ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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8.5 戦神、猛りの捌け口を欲す (中)

 

 

「らしくもない、筋を違えるなアルケイデス。いいか? エロース神はアプロディーテ神の従属神だ、その者はあくまでアプロディーテ神の命を実行したに過ぎない。糾すならばアプロディーテ神だろう」

 

 憤怒の臨界点に達する寸前のアルケイデスを止める。それは命が幾つあっても足りぬ難行であると断じられよう。

 アルケイデスの力は強大だ。そしてその殺気もまた比例するほどに巨大である。そんな武と暴の化身と云える傑物に、自らの名誉や命が懸かっているでもなしに誰が真っ向切って諫言できるのだ。余程の阿呆か大器の者でもなければ、とてもではないが成せるものではない。

 それをこともなげに成し遂げた美貌の女戦士へ、アルゴノーツの面々は一人残らず驚愕の眼差しを向けた。そして誰もが思う。誰だこの女は、と。

 気高き女戦士長は訝しむ顔が散見されるのに気づくと、堂々と歩を進めて胸を張る。何にも憚ることなき我が名を聞けというかのように。

 

「アルゴー号の船団員、イオルコスのイアソンの下に集いし勇士らよ。私は軍神アレスの子ヒッポリュテ。アマゾネス族の戦士団を率いし戦士長だ。元と付くが女王でもあった。今は一身上の都合でアルケイデス……ああ、いや……ヘラクレスに付き従っている。この場は私が預かろう。なに、これより先は身内の不始末だ。栄えあるアルゴノーツの英雄達の目を汚すことはない、下がって一足先に旅の疲れを落として欲しい」

 

 アマゾネスの元女王。そんな者が何故ヘラクレスに付き従う? それにアルケイデスとはヘラクレスのことか? 彼らの間に何があったというのだ。気に掛かる点は多々あるが、そのように元女王に言われたのでは聞き入れてやってもいいという気になる。

 あー! 疲れた! そう態とらしく大声を上げ、ひと足早く玉座の間から立ち去っていくのはイアソンである。それに釣られる形でアルゴノーツの面々も下がっていった。

 英雄旅団のテラモンが言う。「流石に王女殿をこのまま寝かせておくわけにもいかんだろ。わたしに任せろ、貴様らに付き合ったせいで体の節々が痛い。王女を休ませられる所に連れて行ったら、そのままわたしも別宅に向かって休んでおくからな」と。

 

 ヒッポリュテはそれを見届けると、アルケイデスを毅然と見詰める。激情の冷めるような言い含めるような口調で、柔らかな声音と共に語りかけてきた。

 

「……アルケイデス」

「………」

「落ち着け。エロース神をどうこうしたとて無意味だ。冷静になって考えろ。な?」

「………フゥ」

 

 普段から直情的なヒッポリュテの説得は、やはりその性格の通りに真っ直ぐな物だ。アルケイデスは大きく息を吐き出すと剣を降ろし、そのまま背中に帯びる。エロースは露骨にホッとした表情になった。ヒッポリュテと血の繋がりがあるのを知ったからか、感謝するような視線を女戦士長に向ける。

 アルケイデスはエロースの首から手を離した。地面に膝から崩れ落ちたエロースは、何度も咳き込んで、打って変わった憎々しげな表情で大英雄を睨みつける。

 

『げほっ、げほっ……ヘラクレス……貴様、覚えていろ。わたしにこんな事をしたんだ、相応の罰を――』

「黙れ」

『――は?』

「口を閉じろ。誰が声を発することを許した?」

 

 エロースは呆気に取られた。そしてアルケイデスの目を見て察してしまう。この男は未だにエロースに殺意を懐いている。動くな、逃げるな、そう眼が言っていた。

 少しでも妙な動きを見せた瞬間に叩き斬ると、その剣気が雄弁に物語っている。その眼に煮え滾る憎悪の熱量が、己を遥かに凌駕するものと気づいた瞬間に、エロースの背中に嫌な汗が伝った。

 

「一応、断っておこう。もしも貴様が自らの権能で私に復讐しようとした場合、あるいは私の関係者に余計な真似を仕出かそうとした場合も、私はギガースとの戦に参戦しない。この意味が分かるか?」

『――――』

 

 分かるに決まっている。それはつまり、来たる巨神戦争(ギガントマキア)でオリンポスが敗北することを意味する。エロースは歯噛みした。たかが人間という想いはあるが、アルケイデスだけは例外なのだ。

 その強さもそうだが、神々の長である最高神ゼウスが造った対巨人の切り札こそが彼なのである。そんなアルケイデスを、高位の神とはいえ自身の一存で破滅させるわけにはいかない。その分別がエロースにはあった。己の立場を笠に着て、よくもそこまで恥ずかしげもなく言い放てるものだと怒りを募らせる。

