ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
険しい顔を崩さないアルケイデスの心情を、彼と縁の浅い者は真に理解するには至らぬだろう。
ミュケナイの危機である。突然の疫病で喪った国の財産である牛の代わりはいない。しかし他国から買い取れる宛などあるはずもない。
牛は国力の象徴だ。それを金銭で売り買いする国など、後先の視えぬ愚王の国しかないだろう。金銀財宝を積み上げ誘惑し、愚王から牛を買い取ったとしても、その国に住む賢明な者へ、後々にまで残る怨みの火種を植え付けることになるだけだ。
そういう意味で他国から略奪するのも論外だ。より直接的な報復の因果を招くだけである。エウリュステウスは賢王とは言えないが、アルケイデスが仕えてより長らくその存在へ不安と脅威を覚えてきた経緯がある。もしアルケイデスに王位を狙われたら、彼が死んでもその子孫に狙われたら……そんなふうに悪い方、悪い方へ考えるネガティブな思考が彼には根付いていた。目先の利益だけを求めて禍を招く振る舞いは彼にとって度し難いものだった。
故に略奪は厳禁。かといって他所から穏便に買い取れるわけもない。なら結局は、略奪するしかなくて。その手段は他国に戦を仕掛けるか……あるいは近隣諸国に戦争を仕掛け、周囲から睨まれるのを避けるために、遠い国から略奪するか。
前者はその気になれば実行できる。後々に報復として戦が起こる可能性があるから、相手国の王家と家臣は根絶やしにしなければならなくなり、それが失敗すればやはり、待っているのは復讐者を生む未来がある。
できる限りそのリスクを回避するには、後者の手段が望ましい。すなわちアルケイデスの十個目の試練として、後の禍根に繋がらぬ国から――そう、大洋オケアノスの西の果てに浮かぶ空島エリュテイアの、ゲリュオンが飼うという赤い牛を奪い取るのだ。ゲリュオンはゴルゴンの怪物がペルセウスに殺された時、その血潮から生まれた
怪物が相手なら人間から怨まれることはない。エウリュステウスは国のため、アルケイデスに命じることにした。それは国王として打てる最善手だったのである。
エウリュステウスの命を受けたアルケイデスは苦悩する、だが受けなければミュケナイは戦争を起こすしかない。略奪を働くのは怪物が相手だと言われ、アルケイデスはもはや願うしか無かった。どうかゲリュオンが邪悪で人々を虐げるような外道であってほしいと。そうであれば良心は痛まないから。
しかしその願いは、裏を返せば虐げられる人々の存在を願うものでもある。自身の良心のためにその存在を願うのもアルケイデスにとっては苦痛だった。
西の果てを目指して旅をして半月。ずっと重苦しさを消し去れないでいるアルケイデスを見兼ねたのか、アタランテが提案してきた。
「走ろう、とうさまゴホッ――こほん。……ヘラクレス」
悶々としていたアルケイデスは、その提案を受けて真意を訊ねる。すると彼女は何故か頬を赤くしながら言った。
「な、悩みが晴れない時は、私は兎に角走った。そして事が起こってから考えるようにしている。ヘラクレスは考え過ぎなんだ、少しは頭を空にしたほうがいい」
「……そうか?」
「そうだ」
有無を言わせぬように強く言うアタランテに、アルケイデスは仄かに苦笑した。
イオラオス、ヒッポリュテ、ケリュネイアを見渡して誘う。走るか、と。イオラオスが苦い顔で言った。
「馬車の荷物はどうすんだよ」
「捨てろ」
「はあ?!」
「各自最低限の保存食と水だけを持って、後は行った先々で手に入れればいい。どのみちアフリカまで往く、馬車の中身だけでは足らなくなるだろう」
「〜〜〜!! あー、もぉ! アタランテ! おまえ余計なこと言うなよ!?」
「わ、私は悪くない! 悪くないからな!」
「悪い! 言い出したら止まらないんだぞ、伯父上は! 唆したおまえが悪い!」
「だってヘラクレスがっ!」
「なんだよ!?」
「……元気づけたかったんだ!」
「もっと色々あるだろ!? 相談に乗るとか、関係ない話題振って気を紛らわせてやるとか!」
「だったら汝がそうすれば良かっただろう!?」
「おれも伯父上の悩みが解るから解決策考えてたんだよ!」
うぅ、と唸りイオラオスと睨み合うアタランテ。その光景に苦笑を深めて眺める。
ヒッポリュテは肩を竦めた。
「酒でも飲むか?」
「うむ。それもいい――」
「駄目だっ!」「絶対にやめろ!」
顔色を変えて制止してくるイオラオス達にアルケイデスは悲しそうに眉を落とした。
