ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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二回目だよー。




12.2 女神の微笑み

 

 

 

 

 イオラオス、アタランテは未だ戻らず。幼いヒュロスの世話がある上に第二子を孕んでいると思しきヒッポリュテを連れて行けるはずもない。

 そして万が一に起こるかもしれない不慮の事態に備え、ケリュネイアをヒッポリュテの警護に回していた。故に最後の試練には単身で臨む事となる。

 

 アルケイデスは途方に暮れた。久方ぶりの一人旅である。無論それに耐え難い孤独を感じて呆然としている訳ではない。

 

 自らの最後の試練、大英雄として完成する最後の功業。冥府に赴き番犬ケルベロスを借り受け、ミュケナイに連れ帰る――それはいい。然し大きな問題があった。そもそも大前提として、アルケイデスは冥府への行き方を知らなかったのだ。

 以前……何年か前に、アルケイデスは冥府の神の面前に立った事がある。然しそれは死の神タナトスを尾行し、冥府への道を短縮したに過ぎないのだ。

 生きたまま冥府に行く為の正規の道程など知らない。無論エウリュステウスも知らないだろう。寧ろ知っている生者などいるはずもないのだから、冥府への行き方から調査しなくてはならない。誰も知らない目に見えぬ道を探る……なるほど確かに試練に相応しいと云えよう。然しどうするべきか皆目見当もつかず困ってしまっていたのだ。

 どちらの方角に進むべきか。西か、東か? それとも北? 南? 見当外れの方面に進み時間を食う事ほどの無駄はない。無為に時を浪費し、第二子の誕生に間に合わないなどという屈辱は犯せない。可及的速やかに試練を打破する必要があった。

 

「………」

 

 冥府は、一説に拠ると地底に在るという。ならば地面を殴り砕くべきか? 大地を二つに割れば冥府への道は拓けるだろうか? 握り拳を作ってそれを見詰める。それこそが最短にして最速の手段である気がしてならない。

 余程思い詰めた顔をしていたのだろう。掛けられた声はどことなく苦笑めいていた。

 

『待て、()()()()で星を割る気か? まったく貴様という男は……』

「アテナ神……」

 

 灰色の一羽の梟が羽ばたいて、アルケイデスの面前で滞空する。それが淡い光と共に変生し、一柱の神格を象った。

 枝毛一つ無い豪奢な金糸の艶髪を結い、馬の尾(ポニーテール)のようにして風に靡かせる人智無踏の美貌。青く輝く双眸は深い知性を有し、平素な衣服を纏う美女の白い肩が目に眩しかった。

 

 彼の女神こそがグラウコーピス・アテナ。ボルゲーゼ・アレス……現在のグラディーウィス・マルスの異母姉。予てより道化を演じていたアレスの実力を朧気ながらにでも感じ取り、アルケイデスの存在により捻じ曲がらなかった世界線に於いては、アレスと対峙した際に最強の神盾アイギスを持ち出さねば勝てぬと判断した賢知の女神である。

 戦の智慧、軍勢統率、武勇という戦神としての力はマルスに及ばずとも、それ以外の分野では悉く凌駕する文明の守護神。マルスと対を成す神格は、アルケイデスの短慮に呆れ返っていた。丁寧に迎え跪こうとするアルケイデスをアテナは手を上げて制する。

 

『跪くな。私は以前、貴様の不遜を赦している。心に畏敬の念があるのなら、その在り方総て不敬とは言わない。貴様が前言を翻すような態度を取るなど、どういう風の吹き回しか興味深くはあるがな』

「ヒトは変わるものだ。あの頃の私はまだ若かった、それだけの事だろう。屁理屈を捏ねず、敬うべき神には喜んで跪こう」

『たかが数年でそう簡単に変わるか? 頑固者が何をほざく。私は不遜な姿勢と言葉の総てを赦すと言ったぞ。この言を違えさせるな』

 

