ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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■■警報発令。


7.3 暗き火が注がれる

 

 

 

 ――()()は、酷く不快な見世物を見せられた気分だった。

 

 忌むべき不義の子。その行く末に災いあれと呪い、これまでの不義の子達に相応の報いを与えてやってきたようにして、その疎ましき出自に釣り合った破滅をくれてやるべく暗躍していたが、あまりにも滑稽な顛末を見せつけられて神経を逆撫でにされた。

 これほど不愉快な気持ちになったのは随分と久しいことなのではないか。

 忌々しきは戦女神である。何が英雄達の守護神……自身があの不義の子をどのように想っているか知っているだろうに、事もあろうか加護などを与え、幾ら狂気を吹き込もうとまるで用を成さなくなってしまった。目の前の不愉快な演目を破綻させてやるべく行動してはじめてそれに気づいた時など、般若の如き形相で憎しみを募らせたものだ。

 妻子を作ればこれを滅ぼし、友誼を結ぶ者あらばこれを殺めさせ、その生が続く限り罪と業を重ねさせ、生命ごと魂魄を悔恨の内に潰えさせてやりたい。だがたった一つの加護でそれらの想いは頓挫してしまった。これで主人に可愛がられている戦女神でなければ神々の女王としての力と立場で罰してやるものを……。

 

 ならばと趣向を変え、アマゾネスの一人や女王その人に変じ、不義の子がアマゾネスの国を乗っ取ろうとしている――あるいは女王を亡き者にしようとしているなどと吹き込み、不義の子が正気のまま手を汚させてやろうと目論んだが、これも不可能だった。

 不義の子と女王の契約が成る場には多くが居合わせ、知らぬ者にも瞬く間に広まっている。今更何を吹き込んだところで意味がない。空回りするだけだ。却ってこちらが道化になるだけである。

 

 心底憎たらしかった。存在するだけで罪深いというのに、神々の女王たる身に手間を掛けさせるなど身の程知らずという他ない。如何にして苦しませてやろうかと頤に指を這わせ思案する。

 こともあろうに主人はこちらを掣肘してきた。あなたが悪いんでしょう! と、金切り声で糾そうにも力の差は歴然。力づくで黙らされるのが関の山だ。あるいは反省したとしてもそれは見せ掛けだけで、何度でも同じことをするだろう。だから自分は悪くない。徹底的に主人と交わった女と、その子供を破滅させることで少しでも自らの行いを省みさせるしかないのだ。行き過ぎたことはするなと、些かこちらに気を遣った言い方をしたが、主人の怒りを買わない範囲でならしてもいいと解釈するまで。

 実際に神々の女王の溜飲を下ろさせるためにある程度は黙認すると分かっている。分かっているだけに腹立たしくもあるが、かといって何もしないという選択肢は有り得ない。“やり過ぎるな”……? いいだろう、やり過ぎないとも。少なくともアレと深い関係の者には手を出さない。だが……深い関係でなければいいのだろう。そして仮にソレと深い関係とやらになったとしても、最初から継続的に罰を与えると決めていたのなら関係ない。

 

 女神はこの世の何よりも美しい微笑みを浮かべた。それは――この世のものとは思えぬほど美しく醜悪で、可憐なまでに毒々しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒッポリュテにされるがままだった。

 

 酒宴の席に招かれ、他の者よりも上座に位置するヒッポリュテの隣の席に座らされたヘラクレスは、押し付けられた盃にアマゾネスの女戦士から酒をなみなみと注がれる。

 アタランテ、テラモン、イオラオスはこの場にいる。しかしテセウスだけはいなかった。メラニーペと連れ立ってどこかに行ってしまったのだ。窮地にある主人を見捨てて女と消えるなど、なかなか泣かせる従者ではないか。この恨みは忘れられるものではない。――テセウスを巻き込んだ自分を棚上げしてそう思う。

