ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

55 / 111
お、お久しぶりです(震え声)





10.5 不毀、流星九条

 

 

 

 

「鍛造の神に奉る。我が願いを聞き給え。祖国を守護せんと決起せし雄偉の志に嘉し、彼の者を英傑成らしめる物として担うに足るよう、御身の鍛えたる大槍に加護を授け給え。代価に御身の無聊を慰めよう。あれなる獣の骸こそ、鍛冶司る御身が手にされるに相応しい」

 

 ヒッポリュテとヘクトールが、その祈りにギョッとする。果たして、アルケイデスの張り上げた大音声に、暫くの間を空けて天から一柱の神が降臨した。

 ギリシア世界に冠たるオリンポス十二神、長たる神王と女王を除きその席に明確な序列は無い。然し最高位の神格を有する神々に於いて、彼の者を軽んじられるモノなど、それこそ道化を演じていた『アレス』を措いて他に無いだろう。

 鍛冶の業に己が魂魄をも打ち込む下位神格、単眼の巨人(キュクロプス)を眷属とする彼こそが神々の武具を鍛えた神の鍛冶師。名をヘパイストス。名だたる総ての神々の武具は彼とその眷属により産み出されたものだと言えば、無骨な鍛冶師としてのヘパイストスの力量、その片鱗を知れるだろう。

 

 岩壁に打ち寄せる波濤に海獣の遠吠えが混じっている。肌に微弱な痺れを齎す大気の振動が、神罰を運ぶ海嘯の獣の強大さを思い起こさせた。

 

 それを切り裂くように、鍛冶の神の鋼の神性が降り立った。

 醜い隻眼の小男である。脚は不具、纏う具足は無骨なれども至上の鋼。杖をついた神は機嫌悪げにぎょろりとした隻眼で三騎の英傑を睨めつける。

 唐突な呼び掛けと祈りに応じたヘパイストスは律儀と言えよう、元よりその小アジアやレムノス島、シチリア島の民以外からは信仰が薄い故に、インド神話の火の神ヤヴィシュタの同位体である彼は珍事と言える祈りに過剰に反応してしまったのだ。見れば、その眼は眠そうである。床についていたのかもしれない。不興を買ったのかと顔を強張らせるヘクトールと、険しい目つきで警戒するヒッポリュテを尻目に、ヘパイストスはじろりとアルケイデスを見遣った。

 

『……そこもとよ。儂とは久しいというのに、随分と不躾な願いではないか』

 

 ヘパイストスの仏頂面を、笑い飛ばせるのは世界広しと言えどこの男だけだろう。嫌味もなしに笑い、アルケイデスが肩を竦める。

 

「人の身である私にとっては久しくとも、神たる御身にとってはそうでもないはずだろう? 万年を経てなお不滅である貴殿からすれば、数年程度は瞬きもせぬ内に過ぎ去っただろうに」

『……見ない内に威風が増したか。それに減らず口を叩くようにもなった。アレスの戯けに影響でもされたか? フン、気に入らん』

「マルスだ、神ヘパイストス」

『……ん?』

 

 引き篭もっていたのか世情に疎いらしい。いったいここ数年何をしていたのだろう。まさか眠りこけていたわけでもあるまい。

 アルケイデスは苦笑いを浮かべ軍神の改名を伝える。

 

「彼の御方は名をマルスと改めた。アレスなる道化は舞台を降りるとな」

『いみじくも神である奴が、名を改めた、だと?』

 

 訝しげに隻眼を眇め、醜男は顎に手を当て思案する。神の改名――その重大性は神であるからこそ深く認知できる。然しそこではたと思い出したかのように、ヘパイストスはヘクトールの持つ大槍に目を向けた。

 そしてやおら、不快げに吐き捨てる。

 

『……彼奴の槍を鍛造してやる前に拵えた、儂が随分と昔に廃棄したはずの習作ではないか。因果なものだ、トロイアに流れておったか……。それを儂に鍛え直してほしい? 気に入らん、儂がそんなモノに手を加えるなどと……』

「軍神の槍の習作であるからか?」

『左様。何が虚しくて、嘗て廃棄した槍を手掛けてやらねばならん? こともあろうにアレス……今はマルスだったか。彼奴の槍の手習い作を』

「フム。……神ヘパイストス。御身の不満は分かるが、軍神アレスと戦神マルスを同列に扱うものではないと忠告しよう」

『……?』

 

