ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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五幕 死と断絶の物語(後)

 

 

 

 

 

 カリュドンでの出来事は、実を言うと克明に覚えているわけではない。

 記憶が曖昧なのだ。魔術か魔法、神秘の手段による撹乱が原因ではなく、直近の出来事のせいでここの辺りから漠然とした記憶になってしまう。

 推測するに、一度心が許容できない激情で壊れたのかもしれない。燃え滾る赫怒が脳を灼いたのかもしれなかった。

 誰に聞いた話だったか……人間は一定以上の感情を持てないという。限度を超えた感情を出力すると、その入力に脳の回路は耐えられないのだ。

 限度を超えた感情という名の狂気を持つと、人は狂う。壊れる。破綻する。

 然しだ、幸か不幸かこの身は平凡な器だった。人類史という連綿と紡がれる文様に巨人のような足跡を残す偉大な伯父に鍛えられ、その体と技、智慧は英雄の領域に届いているが、その精神性はどこまでも平凡なものでしかない。

 だからだろう。狂気に通ずる赫怒に燃え、一度壊れたこの心は自然と修復された。壊れ続けて、狂気に浸り続けられるほど強い心を持っていなかったからだ。赦し難い憤怒を、伯父のように持ち続けられるほど、強くなかったからだ。

 

 欠けたものは戻らない。半身をなくしたかのような喪失感に苛まれながら、その穴をきっと別の何かで埋めてしまうのだろう。

 だが。でも。きっと――人の身が持ち続けられる限りの怒りと哀しみを、死ぬその時まで持ち続けようと思う。辛いだろう、泣きたくもなるだろう、だがそれにジッと堪えるのが男の修行なのだと思う。

 

 ――昔の記憶も、ところどころが虫食い状になったように穴がある。覚えていたはずの事を忘れている。だけれども、それで人格に支障をきたす事はないと断言できた。

 

 問題ない。大まかな時系列の流れは覚えている。カリュドンにはアルゴノーツ……一部ではアルゴナイタイとも呼ばれている、現イオルコス王イアソンが集めた英雄達に匹敵する戦士や狩人が集っていた。

 といっても大半は元アルゴナイタイのメンバーだったりするのだから、匹敵していて当然と言えば当然なのだが。

 

 そこでペーレウスやカストール、その弟ポリュデウケス達と再会した。然し挨拶して握手を交わしたぐらいで別れたはずである。なにせ猪狩りは冒険を一緒に行うのではなく、競争して獲物を奪うもの。仲良しこよしなんてできるはずもない。当然の別れだ。

 もちろんアルゴー号の冒険で苦楽を共にした仲間意識は強く残っている。積極的に妨害し合うような真似はお互いにしない。

 カリュドンで相見えた王子もまた、元アルゴナイタイの一人だ。挨拶をして参戦を表明すると再会を喜んでくれて。なんとこの王子、アタランテに求愛してくれやがった。だが残念、既にアタランテは既婚の身。というかメレアグロス王子も既婚の身ではないか。何してくれてるのだろうか。

 

 アタランテはおれの女だ、と言うと、衝撃を受けたようだったが、王子は大人しく諦めてくれた。既婚の身では不義になると理解しているのもある上に、伯父があの最強の戦士だという事で下手に手出しをしたら恐ろしいというのもあるのだろう。

 それっきり、悲しそうではあったが、王子はアタランテに秋波を送るのをやめてくれた。不穏な気配を送ってきていた彼の親族も、それで大人しくなってくれたので有り難い事である。変に略奪婚などをしてこようものなら……王子を殺してしまっていたかもしれない。もちろんアタランテは黙って大人しく、簡単に奪われるような易い女ではないので、仮にイオラオスを打ち倒せたとしても一筋縄ではいかないのだろうが。

 だがなんというか、元アルゴナイタイではない、カリュドンの猪狩りで初見となる英雄の中には、恐れ知らずというかアタランテを強姦しようとする糞がいた。その者は二人いて、一人はアタランテ自身に射殺されたが、もう一人はこの手で斬り殺した覚えがある。

 

 ――カリュドンの猪狩りは、波乱こそあれど恙無く終了した。

 

 巨大な魔猪へ一番最初に矢を的中させ手傷を与えたのがアタランテ。そしてトドメを刺したのがイオラオスだ。戦利品として大魔獣の毛皮を手に入れたのだが、生憎と使う機会があるとも思えない。然し折角の宝具級の代物、持っていて損はないだろうと思った。……思ってしまった。

 