 酌をしてくれた女戦士が肉食獣の笑みで言う。女王に濃い精を注ぎ込んで下さいな、そして強き子を孕ませて差し上げて欲しい、それがアマゾネスの幸せだ、と。それを聞いたヒッポリュテは上機嫌そうで。照れたふうにそっぽを向き酒を呷った。ヘラクレスは複雑そうで、逃れるように目を逸らし酒を呷った。

 

「これより偉大な戦士長と、この世で最も強き男の婚礼……いや婚約の儀を祝す剣舞を舞い奉る!」

 

 女戦士達が剣を持ち、宴の席でそのようなことを宣った。武張っていながら華麗さを内包した見事な舞だ。テラモンが感心したように唸りつつ、宴の料理に舌鼓を打つ。イオラオスは粉を掛けてくる女戦士を懸命に透かし、アタランテは愉快げにそれを眺めていた。いかん、と思う。助け舟がない。何故だ、仮にも一行の首領は己のはず、首領を助けようともせずに各々楽しんでいるのに納得がいかない。

 剣舞をおこなう女戦士の中には、未だ幼いペンテシレイアも混じっていた。たしかな才気を感じる身のこなしをぼんやり眺めていると、傍らのヒッポリュテが語りかけてくる。

 

「よかった」

「……何がよかったのだ」

 

 全く良くない。突然押しかけ、女王の至宝の譲渡を要求した側故に、無体な振る舞いも憚られる。最初から不利であるのが決まりきっているとはいえ、どうにも釈然としない気持ちは拭えなかった。

 しかし凛とした貌をほころばせ、華やかに微笑む乙女を見ると気も晴れる。二十歳を超えたばかりといった容貌の女王は、スッと肩から力の抜けた笑みを湛えたまま告白した。

 

「私は未だ処女の(きよき)身だ。はじめて男を求めた。その男がヘラクレスで……お前と契れる望みがあるのは幸運なことだと思う」

「……何?」

「ふふ、なんだ? 私が処女であるのが意外か? そう不思議なことでもないさ。これまで私の眼に適う男がいなかっただけのことなんだから」

「………」

 

 酒を呷り驚いた顔を隠す。アマゾネスという部族からして、その女王ともなれば、既に子供の一人でもいるものとばかり思っていた。見た所ヒッポリュテは二十歳かそこらで、アタランテより幾つか年上という程度にしか見えない。処女であるのが信じられないほど晩婚と言える。アマゾネスに結婚という文化があるかは別として。

 ヘラクレスはヒッポリュテを憎からず想ってはいる。出会い頭からとはいえ、こうも好意を寄せられ悪い気はしない。これが他の女なら突然のことに過ぎ、些か以上に身を引いてしまうほど気味悪がっただろうが、ヒッポリュテはアマゾネスである。アマゾネスというだけで、その強引な姿勢に違和感はなく理解も及んだ。要は女としての本能に忠実なのだ。これだと思った男に一直線で、だからこそ迷いも邪心もない。彼女の妹であるメラニーペがいい例だ。テセウスを見て、ほぼ直感で交わるのをよしとしている。

 理解は出来る。しかし……理解と納得は別だ。ヘラクレスはまだ納得していない。無駄な意地を張らずに自分を分析すると、ヘラクレスは現在に至ってすらメガラに対する引け目を感じているのだ。

 

 ヘラクレスはメガラを愛した。

 メガラはヘラクレスを愛した。

 ヘラクレスはメガラを、殺した。

 メガラはヘラクレスに、殺された。

 

 妻は死に、己は生きている。今も亡き妻への愛情は色褪せていない。妻はもう永遠に変わらなくなってしまったのに、自分が変わってしまえば、それはメガラの愛してくれたヘラクレスではなくなるのではないか、という恐れがあった。

 臆病であると言える。自覚していた。メガラはヘラクレスが変わっても愛してくれると確信している。なのにそんな感情が拭い去れない。言ってしまえば、ヘラクレスは単純に、心の何処かでメガラの死を認めていないのだ。

 

 何が『死は絶対』だ。

 

