ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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今日二回目だよ。

残虐な描写あり。注意。

以後、抑止力が〜、といった表現はありません。
だって多用すると萎えるからね、仕方ない。
実際便利だけど邪魔でもある。何があっても抑止力が! とかでは片付けずにいくので、よろしく。




十一幕 人の過ち、英雄の因果、王の責務(上)

 

 

 

 

 

 偶然だった。手抜かりだった。不覚であった。

 

 ――ヒトとヒトには相性というものがある。話が合う、趣味が合う……けれども、その上で互いが例えどれほど好意を寄せ合っていても、些細なボタンの掛け違い、間の悪さから決裂する事もある。ささやかな誤解、偶然の産物によって、嫌い合っていた者同士が好感を持つようになる事もある。

 それらを総じて因果律的な相性というのだ。そして、そういう意味で、或る英雄と或る女神の相性は、致命的に最悪のもので。

 間が、悪かった。運が悪かった。有り得ないはずの偶然が生まれた。ひたすらに両名の相性は最悪で、いっそ呪いじみてさえいる。

 

 ()()()()()()ッ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ッ!!

 

 なんだと、と反応したのはゼウス――だけではなかった。

 例え醜いと謗られ、疎まれ、嫌われていたとしても。母は母であると慕っていた者がいた。

 鍛冶の神ヘパイストスである。

 彼は或る巨人と戦っていた。その名はミマースという。自身の鍛冶場から溶鉱を持ち出し全身に浴びさせ戦闘不能にし、ヴェスヴィオという名の山岳の下敷きにして封印しようとしていた時に、その声が届いた。

 ヴェスヴィオ山を投げつけた瞬間、英雄の呪詛を聞いて、鍛冶の神は居ても立ってもいられず、ミマースが山の下敷きになったのを一瞥だけで確認したヘパイストスは、母の危機を救うために駆けつけようとその場を離れた。――本来ならその後に、軍神アレスがやって来て、ミマースに抵抗する余力がなくなるダメ押しの一撃を与えるのだが、ヘパイストスがその場を離れた事でアレス――マルスはやって来なかった。

 

 果たして、戦が終わった後。全身が焼け爛れ、溶けた金属を肌の表皮に固着させたミマースが、憎悪を滲ませてヴェスヴィオ山から抜け出した。

 彼は復讐を決意する。オリュンポスを根絶やしにしてやると、同朋達の骸を前に壮絶な覚悟を懐いた。彼はギガースであり、智慧は足りない。率直に言って頭が悪い。然し分かる事があった。神々には自分を殺せない、然し多くの同朋を殺めた人間がいるのを知っていた。

 

 その人間を殺さねばならない。探し出さねばならない。あの人間さえいなければ、負けることはなかったのだ。憎きゼウス、ヘパイストスを殺すためにも、まずはあの同朋の仇である人間を殺さねばならぬ。

 ミマースは、人界に襲来する。だがやはり、彼は愚かだった。満身創痍である彼は、あの人間と出逢えば相手にもならず一撃で殺されるだろう。それを考慮していなかった時点で、所詮は智慧無き愚昧な巨人でしかなかった。

 

 だが。

 

 何をしたでもない。然し、相性が悪かった。その女神に関わる事柄で、彼の英雄に幸運が微笑むことはなく。寧ろ――逆風を吹かせるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「困ったな……」

 

 言葉通り、心底から困り果てたように復讐鬼は眉を落としていた。

 彼は武人である。戦士である。王である。英雄である。そして地中海(ギリシャ)の神代最盛期に於いて、異端とまで称せる高潔な聖者でもあった。

 豪傑である。英傑である。その心根頗る善性、その視点極めて中庸、その価値観至って中立。自らの良心に従い、その志は全の善なるを希求し、平和を愛し戦乱を忌避し、人の愛と勇気を尊ぶ。明朗にして明快、悪を憎み罪を糾す。自らの勲を誇りはすれども誇示はせず、友誼を尊び不実と不義を疎む。

 最大の英雄とは彼の事。至強の戦士とは彼の事。武芸百般、悉く神域の頂きに在り、その武を称して武神と形容する声もある。人は噂する、彼はその功績を以て神の席に迎えられるであろうと。半神の身ですら至高の戦神と対等の地平で戦える力があるのだ、純粋な神となった時の力は如何ほどのものになるのか。個としての実力は無比のものとなるのは疑い様はないだろう。

 

「まさか、だ……なぜ? どうしてだ? ああ、全く……クソッ、こんな、こんなものであっていいはずが……!」

 

