ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
しかしそんなはずはないと作者は考えてます。
死者は冥界では国民、国力。もしくはお互いの縄張りです。
普通に仲良くできるはずもなく、ハデス様とエジプトの冥府の神様は、睨み合いながら死者を奪い合うか、互いの国で線引きして干渉し合わないようにするしかない。よって仲良くとか不可能と、拙作では取り扱います。
外界の者を拒む冬の世界。人の痕跡を塗り潰す陸の孤島。自然の秘境に吹雪く白い風が、その地を白く染め上げている。
その只中に根拠地を置くのは、冬の聖女の末裔、錬金術の大家アインツベルンだ。アインツベルンとは第三魔法を実現した魔法使いの弟子達により、西暦一年に作られた工房の残骸である。
魔法使いの弟子達は、人類の救済のために第三魔法を再現しようとした。しかし彼ら自身の手ではどうあっても叶わず、やむなく『第三魔法の使い手と同一個体を製造し、その個体に第三魔法を再現させる』という代案を採択した。
九百年近くの研鑽の末に、彼ら弟子達は師と同等かそれ以上の性能を持つホムンクルス、ユスティーツァを鋳造することに成功している。しかしそれは、彼ら自身の技術や努力とは関係のない完全な偶然から生まれたものであった。それを屈辱とした彼らは、自らの技術体系によってユスティーツァを超えるホムンクルスを作ろうと努力したものの挫折し、総ての弟子達は城を捨て、命を絶ち――アインツベルンにはホムンクルスのみが残された。その創造主に捨てられたホムンクルス達が、創造主の目指した理想と目的のために稼働させ続けている工房こそが『アインツベルン』なのである。
――彼らはホムンクルスだ。人ではない。己の意志がない。故に彼らがホムンクルスである故の、致命的な失態を演じていた。
その総ての元凶は、アインツベルンの頭首アハト翁にある……訳ではない。
むしろ堅実で確実な計算を元に、合理的に布石を打つ人形である彼の采配に従っていれば、失敗はあるだろう……しかしいつかは成功という成果を得られていたはずだ。
それを阻んでいるのは、彼らが秘宝として所有している呪いの宝具だ。人であれば確実に捨て去っている類いの代物である。
其の宝具の名は『ラインの黄金』という。遠い昔、霧の一族が死の間際に英雄に語り継いだ。『この財宝には呪いが注がれている』と。これを保有する者は、何もかもが悪い方向へと転がるという、誰にも止めることができない因果操作の呪詛があるのだ。
故に『ラインの黄金』を、創造主の遺産とするアインツベルンのおこないは、何もかもが悪い方に出目が出てしまう。ホムンクルスという被造物故に、それを捨てるという発想がなく、結果何もかもが裏目に出ているのだ。そしてそれに関する自覚まで、ホムンクルス故に出てこない始末である。
聖杯戦争に懸ける彼らの妄執、悲願は叶うことはない。アインツベルンの望みがそれ故に、呪いの黄金は決してそれを叶えさせない。彼らが滅び去っても、アインツベルンの悲願は決して叶わないだろう。
そして呪いの黄金を所有している事実は、アインツベルンの頭首しか知り得ておらず――傘下の者達は呪いに対する対策も立てられなかった。
もはや万が一を語るだけ徒労となるが、第四次聖杯戦争の勝者、衛宮切嗣が知っていれば、いの一番に処分していただろう。アハト翁が自立した意志を持っていれば、第三次聖杯戦争以前に処分し『
そして。
確実な勝利を期し、第四次聖杯戦争から得た思い込み……狂戦士のサーヴァントこそ最強で、裏切りの心配のない手駒であるなどと考えることもなかったかもしれない。
「告げる……」
幼い少女が、まだ第五次聖杯戦争の開催を待たずして、開催地日本を遠く離れたドイツの地で、英霊召喚を試みようとしていた。
顕現していない聖杯のバックアップのないそれは、幼い少女に大きな負担を強いる。それこそ英霊が召喚されれば、サーヴァントが身動きするだけで大きな苦痛を感じるだろう。負荷の大きさは拷問のそれに等しい。ましてや――召喚の触媒として用いられるのが、彼のギリシア最強、人類史最大の英雄の兜ともなれば、召喚されるのは彼の大英霊しか有り得ない。もはや死ねと言われているのに等しい。