 死した者と生ある者は違う世界にいる。時間も、運命も、交わることはない。にも関わらず、亡妻の残影を今も探し求めて――それが今の冒険にも繋がっているのだ。

 メガラはまだ生きていて、子供達と共にこの世界の何処かにいて、ヘラクレスを探しているのではないか、なんて……そんな馬鹿げた妄想が心の何処かに棲み着いている。

 ヒッポリュテが掛け値なしに本気の恋心をぶつけてきたことで、それを自覚できた。自嘲も出てこないほど愚かな男である。

 結論すると、ヘラクレスがヒッポリュテの恋に応えられないのは、たった一つの単純な答えしかない。

 

 ――感情が他者から向けられる恋心を拒んでいる。

 

 それだけだった。それだけだったのだ。色々なものから外れている身と心でも、伴侶と死別したのなら再婚しても良いとは思っている。しかしそれを拒んでいるのは、己の意志ではないとはいえこの手で妻子を殺してしまった事実から目を逸らしたがり、何もかもから逃避しているからである。ヘラクレスは愕然とする思いだ。こんなにも小さな男だったのか、私は……。絶望的な矮小さだ。

 ヒッポリュテに申し訳ない。ひたすらに、ただただ申し訳ない。もはやヒッポリュテの顔を直視できなかった。そんなヘラクレスの様子には気づかず、ヒッポリュテは機嫌良さげに剣舞をおこなう末妹に呼びかけた。

 

「ペンテシレイア、こっちに」

「む……なんだポルテ姉上」

 

 手招きされ寄ってきたペンテシレイアは剣を置いた。激しく舞っていたからか全身から珠のような汗を浮かばせている。ペンテシレイアをヘラクレスと自分の間に座らせたヒッポリュテは、若干の稚気を滲ませて酒の入った壺を末妹に持たせる。

 

「酌をしてくれ。お前に注いでもらいたい」

「……仕方のない姉上だな」

 

 ペンテシレイアは苦笑した。寂しさを紛らわせるために激しく舞っていたところを、こうして呼びかけたのはヒッポリュテが末妹の気持ちを察したからだと気づいたのだ。暫しの離別となる。その前に、少しでも触れ合っておこうという姉の気遣いがペンテシレイアには嬉しかった。ヒッポリュテとメラニーペ、ペンテシレイアの三姉妹は仲の良い姉妹で、これからもそれが変わることは絶対に無いと断言できる。

 ヒッポリュテは直情的で、誇り高いが短気で、怒りっぽく、そうなったら口を滑らせてしまう迂闊さもあるが、ペンテシレイアにとってはこの世で父の次に尊敬する戦士であった。軍神の巫女としての役割も持つ姉は、まさにアマゾネスの誇りそのものなのである。

 

 そんなヒッポリュテは、ペンテシレイアと和やかに会話を楽しみ。ペンテシレイアが今よりも小さかった頃の思い出を語る。よく修練に付き合ってやったものだが、最初は野生児そのものだったなと揶揄されると、白磁の肌を上気させたペンテシレイアは食って掛かる。その遣り取りも楽しい。

 ヘラクレスはそれを横目に、懐かしさを感じていた。目を細める。良い雰囲気だと、彼女達を微笑ましげに見ていて――

 

 ふと、ヘラクレスの勘が無意識に働きかけ、ぴくりと指が跳ねる。

 

(……?)

 

 内心首を捻った。自分でも正体の判然としない胸騒ぎがする。なんだ、と神経を尖らせた。

 

「ほら、ペンテシレイア。ヘラクレスにも酌をしてやれ」

「む、むむ……」

 

 ヒッポリュテに水を向けられたヘラクレスは気を紛らわされる。

 大好きな姉を取る男に酌をする、ペンテシレイアは心底嫌そうだった。その幼い表情が可愛らしく、思わず笑みを浮かべてしまった。

 ほら、ほら、と繰り返し急かされ、ペンテシレイアは渋々、嫌そうに酒壺をヘラクレスの持つ盃に寄せてくる。

 

「感謝しろ。次期女王が酌をしてやるんだ。一生に何度もない栄誉だと知れ」

「……ふ」

「何が可笑しい!?」

「義兄になる男にそんな物言いをするからだ。だろう、ヘラクレス?」

「違う」

 

 とりあえずヒッポリュテの前向き過ぎる解釈を否定しておく。――嫌な予感がする、何故?