 

「先程、最後だと言った。だが撤回しよう。私の存在はオリンポスの神々の中でも最高神のみが処断できるモノだ。貴様がどうこうと云える立場ではない。巨神戦争をオリンポスの勝利で終えるまでは、私の存在はアプロディーテよりも遥かに重要だ。貴様の返答次第ではアプロディーテの進退にすら関わる可能性もある。それを踏まえた上で答えろ。私の言うことを聞き、コルキスの王女の呪いを解くか否か」

『……さっきから黙って聞いてたら……様をつけろ、ヘラクレス! アプロディーテ様を何度も呼び捨てにするとは何事だ!?』

「なぜ敬称をつける必要がある? 私が敬意を払う対象は決まっている。軍神を筆頭に冥府神、鍛冶神、戦女神……最高神――」

 

 最後、微かに言い澱んだように聞こえた者はいない。

 アルケイデスの存在の威力が凄まじい領域にあるからだ。気圧されているエロースに気づけるだけの余裕はなかった。

 

「――いずれも敬意を払える威厳と力がある。貴様の主にはない。それだけのことだ」

『――――』

 

 主を侮辱されたエロースの顔が赤黒くなる。忠実な下僕として母神に仕えるエロースは激怒していた。

 堪えきれぬように、絞り出す。

 

『……貴様、巨神戦争後に災いがあるぞ。奴隷としてアプロディーテ様に仕えるなら、まだ赦される可能性はある。今の内に下僕になれ、そうするならこの場に於いてわたしは貴様を赦してやる』

「何を勘違いしている? 巨神戦争の後の話をしてなんになるのだ」

 

 さも呆れているといった表情に、エロースは嫌な予感がした。

 ヒッポリュテは止めようかと思った。しかしイオラオスは元よりアタランテ、テセウスも何も言わない。

 黙っているのがアルケイデスのためになるのか? 次に出る言葉は確実に避けられない災いを齎すことになる。エロースは神だ、神ゆえに不死だ。しかしアルケイデスの言動を注意深く観察していると、明らかに不死であることを危険視していなかった。

 不死の存在を殺す手段を知っている? それとも封印する方法を知っているのか? いずれであっても善からぬ事態を招くのではないかという懸念がある。

 

 エロースは恋心を司る神だ。それを抹殺、あるいは封印した場合、人はもう二度と誰にも恋をしなくなる恐れがある。それどころか今ある恋心すら霧散しかねない。

 概念を司る神とはそういうものなのだ。仮に不死の神をどうこうできるとしても、軽はずみに害してはならない。神代とはそうした理不尽の横行する世界なのだから。

 

 そんな懸念などアルケイデスが思い至っていないとは思えない。まさかそれにすら対策があるというのか?

 

「冷静になって考えてみると貴様は所詮、主に遣わされただけの配下に過ぎんな。責を負うべきは命じた側だ。貴様に負わせるべき罪と罰――アプロディーテに取らせよう」

『なっ!?』

「さて、どうしてくれようか」

 

 にやりと残虐な笑みを浮かべるアルケイデスにエロースは慄然とする。エロースの忠誠心は本物だ。主を害すると告げられ顔色が変わる。

 陰湿な手口だ。ねちねちと、弱いところを突く――まるで何かを聞き出そうとしているような、引き出したい言葉があるかのような物言いに、ヒッポリュテは意外な思いを懐いた。公正明大、質朴剛健とした人柄しか知らなかったヒッポリュテであるが、そんな姿を見ても失望しなかった。

 聖人ではないかと疑いたくなる男にも、こうした穢れめいた側面がある。人間らしくて逆に好ましいと、柵がないまま恋に生きているヒッポリュテは思う程度だ。

 

 エロースは咄嗟にアルケイデスがアプロディーテをどうこうできるか考えた。

 

 ――可能だ。

 

 結論はそれ。巨神戦争はこの英雄の力がなければ勝利できない。アルケイデスがおらずとも敗北はしないだろうが、神を相手に殺されることのない性質を持つギガースを相手に勝ち切るにはどうしても人間が必要なのだ。

 ゼウスは勝利のために、余程のことがない限りはアルケイデスの蛮行を見過ごすだろう。アプロディーテに乱暴を働いたところで、神と人間を対等の天秤に乗せて裁こうとするはずだ。そうなるとアルケイデスにも情状酌量の余地ありとし、どれほど残忍なことをアプロディーテがされていても軽い罰で赦してしまうかもしれない。

 アルケイデスとは巨神戦争以前では、まさに天下御免の免状を持っているのに等しいのだ。故にアルケイデスに巨神戦争のことを知られるのはマズイのである。

 