無論死なせはしない。どんなに苦痛でも死なせない魔術式がアインツベルンにはあるし、英霊を一騎維持するだけならばアインツベルンの最高傑作――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは見事耐えてのけるだろう。
「――告げる」
呪文を唱える少女の声は震えていた。
彼女は幼い姿だが、それは単に肉体が成長不良に陥っているからで、その実年齢は十代後半である。
もともと聡明で明晰な頭脳を持つイリヤスフィールは、これから自身を襲う苦痛が如何ほどのものか想像することができた。
恐怖に身が震える。これは罰なのだ、逆らえない。イリヤスフィールには一寸も責はないが、イリヤスフィールの父・衛宮切嗣がアインツベルンを裏切ったから、その娘のイリヤスフィールに咎があると、幼い頃から洗脳するように何度も言い含められてきた故に彼女はこの理不尽を正当なものと認識している。
それが故に切嗣への憎しみを募らせるのだ。切嗣が裏切らなければ――自分を捨て、冬木で養子を取って平穏に暮らしていなければ。――迎えに来て、くれていれば。こんな目に遭わなくてもよかったのに、と。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
殺してやる。
イリヤスフィールは殺意と憎悪を秘めて、これから訪れる苦痛を堪えるための覚悟を固めた。その憎しみがなければ、とても堪えられない。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
これから召喚する英霊を想う。
その身は最強。その勲は究極。■■■を成し、人々を統べた金色の獅子の鎧を纏った――勇者の語源となった英雄旅団の頭目。戦神マルスが指して述べるに第一の信徒。
故に号して戦士王。
ヘラクレス。全英霊中その膂力に及ぶ者無く。その武勇に並ぶ者など片手の指で数えられる。まず間違いなく一、二を争う戦闘力を誇るだろう。
「――されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。
汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
それを狂化して、ダメ押しとする。
イリヤスフィールの性能を以てすれば、そのステータスは限りなく大きくなり、更に狂化の恩恵を受ければまさしく暴虐の化身がごとき強さを発揮するだろう。
第五次聖杯戦争は、アインツベルンの勝利に終わる。そう断言しても良い。それほどの戦力なのだ。
問題は。それを、大聖杯のバックアップが無い状態で、イリヤスフィールが御し切れるかどうかだ。サーヴァントを拘束する術はあるにはある。大聖杯のバックアップが無い、万全ではないマスターによって、ステータスは軒並み低下し宝具も満足に扱えないはずだ。拘束するのは不可能ではない。だが不安は尽きない。
(痛いのかな……)
イリヤスフィールは漠然と想う。
既に体は苦痛を訴えている。召喚の儀式が終わりに向かうほど、じわりと恐怖が忍び寄ってくる。顔を険しくする一方で、その幼い顔にはどうしても怯えが含まれていた。
(やだ……痛いのは、いやだ……キリツグ……助けてよ……なんで……)
憎んでいても、殺したいと思っていても。第四次聖杯戦争から現在に至るまで、ずっと続いてきた責め苦を堪え忍んで来られたのは、良くも悪くも切嗣の存在があったからだ。
父親なのだ。幼い心を育めず、幼い心身のまま時を経た少女は、憎んでいても父親を求めている。切嗣に――助けてもらいたがっている。
だが切嗣は死んだ。何年も前に、廃棄されたホムンクルスの口からその事実を知らされ、彼が養子を取っていたことを知らされた。その養子への復讐は、イリヤスフィールの生きる目的になるはずだと唆されて。彼女の心の支えは、もはやそれだけになっていた。
(殺したい……助けて……殺してやる……助けてよ……殺す……わたしを助けて――おとうさん――)
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」
