ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
太陽が堕ちる。膨大な熱と光の塊が失墜する。瞬間、世界は落陽に至った。
地上より光が消え去り、ただアフリカの大地と、傲然と屹立する半神半人の
人間など瞬間的に蒸発させる熱量を前に、人の身で命を保てるのは何故か。彼の中に流れる神の血は不滅だが、しかし人としての血と肉はその限りではないはずなのに。
理不尽である。不条理である。しかしそれが人のカタチとして生命を得たのが、神の敵たりえる巨人を滅ぼす【力】の擬人現象。遍く万物、万象を捩じ伏せる怪力の半神。ただ彼が彼であるというだけで、太陽の輝きを至近で浴びても健在である所以。故に人は彼を畏れ、神は彼の存在を歓迎して
丸い神の光の炎が、熱を収めていく。やがてカタチとなったのは、光り輝く太陽を象りし冠を金髪に載せた、太陽の光の神である。――アポロンではない。彼こそは真昼、彼こそは太陽を東から西へ廻す地上の光そのもの。名を太陽神。輝ける光輪。
ヘリオス。彼の美丈なる者が、弓を下ろしたアルケイデスを見据えていた。
『まさか神の玉体に射掛けるとは』
純粋に驚くやら、感心するやら。胸に突き刺さっていた大矢を片手で抜き取り、こともなげに地面に放るのは、彼が不死の神であるが故の剛毅さである。
自身に痛みを与えていながら、アルケイデスに対し激した様子もない。射掛けた当人は油断無く口を真一文字に引き結び、不穏な動きがあれば一戦を交わす気構えを崩していなかった。
らしくない、とアルケイデスを指して言う者もいるかもしれない。だが違う。いつもと変わらず、彼は彼
ヘリオスは金色の瞳でアルケイデスを見詰めている。その眼にあるのは観察の意。アルケイデスは思い出していた。彼の二つ名を。異称を。
――密告者。
太陽たる彼は、日の昇る時は常に天上から照らしている。故に彼は常に己の照らしているものを視ているのだ。
愚神を演じていた、まだアレスという名だった戦神と、美の女神の不倫現場をヘパイストスに密告したのは彼である。ハデスが豊穣の女神にして、大女神と称されるデメテルの娘ペルセポネを攫った時、デメテルはハデスがそんなことをするはずがないと疑うと、そこにゼウスが関わっていることをデメテルに密告したのも彼である。
故に密告者。疑いや罪を白日の下に晒すと、幼子達が罪を犯さぬように窘めるのは、
『ふむ。私に射掛けた豪胆な勇者とも思えない。警戒を解いたらどうだ?』
「……ヘリオス神。
『
静かな問い掛けに、ヘリオスはこともなげに肯定を返した。
微かに眼を剥くアルケイデスに、ヘリオスは肩を竦める。厳格で公正な神なのに、その剽軽な仕草は似合っていた。
彼は世間話をするように口を開く。
『――この地は、かつて我が子が私に戦車を貸してくれと請い、通った地だ』
「……?」
『ナイル川は我が子が私の戦車を御しきれず、暴走した結果に出来た通り道である。神王はそれを止めるために雷霆を投げ、我が子をエリダノス河に落としてしまった。安易に戦車を貸した私は慚愧の念に駆られたものだが、結果としてこの不毛の地に恵みを齎す一助となった。それを誇りに思う。我が子は愚かだったが、その因果が結果として善果となったのだから』
「……何が言いたい?」
反駁に答えず、彼はなおも語る。
『私も子供は可愛い。死んでしまったが、アレが遺した軌跡をどうしても眺めたく、いつもこの国、この地には近くに寄りすぎてしまう。そのせいでアフリカは
「………」
『さて』
言って、ヘリオスは無造作にアルケイデスへ歩み寄ってきた。
警戒心を強める彼を気にせず、ヘリオスはその手に豪奢な盃を現した。
赤々と照る宝物だ。
『私を射落として見せた弓の腕と、その剛毅さを嘉し褒美を賜わす。受け取るといい』
「………」
『これは乗り物にもなる。空を飛べる。ああ、お前にはその牝鹿がいるか。だが他の者を連れて飛ぶ時は有用だろう。お前の供と、お前の所有物を載せるのなら……そうさな一つの城、とまではいかんが、その四分の一程度なら運べよう』
「……なんのつもりだ?」
『褒美だと言った。
読めない。この神の魂胆が見透かせない。
押し付けられた手の中の盃をケリュネイアの口に噛ませる。怯えて歯を鳴らしていたケリュネイアは、それを噛んで震えをなんとか抑えた。
一歩下がりヘリオスから間を外そうとすると、彼はそれを制止して更に近づき、秘密事を囁くように耳元で告げた。
『
「――――」
咄嗟に。
アルケイデスは、瞬時にとびのいて戦闘態勢を取った。
