ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
アテナの案内を受け、アルケイデスはアトラス山脈跡地に来ていた。
ゲリュオンの赤い牛、数千頭を略奪せねばならず、慚愧の念に耐えかねて八つ当たり気味に砕き割った地だ。割れた山脈は海峡となり、ジブラルタル海峡と名付けられたそれは『ヘラクレスの柱』と題されている。
そしてアトラス山脈跡地、その麓には看板が立てられ、『
『西方の世界の果ては、めでたく貴様の名を冠するようになった。そして地中海、ギリシャは事実として此処を西の最果てとしたのだ』
「……めでたくはないな。私の未熟が永劫に刻まれた証だろう」
『恥じるな。己の名を世界の果てにしたのは、私の知り得る限り貴様しかいない。そしてこの世に最果てという亀裂を刻んだ事によって、最果ての断崖に一つの門が築かれたのだ。誇れ。貴様は自らの手で、冥府への入り口を作ったのだからな』
鼻を鳴らす。こんなものを誇れるものか。やはり
着いたぞとアテナは一つの洞窟を指し示す。いや洞窟と形容するのは不適当だろう。山脈の断崖、その亀裂が一部盛り上がり、入り口のようになっているだけなのだから。
導かれるまま侵入し、下へ下へと進んでいく。
道は険しく、進むほどに暗くなる。アテナが火の球を精製して光球とし、それを光源に更に奥深くへと進んでいくと、次第に地中はその様相を変えていった。
光球に照らされても青白い地面と壁。そして天井。不気味な雰囲気を湛える薄暗い視界。その鋭敏な聴覚が水のせせらぎを掴んだ。河か? 眉を顰めて呟く。それが正答であると示すように、アルケイデスとアテナの眼に地下世界を横切る大運河が横たわっているのが見えた。
『私は此処までだ。後は貴様だけでいけ』
アテナは足を止める。頷き、アルケイデスは単身河に向かっていく。
水辺にまで進むと、一人の男がいるのを見つけた。小奇麗でもなく、小汚くもない、極平凡な風体の男だ。
『ステュクスの河』と記された看板がある。ステュクス……地下に流れる大運河。またはそれを神格化した女神の名だ。この男が河を渡る船の船頭なのだろう。
と、男がアルケイデスに気づく。
「ああ……? なんだおめぇ。死者じゃねえな? んなら渡らせられねぇな。こんなとこまでわざわざ来たところ悪ぃが、とっとと引き返――」
ちなみにこのステュクスの河は、例え死者であろうと有料で渡るものである。
この船頭に金を渡さねばならないのだ。故にギリシャでは死者を弔う際には金を懐に入れておくものである。
金は持ってきている。後は生者のまま渡るために船頭を説得する必要があり、交渉のためアルケイデスが口を開きかけた時だった。男はアルケイデスの姿を見るなりカチンと固まり、唖然とした。そして震える声で訊ねてくる。
「ぁ、ぁあ……おめぇ、いやあなた様は、もしかして……ヘラクレス……様?」
「……? ああ、そうだが……此度は冥府に用向きがあり参上した。船頭だな? 私を向こう岸まで連れて行ってほしい。もちろん金は――」
「ひっ、ヒィィイ!? すすすすみません旦那! もちろんタダで渡させていただきます! だからどうか命だけはぁ!」
「………」
タダ、という部分に敏感に反応するアルケイデスである。この男、その気になれば天文学的な金銭を稼げるというのに、どこか節制を好む性格をしている。謂わばタダという言葉に弱いのである。
船頭の男が何やら『ヘラクレス』という男に誤解を懐き、恐れ慄いているのには気づいていたが、まあタダで渡らせてくれるなら誤解を解く必要もないなと考える。他者から誤解されるのには慣れていた。
