ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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8.6 幕間の物語「ヘカテー・マジック」

 

 

 

 ――()()は、死の女神であった。

 

 魔術の祖神であった。

 月の女神であった。

 霊の先導者であった。

 女魔術師の保護者であった。

 死者達の王女であった。

 ラミアの母であった。

 救世主(ソテイラ)であった。

 

 そして、無敵の女王であった。

 

『ほぉ。ほぉ――ふふ。ふふん。ふふふふふ。……フン』

 

 月の如く婀娜として。死の如く冷厳として。

 酷薄な微笑みを湛えた女神、ヘカテーは。

 冥府の底にいながらにして、その越権に凍えるような笑みを深める。

 

()の巫女に、こうも軽々しく手を出すとは……神々の女王の名に驕り、()を侮るのか。それとも……()が手出しはせぬと、思っておるのか』

 

 他の神の巫女に手を出す軽挙。

 女魔術師の保護者である領分を侵す越権。

 公的の眼で見ただけでも、これだ。

 幼い頃から特別に眼を掛けて、自ら錫杖を下賜した王女に手を出す愚行、度し難い。

 私的な眼で見た場合、甚だ不快である。

 

 これで今現在、ヘカテーの手が空いていたなら。相応の報いを与えんとしただろう。そして相手がヘラですらなければ。

 

『……哀れな女よ。神々の女王……其の名のなんと薄いことか』

 

 憐れで、哀れだ。ヘカテーは識っている、ゼウスすら無視できない力と発言力を有する女神は識っている。

 ヘラの起源を。唄うように唱えた。

 

『ヘラの故郷はサモスの島。信仰せしはアカイアの民。ミュケナイ、スパルタ、アルゴスを支配下に置いていた古来の神。カタチは貞節でなく畏れ奉じられし大地母神であった。しかし――北方より侵略してきたゼウスに国を支配され、和合のカタチとして婚姻を結ぶ……元は敵対関係にあった神王とヘラが仲睦まじくなるはずもあるまいよ。豊かでありながら過酷な大地母神が貞淑に在れるはずもない。耳が早く手が遠く、夫の浮気が耳に入るのは大地母神だった頃の名残であろう。それを妻とし妃に祀り、好色さを隠さぬゼウスの狡猾な計算の意図も微かに見える。……ヘラ。哀れな女。()はそなたを罰しはせん。目も当てられぬ悲惨な境遇によく堪えてきた。しかし……筋は通さねばメディアが可哀想で仕方ない』

 

 ヘカテーは()()()()()意趣返しとして、海神ポセイドンを唆し叛乱を起こさせるつもりだった。太陽神アポロンと戦女神アテナを巻き込み、ヘラを首魁に仕立て上げ、その上で叛乱をゼウスに密告して懲らしめてやる()()で抑える気だった。

 冥府神ハデスはヘカテーが何かを企んでいると警戒していたが、なんてことはない。ヘカテーは単に、ヘラがイアソンに加護を与え、ペリアスがイアソンに金羊の皮を求めたと聞いて、こうなるかもしれないと予想し罰を与える準備をしていただけのことだ。

 

 しかし、少々風向きが変わった。予想していなかったカタチに変わったのだ。もう少し()()()で勘弁してやろうと、ヘカテーが思うぐらいには。

 尤も。

 それは。

 ヘカテーという、ゼウスに好意の欠片もない女神の、()()()()()嫌がらせである。

 

 つまり。

 

『猿芝居を辞めた軍神めに、ちょいとばかし告げ口してやろう』 

 

 ――そなたの子が苛められておるぞ?――

 

 それはつまり。

 

『この一言で充分であろうが、悲しい擦れ違いは起こしたくないな。ふふん。ではもう一言』

 

 ――そなたの信者が、そなたの子を矯正してやると、さ――

 

 つまりは。

 後世からの印象を決定づける、ギリシア神話のトリックスター。その地位を盤石にする一手だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お父さまとお母さま、ナマイキでかわいくない妹、素直でかわいい弟。

 お師匠(ヘカテー)さまとお姉(キルケー)さま。

 そして静かで穏やかな山に囲まれた、大切なわたし達の家(コルキス)

 

 国の皆はとっても優しくて、みんな仲良し。

 外の世界には憧れるけど、外の世界(そんなもの)より皆で幸せに暮らせてる方が嬉しくて。

 きっとわたしは――お城の中で、外に憧れるまま幸せに生きていくんだろうなと、漠然と思っていた。

 

