ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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三幕 死と断絶の物語(上)

 

 

 

 新王は即位した直後、神々の祝福を受けた事で得た権威、自身に拠る武威、そして王位という身分を嵩に着て躊躇なく豪腕を振るった。

 悪吏を排し、悪法を廃し、富を配する。これまで()()()()()()()と諦め、受け入れていた悪しき慣習――所謂『袖の下』を用意する必要はなく、雑多なものだった都市内部の街の区画は役割毎に整理され、工業区と商業区、住宅区の区分けにより暮らしやすくなっているのだ。加えて兵士達は無駄に偉ぶらず、乱暴もなくなり。官吏達は不当な税の支払いを求めず。粛々と法を遵守し、させる存在に徹している。

 更に言うならオリンピア周辺は害獣が絶滅しているのだ。賊も居ない。王妃と王の腹心、王妹が兵の訓練と称して狩り廻って殲滅したのである。そして王に屈服した強大な魔獣が外来種の襲来を赦さぬように縄張りを造った。武力による徹底的な平和が築き上げられていた。

 まさに戦士の法。戦士の腕の中にある楽園。高潔な戦士が王となれば、こうなるという夢想を体現した国。それがオリンピアである。

 殊の外、民達が喜んだのは乱暴者ばかりである兵団、戦士団が大人しくなった事だった。気紛れに乱暴され、妻や姉妹に性的暴行を加えられても泣き寝入りするしかなかったのに、それらがピタリと無くなったのだ。社会的弱者であり、力なきが故に虐げられても耐えるしかなかった民草は、気性の荒い荒くれ者達を完璧に律した王を絶賛した。他国より連れてこられる罪人の凶相を見て不安を感じていても、まるで檻に入れられた獣の如くに狼藉を働く余力がなくなるまで調練を課され、軍規を破った者が厳しく罰されるのを知ると安心するようになる。

 

 人は感謝されると弱い。

 

 民達は単純だった。素朴で、純朴だったとも言える。自身に害を為さず、治安維持のための警邏を真面目に行い、他国の脅威から自分達を護るために過酷な訓練に耐えさせられている兵団、戦士団に民達は感謝するようになった。戦士達に虐げられた記憶は簡単には風化せず、被害を直接被った者やその関係者に蟠りはあれど、兵を通して王に感謝している。

 お勤めいつもご苦労さまです――精気が抜け落ちるほど疲労困憊であって元罪人達により構成される警邏隊や、荒くれ者揃いの兵達に、その優しくも温かい感謝の言葉は胸に滲みた。まるで数百年ぶりに慈悲を賜ったかのように感激し、時折り渡される民からの差し入れに滂沱の涙を流して感動してしまった。

 弱っている時に優しくされると平時の数十倍嬉しくなる心理である。人の道を外れて生きてきた者ほど感謝される事とは無縁に過ごしてきた経緯もあった。単純な民たちの素朴な心遣いが、彼ら元罪人達の意識を改革したのだ。彼らは民たちを何を置いても護るべき対象であると認識し、オリンピア兵は精強な兵に生まれ変わっていく。ゆっくりと、しかし確実に。

 

 オリンピアは僅か半年でその基盤を固めつつある。更に二ヶ月で盤石となり、その更に二ヶ月後には揺るぎない支配体制を確立させつつあった。

 

「………」

 

 それを戦神の神殿、王宮でもある其処の屋上から見下ろす。

 王には、この国の在り様を誇れなかった。というより自分の国だという実感が持てずにいた。

 何故なら王のした事と言えば、軍部への完全なる恐怖の刷り込みと、現在も進行している神殿の建築、獣の討伐、他神話との折衝、私塾の設立ぐらいなもので。ほとんど肉体労働しかしていないのだ。極短期間で此処まで持ってこれたのは、ひとえにプロメテウス神が智慧を振り絞り、人間関係を調節する人事を心掛け、効果的な施策を行い、人間心理に基づく西暦の近代都市にも通ずる区画整備を成してくれたお蔭だからだ。

 実質プロメテウスがやってくれたようなもの。王冠を被った王の姿で、である。最早オリンピアはプロメテウスの国と言っても過言ではない。

 