 ――そんな、ヒトにして戦士、王にして英雄である至誠の偉丈夫は。

 まるで楽しみにしていたご馳走が、想像していたものより粗悪な代物であった事実を識ってしまった子供のように落胆し、何がいけないのかと粗暴な悪態を吐いて考え込んでいた。

 

 らしくない、彼を知る者ならば別人であると疑う悪意の毒が瞳を濁らせている。

 

 場所は、オリンピア……ではない。復讐とは灼熱の憤怒の下、苛烈にして激烈な責め苦を対象に与えねばならぬとか考えていた。

 故に自身の国は拷問場として適当ではない。綺麗な理想を描く国に、このような汚物と薄汚い復讐の跡を残すわけにはいかないのだ。だからこそ英雄は場所を選んだ。太陽神の眼が届かず、大地母神の知覚が届かず、凡そあらゆる精霊、幻想種、神、人の眼に触れる余地のない場所をあらかじめ見つけておいたのだ。

 其れは世界の果て。自身の豪腕によって定義付けられた西方の断崖。その絶壁の中腹に小さな洞窟を造っていたのである。

 

 神の眼の届かない秘境。そこには復讐鬼がいた。そして――焦がれるほど追い求めた者がいる。

 

 美しい女神、()()()モノ。過去形で形容されるそれは、もはや殆どヒトの形を残していなかった。

 まず手始めに全身を炎で焼き、煙に巻き、焼け爛れたミイラのような姿に変貌させ、前妻や我が子らが味わった苦痛を体験させてやった。

 それではまるで足りなかった。満足できなかった男は、次に声無き悲鳴を上げ続ける女神の四肢を爪先から微塵切りにし、馬糞に混ぜて食わせてやり。足りぬと感じ、腹を縦に割いて中に虫を敷き詰め。耳からナメクジを入れてやり。眼球を刳り貫いて左右を入れ替え。総ての歯を素手で一本ずつ抜いてやった。

 その様を磨き抜いた青銅の鏡で見せてやり、怒りと屈辱と苦痛と恥辱を与えながら丹念に心を磨り潰すべく、不死の身が再生するまで待ち、何度か工夫を凝らしながら繰り返した。陵辱を除く総ての拷問を、拷問のための拷問を繰り返した。三日三晩にも及ぶ試行錯誤の末に、女神の眼から憎悪が薄れ、心が弱り、怯えはじめ、ついには心が折れて声もなく赦しを、慈悲を求めるまで休み無く行い続けた。

 

 だが、全く足りない。何故だ。最初の一時間でメガラや子供達の感じた苦痛を上回る灼熱の激痛を与えてやったのに、全く満ち足りないのだ。

 

 剣で斬った。槍で貫き、弓の的にした。殴り殺し、絞め殺し、肉塊に何度も転生させてやった。元の形を取り戻すのを待ち、自負していた美を徹底的に破壊し尽くし。両腕を太腿の付け根に接続し、両脚を肩の断面に接着させ、乳房を切り取り背中につけ、そのまま再生させて奇形にもしてやった。

 兎に角、心を砕いた。女王としての自尊心を粉砕した。もう充分だろうと、理性は何度も言っている。拷問などせず、無駄に時間をかけず、ただプロメテウスの元に向かいヘラの司る悉くを人理に溶かし、人の心へ委ねる自然のものとすればいいのだ。

 

 神を概念に還し、人格を無とする。それこそが不死の神の正式な殺し方。それで終わらせればいいと、頭の片隅で理性が繰り返す。

 だが復讐の炎は極めて強烈に男を突き動かした。復讐を。惨卑を窮めた復讐を。求めるままに何度も打擲した。だが延々と作業に尽くしても、全く足りない。

 故に男は困惑していたのだ。全身を神の血で汚した復讐鬼は、何が駄目なのか全く見当もつかない。いっそ女としての女神を辱めてやろうかとも思ったが、生理的に無理なので手出しができなかった。ましてやコレが何かに犯されている姿を見るのも苦痛でしかない。汚物と汚物がまぐわうのを観察しても、心の穴が埋められるはずもないのだ。

 

「……仕方ない。ああ、情けないな。これ以上時間を掛けても無駄か。そうだろう? このまま永遠に責め抜いても、私はきっと満たされないのだ。ならば貴様如きに時間を掛ける事の方が勿体無い。漸く諦めがついた。……これで終わりにしてやる」

『   』

 

 心が折れ、怯えと痛みで心が死に、伽藍となった虚無の瞳を見て、ヘラという人格が死んでいるのを確かめて。

 やっと、男は妥協した。尽きぬ憤怒と憎悪に折り合いを付けた。憎しみという感情は消耗品であるはずなのに、一向に尽きる気配のない悪心に理解したのだ。もはや、この憎しみは死した後にも消える事はないのだろうと。己の胸の裡に秘め続ける内に、最早この魂の一部と成り果てたのだと。