 誰がこの男に教えた! エロースはそう叫びだしたくなる。しかしそれを抑え、何よりも優先される主の身の安全のためにこう言うしかなかった。

 

『――ま、待て! わたしは確かにアプロディーテ様の命で動いた! だがそのアプロディーテ様にわたしを遣わすよう依頼したのは女神王ヘラ様だッ、そのヘラ様のご意向に反するつもりか――!?』

 

 それに。

 

 酷薄な笑みが、己を見た。

 

 背筋が凍る。死なぬ神が、死の無い神が、死を幻視する。

 暗黒の帳に包まれたような殺気が迸っていた。比類ない偉丈夫から。

 くつくつと嗤い、アルケイデスは憎悪に軋んだ笑みを浮かべる。恐怖で舌の根を凍らせるエロースを見下ろして、アルケイデスは呟いた。「やはりか」と。

 

「そうだろうとは思っていたがな。決めつけてすらいた。そしてそれを事実として吹聴した。後出しとはいえこれで証明されたわけだ」

『ぁ、ぁ……』

「……そうか、そうか……よく分かった。では質問しよう。その答え次第で貴様やアプロディーテについて考える。心して答えるのだな」

『わ……分かった』

 

 エロースは英雄の不遜な態度を肯んじるしかない。完全に呑まれ、怯えていた。この男は神すら殺すのではないかと。

 故に嘘は吐かない。そうしなければならない。不死の神にはないはずの生存本能が叫んでいた。

 

「貴様は何があろうと、何をされようと呪いを解く気はない。そうだな?」

『……そうだ』

「しかしアプロディーテには非はない。あるにしてもあくまで依頼に応じただけだ」

『その通りだ』

「だが私とて神々の女王をどうこうしようとは思わん。畏れ多くも最高神の妃故に。そこで問おう、貴様の呪いはどうすれば解ける? その方法を伝えるだけでいい。貴様に使命を放棄せよなどとは言わん。どうだ?」

『………』

 

 エロースは迷った。教えていいものなのかと。

 だが己の使命には抵触しない。アプロディーテにも累は及ばない。ヘラの面目も立つと判断できる。それさえ分かるならもうエロースにはどうでもよかった。今はただ、すぐにでも眼の前の男の視界から消えてなくなりたい一心である。

 故に答えた。正直に。嘘偽り無く。

 

『――わたしの射た矢は、金色の矢だ。射られた者に恋心を植え付ける。通常なら死が分かつまで解けることはない。しかし今回は別だ。……イアソンが使命を遂げた時に、その矢は抜ける。ヘラ様のお達しだ。利用はするが使い潰しはしないと』

「………」

 

 アルケイデスはその言を聞き、一瞬沈黙した。悪鬼羅刹も斯くやといった形相で黙り込む。しかし何も噴出しない。自制心を取り戻していた。

 王として、神として、双方の意地で辛うじて意識を保っていたのは、取り残されていたアイエテスである。そちらを向いたアルケイデスは短く言う。

 

「――そういうわけだ。心苦しいのはそちらもだろう。しかし呪いが解けるまでの間、貴殿のご息女をお預かりしたい。あの魔力……魔術師として相当の研鑽を積んでいるのだろう。狂気に駆られ暴走し何を仕出かすか分かったものではない。悪いようにならぬようにしたいのだ。その代わり責任を持って王女を守り、呪いが解けた後にコルキスへ送り返すことを約束する。だからどうか、お預け願えないだろうか?」

 

 アイエテスは頷くしか無かった。アルケイデスが恐ろしいのはある、しかし今の話を聞けば、愛する娘のメディアが呪いの解けた状態で帰ってくると理解できた。

 この男が約束したのなら、メディアは万が一にも傷一つ負わない。約束を果たして、彼は必ずメディアをコルキスに帰してくれる。そう信じられた。いや、信じたいというのが本音か。アルケイデスの恐ろしさは骨身に染みた、もはや何をされても泣き寝入りするしか無いのである。信じるしか無かった。

 不安げで、恐怖に固まっているアイエテスに、アルケイデスは罪悪感を感じて身じろぎする。怖がらせるのは本意ではなかった。なんとか安心させてやりたい。だがその方法は思いつかなかった。故に重ねて言う。

 

「……私の奉ずるあらゆる神々に誓おう。この約定を違えることはない」

 

 それしか言えなかった。アルケイデスはこの場を去ることにする。己が近くにいれば安堵の息を吐き出せもしないだろう。

 と、思い出したようにアルケイデスは言った。

 

「ああ――エロース、貴様はまだ帰さん。イアソンが使命を果たすまではな」

 

 その通告に、エロースの端正な顔は絶望に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで前置き。

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