ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
序章 そして渇望のままに
英雄は只管に駆けた。
目指すはサラミス島。其処で彼は、己の知り得る限り最高峰の魔術師であるメディアに会い、彼女が動転するのにも構わずテラモンを介し依頼を出す。即ち堕ちたる女神、女怪の正体を隠す仮面の作製である。詳細に事情を話された彼女はこれに頷いた。己の心傷に惑っている場合ではないと心優しい魔女は心得、己の持ち得る総ての業を用いてメドゥーサを匿い、彼女のための仮面の作製に取り掛かった。
魔眼殺し、正体隠蔽。メドゥーサの蘇りを神々に知られる訳にはいかない故に、王妃メディアは渾身の魔術礼装を編み上げていく。
極大の感謝と共に、アルケイデスは来た道を取って返す。そして待たせていたケルベロスをミュケナイ王の許に連れて行き、勤めの終了を認めさせた。
そうして『ヘラクレス』という英雄は完成を見る。
アルケイデスは大至急、この時点で何よりも優先すべき事態に備える。
遂に始まるのだ。余りにも遠大な、アルケイデスが胸に懐いた本懐を結実させる為の
気を張る。意志を固める。脳裏を過ぎるあらゆる思い出が去来し――今はそれらを横に置いた。
神殿に赴く。大神の神殿だ。ギリシャ世界の中心とも言えるミュケナイには、当然の如く其れは有る。アルケイデスは神殿に参内し、礼の限りを尽くして神殿前に跪く。
すると、
翁の如き姿だったのが、幾分か若返っている。充謐する威厳、正に至高の其れ。然し己の中に流れる血がこの者こそ太祖ゼウスであるとの確信を持たせた。
言葉はない。然しその意志が直接アルケイデスの脳裏に落とされる。
――
言語にするなら、そのような意志だ。
大いなる加護である。破格のそれだ。アルケイデスほどの戦士が、十二の命をストックするなど、それこそ何者もその歩みを阻めはしなくなるだろう。
だが、
「身に余るご厚情、深甚なる感謝で胸が詰まる思いだ。――だが、お忘れか大神よ。以前私に約した儀がある事を」
――無論忘れてはおらん。約定は果たす。お前に狂気を送り込んだのは――
「ああ、無用だ。私は下手人の名を望まない。そしてその者への罰を求めもしない」
訝しむような気配が有る。頭を下げたまま、大神を直視せず地面を見たまま、心にもない事を告げる。
案の定、大神は疑いの目を向けてきているようだった。
虚言を重ねる。
「人の心は移ろう。新たに妻を娶り、子を授かり、私は今、幸福だ。償いも済んだ。いつまでも過去の事に拘るのは英雄らしくはない。ましてや神への罰を望むなど畏れ多い事だ。私は人である故に、一つの命で生きていきたい、だから御身が賜さんとする命の重ね掛けも無用。故に私は、下手人の名も、罰も、過分な命も求めない。――然し一つだけ叶えて貰いたい願いがある。其れを以て褒美として賜りたい」
沈黙が流れる。感心しているのだろうか。殊勝な心掛けであると。頷いている気配があった。
そして促される。言ってみよ、と。
此処だ、と思った。此処をしくじる訳には断じていかない。アルケイデスは意を決して告げる。
「――万年の懲役を課されし神、プロメテウスの恩赦を願う」
――……。
大神は無言だ。やり辛さを感じる。だが押し通すように言葉を重ねた。
「勤めの最中、私は彼の神が罰として繋がれているのを見掛けた。余りに惨い……私は神への罰は望まない。然し救済を望む。……御身は、私がマルスと名を改めた戦神を信仰している事に不服を感じておられるかもしれん。であればこそ、彼の解放を。私とは縁薄く、中立にして英邁なるプロメテウス神を、我が監視者とされたし」
――ほう。我が身の監視を望むのか? それが褒美だと。
「如何にも。我が赤心に曇りなき事を示す……これ以上の喜びなどないと私は信じる。さりとて愚昧な……失敬、智慧司らぬ神やその遣いを傍に置くのは苦痛だ。共に在る事を苦とするよりは、やはり賢明なるプロメテウス神が適任と愚考する。……最も良き選択肢は大神ゼウス、御身であるのだが……私如き人の身を監視する任を、大神たる御方が務めるなどそれこそ自死すべき案件だろう」
遜りすぎず、かといって傲慢にもなりすぎない、絶妙の線を突いての言葉選び。
冷や汗が背筋を伝う。アルケイデスは黙った。これ以上は言葉を重ねられない。余りに必死に見られすぎてもならないのだ。
どうだ、と思う。どうなる、と祈る。神ではない、人でもない、運命ですらない、何かへ祈る。乗るか反るかの博打。ここで決定されるのは今後の道だ。採るべき策だ。
叶わずば、己の生涯では果たせぬと諦める。叶うのなら――己の手で、成せる。
ゼウスは果たして、