 そこまで言われて跪けば、それこそ慇懃無礼な態度である。アルケイデスは諒解した旨を告げ、立ったまま真っ直ぐにアテナの瞳を見据える。

 微かに背筋を震わせ、アテナは陶然と微笑んだ。彼女の琴線に触れるものがあったのだ。

 

『……男前を上げたな。良い眼だ。意志に満ち、迷いを払い、己を疑わず、信念と志を貫き通さんとする英雄(おとこ)の眼だよ。そそるな……』

「……? ……最近はこの言葉を繰り返してばかりだが、敢えて告げさせてもらう。久し振りだな、アテナよ」

『ああ……やはり貴様は不遜が似合う。男らしいよ。クッフフ、そうとも。ギリシャの男はこうでなければ。エジプトの男は温和で従順に過ぎてどうにも物足りない』

「………」

『おっと……そうだ。確かに久しかったな、ヘラクレス。それはそれとして、エジプトとの一件のせいで面倒を負わされてしまった女神が此処にいるぞ? 謝罪を要求する』

「すまん」

『よし、赦そう』

 

 ふふんと鼻を鳴らして胸を聳やかす女神に、アルケイデスは彼女の意図が読めずに困惑した。いったい何をしに来たというのか。

 たった一言の雑な謝罪で、すんなり赦すとは気でも狂ったかと失礼な事を思った。

 エジプトとの折衝……これもまた己が取り掛かるべき事業の一つ。今はまだ善き神々の手を煩わせているが、悪神が不祥事を仕出かす前になるべく早く王に成らねばならない。そう思っていると、アテナはふと些末事を思い出したように軽く言った。

 

『そうだ。忘れるところだった』

「……?」

『エジプトの不敬なる小僧、太陽神の化身へと変じた【ラーに選ばれた者(ウセルマアトラー・セテプエンラー)】とやらから貴様に言付かっている言葉がある』

「ウセルマアトラー・セテプエンラー……? ……言い難い。()()()()()()()()でよかろう。その者が私に何を……いや太陽神の化身? ……ファラオか?」

 

 虚空に白く細い指でギリシャ語の綴りを描く。それを見て眉を顰めたアルケイデスは『オジマンディアス』と訳した。そうしながら思い至りアテナに訊ねた。

 案の定である。女神は首肯した。

 

『ああ、確かにファラオだと言っていたな。差し詰め太陽王といったところか』

「………」

 

 そうか、と口と中で囁くように溢す。ファラオ……すなわちあの褐色の肌と黒髪を持つ、傲岸不遜なる美貌の青年だ。遂に即位したのか。ラムセス……。

 これからはオジマンディアスと呼ぼう。ラムセスは幼名だろうから。自分が武芸を手ずから仕込んだ、王者として格上の弟子である友。彼とモーセと過ごした半年間が脳裏に蘇る。

 己が彼の武の師であるなら、オジマンディアスはアルケイデスの帝王学の指導者だ。弟子であり師である彼との関係性に、知らず苦笑が浮かぶ。彼からの伝言に、それは更に深まった。

 

 ――余はファラオと成った。勇者を束ねし王たるならば、貴様も余に遅れるなよ。曲がりなりにも一分野に於いて余が師と仰いだ男が、いつまでも有象無象に埋もれているなど嗤うに嗤えん。奮起せよ! 同じ地平に立ち、今一度余の面前に馳せ参じる栄誉を与える!

 

『だ、そうだ』

「……そうか。変わらんな、奴も」

 

 激励だった。要は早く王に成れ、そして対等の立場で再会しようと背中を蹴飛ばされているのである。これで些末事に手間取る無様を晒せば、それこそ物笑いの種だ。

 エジプトは今、ヒッタイトという大敵と矛を交わしているらしい。先陣を切って戦場を駆け、得意の弓を引いてオジマンディアスも戦っているのだとか。既に王として先駆けているという現実に滾るものがある。

 

『然し、あのヘラクレスがな』

「……?」

 

 唐突な女神の語り口に内心首を捻る。面白がるようで、楽しげだ。何よりその輝く青瞳が熱を持っている。

 