――ひとつ、誤算がある。
イリヤスフィールの、ではない。例によってアインツベルンの誤算だ。ラインの黄金に齎された、彼らにとっての不運だ。そしてイリヤスフィールにとっての福音である。
ギリシア神話最大の英雄。人類史上に明確に残された物証により実在を確実視されている、史実の中でも最大最古の大英雄。それがアインツベルンが召喚しようとしているサーヴァントだ。
彼には二つの名と二つの顔がある。生前ならばそのどちらも完全な同一人物だが、英霊の座に刻まれたことで、二つに別れているのだ。
名は、ヘラクレスとアルケイデス。神の栄光、マルスの栄光。
顔は、神話の英雄としてのものと、史実の大王としてのもの。
アインツベルンは彼を狂化させることで、その適正を持つ神話の大英雄としての『ヘラクレス』を喚び出そうとしていた。
『ヘラクレス』の冒険はヘラに狂わされることで始まる。愛する妻子をその手で殺害することになった悲劇的な逸話の知名度は非常に高く、高ランクの狂化適正を獲得するには充分であった。こちらを喚び出せば神話の戦士としての彼が招かれ、狂化の檻に閉じ込められるはずなのだ。
『アルケイデス』として喚び出されれば、彼は狂わない。戦神マルスを信仰し、戦神と縁深い戦女神アテナによって加護を与えられたアルケイデスは、その名をマルスに呼ばれる故に英霊『ヘラクレス』とは区別されている。神話は神話、史実は史実と。二つの名で語られる故に、遙か時の果てだからこそ正確な記録を真実と判断できず、人の信仰によってカタチを変える英霊たる彼の性質も分けて見られている弊害があったのだ。
すなわち狂戦士の彼の英雄は『ヘラクレス』でしか有り得ないのである。
だがそれはあくまで魔術式の効果。召喚に応じるか否かは、英霊側に選択権がある。強制的に召喚することも可能だが、彼ほどの英霊ともなればその強制力も弾けるのだ。
英霊の座に刻まれた彼の英雄の本体とも言える英霊は、その声を聞いた。その意識の裏にあるものを聞いた。召喚主の求めるものを。
父親を、求めていた。
護ってくれる人を、求めていた。
救いを――欲していた。
ならば。用意された狂戦士の檻など、どうして忌避しよう。幼子が救いを求めているのに、どうして召喚を拒もうか。求められるままに彼は英霊の座から分霊を送る。サーヴァントに身を窶すことを是とした。
アインツベルンの誤算とはそれだ。
狂戦士の座を用意した以上、召喚されるのは神話の英雄としての彼だ。しかし召喚主である少女の深層心理の求めに応じたのは、より父性の強い側面――『アルケイデス』だったのだ。
すなわち、威名高らかなる戦士王。試練に挑む半神半人ではなく、人類の信仰の在り方を次のステージに推し進めた偉大な王者である。
ヘラクレスでも、アルケイデスでも、その戦闘力に違いはない。スキルは違う、宝具も違う、性格も微妙な差異がある。しかしその本質は変わらない。
ただ、サーヴァント『
そして矛盾が発生するのだ。狂戦士の適性は『アルケイデス』にはない。しかし現実にあるのはその座であり、正式な呪文と儀式によってそれ以外のクラスにはなれないのだ。招かれたのは『ヘラクレス』でも、応えたのが『アルケイデス』で、無理矢理その座に押し入ってしまえば狂戦士の適性を持つ神話の戦士『ヘラクレス』としての側面も併せ持つカタチとなる。
アインツベルン、痛恨の誤算。それこそが英霊ヘラクレスと英霊アルケイデスが、天文学的な確率の極小の可能性の中で奇跡的に同時召喚されてしまうというものだった。英霊として分けられた『ヘラクレス』と『アルケイデス』が、この時、この局面、イリヤスフィールをマスターとした時に限って。英霊という括りの中では限りなく生前に近い、本来の『戦士王アルケイデス』を召喚することに繋がるのである。
「問おう――」
イリヤスフィールは、あれ? と首を傾げた。
呪文の完成と共に眩い光が発され眼が焼かれるようだったのが。光が収まり、英霊召喚を成功させた手応えがあるのに、体と全身の魔術回路に掛かる負荷が先程と変わらないのだ。サーヴァントが指先一つ動かすだけで激痛が奔るはずなのに。
痛いのは、痛い。けど泣き叫ぶほどではない。我慢できる範囲である。拍子抜けだった。もしや召喚が失敗したのかと顔を青褪めさせる。そして、次の瞬間に驚愕した。