 断言できるが今、プロメテウスがいなくなると、間違いなくオリンピアは瓦解する。それが分かる程度には政治を学んだ王は諦念を懐いていた。とても真似できないと。

 視野が違う。視点が違う。発想が違う。施策を行う者としての位階が余りに違った、

 王は傍らのプロメテウス――自分と同じ容姿に化けた神に向けて言った。神殿の屋上で風に当たりながら。余人を交えず。

 

「全て貴様がやれば良いのでは……?」

「冗談はやめてくれ」

 

 割と本気だったりするのは、やはり王には『王たる者』としての器が足りないからだろう。彼は戦士だ。根っからの武人だ。オジマンディアスの許で学んだ帝王学も、プロメテウスが居れば無用としか思えない。

 役に立つのはエジプト仕込みの建築学のみ。これがオジマンディアスならプロメテウスにも負けない政治手腕を発揮するのだろうが、生憎と究極の個ではあるものの集団の長の立場に慣れていない王は、優秀極まる神の手腕のせいで、圧倒的敗北感に項垂れてしまいたくなっていた。これが戦士として『ヘラクレス』と対峙した者の絶望なのだろうか。だとすれば彼ら敵対者達の気持ちが、今更ながらよく分かる気がしてくる。

 

 プロメテウスは真顔だった。本心から冗談はやめろと言っている。

 

「己を卑下する事は必ずしも美徳とは云えぬ。おまえは王だ。器、格が足りぬと自己評価していようとも、おまえは紛れもなく王者足れる器がある」

「貴様の方がよほど王として優れているだろうに……」

「諫言を聞け。間違えるな戦士王。確かに智慧は当方が優れている。然しそれは所詮、言われた事を果たす官吏の業績に過ぎない。王は絵図を描き、国の進むべき道を示すのが本懐だ。そしてヘラクレス、おまえは王として道を示しただろう。到達するべき標を立てた。当方はそこに到る道程を、現実に則して埋めていく作業に従事しているに過ぎない。王よ、早合点だけはしてくれるな。後五年、十年で当方の力は無用となる。だがおまえの存在は百年、或いは千年、未来永劫に人類史に必要とされ続ける星となる。当方は足場を固め、人が歩き出せる道を舗装するのが精々だ」

「………やはり、貴様の言う事はよく分からん」

 

 雄弁に語るプロメテウスは、真面目にそう信じているらしい。王は理解の及ばない時の果てまで見据えた視点に頭を振って。然し其処に人類の栄華が確かにあると信じる。

 

「だが弁えよう。少し自覚が足りず弱音が漏れてしまった。プロメテウス――」

「――ああ、詫びてはくれるな? おまえほどの男に弱音を聞かされるほど信頼されている……そう受け取って、当方は勝手に満足していよう」

「……まったく、敵わんな」

 

 共謀者の言に王は苦笑するしかない。だが悪い気分ではなかった。

 自分の存在が役に立っている。これまでの仕事は無駄ではない。目の下に色濃い隈を拵えながらも、王は苦笑を微笑に模様替えした。

 ――自分という王の業績として、プロメテウスの功績は加算される。この神には何ら利益が無いのにだ。信仰が高まるでもない、供物が増えるでもない。だのにこうも尽力してくれるのは、本当に夢を追っているからだろう。

 どの神話にも必ず一人はいるという、人理構築の神の一柱。それが彼だ。神の時代を人のものにする、今は脆弱な人理を強固なものとするシステムの成立に全てを懸けている。故に信頼に値した。あらゆる自然、概念が神格を得て顕現している神代……彼は人の想念が神格化した存在故に。

 

 人類愛を持つプロメテウスはどこまでも王のために働くだろう。それが人類のためである限り。戦士王が――人類にとって無用となるまで。

 

「……何か、私もやらねばな」

 

 王は考えた。政治、政略はプロメテウスには敵わない。勝ち負けではなく、下手な案を施行すれば微妙な力学の働いているバランスを崩しかねないのだ。

 かといって肉体労働は今以上に付け足すものもない。農業は国が管轄するも主要な労働力は民であり、兵をそれに宛て農業区を拡大すれば管理に無用な労を要するようになる。発展途上のオリンピアに目をつけ、移民して来る者を受け入れても、拡大は緩やかになるのは必然だ。鉱業もまたそうで、資源は有限である。やたら発掘を進め鉱脈を枯渇させるような真似はすべきではない。いたずらに鉱石を発掘し枯渇させれば、鉱脈のある土地を所有する神の不況を買う恐れもあった。

 では何ができる。ヒッポリュテやマタルヒス、イピクレスの尽力により軍部の制御は十全だ。ケイローンにより後二年で試験的に私塾の卒業生を輩出すると聞かされているが、教育の分野でケイローンに何かを言う事もない。何がある?

