ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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二話目だぞ、読者諸君。



二幕 我道を征くが王道である

 

 

 

 

 王の朝は早い。寧ろ朝という概念は無い。

 

 一日、二日、三日、四日、五日……半神半人の肉体を酷使し、人類の究極の忍耐と称される精神を振り絞り、七日七晩朝と言わず夜と言わず、奴隷も真っ青になるほど走り回った。

 王は国一番の働き手である。神殿建築のために人間百人が道具を用いて運搬する石材や鉄材を、左右の肩に担いで東奔西走し図面通りに配置する事三日間。領土に出没する匪賊や獣の討伐、取締りのために駆けずり回ること一日。悪神の横暴や怪物の跳梁に苦しむ人々の噂を聞くや『天つ聖鹿』に乗って推参した。

 ケリュネイアは止まらない。王のために全力で疾走した。手が足りぬ時は神馬に乗った王妃が出撃する時もある。ディオメデスの神馬に跨った仮面の戦士が出る時もある。王は止まらない。休まない。無論他者にはそれを強いてはいなかった。なんと優しい事に二日に一度は八時間の休憩時間を設けるほどで、公僕は泣いて喜び休憩時間はずっと寝て休んだ。

 

 ――七日間不眠不休、徹夜など当たり前ではないか?

 

 オリンピアに塗れていた汚職を取り締まった際、己の目指す時代の礎を築くには休む暇など欠片もないと思い知った。号泣して収賄や横領の罪を懺悔する官吏を寛大に赦し公僕として酷使するだけで赦した王はなんと慈悲深いのか。

 奴隷は廃止された。が、それに代わるものは公僕であると陰口が叩かれる。

 もはや刑罰として公僕就任刑が王妃によって作られ、人々は恐れ慄き、オリンピアは驚異の犯罪率一%以下に落ち込んだほどで、新たな人員を募るために他国から罪人を引き取り始める始末である。

 王は慈悲深い。武力を用いた叛乱が起こっても誰一人殺さず、罰さず、これまで通りの仕事を任せて、そんなに元気ならもっと仕事できるよねと責任ある立場に抜擢すらした。涙ながら減罪を訴える罪人らに向け、曰く。本来なら殺して晒す所だ、命があり万民のため働けるのだからこれ以上とない贖罪と栄誉だろう……。

 

 以来、オリンピアに犯罪はない。法を知らぬ故の不可抗力の一%しかない。

 

 王は悩んだ。彼の言葉を聞いた官吏全てが戦慄する一言を漏らす。「――人手が足らぬ」と。まだ足りないのかと反骨の牙を抜かれ忠実な国家奉仕者と化した公僕らは、悟る。新たな犠牲者(なかま)が生まれるのだと。

 そうして王は各国より罪人の身柄を引き取ったのだ。凶悪な罪人は軍隊に廻してイピクレスやマタルヒスに鍛えさせ、死んだように眠るまで責め抜かせた。罪を犯せる元気があるならこれぐらい余裕だよなと王が独断と偏見で課した異様な訓練スケジュールであり、それは西暦以後の世界最強の特殊部隊の訓練内容のモデルにされたものだった。

 軽度の犯罪を犯した者は残らず官吏である。そして彼らのみならず総ての官吏を指揮統率するのは、王に化けた監視者プロメテウスで、プロメテウスは王より政務全般を押し付けられ身を粉にされるほど酷使されていた。

 王の政治など解らぬとの一言がある。机上の戦いはプロメテウスが王に扮して行い、騎乗の戦いは王本人が行う。肉体労働総てを熟す故に、落ち着いて政務を熟せないのだから、苦肉の策と言えた。実際プロメテウスが政務を行った方が、比較にならぬほど効率的で効果的だったのもある。流石は叡智の神。ギリシャに於ける人理の神であろう。奴隷の如く働かされる神など、ギリシャ広しと言えど冥府神ぐらいなものではないか。

 

 ――王が二人いる気がするんだけど? 気のせい?

