ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
漲る獣欲の目で性的な誘いを掛けてくる女達から、イオラオスは這う這うの体で逃れアルゴー号に駆け込んだ。
まさか女から性的な意味で狙われるということが、こんなにも恐ろしいものだとは夢にも思っていなかった。女が父や夫をも手に掛ける類の毒婦だったというのも恐ろしさの理由なのかもしれないが、未だ清き身であるイオラオスである。伯父と義理の伯母に当たる女性の関係を知っているだけに、その手のことには綺麗な理想像が出来上がっていたのがそもそもの原因かもしれない。
アルゴー号に逃げ込んだイオラオスは、長い付き合いのある伯父のことも理解している。ヘラクレスも戻ってくる気はしていた。義理の伯母と死別して何年か経っているというのに、未だに再婚せずにいるのだ。操を立てているというのもあるが、伯父の女の価値基準は亡妻なのだろう。とてもこの島の女達がお眼鏡に適うとは思えなかった。
これからどうしようか、と頭を捻る。アルゴノーツの男達は逞しいもので、レムノス島の毒婦達が相手でも
そうしていると、船の中に誰かが残っていることに気づく。気配がするのだ。暇が有ればヘラクレスに稽古を付けてもらっているイオラオスである。本人に自覚はないが、その実力はアルゴノーツの英雄たちにも劣らないものとなっていた。尤もイオラオスの判断基準がヘラクレスであるため、自分なんて取るに足らない力しか無いという思いしかないのだが。
もしや盗人か? イオラオスは自分が武器を持っていないことに歯噛みし、警戒心を強めつつ船内に入る。するとそこにいたのは見知った女だった。
「アタランテ?」
イオラオスよりも二つか三つ年上の――アルカディアの狩人アタランテだ。深緑の衣を纏った緑髪の乙女は、ケリュネイアの傍に寄り添っている。何をするでも、何を語るでもない。そんなアタランテはイオラオスに視線を向けると、さも退屈そうな目をしていた。
「……なんだ、汝か……」
「おまえ……何してるんだ?」
「……此処の女達は男にしか用がない。それに盛りのついた男の近くにいるのも、男女の交わりを見聞きするのも気味が悪いだろう。業腹だが自主的に留守を預かっている」
「ふぅん……ま、それもそうか……」
女のアタランテにレムノス島の女達が関心を示すはずがなく、その逆も然りだ。
納得したイオラオスだが、アルゴノーツが戻ってくるまで――ヘラクレスが戻ってくるまで、まともに話したこともない女といるのは気が引ける。
なんとなく気まずくなったイオラオスは踵を返した。しかし船外に出ようとするその背中に、アタランテは退屈を紛らわせるためにか声を掛ける。
「汝は女とまぐわってこないのか?」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げる、とうの『女』がそんなことを訊ねてくるのは不意打ちだ。
普通の女じゃない。英雄級の女なら母であるイピクレスがいるが、そのイピクレスはこうもあけすけな物言いはしないのだ。若干鼻白んだ少年は、照れくささのようなものを感じつつ吐き捨てた。
「おまえには関係ないだろ。……此処の奴ら、普通じゃない。近くにいたくもないね」
「
ふ、と笑みを浮かべたアタランテに、イオラオスはたじろいだ。見透かされたような目だった。
「な、なんだよ……」
「汝の言う『普通』とはなんだ? 私からすれば、此処に戻ってきた汝の方が普通の男の行いとは思えない」
「……いいだろ、別に」
「当ててやろうか? 汝はヘラクレスの影響を受けたから、此処の女の相手をする気になれない。確信したぞ、汝が戻ってきたんだ……ヘラクレスも直に戻ってくる」
「………変な女」
「そういう汝は、変な男だ」
とびきりの変人は、ヘラクレスなのだろうが。まあ……
「私としては、汝らの変人ぶりの方が余程好感を持てる」
「……もしかしておまえ、伯父上に
「……? どういう……いや、そうか。……そう見えるか?」
「見えるっていうか、聞こえる口振りだぞ」
指摘するとアタランテは思案する素振りを見せた。形のいい頤に指を添え、考え込んだアタランテはしかし、すっぱりと否定する。
「いや、それはない」
「ほんとかよ……」
「本当だ。なんと言えばいいのか……ヘラクレスは確かに好意を持つに値する男だ。私も女だ、強い男には惹かれるものはある。だが……そうだな……うん、ヘラクレスと男女の
「!」
照れたふうにはにかむアタランテは、己に嘘を吐くということができないのだろう。その告白にイオラオスは無性に腹が立った。出会ってまだ日が浅いくせに、と。
実を言うとイオラオスは、実父を知らないのだ。母のイピクレスは自分の夫とは別居し、女手一つで育ててくれた。顔も知らない実父と母は肉体関係しか無いのである。そんな中でヘラクレスは、母の兄でありながらイオラオスにとって父親に等しい存在だった。横から出てきていきなり何を、とイオラオスが面白く思わないのは当然である。