 それが答えだった。最も憎悪した女神にあらゆる責め苦を応報として与えても、己の復讐は終わらない。神代に終わりを齎し、人間の時代を世界に満たせた時――はじめて復讐は終わるのだ。

 

 男は、白亜の剣を執る。柄頭に秘めておいた毒液を、細心の注意を払って割いた女神の腹の中に滴らせた。

 

『  ッ! ゥゥ ゥヴ  ヴ   ヴ  ッ ッ!?!?  』

 

 女神がカッと眼を見開く。全身を痙攣させた。滴らせたのはこれまでただの一度も使用したことのない神蛇竜ヒュドラの毒である。

 女神の眼に意志の光が戻っていた。なんと、この期に及んでヘラは自我を残していたのだ。痛みは繰り返される度に鈍くなる……そして自尊心と気位の高さだけで、ヘラは拷問に耐えていたのだ。そしてなんの反応も示さないでいられるようになっていた。

 男は驚く。元気じゃないか、と。呆れた精神力……否、神としての誇り高さ。思うところはあるものの、大したものだと感心させられる。まだこの女神は諦めていなかったのだ。なんとか男を出し抜いてやろうと考えていた。

 

 然し、それは無駄だった。

 

 男の施したあらゆる拷問が児戯に等しい圧倒的な炎苦。魂すらも汚染する全宇宙最強の猛毒は、男の拷問に慣れてしまっていた女神王ヘラをして絶叫させた。

 そして加速度的に心が死んでいく。感覚が無になっていく。次第に動かなくなった女神ヘラは――今度こそ、完全にその魂を死なせてしまった。死なせて、死なせて、と。うわ言のように削がれた唇が紡いでいる。

 げに恐ろしきはヒュドラの神毒。使用した男すらこれほどのものとは思わなかった。変に欲張り猛毒を生成するヒュドラの肝を抜き取って、公然と多用していれば、いつかこの毒の脅威を己も味わっていたかもしれない。そんなもしも(IF)を想像して背筋が凍った。

 

 必要最低限の毒しか入手しなくて正解だった。少し多目に垂らしただけでこれなのだから、きっと我が身の破滅を齎したに違いない。

 あと、使用できる回数は、今回複数回分使ってしまったので矢に塗り撃つだけで使用するなら三回。剣の一閃に用いれば矢の回数二回分か。充分だ。むしろまだ多すぎるかと不安になるほどである。

 

 男は動かなくなり、然し時折り思い出したように痙攣する女神の生きた骸に隠れ兜を被せた。そしてそのまま担ぎ、帰還する事にする。

 この隠れ兜、永遠に紛失扱いにするのもいいが、やはりいつかは冥府神に返還するべきかもしれない。流石に彼の神の至宝を一身上の都合で拝借したままなのは気が咎めるのだ。邪魔になるであろうヘルメスはタルタロスに幽閉されるであろうし、いつかヘルメスが出てきてもなんら問題のない局面まで進んだら隠れ兜を見つけたという事にして返還しようと決める。

 

「……いかん、どうも思考が負のものに引き摺られている」

 

 凄惨な復讐に手を染めていた直後だからだろう。自分でハデスから盗んだわけではないにしろ、彼の神の至宝を勝手に借用していながら、自身の都合で還すタイミングを決めるなど言語道断。素直に謝り、罰を受けるべきである。

 然し……それはできないのだ。冥府神の至宝を盗む事など到底赦されない。ましてや己が隠れ兜を使っていたと露見し、女神王への所業が白日の下に晒されるのは確実。

 罪を告白すれば己は死を賜るだろう。無限の責め苦が待っているだろう。それが怖いわけではない。ただ、成さねばならぬものがあるから……せめて礎を築くまでは死ぬわけにはいかない。

 

 屑である。唾棄すべき逃避だ。男は自嘲した。己の人品が最低最悪である事を自覚せざるを得ない。使命や大義を理由に罪を隠蔽するとは、己も堕ちるところまで堕ちたらしい。

 

 ――そう。応報は此処に。

 

 理性に従えばよかったのだ。満たされる事などないと解っていたのだから。

 だがどうしても、女神王の魂や人格をこの手で滅してやりたいという欲望に、渇望に抗えなかった。

 そして場所が悪かった。神ですら気づけない世界の果ての秘境……それはいい、然しそれは、何があっても()()()()()()()――()()()()()という事でもあるのだ。