 ――この時、この毛皮を処分していれば良かったのだ。

 

 狩りの最中、二人のケンタウロスがいた。ヒュライオスとロイコスという。彼らはアタランテを狩りのどさくさに紛れて強姦しようとした者達であり、ヒュライオスをアタランテが射殺し、ロイコスをイオラオスが斬り殺していた。この因縁でケチがついてしまったのだろう。二人はケンタウロス族との間に確執を生んでしまう。

 その因縁を深めたのが、同じ元アルゴナイタイで、更にカリュドンの猪狩りにも参加していたカイネウスであった。

 

 彼は『ヘラクレス』がいないのを見て軽薄な笑みを浮かべていた。

 実力はある。然し傲慢で力をひけらかし、肥大化したプライドは実力に釣り合わぬほど大きくなっていた。そんな、自滅する人間の相が出ている英雄だ。

 カイネウスはイオラオスとアタランテを誘った。以前『ヘラクレス』は彼を指して、人間性で言えば粗野で下品な、およそ『女』が考えるであろう最低な『海の男』を演じ(ロールし)ているかのようだと評した事がある。自身の演技を通してある存在を貶めるように。軽薄で三下めいた言動をするカイネウスだが、そんな彼も友情といったものを感じる心を持っている。仲間意識もあったのか、自分の城に遊びに来ないかと誘ってきたのだ。特に断る理由もなかったイオラオス達はこれに乗った。

 彼はラピテース族の食客となっているらしい。ラピテース族の王となっていた、元アルゴナイタイのペイリトオスと再会し、旅先での縁にイオラオス達は呑気に喜んでいたものである。

 

 然し、カイネウスが戯けた事を仕出かした。根底に男の神への憎悪があるのだろう、態と神を侮辱するために、涜神的行為を行ったのだ。

 

 彼は街の広場に槍を突き立て、この槍を神々に列しろと市民に命じたのだ。

 神とは人間の信仰で成り立つ存在。もしも人が信仰を懐いてしまえば神は生まれる。神々は檄憤し、大神ゼウスは恐れ慄いた。

 もしもこの儀が成れば、神は人に創造されるのだと認識されてしまう。そうなれば、神々の零落は避けられない。人の上位存在でなければならないものが、人の被造物に堕ちてしまうのだ。イオラオスは慌ててやめさせようとしたが間に合わず、カイネウスの涜神的な振る舞いは神々に知れ渡ってしまっている。

 嫌な予感がしたイオラオスは、さっさとこの地から離れようとした。だがペイリトオスがそれを悪意無く引き止める。曰く、自分の結婚式が間近だから、式を挙げていないらしいイオラオスとアタランテも共同でやらないか、と。その誘惑にイオラオスとアタランテは抗えなかった。正式な夫婦になる――その欲につい、ラピテース族の国に長居してしまった。

 

 果たして、カイネウスを殺さねばならぬと大神として当然の措置を取ったゼウスにより、ケンタウロス族が大神にけしかけられて、結婚式の当日に攻め込んできた。

 

 奇襲だった。ケンタウロス族の戦士たちは異様に強く、一人ひとりがロイコスやヒュライオスに匹敵している。ラピテース族は慌てて迎撃したが敵の勢いを止められず、ペイリトオスは花嫁を殺されて怒気を発して戦うも敵わず逃げていった。

 異常事態である。幾らなんでも強すぎるのだ。イオラオスは悟る。彼だけが彼らの力の源を察知する。ケンタウロス族は大神の加護を得ているのだと。カイネウスを殺すために。即ち、不死であるカイネウスをも殺す不死殺しの加護も備えているに違いない。

 即座に見切った。戦況を。イオラオスはアタランテを連れその場から逃走した。神の策略に巻き込まれては堪らない。カイネウスを見捨てるのと同義だが、自業自得の破滅に付き合う義理はない。心苦しいが彼よりも自分達の身の安全の方が重要だった。

 果たしてカイネウスは無残な末路を遂げる。女が男の真似事をしているなど笑止! そう嘲られ、四方を囲まれたカイネウスは棍棒で袋叩きにされ、不死身のはずの体は癒えず、ついには樅の大木の下敷きにされて窒息死してしまう。

 

 ケンタウロス族はそうして勝利した。それで終わり。終わる、はずだった。

 

 然し、一人のケンタウロス族が気づく。逃げていくイオラオスとアタランテを最初は追おうとしていなかったのに、青年の持つ短剣と、女狩人の持つ弓を見て『あれはヒュライオスとロイコスを殺した奴らじゃないか!』と叫んだ。