彼らは何故かアルケイデスが酒を飲もうとすると邪魔してくる。酒好きの気があるアルケイデスとしては、それが無性に悲しい。
頭を振る。そして声を張り上げた。今は忘れよう、と。
「走るぞ。なるべく遅れるな」
「それは私の台詞だな。ふふん、この中で一番の脚は私だと汝達に思い知らせ――あいたっ」
アタランテが豪語すると、ケリュネイアが軽く角で小突いて嘶いた。一番の脚はどう考えても自分だろうと。牝鹿の主張に緑髪の乙女は情けなく困り顔になる。
それに笑って、アルケイデスは鎧姿のまま走り出した。合図もなく走り出したアルケイデスに、皆はあっと声を上げて慌てて走り出す。イオラオスは頭を掻き毟って、馬車から馬を離してやり飛び乗った。ヒッポリュテの愛馬である駿馬と共に後を追う。
先頭はやはりケリュネイアだった。その後にアタランテが続き、更に後ろにアルケイデスである。その少し後ろに騎馬のイオラオスとヒッポリュテだ。
ケリュネイアは余裕を持って走っているが、それでも圧倒的な速力を見せつける。アタランテはそれを追うも、ふと自身を猛追する背後の気配を感じて顔を引き攣らせた。
アルケイデスが全速力で追いかけてくるのだ。その凄まじい迫力にヒッと喉が鳴る。悲鳴を上げそうになるのを堪えて叫んだ。
「こっ、こわい! ヘラクレス! こわいから追うな!」
「異なことを。走れと言ったのはお前だぞ」
「汝に追われるのがこんなにこわいとは思わなかったっ! 分かった、もう走らなくていい! 追いかけてくるな! ――なんで加速するんだっ!?」
意地悪な気持ちになったからである。もう脇目も振らず全力疾走するアタランテを追うのが楽しくなってきている。涙目になりつつあるアタランテの表情が、後ろからでもよく分かった。
アタランテとアルケイデスの速力はほぼ同等だった。走法の技巧でややアタランテが長けている故に引き離せているが、体力はアルケイデスの方が上である。持久走である以上はいずれ追いつかれるという事実が、なぜだか無性に恐ろしくなる。しかし必死に走り続けるしか無い。追いつかれたくないからだ。
だが減速した前方のケリュネイアが、後ろ足で地面を蹴ってアタランテに砂煙を掛けてきた。「わぷっ!?」と顔に直撃を受けたアタランテは混乱する。それでも脚を緩めずに駆けるも、前後をアルケイデスとケリュネイアに挟まれてアタランテは堪りかねてなじった。
「なっ、なんだ!? 汝ら私を苛めて楽しいか!?」
「楽しい」
(………!)
「うわぁぁあ!!」
慈悲無き一言を返されて、アタランテは遮二無二に走る。しかしケリュネイアの妨害のせいで遂に追いつかれてしまった。ぐわしと肩を掴まれたアタランテは錯乱気味に抵抗するも、肘を後ろ手に固定されて高々と掲げられてしまった。
何をされるのかと慄くアタランテは、次の瞬間には空に投げ飛ばされて虚空で回転させられる。訳も解らぬまま悲鳴を上げる彼女は地面に叩きつけられる――ことはなく。トッ、と優しく抱きとめられた。恐る恐る目を開けると、そこには前を向いて怒鳴り声を発するイオラオスが居た。
「いっ、いきなり何すんだ!? 酔っ払った時もそうだけどさ、何か言いたいことでもあるのかよ!?」
「別に他意はない。本当だ。英雄たるもの嘘は吐かぬ」
「大嘘を
はっはっは、と笑いながらアルケイデスはケリュネイアに飛び乗った。
アタランテを抱きながらも器用に手綱を操るイオラオス。その馬上の揺れの中で、アタランテはふとイオラオスの腕と、体の逞しさを感じた。
うぶな小娘のように固まる乙女に、イオラオスはぶっきらぼうに告げた。
「はぁ。……大丈夫かよ?」
「………」
「……? おい、どうしたんだ?」
「……脚を少し捻ったかもしれない」
「はあ? 何やってんだよ伯父上……後で文句言ってやる」
「………」
嘘だ。捻っていない。なのになんで、こんなくだらない嘘を吐いてしまったのだ。
アタランテは煩悶とする。よもやイオラオスの牡の部分に惹かれている……? いやしかし、純潔の誓いを立てている身で……。
イオラオスに顔を見られたくなくて胸に顔を押し付ける。「お、おい」と戸惑う声を無視してアタランテはそうしていた。
頭の中に、いいわよっ、そこよいきなさいっ。わぁ、すごいなぁ、いいんじゃないかなそのままいってしまえ! と囃し立てる二柱の女神の声が聞こえた気がするが、気のせいだ。聞いたこともない月女神と祭祀神の野次なわけがない。
「……ったく、お節介め。自分のこと棚上げしてさ」
イオラオスは舌打ちして呟く。
