ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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二話目の出荷よー。幕間的な何かです。前話見落としなく。


7.4 祖神、憤りて

 

 

 

 またも不発。ただ事ならぬ傷を負わせられはしたが殺すには至らなかった。

 

 結果は不服だが過程はまあ良しとしよう。苦悶に歪んだあの顔は愉快だった。

 女神ヘラは天上の己が領域にて嗤っていた。アマゾネスはヘラクレスと深い関係ではない。出会ったばかりなのだ。故に『親密』ではない。

 アルゴノーツに関しては、自分が加護を与えて冒険を成功させようとしている故に見過ごすが、アマゾネスに関しては破滅させても主人は苦言を寄越すだけだろう。

 いい気味だ。しかし流石に憐れではある、あの不義の子などに擦り寄りさえしなければよかったものを。

 

 そうだ、と思いつく。アマゾネスに神託を下し、ヘラクレスを追討すれば今後神罰を下しはしないとでも言おうか。

 あの腑抜けの輩であれば逃げるだけだろう。殺しはすまい。関係を断絶させるだけで済ませようとは、自分も甘くなったものだと自賛する。

 

 

 

 だが、女神は知らなかった。

 

 

 

 自身が狂わせたアマゾネスの女王が、自身が不出来であると烙印を押した軍神の子であることは知っていても。

 その軍神が――自身の娘を陵辱した海神ポセイドンの子を撲殺するほどの子煩悩であることを知っていても。

 母である自分にまで、怒りの矛先を向ける神であることを、女神ヘラは知らなかったのだ。

 

 ――彼方より巨大な槍が飛来する。ヘラの座する住まいを突き破り、神威に守られた女王の間に軍神の槍が突き立った。

 

『ひっ――』

 

 眼前に突き立った槍にはこれでもかというほどの赫怒が籠もっている。思わず喉を鳴らした神々の女王は不届き者の正体を悟った。

 果たして神槍を追うようにして、火星が如き紅い神性が出現する。

 城壁を打ち崩したが如き轟音を引き連れ、二頭の神馬に牽かれた戦車に乗った男神が降り立つ。青銅の鎧を纏った神の双眸の眼球は黒く変質し、目は悍ましい真紅に。黄金に煌めいていた髪は白く濁り、神々しいまでの武威を放っていた。

 これは、知っていた。その姿は軍神が死力を尽くした戦に参陣した時の姿。――それは知らなかった。白く濁った……遥か古代に襲来した最強無比なる外宇宙の遊星と戦い、()()()()()()()、戦った総ての神格の中で()()()()()と認められた戦神の雛形の発展系。その闘争形態を、女神ヘラは知らなかった。

 誰も知らなかった本気の――()()()()()()()()()()()()()()()()()()力の塊を知らなかった。

 

 アレスだと思った。

 

 だが、誰だこれはと思った。

 

 三色に煌めく神剣を手に戦車より降り立った軍神は、無言でヘラに歩み寄る。

 恐怖のあまり固まるヘラの眼前で止まった軍神は、玉座の上で身動きすらできずに己を見る母神を見下ろす。

 

『……我が母よ』

『ぁ……アレ、ス……か?』

『我が敬愛せし、神々の女王よ』

 

 その声で、ようやく我が不出来の子だと気づくも、軍神は無表情だった。氷のように凍てついた目が、ヘラを見据える。ヘラの誰何に応えずに、淡々と訊ねた。

 

()()()()()()()()?』

『――――』

『俺は……いい。俺はいいのだ。貴女は自身の胎から生まれ落ちた俺が、アテナと比べ見劣りする故に俺を疎んだ。……それはいい。俺が選んだ在り方への、当然の報いだ。だから俺はいい』

 

 俺はいい、と軍神はくどいほど繰り返した。静かに。

 

『母は子を選べん。子も母を選べん。母が何を望んでいようと、母が如何なる気質であろうと、母が己の期待に応えぬ子に不満を感じようと、不出来な子に愛を抱かぬとも、俺は構わん。子である俺は母である貴女を無条件に敬愛した。愛した。何故なら俺は貴女の胎から産まれたのだ。貴女がおらねば俺は存在せん。故にその一点に於いて俺が母たる貴女を敬愛するのは当然ですらある。母よ、貴女が俺にどんな悪感情を懐こうと、他人のように振る舞おうと、俺は受け入れる。だがな。だが――』

