない、寧ろ諦めないもの。それが愛だ。諦めないものが愛故に、私のそれは永遠だろう」

「そ、そうか……ふ、ふふふ」

「……何か可笑しいか?」

「いや……まさか汝がそこまで熱心に『愛』について語るとは思わなくて……つい笑ってしまった。不快に思ったなら謝ろう」

「謝らなくてもいいが……」

「変だな。汝は変だ。力と容姿はまさしく豪勇無双、圧倒的な強者であるというのに、その内面は温かい人のものだ。父性……というのか? 私の父が、汝であれば……いや詮無きことだ……うん、ともかく汝は変人だということだ」

 

 その結論はおかしい。反論したい。しかしヘラクレスは熱を込め言い返しはしなかった。

 

 思えばアタランテは、見たところ十代後半から二十歳そこらといった若さだ。ヘラクレスとは十年近い歳月の隔たりがある。

 そんなうら若き女性が狩人として生計を立て、アルゴー号に乗り込みアルゴノーツの一員となっている。数奇な人生を辿っているなと、なんとなく不憫な気持ちが湧いてきた。ヘラクレスの方が余程だと、アタランテが知れば呆れてしまいそうな心情である。

 故にヘラクレスは、なんとなしに彼女の問い掛けから気になったことを訊ねてみる。愛について、我が子について話に上がったからだ。

 

「アタランテ。お前は己が子をその腕に抱きたいと思ったことはないのか?」

「それは……」

 

 疑問を投げられ、アタランテは言い澱む。何か含むものがあるのだろうか。

 

「何も狩人として、英雄として生きるだけが道ではない。これだと定めた道があるなら口出しするのは無粋なのだろうが……」

「無粋とは思わない。……実を言うと、汝の言う己の道という物が私には分からない。ただ流されるまま生きていた……自分の子を抱きたいかと言われれば、その願望がないとは言えない。しかし私はアルテミス様に倣い純潔を守ると決めている。だから……」

「私にはその決意が、簡単に揺らぎそうに見えるがな。その誓いを月女神に強要されたわけでも、誓いに対して強制力があるものでもないからだ。寡聞にして聞き及んだことがないが、月女神は自身の信徒が純潔ではないからと罰を下したことはなかったはず」

「………」

 

 怒りを見せても不思議ではないヘラクレスの断定的な指摘に、アタランテは気まずげに目を逸らす。

 ヘラクレスはまだ若い乙女を諭した。訳知り顔で導くのではなく、彼女には見えていなかった選択肢を提示するために。誘導したいのではない、諭したいだけだ。余計なお世話を焼きたいだけである。

 気分は近所の子供の人生相談に乗っているかのよう。内面が無垢な獣のように幼い気配のあるアタランテに、野生を感じてケリュネイアに近しいと感じてしまったが故だろう、余計なお世話だと拒まれるかもしれないが、年長者として言わずにおれなかった。

 

「月女神はお前が純潔ではなくなったからと、見捨てるような手合ではあるまい。寧ろ幼い頃からお前の世話をしていたのなら、アタランテが幸せになることを望むはずだ。それぐらいの良識と善良さは持ち合わせているはずだ」

 

 多分、きっと。持っていたらいいなと希望的観測を交える。外れていたら謝ろう。

 

「狩人として生きるか、家庭を持ち我が子を抱くか……それとも大望を定め、その道に邁進するか。あるいは柵を捨て自由奔放に生きる選択肢もある……それは自分で決めることだ。頑なになるにはお前はまだ若い。柔軟に生き……やりたいことを見つけ、確固とした道を断固とした覚悟を懐き往くがいい」

「……狩人として生きるのは、悪くないと思っている」

「悪くないとも。自然に向き合い、自然の中に死ぬ。それも一つの道だ」

「家庭を持とうと思ったとしても、伴侶としたい男などいない」

「条件を言えば、それに合う者を私が探してもいい。手伝おう、なんでも言うがいい」

「大望……夢はある。しかし非現実的だ。とても叶えられるとは思えない……」

「夢は叶わぬから夢だと? 違うな、諦めなければ必ず夢は叶う。何もせぬ内から膝を折る者に夢は掴めん。それを成し遂げてこその英雄だ。参考までに聞くが、お前の望みとは何だ?」