今の自分はヘラクレスの従者で、一緒に旅をする仲だ。ケリュネイアをカウントしないのであれば、ほとんど独占してきたと言っていい。イオラオスがアタランテに敵愾心を持つに至るほど、少年の伯父に対する敬愛は深かった。
「父というよりは、歳の離れた兄というのが近いのかもしれないがな。なんというか、寄りかかっても赦してくれそうな所に安心感を感じる。こんな感情を持ったのははじめてだ」
「……そうかよ。でも言っとくけどな、伯父上には娘が居たんだ。息子も。変に思い出させるようなことはするなよ。伯父上に辛い思いさせたらタダじゃおかないからな!」
「……? 汝は……いや、そうか。ふふ……可愛いな、汝は」
「はぁ!?」
敵愾心を持った相手に可愛いなどと評され、イオラオスは声が裏返るほど反感を示した。しかしそれにアタランテは微笑むばかりで、イオラオスは顔が怒りで赤くなるのを感じる。
その後、戻ってきたヘラクレスと二人で狩りに出掛けたアタランテが、からかうようにイオラオスに向けて鼻を鳴らすと、ますますイオラオスは女狩人への怒りを深めるのだった。
「貴様ら己が使命をなんと心得るかッ! 何時まで此処で足を止める気だ!? よもや女に骨抜きにでもされたか? 英雄としての最低限の誇りすら腐らせたかッ!? この地に骨を埋める気になったというのなら望む通りにしてやろう。そうでないと否定できる者だけが今すぐ船まで戻れ! 半刻待つ!」
島全体に轟くヘラクレスの大喝に、アルゴノーツの男達は我に返った。女の体と供される酒に溺れ、何時までも此処に居たいと思っていた英雄達だったが、使命を思い出して身支度を整える。女達に別れを告げるとすぐさま駆け出し、続々と船に帰還した。
肩を怒らせて仁王立ちするヘラクレスの眼光を受け、自分達が情けない様を晒していたことを思い知ったアルゴノーツは各々がヘラクレスに侘びた。彼――とその甥――だけが女にうつつを抜かしていなかったことを悟ったのだ。
「すまなかったね、ヘラクレス……待たせてしまった」
そう言ったのは、幼い頃のヘラクレスに武器術の基礎を仕込んだ英雄カストルだ。
かつて評した通り、あっという間に自分を超える大英雄となったヘラクレスに思うところがないわけではない。しかしカストルも恥は知っていた。そんな素振りは見せられない。
嘗ての師……と思うほど思い入れがあるわけではない。しかし知己の人物に謝意を示され上から目線で叱責するヘラクレスでもない。無言で頷き謝意を受け入れ、何も言わずにおいた。変に声を掛けるより流した方がいいと判断したのだ。ヘラクレスが何か言えば、逆にカストルに恥を掻かせることになるのだから。
しかしヘラクレスは威厳のある佇まいを崩すことになる。
半刻経っても戻ってこなかったイアソンが、ヒュプシピュレに連れ添われてやって来たのだ。
「ヒュプシピュレ……」
「イアソン様、大丈夫です。きっと貴方様のお子を生んでみせます。いつか子供達の顔を見に来てくれたなら望外の幸せです」
どう見ても未練タラタラで、別離を惜しんでいる。ヘラクレスは呆れてしまった。情が移るのが早すぎるのではないか……。
情が湧くのは悪いことではない。ないが、それにしたって別れが来るのは分かっていたこと。相応の付き合い方をすれば良かったではないか。
アルゴノーツの旅の主目的はイアソンの助勢であり、イアソンこそ一刻も早くコルキスに辿り着いて、目的を達した後にイオルコスの王に成らねばならないのだろう。
「イアソン。此処で旅を終えるか?」
「ヘラクレス……」
「お前の旅だ、お前が決めろ。此処で根を下ろしたとしても私は止めん。だがな、お前はイオルコスに秘宝を持ち帰り、正統なる王位を取り戻すのだろう」
諭すような諫言に、イアソンは目を閉じる。そしてヒュプシピュレの髪を梳くように撫でると、イアソンは決然と告げた。
「ヒュプシピュレ。私は往く。もしも男児が生まれたのならエウネオスと名付けて欲しい。そして成長したら、いつかイオルコスに寄越してほしい」
「イアソン様、それは……」
「ああ、王位継承権を与える。だけどレムノスに帰りたいと言うなら素直に帰そう。私は君を忘れない、だが君は私を忘れていい。勝手な願いなのは分かっている、それでも言わせてくれ。……幸せな人生を、ヒュプシピュレ」
「……はい」
「出航だ! 長居が過ぎた。急ぎ次の陸を目指そう、親愛なる同胞達!」
イアソンの号令に、男達は未練を断ち切るように吼えた。応! と。アルゴー号を海まで押し出し、次々と乗り込んでいく。勿論補給した物資は船に持ち込んでいた。
一段と凛々しく見えるイアソンの横顔に、ヘラクレスは苦笑する。どうせ一時限りの強がりだろうと。弱音を吐きたくなったのなら、酒でも飲ませて愚痴に付き合うぐらいはしてやろうとヘラクレスは思った。