 

 そんな声も上がるのだが、まあいいかと流してしまうのが最近のオリンピアである。というか偽物だったら本物に殺され――はせず、公僕就任刑に処されるだろうから、それがないなら本物だろうと信頼されていた。

 民は豊かな生活、発展する国の恩恵を受け、我が世の春を謳歌しているのに対し。公僕への締め付けは前代未聞なほどに厳しい。だが鞭ばかりではない。飴もある。給金は他国の倍以上あり、見事一ヶ月耐え抜けば、七日間の休日が与えられる。王には休みなんてないのだからそれと比べるとなんと優しく慈悲深いのだろうか。

 

 次第に古株――と言えるほど月日は経っていないが――の官吏ほど仕事に誇りを持つように成っていった。新参が加わると彼らの世話を見てやらねばならず、できる自分は凄い、凄い自分は凄くない新参を助けてやれるといった意識が芽生えたのだ。いわゆるエリート意識だ。……嫌なエリート意識である。

 王に扮したプロメテウスは確信した。効率的な公僕錬成の儀、ここに一つの完成を見たり。心を獅子(オニ)にして、後の世にここまで過酷な職場が生まれぬように祈りながら、プロメテウスは王にはできない職掌を担う。

 

 ――王はいつ休んでおられるのか?

 

 いつしか環境に慣れ、精神的な余裕が生まれ始めるあたり現代人とは格の違う肉体と精神強度の持ち主、神代の民たちである。誰一人として厳密なスケジュール管理のお蔭で過労死はしなかった。貴重な人的資源である、無駄に使い潰して消費はさせられないという、王ならざる身であった当時からは考えられない冷徹さが現れていた。

 そんな王は常に働いている。片時も休んでいない。王に扮するプロメテウスは不死であり不滅である故に、向こう一年は魂を擦り減らす勢いで働き倒せる。だが本物の王は半神とはいえ生身の肉体を持つ人間だ。休まずにはいられない。

 いつ休んでいるのか。それはオリンピアより離れ、ケリュネイアの背に乗っている時だ。駆けるケリュネイアの移動中のみ、王は眠っていた。牝鹿は主人の死体を運んで走り回っているかのようで悲しげに啼いている。

 

 もはや戦闘、移動の時間は余暇である。王はのびのびと戦い、眠り、そして帰還する段になると能面のような無表情となった。

 

 そんな王は、何度目かの外回りからの帰りで酷く落ち込んでいた。

 実を言うとこの王、エジプトの時の二の舞を演じていたのだ。即ち別の現実(テクスチャ)に迷い込んでいたのである。

 と言っても、ギリシャとエジプトのように習合する前に、迅速に駆けつけた魔術神によって救い出された故に事なきを得たのだが。

 王が落ち込んだのはまたも同じ轍を踏んだから……ではない。そこで出会った一人の弓兵、アーラシュ・カマンガーの勧誘に失敗したからだ。

 

 稀に見る強靭なる五体。これはよき仕事仲間になると見込んで誘ったのだが、仕える王への忠節を理由に、貌を引き攣らせ冷や汗を流しながらアーラシュは断ったのだ。

 弓の腕比べで威力は王に、射程はアーラシュに、連射速度は互角だと認め合ったからこそ惜しむ王。人智を超えた眼力を持つアーラシュは全力で固辞した事を欠片も悔やまなかった。強靭なる五体が擦り切れるまで酷使される未来が視えたのかもしれない。

 落胆して、失意のまま王はオリンピアに帰還する。真っ先に築かれた戦神の神殿に向かい、そこに併せた玉座の間に座る。一瞬の休息――駆け寄ってくる家臣の気配を感じて、王はこっそりと嘆息した。

 

 そんな父を、一歳のヒュロスは見ていて。将来、王になんか成りたくねえ! と全力で反抗期に突入する事になる。

 

 

 

 ――「そうだ、私塾を作ろう」

 

 

 

 それは、悪神、邪神が如き閃きだった。

 人手が足らぬ。悪徳を積む者を各地より引き取ったり、正統な対価を用意して人足を集ったりしている故に労働力はあるのだが、肝心要の執務の処理能力……官吏の不足を実感していた。

 原因は学のある人間の少なさだ。識字率が低すぎ、必然的に活用・抜擢できる人材が枯渇しているのである。学のある者は稀少であり、よその国も簡単に手放せはしない。だからこそ早急に揃える必要がある。他国の奴隷の方がまだ人間らしい生活をしている事と、家臣達の青白い顔が思い出される。それに共犯者となったプロメテウスの過労が気掛かりでならないと、自身が最も過労気味であるのを棚に上げて考えた。