あたふたとして小舟に乗り、船頭はアルケイデスを乗せて船を出す。
河の水面には無数の光の塊があった。あれはなんだと男に訊ねると、男は無駄に恐縮して答える。あれは魂でさぁ、と。冥府に収監される事もない、神々への不敬を成した罪人や、英雄に討たれた怪物の魂ですぜ、と。なるほどと頷く。
何もされず、できず、ただ水面に佇む様は、確かに罰としては相応しいものがあるのかもしれない。ハデスの裁定なら厳しくはあっても理不尽ではあるまいと信じて。
しかしはたと気づいた。一つの魂を見かけたのだ。
残り火のような神性と、溢れんばかりの魔性。天女も斯くやという、戦女神に匹敵する美貌。その容貌には溢れんばかりの憂いがあり、自身を責め、また何かを呪っているかのような暗い火が灯っていた。
気に掛かった。目を瞠る美女だからではない。
紫の髪の女は怪物ではあるのだろう。然し堕ちた神であり、性根まで悪のものであるとは感じられない。
「あれは?」
「へ? あ、ああ……ありゃあ、旦那のご先祖、ペルセウスが討った怪物ゴルゴン……その中核となったメドゥーサでさ」
メドゥーサ。支配を司る、大地母神の成れの果て。先祖が討った怪物と聞き、アルケイデスは少し興味を持った。
本来なら関心を持った程度で、そのまま通り過ぎるだけだったろう。
然しアルケイデスは『ヘラクレス』ではない。本質から違う人間だ。自分が嘗ての幸福を取り戻した故か、またそれを失う事を無意識に恐れているからか……見るからに幸薄い存在には目を掛けてしまう。
それも、微かな差異でしかない。然しアルケイデスは知っている。神を無条件に信仰し絶対視する者ではない故に。神の嫉妬を買い滅んだ者を知っていて――メドゥーサの魂が悪のものであると感じられなかったから――彼は船頭に促した。
「……メドゥーサの魂に寄ってくれ」
「はあ!? だ、旦那ぁ、悪い冗談ですぜ? あんなバケモン、遠巻きにしておきゃいいんですよ。いずれ擦り切れて魂から滅んじまうですから」
「行け」
「へい」
反駁は赦さぬと語気を強めると、船頭はすんなりと従って小舟をメドゥーサの魂に寄せた。
虚ろな目を向けてくる。石化の魔眼の持ち主だと聞いているが、生身の体を持たぬ故にかなんの影響も受けない。アルケイデスはメドゥーサに声を掛けた。
「メドゥーサ」
『………』
「……私は貴様の首を刎ねた英雄ペルセウスの子孫だ」
『――ペルセウス?』
耳に心地好い美声が鳴る。己を討った者の名は聞き流せなかったらしい。あるいは呼び掛けすら聞こえない自失の中で、ペルセウスの名を耳にして我に返ったのかもしれない。
ゾッとするほど美しい眼を向けてくる。暫しこちらを見据え、やがて得心がいったように呟いた。独り言でも囁くように。
『ああ……貴方が、ヘラクレスですか』
「如何にも。貴様はゴルゴンの怪物の中核、メドゥーサだと聞いた。相違ないな?」
『それが何か。ご自分の先祖の討った怪物が珍しいのですか』
「いや……ゴルゴンほどの怪物にしては、随分としおらしいものだと思ったのだ。戦女神アテナに妬まれ、貶められ、怪物に身を落としたのだろう。恨み骨髄に達し此の世の総てを呪っている、悍ましい魂をしているのが相応のはずだ。だが今の貴様は……」
まるで、私のようだ。
その言葉を呑み込む。メガラと三人の子供達を手に掛けたばかりの己を思い起こされて、とても口には出せない。
メドゥーサは自嘲するように、呪うように溢した。