 

「祭事でも興すか」

 

 誰にともなく呟くのは、それとなく傍らのプロメテウスの顔色を窺い、良い案か否かの判断をするためだ。らしくない振る舞いだがその手の分野に自信を欠く王にとって、叡智の神の意見を宛てにするのも仕方のない事である。

 プロメテウスは肩を竦める。悪くないと仕草で示され、それが自分の姿だからその剽軽な動作になんとも言えない気分になった。

 

「祭事で何をするか……武闘会、槍投げ、徒競走……オリンピアは海にも面しているな。なら水泳も……後は……戦車、弓術……」

 

 列挙される発想は、やはり戦士のものだ。プロメテウスは苦笑する。然し悪くはないと感じている。

 神が頷くと、ようやく自信が持てたらしい王は表情を綻ばせた。

 

「この国はオリンピアだ。故にその祭事は、差し詰め『オリンピック』とでも言うべきだろうな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ま、ま、と。突如発された声に、ヒッポリュテが目を見開いていた。

 その傍らでアルケイデスもまた瞠目している。

 アルケイデスにとっては随分と久々の休みの夜だ。朝も夜もなく働き詰めて、誰よりも精力的に活動して、およそ十ヶ月ぶりにまともな睡眠を取ろうとしていた。

 寝台に腰掛け、妻のヒッポリュテとヒュロス、アレクサンドラの四人で休もうとしている中、ふと目を覚ましたアレクサンドラがヒッポリュテに言ったのである。ママと。

 生後十ヶ月と少し。にも関わらず、可憐な蕾のような黒髪の天使は、母を呼ぶ言葉を発した。異様とは言わないまでもかなり早い段階で喋れるようになっている。

 まだ言葉の意味は分かっていないだろう。だが呼ばれたヒッポリュテは、蝋燭の火が照らすだけの寝室で大きな声を上げて喜んだ。

 

「そ、そうだ! ママだ。アレクサンドラ……」

「ま、ま」

「うん!」

 

 でれでれと秀麗な美貌を崩し、頬ずりするヒッポリュテをよそに、硬直していたアルケイデスはアレクサンドラに近づいた。

 

「わ、私は……?」

「………?」

 

 震えた父の声に、アレクサンドラは首を捻る事もなく目をぱちくりとさせた。

 呼んでくれる様子はない。アルケイデスが受けた衝撃はまさに軍神の剣。あからさまに落胆する。思えばヒュロスも先に母を呼んでいた。

 あれか、可愛い盛りの子供達に構う時間がなかったから? もしや父親と認識すらしていないのでは? 絶望的な表情で凍りつく。ひし、とヒッポリュテの衣服を掴むアレクサンドラの様子から、なんとなく警戒してるように視えなくもなかった。

 愕然とするアルケイデスが可笑しかったのか、ヒッポリュテは噴き出してアレクサンドラに言い聞かせる。

 

「ほら、パパだ。パパ」

「ぱ、ぱ?」

「そうだ賢いなアレクサンドラ!」

「ッ……! くっ、今、私をパパと……ッ!」

 

 愛娘の頭を撫でて褒めてやるヒッポリュテ。その横でアルケイデスは感激していた。

 つい求めてしまう。ヒッポリュテからアレクサンドラの小さな体を受け取ると、腕に抱いて至近距離から愛娘を見詰める。

 疲れの滲む偉丈夫である。その顔色の悪さとも相俟って、大層恐ろしいだろう。普通は泣く。だがアレクサンドラは普通ではなかった。兄のヒュロスよりも肝が据わっている。そのためか、アルケイデスに抱かれて体を硬直させるも、害意がなく暖かく慈しんでくれるのを本能的に察して、すぐに警戒を解いて笑みを咲かせた。

 

「ぱ、ぱ。ぱ、ぱ」

「!! ああ! ああ! アレクサンドラ! 私の宝! くぅぅうっ、な、なんと可愛い……!」

「………」

 