 そこで発想を逆転させたのだ。

 いないなら育てればよいのではないか、と。ちょうどヒッポリュテから戦術を仕込まれ、それをなんとか指揮官として扱えるようになったマタルヒスが、新兵や練度の足らぬ兵の調練を行っているのを見ていて閃いた。

 

「講師は……ケイローンだな」

 

 第一候補として不死である恩師を挙げる弟子の鏡である。容赦なくオリンピアの惨状に巻き込む腹積もりだ。

 何せ武力、知力、人格よし。知識量も古い時代より生きる賢者故に膨大だ。登用を試みない道理はない。子供達に限らず学ぶ意欲のある大人達にも教鞭を取れる。なによりその指導力の高さはよくよく理解していた。

 

 はじめての試み故に、最初は実験的に小規模に行い、成果が出次第に規模を拡張していく方が良い。故に最初はケイローン一人が講師としていればいいと考えた。

 

「第二候補はアキレウスだろう」

 

 すっかりその存在を忘れ去っていたが、ケイローンを思い出すと芋づる式に記憶の中から掘り起こされた。

 彼の少年も、もう青年となっているだろう。武力も知力も、ケイローンなら満遍なく仕込んでいるに違いない。あの頃のままの性格なら、負けたら言うことを聞けと条件を提示し立ち合えるはず。功名心の塊のような少年だったのだ、王と戦えるなら確実に勝負に乗るはずである。

 勝てばそのままアキレウスも引き込もうと考え、王はケリュネイアに乗って即座に行動に移った。

 

「――ヘラクレスではないですか。いったい何事で……ウグッ!?」

「御免」

 

 懐かしのペリオン山に馳せ参じた王は、出会い頭に微笑んだケイローンに奇襲の当身を食らわせ気絶させた。流れるような腹部への華麗なる拳撃である。ケイローンほどの武芸の達人であっても、実戦経験のない達人など王にとっては案山子も同然。正面切っての奇襲は容易く成功した。

 ぐったりとした師を担ぐ王の頭には次の仕事までの予定があった。時間が押している……のんびりとはできない。アキレウスを探すも出てくる様子も気配もなかった。既にケイローンの許から巣立っているらしい。露骨に舌打ちした。

 まあいい。収穫はあった。人さらいの如く王は颯爽とケリュネイアに乗り駆け出してしまう。師への非礼、非道は重々承知だ。本当ならやりたくはない。だが新たなる国造りに際して、最初の数年こそが最も重大なのだ。視えている問題解決のための方策を採択せずしてどうする。私情も人道も捨て置いて、兎にも角にも有能な人物は運用する必要がある。

 

 途中、目を覚ますなり地面に降ろされたケイローンもこれには苦笑いだった。王の横暴、その一つの行動だけで王その人の真意を悟ったのだ。

 が、然し……見抜いたからと了承できるかと言われると、その限りではない。当たり前だ。現在の生活をそれなりに気に入っているケイローンは苦言を呈さずにはいられない。

 

「数年ぶりに再会した師に、出会い頭に当身を食らわせるとは……貴方も世俗の者に染まりましたか?」

「……耳に痛い。ああ、確かに否定はできまいよ。だが私の国に、私の造る時代には師の力が必要だと判断した。事後承諾という形になるが、是非とも力を貸してくれ」

「こんな無体を働かれた私が、素直に協力するとでも?」

「悪いが是が非でも協力してもらう」

「……ふぅ。傲慢、そして横暴。上位者のそれを貴方は嫌っていたはずですが。どういう心境の変化ですか、ヘラクレス」

 

 もう本当の名では呼んでくれないのだな、と。頭の片隅でポツリと溢すも。それも当然かと内心自嘲した。

 今の己の所業は暴君のそれだという自覚はある。自覚があるからと赦される道理がないのも承知だ。だが自身の行いには後悔はない。

 