『ヘラクレス。その名は冥府にまで鳴り響いています。死出の旅に出た最近の者は、貴方の噂ばかりをしている。ええ……ペルセウスなどという弱者とは比較にもならない、本当の大英雄ですね。しかし……私の前で、忌まわしいあの女神の名を口にしないでください。私は……何をするか解らない』
「ひっ」
「凄むな。只人が怯えている。だが静謐の中にある貴様を不快にさせてしまった事は謝ろう。……良ければ話してみてくれないか? どうにも私の中で、メドゥーサという女が怪物とは重ならん」
『怪物ですよ。私は……悍ましい怪物だ』
自身に刃を突き立てるような声音だった。生身があれば涙を流し続けているだろう。そんな悲しげで、切な気な……。
アルケイデスはその様に胸を打たれる。いよいよ他人とは思えない。黙って待ち続けていると、メドゥーサは嘲笑う。暇な人ですね、と。暇ではないが泣いている女を置き去りにはできないと返すと、メドゥーサは押し黙った。
静寂が流れる。暗い暗黒の河の中、メドゥーサの魂の光だけが光源だった。
やがて根負けしたのか、メドゥーサはアルケイデスの問い掛けに答える。ぽつぽつと生前の思い出を語った。
大切な姉たち。ポセイドンに娶られた自分。自分の容貌、髪の美しさを妬んだアテナによる呪い。髪が蛇となったメドゥーサをポセイドンは捨て、辺鄙な小島に追放された事。そしてメドゥーサがバケモノに変じ、姉たちを殺してゴルゴンとなった事。
死後は魂が分かたれ、姉たちと会えない事。こうして永劫にも想える時間を、罪の意識に耐えながら佇んでいた事。アテナへの憎しみ、姉たちへの褪せぬ愛。
話し終えると、今度こそメドゥーサは口を閉ざした。目線を下に落とし、もう何を言われても反応すらしない。アルケイデスは何事かを考え込み、舌打ちした。
「アテナ……」
悪しき神である、とは思わない。しかし悪しき女である。狭量な女であった。遣る瀬なさに同情する。もしも一つ踏み間違えていれば、己も怪物に堕ちてメドゥーサと同じ様になっていたと思ってしまう。
船頭を促して先に進む。メドゥーサの哀切を想った。其の生涯の悲劇と、それでもその中にあった小さな幸福を偲んだ。
「………」
陸地に上がる。そして奥に進む。冥府の門があり、そこにケルベロスがいるのを見掛けるも、大人しいもので見向きもしてこなかった。
アルケイデスも気にもせず門を潜る。そしてハデスの許まで向かっていった。
いた。いつぞやの擬態としての骸骨ではない、白い髭を蓄えた青白い肌の巨漢が。豪奢なローブを纏った冥府神が、玉座に腰掛けてアルケイデスを迎え入れる。傍らにはペルセポネと、どこか見覚えのある女神――ヘカテーがいる。ヘカテーはゆらゆらとこちらに手を振ってきていた。
『来たか、ヘラクレスよ』
「……ああ、生者である私が二度までもこうして面前に跪く非礼、お赦しを」
『構わん。此度はお前の意志ではないだろう。此処に来るに至った由縁は把握しているとも。我が番犬を借り受けに参ったのだろう?』
「その通りだ」
『赦す。貸してやろう。ただし武器を使わず素手で大人しくさせられたら――』
「………」
『……どうした?』
ハデスの下で跪くアルケイデス。面を伏せている彼の頭上に玉声を掛けるハデスだったが、アルケイデスの顔色が優れない事に気づいて怪訝そうに訊ねた。
アルケイデスは暫し迷う。言ってもいいものかと、逡巡している。見兼ねたハデスは気を揉むも、ヘカテーが先んじて口を開いた。
『構わぬよ。言いたい事を言うと良い』
『ヘカテー! 勝手を……』
『まあまあ、良いではないか。ハデスよ、私に任せると良い。さすれば此処のところ忙しくて堪らぬエジプトとの問題……解決する手ができるやもしれぬ』
なに!? なら聞こうすぐ聞こうさあ言えすぐ言え早く言えぃ!