 ぴちぴちと頬を叩かれるのも嬉しい。アルケイデスは微笑ましげなヒッポリュテにも気づかず、寝台に娘を抱いたまま横たわる。

 あと三ヶ月で二歳になるヒュロスはすっかり眠っているのに、邪魔者の妹が母から離された隙に、無意識に母にしがみついていた。

 歓喜の余り眼が冴えてしまったが、明日も朝から忙しい仕事の日々だ。長く起きているとなんのために夜の休みを取ったのか分からなくなる。名残惜しいもののアルケイデスは言った。

 

「寝よう。ヒュロスとアレクサンドラを真ん中にして」

「そうしようか。ふふ……それにしても可愛いな、アルケイデス」

「そうか? そんな事を言われたのははじめてだな……」

「随分と久々だ。こうして家族揃って眠るのは。本当はもっとお前と話したかったが、それは国が落ち着くまでお預けだな」

 

 家族で眠る。

 蝋燭の火を消して、暗闇に包まれる中、自身の腕を枕にする娘の重さを感じるアルケイデスは至福の中に居た。

 これで明日からも頑張れる。その活力を貰った。

 

 賢者は説いた。王は人ではない、王権は人道の上にはない、と。

 だがそれがどうした、とアルケイデスは思う。人として、人のまま、王で在り続ける。古来、確かに人のまま王であった者は破滅してきたのかもしれない。だがそのいずれもこのアルケイデスではないのだ。

 不可能だろうが可能にする。元より王と成ったのは人としての己の渇望、その私怨によるものが動機の大本だ。それでどうして人としての己を捨てられる。人でなくなってしまえば、それこそ何のために王に成ったのかも分からなくなるではないか。

 

 アルケイデスという男の矛盾がそこにある。私怨で立ち上がり、然し大義を掲げ。大義に沿い、然し私怨を求める。全てに――そう、()()に優先する。長年彼の原動力となった復讐心は、何よりも最優先にされる。愛も、友情も、命も、何を置いても復讐を第一とする。せめて身近な人には幸福をと願いながら、常に報復の時を夢想している。

 きっと、復讐の妨げになるのなら、王位も、部下も、責任も捨て去ってしまう。仲間も……今の家族すらどうするかは解らない。今のアルケイデスの根幹はそれなのだ。

 故に今、アルケイデスには二面性がある。

 

 慈父にして冷徹な統治者、王にして戦士であり、大英雄である一面。

 その裏に潜む、全てを燃やし尽くす劫火の如き怨念が形成する一面。

 

 負の一面こそが本性である。至福を享受する父の顔をしている男からは、例え神でもギリシャ神代に黄昏を齎す灼熱を感じられはしまい。

 アルケイデスとその一家が眠り、静寂が満ちる。今はただ、時代は静謐の世を春として楽しむのだ。

 

 そして、戦士王即位より一年。ようやく政情が安定し、夜も更けた頃には落ち着いて眠れるようになっていた。

 加速していく発展。形と成っていく栄華。国に齎される栄光。

 忙し無さはそのままに、然し戦士王の号を示すように鎧姿を平服とするアルケイデスの許に、一人の警邏隊の兵が駆け込んできた。

 

 戦神の神殿にして王の宮、その玉座の間である。無礼を叱責するべく、王の脇に侍る仮面のマタルヒスが鋭い叱責を浴びせた。ここをどこと心得るのです、居を正しなさいと。

 だが兵のただならぬ様子を見てマタルヒスを制止し、恐縮する兵にアルケイデスは問い掛けた。何事だ、と。兵は言った。

 

「イオラオスと名乗る者がやって参りました! 王に会わせろと――」

 

 アルケイデスはようやく帰ったかと肩を竦め。

 然し兵の様子から、甥に何かをしたのかと怪訝さを覚える。

 帰ってきただけなら、こうも慌てる理由がない。

 

 私の甥がどうかしたのかと問を重ねた。すると兵は言う。

 

「そ、それが……途中までは王宮まで案内していたのですが、道中に建築中の女神キュベレーの神殿を見掛けると……

 

 突然、怒り狂った様で、破壊したのです! 負傷者多数、現在も警邏隊と交戦中! なおも神殿を破壊しようと暴れています!」

 

 ――アルケイデスは、その報告に呆気に取られた。

 

 

 

 

 

 




時系列がやっと序幕に追いついた。

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