ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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6.3 レムノス島に醜女を視る

 

 

 

 レムノス島の浜辺に乗り上げたアルゴー号から、アルゴノーツの面々は続々と島内へ乗り込んでいく。

 

 水と食糧の補給のためだ。食糧などを求めて来島したアルゴノーツを、島の住人らしい女達は盛大に歓待する。あたかも待ち侘びた救い主を迎えるかのように。

 はじめは戸惑ったアルゴノーツだが、歓迎されて悪い気はしない。酒宴を開くという女達に誘われるまま、石造りの神殿にまでやってきた。しかし何気なく辺りを見ていたイアソンが、此処に来るまでに男の姿は見られず女しかいないことに気づく。

 なぜ男が居ないんだ? その疑問は当然のもの。王権とはアマゾネス以外では基本的に男のものである。この島に王がいるならそれは男でないのはおかしい。そして王ならば出迎えるか挨拶の使者を出してくるはずだろう。イアソンの当然の質問を受け、トアス王の娘だというヒュプシピュレは、アルゴノーツの頭目イアソンに事情を説明した。

 

 此処レムノス島の女達は、アプロディーテを信仰・崇拝しなかった故にアプロディーテから呪われたのだという。その呪いは女の全身から常に悪臭を発するというもの。

 男だって人間だ、臭い女と一夜を共にしたいとは思えず、そも近くにいることすら拒絶するようになった。男達はトラキア付近から略取してきた女を夜の共にし、それを侮辱と取った女達は夫や父親を皆殺しにしたという。

 

「……皆には言えないことだけど、わたしだけは父王を船に乗せて逃したわ。王の血筋ということでここの女王にされてしまったけど……夫や父親を平気で殺すような女達の王様なんて、本当なら真っ平よ!」

 

 ヒュプシピュレは激しながらそう吐き捨てる。その体から悪臭はしない。夫や父親を皆殺しにし、月日が流れたことで呪いが解かれたのだろう。

 猛烈な不快感に襲われた。一刻も早くこの島から出ていきたいと思うほどの嫌悪感に顔を顰める。

 何が不快なのか、何を侮蔑するのか。愚問である。

 

(アプロディーテ……)

 

 美の女神、愛の女神、性の女神――総じて春の女神とされる神格。己を崇拝しなかった、それを理由に呪いを振り撒く女の醜い気稟を隠しもしない、品のない女の神。

 無論それはヘラクレスの気に障った。内心吐き捨てる。徒に人を罰する器量の小さい女め、この島にいた女の悪臭は貴様の心魂より漏れ出た本性だろう、と。美しく飾った体と顔も、薄皮一枚除いて裡を覗けば、さぞかし濃厚な腐臭が漂うだろう。

 だがアプロディーテに対するのと同等に不快なものもある。その一つはアルゴノーツの振る舞いだ。男の居ない島ゆえに子を成せず、水と食糧を提供する代わりに英雄達の子種を求めてきたのだ。断ればいい、とは言わない。提供されたものへの対価に子種を求めるのなら、やむを得ないとヘラクレスも判断する。

 しかしヘラクレスにその気はなかった。女達が秋波を送ってきても完全に黙殺する。宴の席だったが堪りかねて外に出た。悪臭はなくなっているが、女達の媚びる目が堪らなく不快だったのだ。

 

(男の性だ、女にだらしなくなる気持ちは分からなくもない。だが……)

 

 いくらなんでも、デレデレとし過ぎてはいないか。女を連れてどこかに向かう男の姿を見る度に、仮にも仲間である男の情けない顔に反吐を吐きたくなる。

 仕方ない。見目は悪くない女達だ。誘われればその気になるのは……仕方ない。

 だが旅の目的を早くも忘れていそうなのはどうなんだ? 頭が痛くなる。やむをえまい、とヘラクレスは進んで嫌われ役を買って出ることにした。三日だ、三日待ってもここから出ていこうとしなければ、脅しつけてでもアルゴノーツを船に戻す。レムノス島にいれば子を成して幸せに成れる者も出てくるのかもしれないが、ヘラクレスとしては三日待つというのは最大限の譲歩だった。

 

 と、そんなヘラクレスの視界に、見知った男の姿が掠めていくのが見えた。

 

(イアソン……)

 

 その男はヒュプシピュレを連れ、夜の闇の中に消えていっていた。なんとなく安堵するが複雑な思いでそれを見送る。ヒュプシピュレはこの島の中では唯一まともだ。その女を選んだイアソンの見る目は確かなものなのだろう。

 しかしイアソンのだらしのない顔ときたら……ヘラクレスも呆れるしかない。

 やることもないのだ、船で三日を過ごしていよう。どのみち誰かが番をしていなければならないのだ。

 

 そんなヘラクレスに、近づく者がいた。一瞥すると、この島の女である。

 

「あの、ヘラクレス様、ですよね」

「………」

「あたし、ヘラクレス様にお慈悲を賜りたいです。ほら! ヘラクレス様が一番いい感じがするから!」

 

 女は優れた容姿をしていた。その態度にはしかし、水と食糧の対価なんだから、当然の権利としてヘラクレスを選んでやった――という高慢な態度が見て取れる。

 ヘラクレスは堪える気もなく吐き捨てた。

 