殺気が漲る。さながら死の津波。不死の存在とて凍りつくような絶望の波動。
それに対しヘリオスはあくまで涼し気だった。恐ろしがる理由がないと言わんばかりに。
『私はどちらの味方でもない。ではどちらに非があるかと考え、それはゼウスだと断じた。ゆえ、密告した。それだけのことだ』
「……我が子を殺された怨みか?」
『さて。それはどうだろう。神王は大局を見据えた手を打てる、頂点としては申し分のない存在だ。その反面、どうにも小さな所で躓く傾向がある。灸を据えるにはちょうどいいと思っただけかもしれない。尤も……
爽やかに嗤い、ヘリオスは翔び立つ。天高く浮遊していく。
彼の人のカタチは失われ、再び太陽そのものとなった。世界に光が戻る。焦げ付かんばかりの熱気が去る。その間際に、アルケイデスは一つの問を投げた。
「ヘリオス神!」
『……なんだ?』
「私が今、十番目の勤めの最中なのは知っているはずだ。しかしエウリュステウスは同時に十一番目の勤めも授けてくれた。それは
『おやおや……まあ、いいだろう。今は気分がいい。何せ
一瞬、極光が爆ぜる。目が眩み、空の太陽を見上げるも、既に視線は感じなかった。
――わざと視ていて。わざと近づいた。
公正な天秤の秤を、己の中の蟠りを解消するためだったのか。それは分からない。分かる必要もない。ヘカテーの名が出た所以もどうでもいい。
ゼウスが、己を見張れと太陽神に命じた。アポロンでは無理だと判断し、ヘリオスという密告者を使って。またぞろ対象が自分に懐く感情を見誤ったようだが、人選はどこまでも正しい。
問題は、ゼウスがこの身を警戒しだしたということ。
アレは欠陥こそ多いが、それでも狡知に長けた全知の神でもある。それが警戒心を向け始めてきたということは……。
(……気づかれたのか?)
考え、それはないと断じる。アレの性格上、アルケイデスの目的を知れば、アルケイデスに近しい者を人質に取るか、脅すなりしてアルケイデスをギガントマキアに使い、然る後に言いがかりを付けて処分しようとするはずだ。
であるなら、まだ気づかれていない。警戒の所以は別の所にある。それがなんなのかまでは分からないが……イオラオスかテセウス辺りなら分かるかもしれない。知という分野では、己を凌ぐ二人だ。しかし訊ねることはないだろう。この件に関しては巻き込むわけにはいかないのだから。
「………」
ケリュネイアの口から神の盃を抜き取り、鎧の内側に収納する。未だ震えの治まらないケリュネイアの首筋を撫でて宥めた。
黙り込み、ふと腹が減ったなと思う。喉も乾いた。それに無性に暴れ出したい気分でもある。案外、自分も不安を懐いていたのかもしれない。苦笑してケリュネイアを連れて近くに町がないかを探すことにする。
恐れがなくならないのか、ぴとりと寄り添ってくるケリュネイアを気遣いながら。
そうして歩いていると、彼はエジプトに辿り着く。ギリシアとは違う独特な服を着る彼らに物珍しげな眼を向けるも、その国の民達は同じ眼でアルケイデスを視ていた。
そればかりか、殆どは憐憫の眼差しを向けてくる始末。流石にこの熱帯で鎧兜を装備したままではいられず、防具を外して布に包み、剣に吊るして肩に担いでいたから外見上はただの大男だ。旅の衣装だから憐れまれる理由はないはずだと思うのだが、彼らの憐憫の所以が気がかりだった。
しかしすぐに理由を察する。物々しい気配の兵士達が、盾と槍で武装しアルケイデスとケリュネイアを取り囲んだのだ。
数は三十。雑魚ばかりかと戦力を見て取る。兵士の一人が槍を突きつけてきて恫喝してきた。
「旅の者だな? エジプト王ブーシーリス様が貴様の身柄を所望だ、大人しく付いてこい!」
「ほう? 旅の者に斯様な無体を働くか。目的はなんだ?」
「っ……?」
恫喝されたというのに、まるで恐れた様子のないアルケイデスに兵士達は困惑した。だがすぐに気を取り直し、冷淡に告げる。
「貴様が知る必要はない! 黙って付いて来ればいい!」
「……いいだろう。しかし今の私は些か空腹だ。喉も渇いている。一食、馳走に与れたなら大人しくついていこう」
その戯言に、カッと兵士の目に怒りの火花が散った。
だが、それは瞬間的に鎮火する。アルケイデスが彼にだけ伝わるように、その眼光から一筋の殺気を放射したのだ。それに射抜かれて、兵士は凝固する。
さながら天の雲を貫く絶壁。絶望的な戦力差。それを兵士は本能で無理矢理理解させられたのだ。
そんな彼に、静かにアルケイデスは告げた。
「今、無性に暴れたい気分だ。王命を果たすためなら、安い出費だと思うがな」