 何もかもが変わったのは、たぶん金羊の皮(アルゴンコイン)をプリクソスさんがわたしの家に持ち込んだからだったんじゃないかと思う。

 

 お父さまは侵略だったと言っていた。よくわからない。

 コルキスもギリシアという神代(テクスチャ)に侵食されて、その一部となった。わたしは覚えてないけど、元々はわたしも女神さまだったらしい。

 金色の瞳を持つ土着の女神さまだったんだよって、お師匠さまは教えてくれたけど。まだ神格を保ってるお父さまとは違って、わたしはもう普通の人間になってしまった。耳の形は女神だった頃の名残……らしい。よく分からないし、女神さまだった頃の記憶なんてないから、他人事を聞かされた気分だ。

 お師匠さまは、ギリシア世界の勢力(テクスチャ)にコルキスが侵略される前から女神さまだったわたしと親交があったんだって。だから人間になってしまったわたしのことを保護して、弟子にしてくれた。総ての女の人の魔術師の保護者となったのは、わたしみたいな娘が出てこないようにするためなんだって。やっぱりよくわからないけどお師匠さまがとっても優しくて、可哀想な娘を助けてるんだってことはわかった。

 そんな凄いお師匠さまの弟子で良かったと思う。わたしなんかを神殿の巫女にしてくれて、とっても嬉しかった。

 

 満ち足りていた。

 

 魔術を教えてくれたお姉さまと、見守ってくれてるお師匠さまと、わたし。その三人で魔術の修行をしていた時は……ちょっぴり怖かったけど、頑張った。お師匠さまの神殿の巫女として恥ずかしくないように成りたかったし、意地っ張りでちょっとヘンな人のお姉さまや優しいお師匠さまに褒められたかったから。

 いつかきっと、生まれてくる未来のわたしの子供にも、魔術を教えてあげたい。お父さまは素敵な人とお見合いさせてくれるって小さな頃から言ってたから、素敵な人とたくさんお話できたらいいなと幸せな未来を想っていた。

 

 そんな時、アルゴー号って船に乗って、遠くの国の王子さまがコルキスに来た。

 

 ――そこでわたしは運命(Fate)に出会った。

 

 イアソンさま。とても優しそうで、賢そうで、かっこいい人。

 わたしは一目でイアソンさまへの恋に落ちた。彼のためなら()()()()()()。いや()()()。無条件になんでもしてあげたくて、イアソンさまを困らせる全てを排除して。全部捨てて。わたしの全部をイアソンさまに捧げたくて仕方なくなった。 でもいいよね? だってわたしはこんなにもイアソンさまのことが好きになっちゃったんだもの。皆仲良しなのが一番だけど、イアソンさまが今では一番だ。

 イアソンさま……イアソンさま。イアソンさま。イアソンさま。イアソンさま……わたしに笑いかけて。微笑みかけて。わたしだけを見て。わたしに溶けて。イアソンさま。イアソンさまイアソンさま。イアソンさまイアソンさまイアソンさまイアソンさま――

 

 

 

『許可無き登城の段、平にお詫び申し上げる』

 

 

 

「ヒッ」

 

 ――それは、急激に膨れ上がる恋の熱情を、一瞬にして鎮火せしめた。

 

 王女メディアは、蝶よ花よと愛でられ可愛がられ、荒々しいものとは無縁の世界に生きてきた少女である。そんなメディアにとって、生まれて初めて肌に感じた殺気が。

 よりにもよって。

 この世で最も強き男が、逆鱗に触れられた憤怒を激発させているものであった。

 人によっては喜劇にも見えるが、しかし当人にとっては惨劇である。突然眼の前に現れた暴威の嵐に晒されたが如き衝撃に、か細い悲鳴をその蕾のような唇を開いて発していた。

 筋骨隆々、悪鬼羅刹。恐ろしさしか無い形相。力の波動を増幅しているような鎧兜。極めて高次の領域で融合し合一した武威が場を席巻し、幼く未熟でか弱いメディアの精神を打ち据えた。メディアの生涯に於いて何よりも恐ろしい恐怖の象徴が心に刻まれてしまう。メディアにとって何よりも恐ろしいモノのカタチとは、怒れる大英雄そのものとなった。

 