「臭いな」

「……え?」

「鼻が曲がる。女神の呪いが染み付いているのではないか?」

「えっ!? そんなことは……!」

 

 指摘され、女は慌てて自身の体臭を確かめるように鼻を鳴らした。ヘラクレスは目を細め、侮蔑する。

 

「ああ、臭い。哀れだな、呪いが魂にこびりついている。その悪臭は貴様の心肝より漏れ出たものだ。如何な理由があれ、己が夫と父を手に掛けた貴様らの性根は腐り果てている。それが臭いの元なのだろう。――寄るな毒婦、臭いが移る」

「なっ!?」

 

 女神の所業が原因である。臭いからと妻を相手にしなくなった夫の責任でもある。だが悪臭をどうにかしようとはせず、真っ先に夫と父を殺すことを選んだ女達は、ヘラクレスの目からすると吐き気を催す畜生でしか無い。例え絶世の美女であろうと、そんな性根の女には、例え神々に命じられたとしても指一本触れたくもなかった。

 女に背を向ける。激怒した女が喚いて、ヘラクレスの背中に短刀を突き出した。無論刃物を抜き放った気配は感じている。しかし完全に無視した。躱すまでもない。女の短刀がヘラクレスの背中に当たるも、その刃先は皮を破ることも出来なかった。ヘラクレスの肉体の尋常ではない筋肉密度が、貧弱な女の腕力で突き出された短刀の切っ先を食い止めたのだ。

 

 存在自体を黙殺して去っていくヘラクレスに、女は唖然として。我に返ると癇癪を起こしたように怒鳴り散らす。

 

「おまえは対価を拒んだ! あたし達の出す水と食べ物に手を触れる資格はないぞ!」

 

 言われるまでもない。ヘラクレスは船に戻った。

 そこには意外なことにイオラオスがいて、少し驚いてしまう。

 性欲の盛んになる年頃だ。にも関わらず女達の誘いに乗っていないらしいイオラオスに問い掛ける。

 

「どうした、こんなところで。女達に求められなかったのか?」

「伯父上……」

 

 イオラオスは情けない顔をしていた。眉を落とし、清らかな身の少年はぶるりと震える。

 

「おれだって男だ、そりゃあそういうことにも興味はあるし、体験はしたいよ。でもあれはない、目がギラギラしてるんだぜ? 怖くなっちゃったよ……」

「………」

「あっ!? 笑ったな?! 伯父上、今絶対笑っただろ!?」

「笑っていない」

「笑った! 見たもん! 今絶対笑ったって!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴るイオラオスに、ヘラクレスは堪えきれず声を上げて笑ってしまった。はっはっは! ――それはイオラオスが、女の見る目があったことに対する喜びかもしれないし、意気地なしな姿勢に関するものだったかもしれない。

 飛び掛かってヘラクレスの腹に拳を叩きつけるイオラオスに、ヘラクレスはなおも笑う。笑うな! 笑うな! と殴打を続けるイオラオスだったが、やはりというか先にイオラオスの拳が限界を迎えた。手を真っ赤にして痛がる少年に、ヘラクレスはさらに笑う。しかし笑ってばかりもいられない。ヘラクレスはイオラオスに言った。

 

「フゥ……さてイオラオス。我らは共にレムノス島の女達からの要求に応えなかった。となれば私とお前にあの女達の差し出したものを口にする資格はないことになる」

「えぇ……ってことは」

「狩りだ。お前は船で番をしつつ魚でも釣っていろ。私は島の山に入り、山菜と獣を狩る」

「ちぇー……分かったよ」

 

「ヘラクレスか?」

 

 魚と山菜、獣の肉が有れば次の中継点まで保つだろう。役割を割り振り、弓を取りに船に入ると、そこから出てきた女と出くわした。

 アタランテだ。どことなく疲れた顔をしている。ヘラクレスを見るなり意外そうに目を瞬いた。

 

「なんだ……あの女達を抱かなかったのか?」

「ああ。生憎と程度の低い女には勃つものも勃たなくてな。安い女に食糧を恵まれるぐらいなら、自分で獲物を狩った方が遥かにましだ」

「そうか……」

 

 どこか安心したような、感心したような表情だ。アタランテは船内に引き返し、ヘラクレスの弓と自分の弓を持ってくる。

 

「付き合おう。女の身である私も、あの者らの要求には応えられないからな」

「ここで番をしてくれるだけでもいい。お前の分も私が――」

「いい。自分が口にするものを、自分で調達するだけだ」

 

 強硬に突っ撥ねられる。好意のつもりだったのだが、押し付ける気もない。肩を竦めて船から降りると、アタランテはイオラオスの方を向いて得意げに鼻を鳴らした。

 「ふふん」「っ!」「……?」

 何をしているのか、イオラオスはアタランテを悔しげな目で睨みつけている。それになんとなく思い当たるものがあった。ヘラクレスが娘を可愛がっていると、息子が気に喰わなさそうな顔をしていた。それに似ている。可笑しくて、懐かしくて、ヘラクレスは口元に小さな弧を描かせた。

 

(やれやれ……)

 

 まだまだ子供だなと、なんとなく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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