ヘカテーの甘い囁きに、ハデスは玉座の肘置きに拳を叩きつけて立ち上がり、アルケイデスを急かした。
それに微妙な気分になる。ヘカテーが場を掻き回して愉しんでいるのに気づいたのである。いい性格をしているらしい。
然し好機だ。意を決して口を開く。
「……偉大なる冥府の神よ。死者の魂への裁定に、御身に過ちなど無いと私は確信している」
『無論だ。当たり前だとも。うむ、私がこと死者への裁きで間違いなど犯すものか』
「ああ。然し。……此処に来る途上、一つの魂が気にかかった」
『ふむ……? それは?』
「メドゥーサだ」
ピン、とハデスの纏う空気が張り詰める。真実、死を束ねる支配者の貌が出た。
ゆったりと玉座に腰を下ろした巨神は、厳かな所作で続きを促す。
「……彼の者は悲劇の女だ。不当に貶められ、呪われ、化物として殺された女だ。その身に罪があったとしても、あの者自身の手で最愛の姉妹を手に掛けた事で精算されているはずだろう。あの者がステュクスの河に佇み続けるのは、私には酷く不当な裁きに思えてならない」
『……ふむ。確かにな』
アルケイデスの言に、意外にもハデスは鷹揚に頷いた。まさかの肯定に英雄は跪いたままハデスを見上げる。
死を統べる大神は冷厳とした眼差しをしていた。
『だが一度下った罰は覆らせないものだ。アレが消滅するまでああして佇む事が裁きなのだよ』
「………」
『ヘラクレスよ。不服か?』
「……畏れながら。不服だ」
『ほう?』
恐れず真っ向から意見する人の子に、ハデスは片眉を跳ねる。
「あれは、私だ。
『いいや、それは――』
『ああ、要は彼女を連れていきたいのか。いいとも、許そう。連れて行くと良い。そして償わせるといいよ』
『ヘカテーッ!!』
ハデスの言を阻み、ヘカテーが口を挟む。
冥府の神は怒りを滲ませて大喝した。迸る死の神気は、生者であれば即死するほどの圧迫感がある。アルケイデスすら鳥肌が立った。
だがヘカテーは涼し気にしている。そしてハデスを制した。
『これは報酬だよ、ハデス』
『……何?』
『ヘラクレスに命じるのだ。エジプトの死後の世界の神との折衝を。その報酬に、死したる者を一人解放する……ギリシャとエジプトの【縄張り】を決める一大事だ、これを成し遂げたのなら赦される褒美だと思うよ、
『む……』
ハデスはそれに、言葉に詰まる。怒気も鎮まった。
玉座に腰掛け口元を手で覆い、考え込む。純白の花嫁衣装を常態とするペルセポネが耳元で囁いた。それに尤もらしく頷きながら、冥府神ハデスは決断した。
『……良いだろう。ヘラクレス、メドゥーサを連れて行き、現世での罪を償わせよ。貴様と同じ十の禊ぎを、貴様が課すのだ』
「……は。寛大な処置、有り難く」
『ケルベロスは貴様が死ぬまで貸し与えよう。ただし、』
「素手で大人しくさせよと。容易い事だ。では、御免。御身より賜りし恩義、死すとも永劫忘れぬと誓おう」
『だが忘れるな? 早急にエジプトの死の神と会い、ギリシャとエジプトの領分を定めるのだ。貴様にこれも一任する。あくまで対等になるように取り計らえ。断じて風下に立つような決定は赦さぬ。しくじるな、私は寛大だがそれにも限りがある』
「ハッ!」
諒解の返事をし、アルケイデスは立ち上がってハデスの許を辞した。
我儘を聞いてもらった申し訳なさに頭が上がらない。アルケイデスは冥府の門を潜るなり襲い掛かってきたケルベロスを殴り倒し、鎖を引いて引きずりながら歩いた。
ハデスへの敬意と申し訳なさに慚愧の念に堪え。見上げるような巨体のケルベロスに乗って河を渡る。その際に、メドゥーサの魂に声を掛けた。
「メドゥーサ。私と共に来い」
『………』
「私に仕えろ。罪を清算し、そして英雄として名を成せ。貴様の姉妹は冥府にはいない――ならば居場所はエリュシオンなのだろう。私に仕え、英雄として今一度の死を得れば、貴様の魂はエリュシオンに導かれよう。――私が貴様を、姉たちの許に送ってみせる。ついて来い。ついて……来てくれ」
『――それは』
メドゥーサは、その暗い目に光を灯した。顔を上げ、ケルベロスに乗るアルケイデスを見上げる。
そこに嘘の色は見えない。差し伸べられた、彼女にとって望外の希望の糸に。
絶望の海に浸っていた女は、騙されても良いと。堪えられないようにアルケイデスの手を取った。
こうして、冥府より出たアルケイデスはケルベロスを従え、そして名も無き仮面の女を付き従えた。
今はまだその女に名は無い。然し後に罪を雪ぎ、女英雄として名を馳せる彼女は、後の世の軍隊の佐官……大佐の階級の呼び名、その語源となる。
即ち彼女こそがスーダグ・マタルヒス。その真名をメドゥーサ。戦士王の右腕として尽力し、マタルヒスと呼び親しまれた彼女は、終生の忠誠を王に捧げる事となる。
神に放逐された女怪は、人に拾われ英雄となるのだ。
原典でもここでヘラクレスはメドゥーサの魂を見掛けております。
見掛けただけなんだけどね。
ケルベロスは前座。真の英雄は殴り殺す。