『まさか王に成る、などと嘯くようになるとは。面白い、面白いよ』

「そうか? ……そうなのだろうな。私にとっても意外だった。だが王位が私には必要だと判断したのだ。故に突飛ではあるが……今の内から予約しておこう。マルス様をはじめとし、アテナ神、ヘパイストス神、ハデス神、デメテル神、ヘスティア神、ヘリオス神の神殿を築こうと考えている。手間を掛けてすまないが、その段になると是非助けてもらいたい」

『よ、予約……? ……クッフフ、クッハハ! ()()だと!? 貴様、神である私に予約をするというのか!?』

 

 アルケイデスの言にアテナは噴き出した。笑いながら肩を叩いてくる。愉快そうだ。

 はて、何か可笑しな事を言っただろうか……? いきなり物を頼むより、予め断りを入れてスケジュールに空きを作ってもらうのは、仕事をする上で当然の措置だと思うのだが……。笑うところではないはず。少なくとも仕事の取引先にアポイントメントも取らずにいるなど論外だ。論外……のはずだ。

 

 何が笑いの琴線に触れたのか理解できない。久し振りに他人との感覚の違いを思い出させられた。

 

『くふ、くっふふ、クハ! クッ、あーはっははは!』

「………」

『い、いや……す、すまない。なんて律儀なと思って……つい、笑ってしまった。許せ、許……クッ、ぅ、うぐぐ……!』

 

 必死に笑いを堪えるアテナに、アルケイデスは微妙な気持ちになる。隙のない完璧な女に見える女神の痴態に釈然としない気分である。

 思わず見惚れてしまう笑顔が弾けるのに、アルケイデスにあるのは不本意な笑いをもらった、納得のいかない心地であった。

 暫くして漸く笑いが鎮まってきたのか、眦に滲んだ雫を指先で拭いながらアテナが謝罪と共に答えを寄越してくる。

 

『……うん。よかろう。ック、貴様の、よ、予約……聞き届けてやる。笑わせてくれた、礼だ』

「………」

『そんな顔をするな。愛でてしまいたくなる。ああ、これは礼ではなく、本来の用向きなのだがな。ヘラクレス、貴様を冥府に案内してやろう』

 

 予期せぬ助けだった。まさに天の助けである。

 が、アルケイデスは微かに眼を見開いた。

 

「いいのか? 私の勤めの手助けをして」

『構わないとも。女神王めには既に睨まれている。然しだ、どのみち生者である貴様が冥府に到ってもよい道理はない。神の導きなく向かうは不敬でもある。贖罪の勤めで不敬を為せとは言えんよ。誰にもな。故に私の助けはいつもの事……気に入った英雄に加護を与える程度、ああまたかと思われるだけだ』

「そうか……感謝する」

『ヘラクレスよ。貴様が王と成った暁には、私の神殿も築くのだろう? その報酬の前払いとでも思っておけ』

 

 いったいアルケイデスのどこをどう気に入ったのか。上機嫌に嘯く女神に戦士は怪訝な表情を隠さない。

 その表情の動き一つを取ってすら、アテナにとっては心地好いものだと気づけはしないだろう。嘗て人間の友を持ち、その友をゼウスに殺されて以来、対等な友を持てた試しのないアテナである。この遣り取りがまるで――気心の知れた友とするようなものであると錯誤できて。アテナは内心、ひとりで愉快さを噛み締めるのだ。

 人間の内に神と対等に話せる者など、アルケイデス以外にはいないのだから。

 

 そうしてアルケイデスは、女神の案内を得て冥府へと向かう。

 其れは死出の旅。

 然し死の国は決して、アルケイデスにとっては不帰(かえらず)の道では有り得なかった。

 

(まあ……いいか)

 

 アテナの機嫌がやたらと良いのは不思議だが、構わない。彼女を自陣営に引き込むのに難儀しないだろうと考えて。

 その思考を、アテナは読んでいた。

 

(これで誘い難くはなくなった。そうだろう? 英雄よ)

 

 

 

 

 


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