(分かってるよ。……ま、純潔の誓いだかを立ててるんだ。どうせ無駄だろうけど、とりあえず当たって砕けるとこまではいくか)
いい加減女を知らないことで、行く先々で出会う男衆にからかわれるのも嫌になっていたところでもある。伯父がこうまで背中を押してくるのなら、男らしく砕け散るまでだ。
――そう密かに決意したつもりの甥を、アルケイデスは横目に見て前を向く。人生は短い、いい加減に行動を起こすのを促すのは間違った判断ではないと思っていた。
(男を見せろ、イオラオス。……フン。私が言えたことではないか。だがお前にとってそれは大切な想いだ。実を結ぶにしろ、結ばぬにしろ……人は死ぬ。何があるか解らぬ未来に怯えるのは愚かだが、何があっても後悔しないように。……これも私に言えたことではないな)
自覚はある。愛しているとまで言ってくれたヒッポリュテに、己は何も言えなかったのだ。逃げていると取られても否定は出来ない。
彼女は女として受け入れられずとも、戦士として役に立つと言いさえした。自分に振り向かぬ男に尽くし続ける苦難を強いるのは心苦しい。それを抜きにしてもヒッポリュテのことは憎からず想ってはいた。色々と考え、決めねばならない。甥をけしかけていながら、自分は何もしないというのは面目が立たないだろう。
真剣に考える時だ。――ヒッポリュテはもしかしたら気づいているかもしれない。ヒッポリュテを永遠に狂気から守ると。だが本当の意味で守るには、
覚悟を決めなければならない。それは分かっている。護ると誓ったのだ。ならば、その責任を果たす。その上でどうしたらいいのか、己は何がしたいのかを考える。
(メガラ……)
亡き妻を想う。子供達を想う。今も在りし日々は黄金のように輝いて、アルケイデスの記憶に鮮明な光を持って残っていた。
(教えてくれ。私はどうすればいい)
問えば。メガラはきっとこう言う。確信がある。
旦那様の成したいように、と。わたしを言い訳にするのは情けないですよ、と。
――解るから、悩むのだ。
しかしアタランテは頭を一度空にしろと言った。確かにいつも何かを想っていた。復讐のこと、仲間のこと、未来のこと。一度ぐらい頭を空にして馬鹿になるのも悪くはないのかもしれないと自分に言い聞かせる。
無心になる。そしてケリュネイアに言った。駆けろ。ひたすらに駆けろ。何より速く何者も追い縋れぬように、地の果てまで駆けよ――
意を汲んだケリュネイアは疾走した。久しく出していなかった全力の疾走だ。何もかもを置き去りにして風を感じる。仕方なさそうに見送るヒッポリュテの視線を感じた。呆れたようなイオラオスの溜息を感じた。
それでも風を切る。ケリュネイアの疾走に身を任せた。この地上で何よりも速い牝鹿の生む風が、アルケイデスの雑念を斬り裂くように体を打つ。
ケリュネイアは久し振りとなる疾走を楽しみ、景色が線となって流れていく。このまま何処までも、何もかもを忘れて走り続けられたらどれだけいいだろう。しかしそれは出来ない。アルケイデスは何からも逃げるつもりはないのだ。
迫る運命。迫る約束の時。立ち塞がるモノは、有形無形の境なく捩じ伏せるまで。真にこの身が最強ならば……輝かしい栄光を掴み取る。総ては、嘗ての黄金の日々を取り戻すために。
どれほどケリュネイアは走り通したのか。一日二日ではとても足りない。半神であるからか飢えも渇きもそれほど感じていないが、随分遠くまで来てしまっているようだ。背後を振り向くと其処には誰もいない。完全に撒いてしまっている。
だが心配はしていなかった。イオラオスがいるなら追ってこれると信じられる。
さてそれまでどうしたものか。そう思案しかけた時、ふとアルケイデスは視線を感じて空を見上げた。
日輪がある。気温の高い土地だ。過酷な日射である。しかしそこに、アルケイデスは神の気配を感じた。
「………」
視ている。己を。それは確信である。しかも仄かに剣呑な色がある気がした。
さてどうしたものか。頭を捻りかけ、監視するような目線を受け続けるのは甚だ不快ではあった。
「――私に何か用か? であるならば姿を現すがいい」
天に向け高らかに告げる。しかし反応はない。嘆息して白弓を取り出し大矢を精製した。
弓につがえ太陽に向ける。そして警告した。
「最後だ。姿を晒せ。さもなくば射つ」
反応はない。アルケイデスを侮っているのか? ……ならば、是非もない。
白弓の金色の弦を引き絞る。背中と両腕の筋肉が膨れ上がるような力を込め、アルケイデスは渾身の矢を放つ。
「
瞬間。
遥か彼方まで飛翔した大矢が中天に坐す日輪に直撃し、太陽が堕ちた。
長いので切り、次回に。