『――――』

 

『――()()()()()()()! ()()()()()()()()()()()!!』

 

 その口腔より迸った凄まじい怒気は、物理的な衝撃波を発して神々の女王の居城を震撼させた。主神ゼウスが怒り狂ったが如き圧迫感に天界が軋む。ヘラは玉座にへたりこんだ。恐怖に縛られ威厳すら出せない。我が子の反抗にどうしようもない。

 ただ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()

 己の座を脅かす脅威であると。これまで頑なに愚物を、道化を演じていたアレスの資質を、やっと知った。

 

 そんなことなど知らぬと若く、青く、未熟な戦神は猛る。まだ向こう見ずさの発露と言えるそれは、しかし。

 真の父性を持つ、偉大な戦神の本質でもあった。

 

()()()()。警告するぞ』

 

 母への愛とその立場への敬意すら投げ捨てて、犬歯を剥き出しにした凶相の軍神は、三原色の神剣をヘラの首、その真横に突き立てた。

 暴圧的な神威と威力によってヘラの玉座に風穴が空く。ヘラの美貌に、それに劣らぬ美貌を近づけたアレスは、押し殺した声で囁きかける。

 

()()()()。次、同じことをしたんなら……俺に、この俺に! 戦を仕掛けたんだと判断するぞッ!』

 

 ――海神ポセイドンの子に、愛娘を犯された時。辛うじて下手人を撲殺する『だけ』で堪えきれたのは、命までは取られていなかったからだ。

 これまで多くのアレスの子、アレスの寵愛を得た獣が奪われ、殺されても心の底から激怒しなかったのは、アレス自身が司る戦の暗黒面を、間接的に知らしめる親孝行としての末路だったからだ。

 ……今回。もし、ヒッポリュテがヘラクレスに殺されていたとしても。誰かの計略の末に仲違いを起こし、誤って殺害されたのだとしたら、薄汚い殺しという戦の暗黒面に通ずるものであると、鬱憤は溜まるだろうが堪えきれただろう。

 

 だが、それは。

 

 ()()()()()赦せなかった。

 

 よりにもよって己の子を狂わせ、あまつさえ己の子が好いた男の手で殺させようとする……?

 それは、己の子の心と、矜持と、魂を侮辱し、踏み躙り、貶める……最低最悪の所業である。

 

 アレスの逆鱗だった。誰も踏んだことのない、越えてはならない一線だった。

 

 奇縁である。奇遇である。総ての基点はヘラクレスだった。

 ヘラクレスが培ってきた縁が、ヘラの行動を変えた。ヘラクレスが心からの忠誠と、信仰をアレスに捧げていた故に――人間が持つ究極の忍耐力、精神力を持つ極大の個であるヘラクレスの信仰を受けていたが故に、人間の想念で在り方を変じさせる神という種、軍神アレスは格段にその父性と行動原理、逆鱗の大きさを変えていたのだ。

 最初からアレスは子煩悩だった。あるいは自分が得られなかった分の親の愛を、己の子には与えてやりたいという想いの現れだったのかもしれない。増大した精神性の気高さが、ヘラの行動を許容できなかったのである。

 

 当然の帰結としての絶縁状。ヘラは、己が不出来と見做した子が……ゼウスとの間に産まれた子が、真実神々の王と女王の嫡男に相応しい男神が――絶縁を申し伝えてきたその時に本当の姿を知った。

 もはや用はないと立ち去るアレスの背中を、ヘラは呆然と見送るしかない。その胸中にあるのは如何なる想いか。省みてくれる情深き嫡男は、二度とヘラを母とは呼ぶことはなくなって。それで終わり。

 ――オリンポス十二神でありながら、その女王との間に確執を生んだ。類稀なる叡智を隠し持つ軍神は、そのマズさが分かる。強大にして偉大なる父神が、きっと自分を危険視するということも分かる。だが己の怒りに任せたこの行動には、欠片ほどの後悔もない。そんな自分にこそ、アレスは舌打ちした。

 