 『軍』も『戦』も、呼び名こそ違えど同一の神格である。

 何故呼び分けるのか把握できず、何を言っているのかと視線で訊ねてくるのに、アルケイデスは若干の稚気を滲ませて答えた。

 

「神マルスは、気宇壮大な真の戦神。その力は主神に伍する」

『は……?』

「またその懐の深さは道化を演じていた頃の比ではない。もしも過去の神アレスが気に食わず、蟠りがあるなら神マルスに直接ぶつけるといい。なんなら一発殴らせろとでも言えば、甘んじて拳を受けてくれるだろう」

『……誰のことを言っておるのだ……?』

 

 信じられないと眼を見開くヘパイストスに、アルケイデスは微笑むだけだった。

 嘘の色は見えない。己が目を掛けた武人である英雄が、神と神の仲違いのためにこんな火種を撒くとも思えなかった。ならば本当に?

 ヘパイストスは黙り込むと暫し思案する。そしてにやりと豊かな髭に覆われた口元を歪め、面白いと呟いた。試してやっても良い、と。どのみち殴りたいと思っていたのは偽らざる本当の気持ちでもある。

 

『……よかろう。もしも彼奴が儂の妻を寝取ったことを侘び、儂の拳をその無駄に整った顔面に受けたのなら、彼奴への蟠りは捨ててやろう』

「そうするといい」

 

 安請け合いするが如く太鼓判を押すアルケイデスに、ヘパイストスは機嫌を直して頷いた。

 ――後に。果たしてヘパイストスは無骨な拳骨を握るとマルスの顔面に渾身の一撃を叩き込み、過去の不義を詫びさせた。そしてマルスが改名した所以を聞き、大いに同情する。この禊を以て戦と鍛冶の神は手を取り合うことになるのだが――こめかみに青筋を浮かべたマルスが、アルケイデスに怒鳴り込んで殴りかかってくることになる。

 それは必然の、戦神の気質を把握しているアルケイデスの仕組んだ計略だった。ヘパイストスを心情的に自陣に引き込む。ついでにマルスを少し怒らせて立ち合う。一石で二鳥を落とす手並みである。

 

 しかしアルケイデスは三つ目の鳥を狙っていた。

 

「それで、我が願いの代価としてあの獣は不足か?」

 

 問われるのに、ヘパイストスは神罰の海獣を一瞥する。そして笑った。一目でポセイドンの権能を預かる神の獣だと判別できたのだ。

 

『……ここのところ、暇をしておってな』

「そうだろう。寝惚け眼で降臨されたのだ。御身が手掛けるに足るモノなどそうはあるまい」

『左様だ。故にちょうど、手慰みに一仕事したかったところでもある。引き受けてやらんでもないが……儂の蔵の肥やしになるだろうな。儂の武具を握るに足りる格の戦士がおらん』

「いるではないか。此処に、二人も」

『む……? ……は、はははは! なるほどそういうことか!? ガッハハハ!』

 

 一瞬ヘパイストスは英雄の言葉の意味を呑み込みかね、そしてその真意を看破する。

 笑った。盛大に笑った。隻眼が濡れるほど笑った。アルケイデスの真意を知ったヘクトールとヒッポリュテも顔を引き攣らせる。

 まさか、そういうことなのか? こともあろうに、神であるヘパイストスを相手に、そんな戯言をほざいたのか!? 赦されない、赦されるはずがない。

 神罰――その二文字が脳裏をよぎる。だがそんな二人の緊張を他所に、ヘパイストスはなんとか噛み殺そうとするも、堪えきれないように笑いながら言った。

 

『儂に捧げた供物で……武具を作らせ! あまつさえ、それを自らに寄越せと!? ガハッ、が、グ……フッ、ハハハハハハ! なんだ? そこもとはいつのまに……そこまで厚かましくなったのだ!?』

「なに。以前、友に言われてな。私には傲慢さが足りぬらしい。ならばそれらしく振る舞ってみようかと思ったのだ」

『よりにもよって儂を相手にか!? 良い面の皮よ! ハハハハハハ!』

「御身の保険にもなるだろう? これなるは私の妻であり、マルス様の御子にして祭事を司るアマゾネスの巫女でもある。そして元女王であり、戦士長だ。彼女に武具を授けたのなら、もしマルス様が御身に殴打された時に怒り狂おうと矛を収めるだろう」