狂って理性のないはずのサーヴァントが。ひどく温かい声音で。確かな理性を以て。
そんな、と思う。イリヤスフィールは愕然として現れた偉丈夫を見た。
代名詞とも言える黄金の獅子の鎧を着ていない。剣も弓もない。腰に上質な布を巻き付けた格好である。
無駄なく鍛え込まれた鋼の如き肉体と、精悍な面構え。背中まで届く癖のある黒髪。慈悲深く慈しみに満ちた眼差しに、イリヤスフィールは呆然とした。だってそれは、狂戦士には有り得ない感情の色そのものだったから。
そして彼は名乗る。その偉名を。
「
「――え。バーサーカー……?」
ひどく存在感の希薄な英霊だった。そして告げられた真名は、ヘラクレスではなくアルケイデスである。無論イリヤスフィールはアルケイデスが等号でヘラクレスと結び付けられる。しかし極めて不可解だった。
なぜ狂戦士が話せるのか。明確な理性を残しているのか。意味がわからない。全く以て理解不能。てっきりバーサーカー以外のイレギュラークラスなのかと思いきや、そうでもないらしいことに困惑する、
イリヤスフィールはこの時はまだ、己の起こした奇跡を知らない。己が聖杯である故に、その魔力が持つ『願いを叶える』という魔術特性が、自身の望みである救い手を招いたのだと知らない。
――冬の城に吹雪く白き風。召喚の儀式に用いられたその場にて、大きな英雄と、小さな姫が邂逅した。それはまさに、
――バーサーカーは、つよいね――
イリヤスフィールは、淡い笑顔を浮かべていた。吹雪の止んだ冬の城、その領域で佇む枯れ木の傍に偉丈夫が座り。その膝の上に乗った小さな姫は、甘えるように背中を預けて偉丈夫の顔を見上げていた。
周りには、狼の群れの死骸がある。アインツベルンの領域に生息したことで、魔獣の特性を微かに帯びていた狼達は、イリヤスフィールを襲ったもののそれを護る巨雄により容易く屠殺されている。
――本来召喚される予定だった『ヘラクレス』がバーサーカーだったなら。
理性がない故に手加減できず、大聖杯の補助無しに彼を維持するためイリヤスフィールはヘラクレスが指先を動かすだけで悲鳴を上げる毎日を送っていただろう。
そしてイリヤスフィールはそんなヘラクレスを罵倒しかしなかったはずだ。しかし冬の城で孤立しているイリヤスフィールが頼れるのはヘラクレスだけで。苛烈な訓練の末に、人格を失っているはずのヘラクレスと固い絆を結ぶに至っていただろう。
そうして聖杯戦争が近付きヘラクレスの制御に慣れると、苦痛の仕返しとして彼から理性を奪い、完全に狂戦士として扱っていたはずである。
しかし此処にいるのはアルケイデスだった。指先一つ動かすだけでイリヤスフィールに悲鳴を上げさせるような負担を掛けていない。
それは限りなく霊体に近づき、存在感を希薄にしているから。不必要な運動を控え、自身の保有する宝具を消している故の……謂わば魔力の節約を自分で心がけているからだ。
何より理性があり、会話ができる。イリヤスフィールにとって、これは大きかった。切嗣や母アイリスフィールと同じ、無条件に自分の味方になってくれる存在は、彼女の心の琴線を擽り。アルケイデスの持つ父性と言えるものに、知らず知らずの内にべったりとなついてしまったのである。サーヴァントの制御に魔力を吸い上げられているため、見た目相応の力しか発揮できないイリヤスフィールを、狼の群れからアルケイデスが護ったのが決定打となったのだ。
安心材料はそれだけではない。イリヤスフィールはサーヴァントという存在を知り尽くしている。自身に令呪があり手綱を握れる立場と力があることも、イリヤスフィールの精神安定上大きな助けとなっていた。バーサーカーは自分を絶対に裏切らない――その確信は、令呪という打算があるからこそ、何よりも強固なものとなっているのだ。
「ふぅん。じゃあ、バーサーカーはきちんと宝具を持ってるのね」
アルケイデスは薄い笑みを浮かべて自分を見上げるお姫様を見る。そして穏やかに応えた。