 来たる神々の黄昏。その最終戦争にて、自身が一つの陣営の頭となる未来を――彼はまだ予想すらしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私は、貴様を憎まん」

 

 こうべを垂れ、謝罪したアルケイデスに、ペンテシレイアはそう告げた。

 

「巻き込んだ? 関係あるか。どんな意図があるにしろ、やったのは()()で阻止したのは()()()。我が父は道理を弁えている。軍神なら憎むのは下手人だろう。だから私は貴様を憎まない。むしろ……感謝する。私の姉を……狂った獣として殺さず、その誇りを守ってくれた。ありがとう……ヘラクレス、お前は我々アマゾネスの恩人だ。何かあれば、我々は全軍を以て貴様を支援する。貴様が拒んでもだ。受けた恩は絶対に返すぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヘラクレス……は、はは……私は、本当に……弱いな……」

 

 消沈するヒッポリュテは、容易く狂気に支配された己に自嘲していた。アルケイデスはそれを否定する。僅かでも剣の切っ先を下ろせたお前が弱いはずがない、と。

 

「……本当にそう思うか?」

 

 自身が作った、アルケイデスの腹部の傷に触れ、ヒッポリュテは気弱に訊ねる。掛ける言葉を探す前に、男は言った。巻き込んだ責任は取る、と。

 

「お前は悪くない。私だ、私が悪い……すまない。私はお前とは共にいられない。また狂気に支配されるようなことがあれば、私は……」

「――私と共に来い。その恐怖ごと、私が救おう。私に寄り掛かれ、お前が拒んだとしても私はお前を守る」

「――――」

 

 アルケイデスは、力強く宣言した。ヒッポリュテは呆然とし、次いでその目を潤わせて、破顔してしまう。

 

「なん、だ……それは。私を、守る? アマゾネスの誇り高き戦士長を?」

 

 関係ない。

 

「ヘラクレス……」

 

 ああ――そうだ。これは伝えておこう。

 

「……?」

 

 私のことは、アルケイデスと――そう呼ぶがいい。いや、そう呼んでくれ。

 

「何故だ?」

 

 言わせるな。

 アルケイデスは明言は避けた。だが、ヒッポリュテは微笑んだ。

 

「分かった。――……()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

「………」

「どうした、イオラオス」

 

 無言で筆を取り、無心で紙に走らせる少年にアタランテは声を掛けた。

 アタランテの他にテラモンと、事の顛末を知ったテセウスがいる。

 

「……別に。おれはただ自分に任じてるだけさ。伯父上の冒険と、偉業、そこに関わったものを正確に、客観的に記録するってな」

「そうか……」

「テセウス。おまえ、大丈夫だったのか?」

 

 イオラオスの問いに、テセウスはバツが悪そうに頷く。

 

「……何事もなかったですよ。騒ぎの原因を聞いた時は青褪めましたが。しかし……女神ヘラは狂気を司る神でしたっけ?」

「んなわけあるか、馬鹿」

「ところで神々の女王ってなんでしたっけ……」

「……おれに聞くなよ」

 

 ケリュネイアは、彼らを静かに見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………やっとか、ばかめ」

 

 愚弟の発した怒気と神威に、総てを見ていた戦女神は苦笑した。

 彼女は気づいていた。嫌われ者の軍神の本性を。流石に隠していた力の総量は予想外だったが、なんとなく自分より上なのではないかという予感はあった。

 これから先に起こり得る未来を想定する。叡智持ちし戦略の女神は策定する。ろくでもない未来ばかりが脳裏に描けてしまった。末は……破滅か、栄光か。

 父神のことは知悉している。それ以外の神についても。さて――勝ち馬に乗るのは面白くはない。だが負け戦と分かっていて乗るのも詰まらない。かといってそれらを理由に動くのは情けない。

 故に美しき戦女神はこう決める。

 

()()()()()()()()()()()()()()()。私は、英雄を愛している」

 

 英雄達の守護神は、その在り方に殉じるだろう。しかし、アテナは嗤った。

 

「まあ――結果は見えているか。なあ、ヘラクレス」

 

 総ての原因、渦中にある大英雄の行く末こそアテナが見守る世界である。

 

 

 

 

 


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