『そこか!? そこなのかヘラクレスよ!? 随分と愉快な男になりおったわ!』

 

 不敬である。不敬極まる。なのになぜヘパイストスはこうも愉快げなのか。理解できないでいる二人を横に、あくまでアルケイデスは飄々としていた。

 そしてあたかも、もう決定されたかのようにヒッポリュテに云うのである。

 

「ポルテ。そういうことだ。お前に贈る槍の素材は、ヘパイストス様の手を介してお前に渡るだろう。変則的だが私がガラクタを渡すよりは余程良いはずだが」

「……いや、私はそれでもいいが……もしかして私のために、鍛冶の神の不興を買うような真似をしたのか……?」

「否。ヘパイストス様は資格ある者に対しこの程度で怒りはしない。そして私にはその資格がある」

『然りだ、軍神の娘よ。案ずることはないぞ、そこもとの男は儂を()()()方法をよく心得ておる。何せこのバカタレは儂の造った武具しか扱わぬなどと誓いを立てておるのだ。並ぶ者のない戦士であるこの男がだぞ? ――これに滾らぬは鍛冶を司る神たれぬわッ! いいぞ。そこもとと、その妻の槍。確かに鍛えてやろう』

 

 ヘパイストスは鍛冶の神である。しかし同時に智慧者であり、優れた戦士でもあるのだ。職人肌である彼は自らの職務と腕前に誇りを持っている。その筋の人間にあるように、一度気に入った者に対しては入れ込む性質があった。そしてその気に入った英雄から自分の鍛えた武具しか振るわないと誓われるのは職人冥利に尽き、遠回しではあるが新しい武具をねだられてしまえば、満更でもない気分にもなる。

 相手は人間なのだ。頻繁にねだられるならまだしも、一度目はこちらから半ば強引に剣と弓、鎧を押し付けた訳もある。今や天界でも地上でも、果ては冥府の死者達の中ですら、口々に噂する大英雄が他ならぬ自分を頼ってきたのだから、ヘパイストスとしても鼻が高くなるというものだ。

 

 それは承認欲求。実の母に捨てられ、我が子と認められず、仲を修復してなお心理的な壁のある母を持ったヘパイストスは、己の醜さを自覚し他者からの視線に敏感でもある。彼には自覚がないが他者から認められたいという欲求が強かった。故にこの上なく自分を認め、頼り。祈るのではなく自分の腕を見込んでねだってきた英雄に機嫌を良くしたのである。

 類稀という形容すら陳腐に落ちる洞察力を持つアルケイデスは、その心理になんとなく気づいていたのかもしれない。ヘパイストスの琴線を的確に擽り、色よい返答を引き出してみせた。

 

「こりゃ()()な……」

 

 そのやり取りに、ヘクトールは気が抜けたように肩から力を抜いた。

 

 厚顔に神へねだり、あまつさえ供物で武具をねだり、そしてそれを赦されてしまう。明晰な頭脳と観察眼を持つヘクトールは理解していた。自分や他の人間が同じことをすれば、たちまち不興を買って傲慢の罪を課せられていたに違いないと。

 まさに規格外。人間の尺度に測れぬ雄大な存在。こともあろうにあの神罰の海獣を、狩りの獲物としか見ておらず、大英雄を知るヘパイストスは何も心配していないのだ。確信する。トロイアは救われていたのだと。あの大英雄ヘラクレスが来援した時点で。

 

 だが違うのだ。

 

 最初から予感はあった。ヘラクレスが来た――その報を耳にした瞬間に、自分が出てくる意味などなかったのだと。だがそれは違う。愛する国を襲った自業自得の災禍、それをたまたま助けに来てくれた英雄に総て片付けてもらうなど、はいそうですかありがとうございますと簡単に流していい事態ではない。

 祖父の愚王ラーオメドンが王座に在った時、ヘクトールにはなんの権限もなかった。祖父は自身の娘を平気で生贄にするような男である。ヘクトールが出しゃばれば、ヘクトールの父にまで累が及んでいたかもしれない。然し今やラーオメドンは消えて、ヘクトールは責任を持って此処に来ている。戦う意志を携えてだ。