 

「はははは」

 

 とくとくとヘラクレスの盃に酒を注ぐペンテシレイアの、堪らなく不服そうな顔を見ていたヒッポリュテは声を上げて笑っていた。

 恥辱で顔を赤くするペンテシレイアはヘラクレスを仇か何かのように睨んでくる。

 

「くっ……覚えていろヘラクレス! この屈辱、私が成人した暁には貴様を地に叩き伏せることで晴らしてくれる!」

「はははは!」

「……ポルテ姉上!? さっきから笑い過ぎだ!」

「ははは――は、は……?」

 

 ――その時。

 

 ヘラクレスの黒髪が波打つように揺らいだ。察知した何かに瞬間的に反応して殺気が迸る。瀑布の如く膨張したそれに誰しもが身を凝固させ。

 とうのヘラクレスは、全身に鳥肌を立たせていた。

 

 朗らかに笑っていたヒッポリュテが固まっている。無作為に放たれたヘラクレスの殺気に恐怖したのではない。何か信じられないものを見たような、驚愕した顔色だった。

 ヒッポリュテは弾かれたように動いた。咄嗟に手近にあった、ペンテシレイアが剣舞で使っていた剣を掴む。そして勢いよく立ち上がり、

 

 ペンテシレイアを、殺気奔った目で、睨んだ。

 

 

 

()()()()()ッ!?」

 

 

 

「え……?」

 

 ペンテシレイアは唖然とした。敬愛する姉からの殺気と誰何に反応できない。ヒッポリュテは侮蔑するように嘲笑する。

 

「愚か者め。私は身近に置く女戦士の顔と名は全て記憶している! アマゾネスに化けたとてこの私を騙せるものか!」

「あ、姉上、何を……!?」

「この私の命を狙った刺客……め……?」

 

 ヒッポリュテの体が傾ぐ。一瞬、倒れかけたヒッポリュテは踏み留まると、顔を俯かせた。そして再び顔を上げたヒッポリュテの目は、黒く染まり。その瞳は真紅に侵されていた。

 その身に宿る軍神の血が瞬間的に励起されている。迸る神性は軍神直系の子のもの。ヘラクレスにすら引けを取らない暴圧のそれ。ヒッポリュテが突如として()()した。その眼には()()()()()いるのか。

 

「――きっ、きさっ! 貴様ァアア!!」

 

 呂律すら回らない深度量れぬ怒りの津波。

 嘗て優しき姉から向けられたことのない憤怒と殺意に、ペンテシレイアは完全に萎縮してしまっていた。彼女が愚かで臆病なのではない。事態の急変と混乱から来るもの。

 ヒッポリュテが宴席を破壊する脚力で踏み込み、剣を振りかぶる。

 

「貴様! ペンテシレイアを、()()()()()()()()()()()()()()――ッッッ!」

 

 軍神招来・狂戦咆哮(アーレウス・アマゾーン)

 

 軍神の御子にして巫女である、ヒッポリュテが死に物狂いで仇を討たんと、完全に狂気に呑まれて襲い掛かる。

 軍神が司るは戦の狂気。その子供であるヒッポリュテは、殊更にその呪詛への耐性が低く、そして相性が良すぎた。戦いの高揚の中で覚醒するはずの全霊を一瞬にして発揮したヒッポリュテは正真正銘の全力だった。腕に巻き付けていた戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)が莫大な神気を発する。振るう剣の一撃はもはや災害のそれ。ヘラクレスをも吹き飛ばす膂力を発揮する――実の妹に向けていいものではなかった。

 

 ペンテシレイアは呆然としていたのを、死の危機を悟るや我に返り、咄嗟に回避しようとする。しかし遅い。間に合わない。あの剣の一撃で己は跡形もなく消え去るのだと理解してしまった。