 彼が近づいてくる。そしてメディアを一瞥した。メディア当人に向けられたものでもない、赫怒の炎に燃え盛る真紅の神性の双眸に捉えられた瞬間、メディアの意識はふつりと断絶した。許容できぬ錯乱に近い恐怖の感情の入力に、メディアの脳は全く堪えられなかったのだ。

 

 ――次に眼を覚ました時、メディアは未だ戦慄と畏怖の念から解放されておらず、ガチガチと歯を鳴らした。震える体を掻き抱き、寒さを堪えるように体を丸める。

 自室の寝台にいた。気絶した自分を誰が運んでくれたのか思いを馳せる余力はない。恐怖から逃れるために、魔術の神にして月の女神でもある師、ヘカテーより賜った月を模した錫杖を握り締める。しかしそうしても震えは治まらない。思い出したくもないのに、彼女の脳裏に刻まれた恐ろしいモノの象徴が浮かび上がる。

 動悸が激しくなる。無垢で常識に疎い王女のメディアにも分かる、これは恋だとかそんな甘い感情ではない。ひたすらに怖い、鮮烈なまでの忌避感。呼吸が浅くなり、再び意識が遠退いた。痛いほど錫杖を握って必死に堪えていると、ふと自室の扉が開いた。

 

「だっ、誰ですかっ!?」

 

 咄嗟に錫杖の先を向け、魔力を込め、魔術式を瞬時に構築し、魔力砲撃をおこなおうとしてしまった。それを咄嗟に自制できたのは、やって来たのがあの『ヘラクレス』ではないかと思ってしまったからだ。

 敵意や悪意を感知して起動する、十重二重の結界や悪霊召喚のデストラップ、姉弟子直伝の変豚術や猛毒の術式、監獄へ隔離する異界への強制転移――本人はそこまでしなくても、と思っているが、仮にもヘカテーの巫女なら自分の城、工房の防備ぐらい固めておくものさと嘯いたキルケーの教えに従って築いた守りが働いていないのも、ヘラクレスではないかと疑った要因である。

 あの恐怖の化身なら、あらゆる防備を容易く破ってここまで来られる。悪意と敵意を燃やして此処まで来られる。本能的な確信だ。自分の魔術がまるで通じないだろうという。

 

 しかし、杞憂だった。

 

 やって来たのは、見も知らぬ男だった。中年に差し掛かった大人の男。敵意も悪意もない、ただの来訪者。メディアは安堵する。ヘラクレスではない、その一点で安心するには充分だ。

 

「起きていたか。すまないな、貴様の持ち物だと思うが……落ちていた物を届けに来ただけだ」

「ぁ……」

 

 男はメディアに、金羊の皮を守る竜の姿を模して刻印された宝石を見せた。

 これはコルキスの王家に連なる証。確かにメディアの物だった。此処に運ばれる際に落としていたのだろう。

 

「ありが、とう……ございます」

「いや礼はいい。わたしが貴様を運んだのだ。その時に落としたのだとしたら、わたしの過失だろう。未婚の王女の部屋に男が訪ねたとなれば風聞が悪い、気にしなくとも早々に立ち去るゆえ、これで失礼する」

 

 男は宝石を手近な棚に置いて、さっさと背を向けた。本当に立ち去る様子の男に、警戒心の欠片もないメディアは咄嗟に呼び止めて訊ねた。

 

「あのっ! それでもやっぱり、ありがとうございます。あなたは誰ですか? 今度お礼をさせてください」

「む……名乗るのを忘れていた。すまない。わたしはテラモン、重ねて言うが礼はいいぞ。気にすることはない。……迷惑を掛けた。では」

 

 誰が迷惑を掛けたのか、聞けばヘラクレスの名が出るだろう。彼を敬愛し主としているテラモンである。隠そうとはしないはずだ。

 だがメディアはテラモンとヘラクレスが頭の中で結びつかず、何が迷惑なのか首を傾げ、問い掛ける前にテラモンはさっさといなくなってしまった。

 間を外されたことで暫くそこに佇んでいたメディアだったが、ハッと我に返ると思い立つ。今はただ、イアソンに会いたい。その一心でメディアは「えいっ」と錫杖を振るい、その場から空間転移で移動してイアソンを探しにいくのだった。

 

 

 

 

 




サブタイの意訳。「ヘカテーさんの(*ノω・*)テヘ(๑´ڡ`๑)ペロ」

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