 黙って見ていられはしない。ヘパイストスが大槍を引っ手繰り、その場で鍛冶の為の神具を召喚して鍛造をはじめたのを見詰める。火だ。神の火が熾っている。ヘクトールの中にある、熱い血潮がうねり、猛っている。意志を固めた。何もかも英雄ヘラクレスにおんぶに抱っこで、獣が討たれるのを指を咥えて見ているつもりはない。

 

「ヘラクレス。俺は……」

「言わずとも良い。だが今は私に任せよ。貴様の槍が仕上がるまでの時間を稼ぐのは、私一人で事足りる仕事だ」

 

 炯々と強い光を放つヘクトールの眼に、アルケイデスは寛容に笑って白弓を握り直した。

 

 切り立った断崖に立つ雄大な背。はためく獅子の外套。大矢を精製し金毛の弦につがえ、気負う様子もなく海嘯の獣に狙いを定める。

 既に彼我の距離は二十kmにまで近づいていた。その刺々しい蒼い外殻に覆われた巨体が、トロイアの海岸に迫りきている。

 剛弓一閃、弦の撓りが槍の如き大矢の射出を報せる。破滅的な弦の震動がアルケイデスの膂力を物語った。次々と息を吐く間もなく放たれた速射の矢。秒間四十射の大矢は瞬く間に視界を席巻し、大軍が矢を放ったかのような光景が途切れずに進んだ。

 射出の回転速度を重視した神業である。矢を同時に四本放ち、次の瞬間には再び矢が精製され放たれているのだ。弦を引き、離し、引き離し引き離す。ただ一矢を以てすら山岳を穿ち崩す魔弾の雨が、ポセイドンの力を有する海嘯の獣を鏖殺せんと飛翔する。

 

「……まったく。私の分も残してくれるんだろうな?」

 

 苦笑めいて云うヒッポリュテに、アルケイデスは肩を竦めた。そしてすぐに射撃を再開する。矢は効果が薄い、故に足止めが精々だと言いたいのだろう。それに矢はアルケイデスの魔力から造られている。無限に想える矢玉の霰も、その実無限などではない。

 飛来した魔弾の嵐。海嘯の巨獣は煩わしげに吼えた。神殿を倒壊させたかのような、暴圧の潮騒の咆哮(ネイロ)。震動する外殻は地震の権能を纏い夥しい魔箭の霰を受け止める。

 狙いは必中。一矢も仕損じず着弾し、炸裂する魔箭。外殻を削らんと奏でられる直撃の狂騒曲。彩るのは獣の絶叫。痛みに吼えたのではない、脚を止められた故の逆上の叫びだ。神の権なる能を瞬きの間も無く行使させられ、重い矢の衝撃に脚を止められる、これは巨獣の心胆を赫怒に染め上げた。

 体に傷は負わずとも、神罰の運び手を煩わせる罪は重い。もはやトロイアのみに被害を留めてやる温情は尽きたと言わんばかりに巨獣が猛る。

 

 巨大に過ぎるその尾を振るい、海面に叩きつけた。

 

 瞬間、大海がうねり、潮流が唸り、()()()()()。人類の絶望、陸地を呑み込む海の暴威――()()()――津波である。

 トロイアのみならず近隣諸国まで災禍に叩き落とす神の怒り。人間であるならば抗う術のない地上の殲滅。世界の終わりを幻視させる大災害。恐るべき大海嘯の波高は、人の心を圧し折る()()()()()()

 

 だがそれを見たヒッポリュテとヘクトールに悲嘆と絶望の色はない。

 

 一息を吐き、一際(おお)きく頑健な拵えの槍を一本、精製したアルケイデスが矢として白弓につがえていた。

 一瞬、偉丈夫の上腕と背筋が大きく盛り上がる。戦慄を誘う『力』の波動、界面に波紋を刻む膂力のうねり。白弓が淡い白光を纏っていた。

 放たんとするのは、西方弓兵の代名詞たる大英雄渾身の弓技。一射を以て争いに終止符を打った東方弓兵の代名詞とは異なる、窮極の殲滅戦技である。

 

「『吠え立てよ金獅子の鋭爪(レベンディス・メラーキ)』」

 

 真名開帳。ただ一射で山脈に大穴を穿つ対人宝具。なれど、それはあくまで彼の力を彩る付加要素に過ぎない。

 ただの一箭にて太陽を射落とした豪腕である。大英雄たる由縁はこの技にあるのだ。

 