「ああ。セイバーやアーチャー、ランサーなどの三騎士ではなかったことは幸運だったかもしれないな。クラス・スキルというアドバンテージは得られていないが、宝具の数自体はライダーの私に次ぐだろう。マスターの負担にならぬよう、聖杯戦争が始まるまでは出すつもりはない。ケリュネイアがいないのは寂しいがな……」
「神速の牝鹿ね。ね、伝承通りに黄金の角と青銅の蹄を持ってるのって本当なの?」
「そのとおりだ。ついでに言えば毛並みも良い。もふもふだ」
「もふもふ?」
「ああ、もふもふ」
「……んもー! なんで持ってきてないの!? 触りたいー!」
じたばたと手足をばたつかせるイリヤスフィールに、アルケイデスは微笑む。
子供によく好かれるアルケイデスは、その相手もお手のもので、何が気を引くかも知悉し関心を引く会話ができた。話し方も柔らかで、イリヤスフィールの心を安らがせている。
今この瞬間も、ある程度の痛みをイリヤスフィールは感じている。しかしもう慣れていた。少し我慢できないぐらい痛かったのは、バーサーカーが狼の群れを屠殺するために多少激しく動いた時だけである。
和やかに話していると、イリヤスフィールの関心は次第にバーサーカーの生前に向いた。
「ね、バーサーカー」
「なんだ、マスター」
「あなたと話してると、不思議に思うことがあるの。ほら、十二の試練の十番目のことよ」
「ああ――」
それに触れられ、バーサーカーは遠い目をする。過去を振り返る眼差しに、イリヤスフィールは興味津々に訊ねた。
「数千頭の牛をゲリュオンから奪った帰り、ジブラルタル海峡を叩き割って『ヘラクレスの柱』を作ったのって本当?」
「……本当だ」
嫌な思い出なのだろう。どうにも言葉尻を濁してしまう。
しかしそんな反応をするものだから、無邪気で残酷な一面もあるイリヤスフィールは却って好奇心を刺激された。
その話題を避けたり止めることはなく、むしろ嬉々として訊ねてしまう。
「伝承だと近道をするために山脈を割ったって言われてるけど、実際はどうなの? バーサーカーと話してると、そんなことしそうにないんだけど……」
「……むしゃくしゃしてやった。今は反省している」
「えっ?」
「私は生前、略奪を働いたことはない。ゲリュオンの一件以外はな。そのような真似をするのも御免だったが……ミュケナイのため、そして試練であるため実行せざるをえなかったのだ。だがゲリュオンは怪物だったが悪しき者ではなく……彼の者から牛を略奪し、やむなく射殺することになったのは今でも慚愧の念が絶えん。その帰り、罪の意識に耐えかねて、つい、な……」
「……ぷっ。
「笑わないでくれ……私にとっては痛恨事だったのだ」
顔を掌で覆い、バーサーカーは苦悶する。それが面白くてイリヤスフィールは暫くけたけたと笑い転げていた。
体を奔る痛みのせいか、それを意識して忘れるためにややオーバーなリアクションを取るようになってしまっているのだ。聖杯戦争がはじまれば、それも収まるだろう。
イリヤスフィールは根掘り葉掘りバーサーカーの生前の思い出を訊ねた。そうすることで相互理解を深め、関係性を強固にしようとしている。イリヤスフィールは、父代わりとも言える彼の全てを知りたがっていた。自分にとって唯一の味方で、唯一の話し相手で、唯一の――『おとうさん』だから。彼のことについてならなんでも知りたがるのは、イリヤスフィールの控え目な甘え方だった。
要は、構ってほしいのである。色んな顔を見たいのである。困った顔、怒った顔、悲しむ顔、懐かしむ顔、優しい顔、厳しい顔。その全部を。
だから平然と、彼の逆鱗に触れたヘラについても聞きたがり。若干バーサーカーを辟易させたりした。そんな顔にも無邪気に喜ぶのだから、バーサーカーは苦笑するしか無い。
「ね、ね!」
「………」
「二番目の妻って、ヒッポリュテだよね。途中まで突き放してたのに、どうして最後には結婚したの?」
「……本当に、マスター。お前というやつは、少しは遠慮というものをだな……」
「いいでしょう? だってわたしマスターだもん。そしてバーサーカーはわたしのサーヴァント! マスターの言うことは絶対なんだから!」
「とんでもないじゃじゃ馬姫だ……まったく」
そう言いながらも、結局は仕方ないと話してしまう。甘やかしてしまう。
バーサーカーはイリヤスフィールに関しては、徹底的に甘やかしてくれる相手が必要だと感じていて。だから最終的にはこちらから折れるようにしている。