「……笑わないか?」

「他者の夢を笑う悪趣味は持っていない」

 

 アタランテは俯き、躊躇いがちに告げる。

 かぁ、と顔を赤くし、幼稚な願望であると感じながら。

 

「私は……捨て子だというのは話したな。だから……私は私のような子が総て救われて欲しい。誰もが父母に愛され、健やかに育って欲しい。……馬鹿げているだろう?」

「馬鹿げてはいない。正しい願いだ。しかし一つ思ったことがある。言っていいだろうか?」

「……ああ」

 

 厳しい指摘が来る。そう思い身構えるアタランテに、ヘラクレスはできるだけ真面目腐って言った。彼女にとって痛恨の一撃となる言葉を。

 

「その願いがあるなら、信奉するべきは月女神ではなく祭祀神ヘスティアなのではないか?」

「ぁっ」

 

 ヘスティア。ギリシア世界に於いて、国家とは家庭の延長線上にある。故に家庭の中心にある炉を司るヘスティアは、家庭生活の守護神であると共に、全国家の守護神でもあるのだ。故にヘスティアの神殿にある炉は、国家の重要な会議の場とされていた。

 それでいてヘスティアは総ての孤児の保護者であり、常に身につけている青い紐は捨てられた赤子を抱くためのものであるとされる。

 

 アタランテの願いは、ヘスティアへの信仰とも言えた。信奉する神を間違えてはいないかと指摘され、アタランテは可哀相なぐらい顔を青くして固まってしまう。

 

「……私は二柱の神を主に信奉しているが、他にも鍛冶神や戦女神にも敬意を持っている。何も月女神だけを戴かねばならぬ理由はないはずだ。不安なら念のため、月女神に供物を供儀し、祭祀神も信奉してよいか訊ねればいいだろう?」

「そ、それもそうだな……いや! それぐらいきちんと考えていたに決まっている!」

「……そうか。ああ、すまない。余計な助言だったな」

 

 アタランテの名誉のために、敢えて引いて答えを譲る。

 なんとなく話を続ける空気ではなくなった。折り合いもいい。そろそろお開きとするかと立ち上がると、ヘラクレスは本心からアタランテに感謝した。

 

「人とこれだけ長々と言葉を交わしたのは随分と久しいことだ。お蔭でなかなか楽しい一時を送れた。感謝するぞアルカディアの狩人、アタランテ」

「む……こちらこそだ。汝とのこの時間は有意義だったと思う。それと……その……」

 

 言いたいことがあるが、恥ずかしくて中々口に出せない素振りでアタランテは頬を朱に染める。なんとも愛らしいことだと微笑ましく思って見守っていると、アタランテは決意を固められたのか握手を求めてきた。

 どういう意味か解らず視線で問うと、麗しの美貌を持つアタランテはわざと強い語気で捲し立てた。

 

「汝は私の夢を笑わず、幾つかの道を示し導いてくれた。この恩にいつか報いたいと思う。それとは別に汝とは友誼を結びたいと思った。それだけだっ」

「そういうことなら、この手を取ろう。性別を超え、歳を超え、生まれと育ちも超越し褪せぬ友情を誓おう」

 

 さらりと重いことを言いつつ握手すると、手の大きさの差からアタランテの手を半ば包み込む形になってしまう。アタランテは苦笑した。距離感はともかく情が重いぞと。

 重いのではなく深い性質なだけだと反論すると、アタランテは可笑しそうに小さく噴き出した。漸く見せた笑顔にヘラクレスは頬を緩める。

 

 こうして、ギリシア最大の英雄と、アルゴノーツの紅一点は縁を結んだのだ。

 

 ――その縁とは、意外なほど長い付き合いになることを、二人は心の何処かで予感していた。

 

 

 

 

 

 




アタランテ(パパってこんな感じなのかな……パパクレス……)

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