射殺す百頭(ナインライブズ)

 

 穿つは流星。九条の光の矢。遍く幻想を屠る竜頭の砲弾である。足場を陥没させるほどの力の一閃は、ただ一射を以て幻想絶命の九撃を射る。扇状に拡散した竜を模す力の塊は、忌むべき災禍の海の壁を真っ向から霧散せしめた。

 海嘯が打ち消される。驚愕は神の獣のもの。輝く兜のヘクトールはこの時、最強の名の何たるかを目撃した。人の身では至れぬ生命の特異点、その真髄を確かに眼にした。

 爆散した大海嘯。本来の神格のものではないとはいえ、海神の権能を打ち破る冗談のような光景。海嘯の飛沫が遠くアルケイデスらの下まで雨のように降り注いだのが、これが現実の現象であることを知らしめる。

 

 巨獣が啼いた。おのれ、よくも――憤激し、進撃する。

 

 それを阻む矢の壁が再度放たれた。轟音が飽きるほど響き渡る。それは巨獣の歩みを大幅に遅れさせ、見事、英雄は一時間もの間、その場に巨獣を縫い止めてのける。

 

「……こんなものか」

 

 射撃を止めたアルケイデスは、肩で息をしながらも未だ余力を残している。

 ちらりと背後を窺うと、ヘパイストスは笑っていた。それでこそだと。

 

『終わらせたぞ。トロイアの守護者、そこもとの槍だ。受け取れい』

 

 鍛冶の神は、その槍を放って王子に投げ渡す。

 掴み取ったヘクトールは槍を見た。黄昏の穂先。黒塗りの柄。生まれた頃から慣れ親しんだように、手に吸い付くような握り心地。そして削った刃を特製の篭手に仕立て直したものが渡された。

 驚嘆する。これが神の鍛冶師。告げられる極槍の真名も耳障りが良い。

 槍を旋回させる。柄を縮め剣として振るう。突き出しながら槍の長さまで伸ばし刺突の鋭さを増す。完全にヘクトール専用の武具と化した極槍に感嘆の念しか生まれない。

 

「さて、やろうか」

 

 ヒッポリュテは微笑み、戦神の軍帯を外してアルケイデスに渡した。大英雄はそれを腕に巻きつけ、微笑みを浮かべながらヘクトールに云う。

 

「終わりは呆気ないものになる。トドメは貴様だ。確実に当てよ」

「……言われるまでもねえ。ここまでお膳立てされて『外しました』なんて言えるものかよ」

 

 不敵に笑うヘクトールからは、若さ故の血気が抜け落ちていた。

 勝てない。アルケイデスの人間を超越した武技と力を目の当たりにして、純粋な人間であるヘクトールは密かに挫折を感じていた。

 だが、それがなんだというのか。その程度で心は折れない。

 これは禊なのだと理解した。トロイアの人間が、トロイアへの神罰を終わらせるための禊なのである。ならばヘクトールがやらないわけにはいかない。

 アルケイデスには勝てないだろう。もしも戦えば成す術もなく殺されるだろう。なら戦わねばいいのだ。人間らしく、小賢しく、人智を超えた英雄(バケモノ)を翻弄してやればいい。ヘクトールはいっそ清々しい気分だった。

 

 そんな青年に笑みを投げ、アルケイデスはゆったりと弓を構える。休息を挟んだ。

 目標は、既に至近まで接近してきている巨獣。

 

 軍帯に由来する軍神の神気。放たれるは威力の増した射殺す百頭。権能を穿たれ外殻を損傷した巨獣目掛け、天つ聖鹿(ケリュネイア)が虚空を疾走して戦御子を運び、帯を返されたヒッポリュテが猛りと共に軍神招来・狂戦咆哮(アーレウス・アマゾーン)を発動した。

 傷ついたのは、損傷していた胸の外殻を、ヒッポリュテの脚撃によって叩き割られた海嘯の獣である。余りの破壊力に怯み、仰け反った獣。ヒッポリュテを回収して離脱したケリュネイアを視認したアルケイデスが、ヘクトールという英雄の誕生を言祝ぐように優しく言った。

 

「やれ、ヘクトール」

「応――」

 

 不毀の極槍(ドゥリンダナ)

 

 新生し、解放された宝具の一撃が、剥き出しの獣の胸を穿ち抜いた。

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。