恥ずかしくても、この程度は我慢できる。よほどの悪事でもない限り、諌めもせずに言うことを聞ける。全肯定してやれる存在に徹するのだ。
「そうだな――結局のところ、私は負けたのだ」
「負けた? どういう意味なの?」
イリヤスフィールはよく分からないらしい。それもそうだ。一言で語り尽くせるものではない。
遠くを見詰めて、バーサーカーは語る。そう、それは彼が『ヘラクレスの柱』を作ってしまった後のことだ。
『アルケイデス……』
切なげに呼ぶ声に、深く長い溜め息を吐いた――ケリュネイアなどはうんざりしたように荒い鼻息を吹き出し、やれやれとでも言いたげに首を振ってもいる。
ヒッポリュテだ。ぴたりと張り付いてくるわけではないが、傍にいて片時も離れようとしないのは歩きづらい事この上ない。
しかし気持ちを察する事はできなくもなかった。好いた男が一時は半年間も行方知れずだったのだ。相当に気を揉んでいたのだろう。アルケイデスが死ぬはずない、誰かに殺されるはずがない、けど何かがあったのは間違いなくて。気が気でなくて、心配で仕方なかったのだ。アルケイデスなら何があっても大丈夫だと信頼はしていても、脳裏を掠める『もしかして』という思いは拭えなかったはずだ。
『………』
その半年間、自分はのんびりと楽しんでいた。
出来の良すぎる武術の弟子と組手をし、ギリシアでは到底学べなかっただろう建築学と帝王学を、それぞれネフェルタリとラムセスから教示してもらえた。
自身の格闘術、パンクラチオンを独自に昇華したものを、異郷の格闘術を修めていたモーセから盗み織り交ぜて、更に改良発展させることもでき、更にその練度をモーセと共に高めることもできた。
充実していたと云える。その間、イオラオスやアタランテ、ヒッポリュテが自分を探し回っているだろうと分かっていたはずなのに、焦りもせず帰還の方法を探していたのだ。
故にヒッポリュテの様子に罪悪感を感じる。こんなにも想われているのに、己は予期せぬ良縁と巡り合い、自身を高められる感動に喜んでばかりいたのだから。
ラムセスには、自身が暗殺したエジプト王の領土について話し、後を託している。後顧の憂いはない。――そんな事情もあって、気にしてしまうのはヒッポリュテのことだけだった。
イオラオスは最初から心配していなかった。またどっかで何かしてるに決まってると決めつけており、再会した時にアルケイデスから事の経緯を聞き出すと息巻いていて。アタランテはそんなイオラオスを見て『汝がこうなんだ、ならば心配するだけ徒労だ』と構えていた。故にヒッポリュテのみを気にするだけでいい。
くどいようだが、半年だ。これだけ時間が空けば、彼女の熱情も冷めているのではないかと……期待していなかったと言えば嘘になる。
こんな面倒で、付き合えば大変な目に遭う男を想わずにいてくれれば、容易に彼女は幸せになるだろうと思っていた。――分かっている。それはアルケイデスの自分本位な逃げでしかない。彼女の幸せは彼女が決める、自分が決めるものではない。ヒッポリュテの望みは自分と共にいることだと分かっているのだ。
それに――不義理で不誠実だとは思うが、アルケイデスは自分以外の男と寝るヒッポリュテを想像すると、腹が立って仕方がなくなる。メガラを盾に逃げる己が、ひどく情けない男だとしか思えなかった。
『ヒッポリュテ』
『……なんだ?』
『すまなかった』
何に対して謝られたのか、よく解らなかったらしい。きょとんとしたヒッポリュテだが、可笑しそうに破顔する。凛とした美貌の女戦士長は、華やかな微笑みを湛えた。
『許そう。私はお前の総てを許し、肯定する。例え此の世総ての悪を成したとしても、私だけはアルケイデスの味方だ』
『……重いな』
『何を言う。お前にとっては軽いだろう? 此の世の総ての悪なんて、世界の三分の一程度の重さだ。アルケイデスの膂力なら軽い荷物にしかならない』
からかうように肘で脇腹を小突いてくるが、アルケイデスは重苦しく零す。
重い。此の世の総て、天地万物よりも。少なくともアルケイデスにとってはそうなのだ。人一人の感情の方が、世界なんてものよりもずっと重く感じてしまう。