 だが、そうはならない。ペンテシレイアの細腕を掴んだ、大きな手。それに引っ張られ、ペンテシレイアは殺傷領域から強制的に脱出させられる。

 

 代わりに前に出たのはヘラクレスだった。狂気に呑まれたヒッポリュテに――その狂気を吹き込んだであろうモノの正体を知るが故に――堪え難き殺気を放って臨戦態勢を取っていたから間に合った。掲げた腕で剣の一撃を防ぐ。獅子神王の金色の鎧は、人理の内にある剣を完全に遮断する。

 切り傷一つ無い。だがヒッポリュテは戦神の軍帯によって莫大な神気を纏っていた。その膂力自体は無効化出来ない。女王の一撃によってヘラクレスの立つ足場が、両足を基点に大きく陥没し神殿全体に亀裂を奔らせた。

 

 顔を顰める。ヒッポリュテはぎょろりと神性の瞳で恋した男を睨む。

 

()()()()!?」

「……ッ!」

「お前は……あの刺客を、この場に紛らわせるために……? 私を、裏切ったな!?」

「違う! ヒッポリュテ――」

「呼ぶなァッ! 敵、敵ィ……敵はッ! 殺すッ!」

 

 ヘラクレスをも敵と認識したヒッポリュテは標的を変える。誰よりも厄介で強いのがヘラクレスだと理解する理性はない。本能で倒すべき敵の順序を組み立てただけ。

 それだけに厄介なのだ。だからこそ危険なのだ。ヘラクレスは全力で防御を固める。間違っても攻める訳にはいかない。絶対に殺す訳にはいかない。例えこの身が殺されようと――

 

「ヒッポリュテ! 眼を覚ませ、そんなモノにいいようにされる女かッ!」

「黙れ!」

 

 瞬き一つする間に無数の剣撃が閃く。流麗にして暴虐、卓越した戦士の技と軍神の子としての暴威が高次元で融合し、ヘラクレスを本気にさせるほどの脅威となる。

 防御の一辺倒でやり過ごせる相手ではない。守り続ければ負け、負けたらこの国は惨劇に呑まれるだろう。

 だが、それでも、ヘラクレスは攻めなかった。

 

「その程度なのか、お前は……お前の心は、その程度なのかッ!?」

「黙れェェエエッッッ!!」

 

 ヘラクレスの専守を崩す剣の打撃。カチ上げられた腕の隙間を縫い、流れるような廻し蹴りがヘラクレスの胴に叩き込まれる。暴風雨に晒された木っ端の如く吹き飛んだヘラクレスは自ら跳んでいた。

 

「ヘラクレスッ!?」

「来るな、お前たち!」

 

 アタランテとイオラオス、テラモンを制止する。それには逆らえぬ迫力があった。

 

 神殿の外に飛び出したヘラクレスは着地した足で地面を削り、吹き飛んでいた体を無理矢理地面に縫い止める。即座に顔を上げると、同じく神殿から飛び出してきたヒッポリュテが高々と跳躍し、上方より飛来してヘラクレスに襲い掛かった。

 神気を纏った脚撃を両腕を掲げて受け止める。今度は受け流し、ヒッポリュテを真横に逸らした。力の流動に逆らわずに地面に触れたヒッポリュテは体勢を崩すことなく、そのまま屈むと足払いを掛けてくる。それを一歩退いて躱し、反射的に反撃しようとする体を制したヘラクレスは後方に跳んだ。

 

 鎧を脱ぐ。背負っていた白剣を地に捨てる。

 

 両手を広げ交戦の意志がないのを全身で示した。ヒッポリュテはヘラクレスを認識していた。それは単に、ヘラクレスほどの強さを、そこいらの刺客が持つはずがない故にその認識に至っただけで、狂気が祓われているわけではない。

 だがヘラクレスはそこに光明を見た。ヒッポリュテから狂気が去るまで耐え忍ぶ道を見つけた。ヒッポリュテは戦う意志を示さないヘラクレスにも構わず突貫してくる。

 鎧を脱いだヘラクレスになら剣は通じる。躊躇いはない。ないはずだ。しかし、心の何処かで、悲鳴を上げている声がある。それが、切っ先の向きを狂わせた。ヒッポリュテは突撃し、男の心臓を睨んでいた剣が下を向く。