――よかろう。それを褒美として欲するのなら、プロメテウスを解放する。お前の功績はそれに足るだろう。そしてお前の言やよし、監視者として遣わす。お前が示す赤心を、プロメテウスの口から聞き届けよう。
「――――は。有り難く」
アルケイデスは、伏せたまま、嗤う。
ゼウスと、マルスの関係。マルスへ如何ほど脅威を感じているか。己へ向けた猜疑心の大きさは如何ほどか。残っているアルケイデスへの信頼は、プロメテウスへの信頼は如何ほどで、そしてアルケイデスの言をそのまま受け入れる可能性は如何ほどなのか。ヘラが犯人だと確定させず、また罰を求めない事で得られる心象の好転は如何ほどのものか。
この瞬間、アルケイデスは会心の笑みを浮かべる。去りゆく神性の気配、それを感じていても暫く動けなかった。歓喜に体が、五体が、暗い心が震える。この手で成せるのだという歓喜に動けない。
馬鹿め、なんて安い嘲笑はしない。己の子には甘いところのあるゼウスの性格を利用したまでの事。見下げ果てたるは己の性根だ。そう思うのに、アルケイデスは狂喜していた。気は狂わない、アテナの加護がある。しかしそれでも狂いかねない感情の津波。留まらぬ狂奔。それを鎮めるのに必死だった。
ああ、これで。これでやっと、報われる。望みである時代を築くための最後のピースとして求めていた、プロメテウスを傍に置ける。彼の神の
気が逸る。気が昂ぶる。アルケイデスは吼えた。歓喜の雄叫びと共に、解放されたプロメテウスが派遣されてきたのを察知してのもの。
本質からして、人の味方である叡智と慈悲の神。その在り方からしてアルケイデスの齎す黄昏に賛同する神。
プロメテウスの参上。この儀を以て、遂にアルケイデスは行動に移る。
――故に、号砲は高らかに。
「ヘラクレス。我が至上の主君。人としての名の無いこの身を尽くし、御方に仕えさせて頂きます」
「ああ、これで契約は成った。これよりお前はスーダグ・マタルヒスと名乗ると良い。仮面の女よ、私の下で勇名を轟かせ、来たる約束の日に
仮面の女が、馳せ参じる。
「アルケイデス。遂に、か? 解るさ。私とお前の仲だ。何かを始めようというのだろう?」
「……ああ。苦しい戦いになるだろう。だから聞いてほしい。ポルテ、お前と、腹心となるイオラオス、アタランテ、そしてマタルヒスにだけは……私の始まりの火を伝えたい。聞いてほしい。聞けば退けぬが、それでも」
「構わない。アルケイデス……お前となら、例え地獄に堕ちても恐ろしくはないから」
戦御子が寄り添う。
「ヘラクレス。僕はアテナイの王と成った。如何なる支援も惜しまない」
「水臭いじゃないか! このオレ――あ、いや――私と君の仲だろう? アルケイデスが国を造る? いいよ、国交を結ぼう! 私のイオルコスと君のオリンピアが組めばまさに無敵だ!」
「サラミスの国を統べるわたしだが、既に貴殿に従うと誓っている身だ。盟主殿、わたしの力が必要ならなんでも言ってほしい」
「本当にやりやがったのか、ヘラクレス。なら俺たちトロイアも、信義によって盟約を果たそう」
「俺は支援などしないぞ。俺はミュケナイの王だ。どうしてもと言うなら……まあ、仕方ない。貴様の王位が盤石になるまで後見してやらんでもないが」
諸国の朋たちが力を束ね、戦士を王位に押し上げる。
「――フン。随分と長く待たせたもんだ。アレクサンドラが産まれたばかりだろうが」
「望みを叶える。我が子を守る。どちらも熟さなくてはならぬのが父の辛いところだ。覚悟は、できている」
戦神と盃を酌み交わす。ただし、戦士王は水で。
「……解った。契約しよう。我が権能、我が全能、我が誠心、全ておまえの望むままに振るおう。お前の成す如何なる残虐にも加担する。だから人類に黄金の時代を、我が契約者よ」
「無論だ、共犯者プロメテウス。
神の権能、火を人類に齎した神が密約を交わす。
「ヘラクレス! 遂に来るぞ、ギガースが! あと二年とせずに決戦の時だ!」
「時到らばすぐに馳せ参じるとゼウス神に伝えてくれ、ヘルメス神」
そして神々の戦争の時が、来る。もう、間もなく。
時代が加速していく。何もかもを巻き込む黄昏に向けて。
立ち止まれない。此処まで来たのだ、もはや誰にも止める術などない。
だから――アルケイデスは非情な判断を迫られる。
例え寵愛する者との間に決定的な亀裂が刻まれるのだとしても。もはや彼は王なのだから。
――開戦の号砲に音はない。然し、その足音は、一人の青年によって齎される。
獅子の鬣を頭髪とし、獅子の耳と、脚を持つ半獣半人となってしまった甥。
イオラオスが、一年の時を置いて、オリンピアに来訪した。
その手に、男児と女児の双子を抱いて。精悍さの増した容貌に、根深い絶望を抱えた顔で。
その傍らに、アタランテはいなかった。