「昔と変わらん。それらは今以て好かぬ。だが知っているだろうが私は王となった。王たる者、国を最優先に富ませる方策を採らねばならぬものだろう。そして私の望みを果たすための道がこれだ。私が悪名を負う程度で賢者ケイローンの智慧を借りられるならあらゆる手段を断行する」

「ああ……なるほど……遂にそこまで……」

 

 賢者の思考は戦士には読み取れない。何がなるほどで、何が遂に、なのか。

 失望されているだろう。その貌を直視したくはない。だが目を背けるつもりはなかった。ケリュネイアの背から王は降り、師の面前に立つ。

 己は暴君である。だが暗君にはならない。裁量一つで多くの命を失う立場だ。かつて大恩を受けた相手からの失望、軽蔑を受けても止まらない。

 

「答えなさい、ヘラクレス。貴方は己の栄華を欲する愚王であるか否か」

「愚問。否だ。私は私の望みを果たす。あらゆる罪業を背負う。あらゆる悪徳を積む。ああ、この世全ての善、この世全ての悪を成すだろう。然しその代償に――人類に黄金の時代を。成せずともその礎を。この身を以て築き上げよう。遂げてみせよう。私は愚王に非ず、私は私の力を以て障害となる悉くを薙ぎ払う暴王となる」

「………」

「答えは如何に? 尤も、貴様に否と言う権利は与えん」

「……いいでしょう。ではヘラクレス、貴方は私に何を望むのですか?」

 

 問いに、一言。

 

「未来を。一つの国では到底足りぬ。世界を担える能吏の育成を望む」

「賢者を求めますか。――ええ。実を言うとこうなる事は分かっ(視え)ていました。態と現状に堕ちたのです。今の貴方に問いかけるべく」

「ほう……この上私に何を問う、未来を視る瞳を持ちし賢者よ」

「暴王ヘラクレス。今の貴方に私の憤りを受け止める人の情はありますか?」

「―――」

 

 答えを待たず、ケイローンは下半身を馬のそれから人のものへ替える。拳を握り、それを王の面貌に容赦なく全力で叩きつけた。

 だが、たたらを踏みもせず、その場に立ち続ける王は微かに貌を仰け反らせただけである。口の端を切っただけ。垂れた血を拭いもせず、王は無言で賢者を見据えた。

 

「……答えは頂きました。いいでしょう、貴方が死ぬまで、貴方の国で若者達を導く事を是とします。知識を与え、智慧を与え、暴王の望む能吏を育てましょう。ただしそれ以上のことは何もしません。いいですね?」

「ああ、それでいい」

「ヘラクレス」

 

 敢えてこの状況に立ったという賢者ケイローンは、最後に予言を残した。私人としての最後の姿で。以後、ケイローンは二度と王を名では呼ばない。

 陛下、と。そうとしか口にせず。そして師として振る舞わず、あくまで風下に立つだろう。

 最初から急がず礼を尽くせばこうはならなかった、などと甘い希望を持てはしない。王は知っている。世捨て人同然に暮らす賢者を引き込むには、こうして強引に事を運ぶしか手段はなかったと。その人となりを理解しているからこそ、この訣別は当然の帰結として訪れるのだ。

 

「――人としての情を捨てきれない貴方の王道は、どこかで必ず綻ぶでしょう。史に転換を齎す王たらんと欲するなら、今の内に人としての幸福も、人としての情も全て捨ててしまいなさい。私などの拳を甘んじて受ける人らしさなど、王たる者には不要です」

 

 予言に、王は笑う。莞爾とした笑みだ。

 きっとこの答えも賢者は予見しているだろう。

 

「ああ。ならば私にはその予言こそ不要だ。私は人のまま、王として君臨する。何も捨てるものなど有りはしない」

 

 私情によって立った者が、どうしてそれを捨てられる。あくまで人間の王で在り続けると笑う王に、ケイローンは跪く。

 

「陛下。貴方に尽くせる限りの忠節を捧げましょう。貴方のその人道、無道、非道……そして王道。貫き通せるか否か、近くで見届けさせてもらいます」

「私は賢王ではない。力と権威で押し通す暴王だ。故に確約しよう。私は傲慢に、我儘を押し通すとな。もしも私が王に徹するような事があれば――その時は私を殺せ、ケイローン」

 

 

 

 

 

 


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