 

 ズ、と剣の切っ先が腹の皮膚を貫く。肉を掻き分け、骨の隙間を通り、背中から突き抜けた。

 

 鮮血に塗れた剣を体から生やしたヘラクレスは、自身が心臓から狙いを逸らしたことに戸惑うヒッポリュテを、そのまま両腕で抱き締めた。

 

「ッ!? は、放せッ!」

「………」

「放せ、放せ、放せェェエエッッッ!」

 

 ヒッポリュテが暴れる。刺さったままの剣を捏ね繰り回して男の肉体を傷つけ、力の限りに暴れる。神気を爆発させて拘束を解こうとすらした。

 だが放れない。

 両腕の上から抱き竦められたヒッポリュテは腕を動かせない。手首から先の動きだけで剣を操り、ヘラクレスを責める。足を踏み、脛を蹴り、腕に噛みつきすらした。

 だが放さない。

 ヘラクレスはヒッポリュテを抱き締め続けた。血を吹き出させながら、激痛の海に神経を浸したような中、ぴくりとも動かなかった。神気の爆発を至近距離で受けても小揺るぎすらしなかった。

 

 ヒッポリュテが力尽きるまで、ずっと。――半日間、ヘラクレスはずっとそうしていた。

 

(護らねばならん)

 

 ヘラクレスの胸にあるのはその想い。

 自分に関わったばかりに、ヒッポリュテは狂気を吹き込まれた。最愛の妹を殺そうとしてしまった。

 私が悪い。私のせいだ。自責の念がある。悍ましいあの邪神は、恐らくこれからも、ヒッポリュテに狂気を送るだろう。例えヘラクレスがいなくなっても。

 故に守らねばならないのだ。狂わぬ我が身で、巻き込んでしまった乙女を。

 

(そうか――)

 

 ヒッポリュテは完全に力尽きた。最後の最後まで妹の仇を取ろうと暴れていたからか意識すら残らぬほど力を振り絞り、遂には昏倒するように気絶したのである。

 胸の奥に、零れ落ちる思念。

 怨念。

 想念。

 ヘラクレスは、無限の呪詛を、胸の内で呟いた。

 

(――そうか。そんなにも……憎いか。この私が)

 

 だが、

 

(私もだ)

 

 そう、

 

(要らぬのだな、貴様は)

 

 もはや、彼の中にある、越えてはならぬ最後の一線が、踏み躙られた。

 

()()()()()()()()()()()()と、そう云うのだな)

 

 ゆっくりとヒッポリュテの体を抱き上げ神殿に戻るヘラクレス――アルケイデスは、腹部から血を流しながらも確りとした足取りで歩む。

 アルケイデスのその双眸には、これにて決して拭い去られることのない怨念が宿っていた。

 

 ――善き神に出会った。忠を尽くせる神を見出した。道理の通じる神と話した。眼を掛けてくれる神に与えられた。

 

 もしかすると。

 もしかすると……まだ、話し合う余地はあるかもしれぬと、思いかけていた。総てを水に流すとは言えない。だがどこかで赦せるかもしれないと、愚かにも思いかけていたのだ。

 

 本当に愚かだった。

 

(感謝する。ヘラよ)

 

 もはや、一片の情けすら無い。

 

(貴様を惨殺し、永劫の責め苦をくれてやる。他の何者かにとっては善き神であったとしても――我が憎悪、思い知ってもらう)

 

 

 

 

 




乳母からの熱いエール。
ヘラ「妾を忘れるでないぞ」


ヘラクレスの最も梃子摺った三つの試練
一、ネメアの谷の獅子の退治
二、アマゾネスの女王の戦帯奪取←NEW!(なお後世でネタにされる
三、???



奇しくもヘラクレスがヒッポリュテに懐いた想いはメガラとの初邂逅に似ていた。
守らねばならないという義務感だ。

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