 仇だ! 殺せ! 戦勝の興奮に血気が逸り、ケンタウロス族達は二人を追撃した。この時にはカイネウスを殺した事で大神の加護を喪っていたが、それでも元々ケンタウロス族は強靭な種族である。アタランテの脚には追いつけずとも、普通の人間であるイオラオスに追いつくのは難しい事ではなかった。

 戦いが続く。彼らは執拗だった。多勢に無勢、逃れながら戦うも、イオラオス達は追い詰められていく。逃亡の日々だった。悪い事は重なり、アタランテがイオラオスとの子供を孕んでいた事に気づいた。

 

 生きるか死ぬかの瀬戸際である。胎児を堕ろすべきだと主張するイオラオスに、アタランテは強硬に反対した。絶対に生むと言って聞かなかったのだ。彼女の信念を知るイオラオスは早々に説得を諦め、なんとかケンタウロス族を撒くべく智慧を絞った。

 だがケンタウロス族はもはや意地である。追撃の中で数多くの同朋が殺され、もはやイオラオス達を血祭りに上げねば収まらなくなっていたのだ。

 必死に逃れた。だがどこまでも追われた。アタランテの腹は膨れ、移動速度は落ち、戦闘不能となる。仕方なくイオラオスは自分一人で戦う事にした。今、ケンタウロス族に見つかれば、逃げる暇もなくアタランテが殺される。それは看過できない。

 

 そこでイオラオスはアタランテを連れて大神の聖地に入った。聖域であるそこは、大神の庇護する大地母神キュベレーの神殿があり、そこにアタランテを隠したのである。

 人が離れ、廃れた神殿である。まさかこんな所にアタランテが隠れているとは思うまい。野蛮なケンタウロス族なら此処をも戦場にしてしまいかねないが、そこはイオラオスがケンタウロス族を誘導し離れていけばいい。遠くで戦えば、少なくともアタランテは安全だ。とうの女狩人は頻りにイオラオスを心配していたが、笑って断言した。『おれは伯父上……ヘラクレスの同行者だ。あんな智慧足らずのバカどもなんかに遅れは取らないよ。安心して待ってろ』と。

 

 イオラオスは敵を侮っていたわけではない。然し絶望的に状況が最悪だっただけだ。

 

 出産を間近に迫らせていた身重のアタランテを連れての逃亡は上手くいっていたが、それでも脚が遅すぎて。近くまで迫られていた事に……その可能性に、アタランテを隠せたばかりの安堵で失念してしまっていた。

 大神の聖域、キュベレーの神殿、それは森の中にある。森を出た直後、イオラオスはケンタウロス族に鉢合わせ、見つかってしまった。

 

 戦闘が始まる。死に物狂いで森から離れようとするも、その必死さが却って疑念を招きかねないと判断せざるをえなかったイオラオスは、やむなく森に引き返した。

 ケンタウロス族は半馬、草木生い茂る森の中では戦い辛いはずでもある。イオラオスは巧みに森林戦を仕掛け、次々とケンタウロス族の戦士たちを倒していった。

 然し三日三晩続いた死闘と、ここに到るまでの逃亡生活で疲弊していたイオラオスは一瞬の隙を突かれ、生き残った僅かなケンタウロス族の戦士に、魔獣の毛皮を奪われてしまう。何が何でもイオラオスを殺す――その覚悟を以て一頭のケンタウロスは毛皮を使用し魔獣化した。

 

 恐るべき怪物が誕生する。カリュドンの魔猪の力と、強靭なケンタウロスが融合したかのような巨大な化物だ。

 

 それが己を殺さんと迫る。絶望的だった。

 だが――何をどうやったか覚えていられないほど遮二無二に戦い、イオラオスは見事に大魔獣を討ち果たした。

 これで追っ手は壊滅。もう大丈夫だ。イオラオスはそのまま意識を失い、死んだように眠る。そして目を覚ました時――イオラオスは、純粋な人間ではなくなっていた。

 

 体の調子に違和感を覚えたイオラオスは、泉を探して水面を覗き込んだ。そして驚愕する。己の手足から伸びる爪の鋭さ、分厚さは獣のそれ。臀部からは尾が生え、牙が肉食獣のように大きく尖り、瞳が変質して耳も獣のものとなり、髪も金毛に変化していたのである。

 

 何が起こったのか、その時は全く解らなかった。――大魔獣の発していた濃密な魔力の力場によって、それと戦っていたイオラオスは、半端に神罰を受けるだけで済んでいた、などと。死闘の最中にいたイオラオスは気づけなかったのだ。