「わ、分かった……」
「隊長!?」
慌てた様子の彼の部下だったが、兵士は無言でアルケイデスを案内した。
彼の家なのだろうか。妻らしき女がいる。驚いた様子の黒い肌の女は、夫の命を受け食事の準備を始めた。
それを黙って見ながら。そして用意されて出された食物を喰らいながら考える。
およそ善からぬ事態だとは察しが付いている。こういう時、どうすればいいかを考えて、悪しき王ならば除くまでと剣呑に結論した。しかしその配下にまで罪はあるだろうか? 彼らにも家庭があり、子がいる。女の後ろには幼い男児が居て、隠れてアルケイデスを視ている。その視線に気づかぬふりをしながら、アルケイデスは一つの小細工を思いついた。
完食し、杯に注がれた水を飲み干す。
そしてやおら、布の包を解いて白剣を取り出した。あっ、と上げられた声よりも速く兵士の首に突きつける。
「気が変わった」
「ぁ――」
「私をこの国の王の下に連れていき、何をする気かは知らん。故にそれを吐け。……死にたくはないだろう?」
知らない、となんとか兵士は言った。アルケイデスは欠片も殺気立っていない。それが却って恐ろしい。その返答に、男は残念そうに告げる。
「そうか。なら貴様の妻と子に聞こうか?」
「!? そんな、馬鹿な!?」
「無体はしたくないが……仕方ない。仕方ないだろう? 貴様が知らないのなら――」
「知っている! だからやめろ!」
兵士は必死になって吐いた。王の目的を。
――以前、エジプトでは作物が実らなくなった。そこでブーシーリス王は予言者を招き、どうすればよいかを訊ねた。その予言者は、異国の人間をゼウスへの生贄に捧げればよいと告げ、ブーシーリス王はその予言者を最初の生贄にした。以後ブーシーリス王は旅の者を捕まえては生贄にしているという。
アルケイデスは鼻を鳴らした。剣を下ろす。包から金の粒を一つ出し、それを卓の上に置いた。
「よく話してくれた。……すまなかった。こんな脅しは本意ではない。これは迷惑料と食事の対価だ」
「は……?」
「ああ――それと。王命に歯向かったという風聞が立てば困るだろう。私はこれより貴様の王を誅する。人を生贄にするなどと、弱者の守護神が命じるはずがない。大方たちの悪い詐欺師に引っ掛かったのだろうが……勘弁ならん。貴様は此処で私に襲われ、気絶させられたということにしておけ」
言って、アルケイデスはその兵士に当身を食らわせ容易く意識を奪った。
付いてきていた彼の部下達も、一人を残して同様にする。世話になった家の女と子供は怯えていたが、謝ることはしない。そんなものはただの自己満足で、これからおこなうことも自己満足以外の何物でもないのだ。
残した兵士の武装を奪う。そうして衣服を襤褸のそれへと破り、彼を脅した。自分が旅人だと、王の前まで進めと。
震え上がった男を先に進ませ、自身はその後ろに遠く離れて気配を断ち、隠れながら付いていった。離れていようと自分の視力なら問題ない。そうして事の顛末を見定める。
ブーシーリス王らしき男が襤褸を着た男を捕らえさせ、生贄の祭壇まで連行して行った。アルケイデスは祭壇を視界に収めると、弓に小ぶりな矢をつがえる。狙撃しブーシーリス王の首から上を爆ぜ飛ばした。
騒然とする軍集団の頭の上を、ケリュネイアに乗って飛び越えていき、祭壇の上に着地する。襲撃者が誰か分かったのだろう、王の仇を取ろうとする彼らに向けてアルケイデスは吼えた。
「貴様らの王は要らぬ犠牲を敷いた愚王だ。故にこの私が成敗した! 貴様らの捕らえている男は、私が脅した貴様らの仲間だぞ。私は去る。追ってくるのなら好きにするがいい。だが――遠い異国の地に追いかけてまで、仇を取りたいと思える王だったのか、ブーシーリスは? その点をよくよく考えて行動せよ。追う者は容赦なく斬る!」
ハァッ! 気合の声を発してケリュネイアの腹を腿で軽く絞め、牝鹿を彼方へ向けて跳躍させる。跳び跳ねた瞬間にアルケイデスは弓に大矢をつがえ、本気で祭壇に向けて矢を放った。
一撃で粉砕され、瓦礫の山となった華美なる祭壇を、軍集団は呆然と見る。彼らの中に、アルケイデスを追おうとする者はいなかった。
ゆったりと駆けるケリュネイアに騎乗している英雄はそれを確かめ、そのまま駆け去っていく。
こうしてアルケイデスは容易く悪逆のエジプト王を討ち、他に犠牲を出すこと無く立ち去った。
この一事は後の勧善懲悪の物語の原典、その一つに数えられる逸話として語り継がれていくこととなるのだが――やはり、アルケイデスにとってはどうでもいいことだった。