ヒッポリュテは優しい女だった。ゲリュオンの牡牛を略奪し、持ち主を射殺する羽目になり。ジブラルタル海峡を叩き割ったアルケイデスをずっと心配してくれていた。
こんなに良い女が、他にいるだろうか? ……いるかもしれない。メガラがそうだ。だが彼女は死んでいる。彼女の存在を盾に、彼女への愛を忘れないがために、今あるものを無視するのは――ひどく、傲慢で愚かなものだ。
告白すると、アルケイデスもまた、ヒッポリュテの想いに絆されている。
このままなぁなぁで流す真似は、もうできない。ミュケナイを眼の前にして、アルケイデスは意を決した。ここでもう決着をつけようと。
『ヒッポリュテ』
『………ああ』
『お前は私を愛しているのか?』
『愛している。以前も言った。何度でも言おう。私はお前を愛している』
『そうか。ありがとう。……だが、私は亡き妻を今でも愛している』
『知っている』
アルケイデスの言葉に、ヒッポリュテは微笑んだ。メガラへの嫉妬もなく、あくまで自然に。
その貌が、あまりにも綺麗だった。
『……仮にお前と結ばれるようなことがあっても、私はメガラを忘れないだろう。彼女への愛を失わないだろう。そんな私を、お前は……ヒッポリュテは赦せるのか? 私なら耐え難い苦痛だと思う。ヒッポリュテとて、そうではないか?』
『侮るな、アルケイデス』
綺麗で、尊く。美しい。ヒッポリュテは神々しさすら感じられるほど、深い情愛を再び告白する。
『私は愛されたい。だがそれ以上に愛したいんだ。間違えるな、私が愛する。アルケイデス、お前を。お前が誰を愛しても、問題にはならない』
『――それは』
『仮に、だったか? ああ、心躍る仮定だな。……仮に私とお前が結ばれて、その後もお前が前妻を愛していたとしても構わないとも。忘れろとも言わない。愛を独占できないのは勿体ないが……私がアルケイデスを愛しているという事実は揺らがないんだ』
『は……なんだ。それは。はは……はははは! 変人といつか私に言ったが、お前の方こそ変人ではないか! ははははは! まったく、お前という奴は……!』
アルケイデスは、負けた。ヒッポリュテの穢れない、まっすぐで純粋な愛に、頑固に意地を張り続けていたものが、折られた。
大いに笑った。眦に涙が滲むほど笑い転げた。
やがてそれが収まると、アルケイデスはヒッポリュテを見詰める。そして真摯に、告げた。
『結婚しよう』
『――いいの、か? 冗談……だなんて、言わない……?』
『言わない。惚れた。お前に惚れたのだ、ヒッポリュテ。私と一緒になってほしい。私と共に生き、私と共に死んでくれ。お前の全てを私に与えてくれ。代わりに私の全てをお前に与える』
『ふ――ふふ、なんだ。お前も、重いじゃないか』
『お互いにな』
ヒッポリュテは、泣き笑いのような貌で感激し、感極まって涙を流した。
そんな彼女を抱き寄せて、アルケイデスは口づける。はじめて交わした接吻は、涙の味がした――
「も、もういいからっ! この話はおしまい!」
――イリヤスフィールは貌を真っ赤にしてブンブンと両手を振る。
バーサーカーが微笑む。彼から聞き出したのは自分だろうに、照れて耳まで赤くしている少女の純真さが可愛らしかった。
そんなバーサーカーの眼差しに、イリヤスフィールは不服そうに赤い頬をふくらませる。サーヴァントのくせにっ! そう毒づくも負け惜しみにしか聞こえない情けなさがあるのに、イリヤスフィール自身が悔しそうだった。
バーサーカーは誓う。彼女の身上を知った身として。
イリヤスフィールに、普通の少女としての人生を。聖杯に託す願いはそれだ。必ず勝利して、彼女の寿命の短さを克服させる。例え他者の悲願を潰すことになってでも。彼女のサーヴァントとして、彼女のことだけを優先するのだ。
必勝を誓う。全てはイリヤスフィールの幸せのため。故に――
(アインツベルン。貴様らは……
イリヤスフィールを縛り、痛めつけ、寿命を削り、この聖杯戦争で使い潰そうとする人形の巣窟を殲滅する。
まず手始めに、そこからはじめようと、静かに憤怒する戦士王は算段を立て始めていた。
書き辛いゲリュオンを、未来から話す形で巻くマジック。
なお次からは普通に時系列戻る模様。