 暫し放心していたイオラオスだったが、我に返ると愛する女を隠していた神殿に向かう。もう大丈夫だ、おれは死んでない、敵はみんな倒したと言って、安心させてやりたかった。そうして神殿に近づくと、赤子の泣き声が聞こえた。

 二人の赤子の泣き声だ。イオラオスは浮足立つ。まず間違いなくアタランテが出産を終えたのだ。愛する人との子供の誕生に間に合わなかった悔しさと、無事に子供が産まれた事への歓喜で、イオラオスは駆け出す。――よくよく聞いていれば、体力が万全で注意深さが残っていれば気づいていただろうに。

 

 その二つの鳴き声が、()()()()であった事に。

 獣の赤子の鳴き声を、違和感なく自分の子供のものだと認識してしまった不具合に。

 

 果たして、()()()は訪れた。

 

 神殿の中に駆け込んだイオラオスは目にしてしまう。二つの小さな影に、一頭の雌獅子が覆い被さっているのを。

 死角で視えなかった。小さな影の輪郭が。

 双子が産まれたのだと理解していたイオラオスは、二つの小さな影が我が子の物で。そして雌獅子がたまたま傍を離れたアタランテの隙を突いて、子供達を食い殺そうとしているように見えた。

 

 叫んだ。やめろ! と。雌獅子はびっくりして振り向いて。

 

 その首に。駆け寄ったイオラオスは。

 

 剣を、突き刺した。

 

 ――信じられないような。純粋に驚いたような。

 納得したような。悲しそうな。

 そんな、雌獅子の目。

 

 イオラオスは雌獅子を退治し、我が子を護った――はずだった。

 然し小さな影は、二頭の獅子の仔の姿をしているではないか。イオラオスは呆気に取られる。

 自分の子供は? アタランテは? どこにいる?

 慌てて探した。然し神殿のどこにもいない。まさか獅子に食われた? そう考えて血の気が引くも、それにしては血痕がない。アタランテが抵抗した痕跡も見つからない。

 どういう事か解らない。

 探した。

 

 どこにも、妻と子供達の姿がない。

 

 半狂乱になって聖域を駆け回る。だが何処にもいない。やがて途方に暮れたイオラオスの前に、廃れていながらも時折り神殿を清めに来るキュベレーの信者達が現れた。

 どうしたのですかと声を掛けられ、呆然としながら事情を説明すると、信徒達は痛ましげに告げる。

 

『神罰がくだったのですね』

『は……? な、なんで……?』

『聖域に魔獣を生み出し、あまつさえ赦しなく聖域を穢れた魔獣の血で汚したのです。貴方のその姿が証拠でしょう。キュベレー神は貴方の罪を罰したのです』

『え……?』

 

 聡明なイオラオスは、それで総てを悟った。

 ――という事は。あの、雌獅子は。あの、二頭の獅子の仔は。

 まさか、と思った。そんなはずはない、と否定した。有り得ない、有り得てはならない。そんな、そんなバカな!

 イオラオスは無意識に走り出していた。そして冷めきった雌獅子の骸をまさぐる。

 すると……見つけてしまった。

 旅の中で、イオラオスがアタランテに贈った……一粒の宝石を。紐で吊るしたそれが雌獅子の首に掛けられているのを。

 

『あ』

 

 びギ、と心が罅割れた。

 

 イオラオスは、狂った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、我に返ると、イオラオスは神殿を完全に破壊し尽くし、キュベレーの信徒達を皆殺しにしていた。

 全身が真っ赤になっている。ケンタウロスとの戦いで受けた傷と、ケンタウロスとキュベレーの信徒達の返り血で濡れていたのだ。

 イオラオスは頭が真っ白になっていて。そして、二頭の獅子の仔を掴み、茫洋とした眼差しで、のろのろと歩き出し。

 

 何も考えられないまま、なけなしの義務感で獅子の双子の世話をしながら、伯父の許に帰ってきたのだ。

 

「――――」

 

 アルケイデスは絶句し。そして、震えながら問う。

 

「その、二頭の仔は……お前の、子、なのか……?」

 

 問われ、半獣の青年は頷いた。

 

 ――甥は、伯父と同じ轍を踏み。

 最愛の人を、その手にかけてしまっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




悪神ではない女神。
悪意があったわけではない夫婦。
不可抗力でも、人間の事情なんて斟酌しないのが神。
そして神罰。
何もかも間が悪かった(?)

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