 間も悪かった。人間とは()()()()()()()()神々は、女神王の暫定的な後釜を決める会議を行っている。その後にはゼウスがかねてより考えていた、或る悍ましくも管理者である大神らしい議題を出し、それについて会議を白熱させていた。

 故にその惨劇に気づいていなかった。無論オリュンポスに注進に走る神は居た。大地母神のキュベレーと、太陽神ヘリオスである。然し彼らがオリュンポスの神々に危急を告げに行くまでに、惨禍は起こる。必然として、局地的に惨劇は巻き起こされる。

 

「な……」

 

 地上に出て、オリンピアへ帰国していく路についた男、アルケイデスは愕然とした。

 地上が……()()()()()。踏み砕かれている。まるで……そう、まるで()()()()()()()()()()かのように。

 

 ――ヴェスヴィオ山とは、アカイアのペロポネソス半島の西に位置するテュッレーニア、すなわちイタリアにある山岳である。火を噴く巨人ミマースはそのヴェスヴィオ山に下敷きにされ、ヴェスヴィオは火山となるのだ。

 その山から抜け、位相を渡り、人界に出現したミマースはオリュンポス山に……東に向けて進行した。只管に、信じて。仇は東にいると。あの人間は東にいると。――アルケイデスはテュッレーニアの更に西にいたというのに。そんな事など知らぬミマースは東に進撃し、海を渡り、大地を踏み躙り、その途上の悉くを破壊した。自身の異能である火炎を到る所に撒き散らし焦土と化さしめた。

 

 そして、辿り着いてしまったのだ。

 

 アカイアのペロポネソス半島に。その最西部に位置する、新興の国、オリンピアに。

 

「――――」

 

 アルケイデスは破壊の痕跡に巨人の幻影を視た瞬間、駆け出していた。全力で疾走した。何日も休まず走り続けた。休み無く女神に拷問を加えた疲れも無視して。

 激しい動悸がする。草木も尽きた大地を駆け抜けた。その惨禍の後が、自国に近づくほどに新しくなっていく光景に目眩がした。

 

 間に合っていたのだ。三日も、不毛な復讐にかまけていなければ。万全の体勢で迎撃が出来ていた。だが――

 

 

 

 戦士王が帰還した時、オリンピアは瓦礫の山となっていた。炎に焦がされた爪痕が残されていた、

 

 

 

 呆然と、立ち尽くす。そんな馬鹿な、と……間抜けなうめき声すら出てこない。

 最大にして至強の英雄たるアルケイデスならば、単独のギガースなど歯牙にも掛けなかっただろう。

 だがその巨体は、普通の人間には正しく災害の極致である。腕の一薙、蹴りの一撃で人間は蹴散らされ、歩くだけで国は滅ぶ。巨人のその質量だけで武器となり、ギガースの膂力は神に匹敵するのだ。どうして人間に抵抗できよう。

 だが、オリンピアとは地上最強の国家である。鍛えられた戦士団は懸命に戦った、抗ってのけた。巨人ミマースを止め、アカイアの蹂躙を瀬戸際で食い止めたのである。

 

 メドゥーサ扮するスーダグ・マタルヒスがいた。

 ティターン神族の半人半馬、賢者ケイローンがいた。

 半神半人の戦御子ヒッポリュテがいた。

 

 彼らの抵抗に遭ったミマースは、人間に対しては不死身ではない。故に予期せぬ障害に本気で戦った。

 だから。それは必然である。

 マタルヒスはメドゥーサである。その兜を外し真の姿で戦い、魔眼を解放すれば巨人ミマースを石化させてしまえただろう。巨人の石像を作れていた。だが彼女の今生での目的は英雄として、人間として生きる事。ゴルゴンとしての力を振るうことは決してない。例え殺されてでもだ。故に彼女は己の膂力と双剣を武器に、貸し与えられた魔獣に騎乗して戦った。

 ケイローンは神である。故に如何なる攻撃も足止めにしかならない。決定打を放てない彼は援護に徹するしか無かった。

 ヒッポリュテは――鈍っていた。子を生み、育児に専念し、兵の調練は熟すものの、自身の力を維持するのが精々で。彼女は先頭に立ち夫の留守を守るべく、獅子奮迅の働きをしたが、相手が悪かった。ミマースの巨体を退けられない。軍神の戦帯を使い、己の神の血を解放し、魔槍を使っても、人間に対し油断の欠片もないミマースを打倒するには至らなかった。

 

 アルケイデスが異常なのである。彼は地上で――これまで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。マルスと戦った時以外は。

 なぜなら世界は総じて脆弱に過ぎるから。ヒッポリュテは確かに強い、然しアルケイデスの全力には到底及ばない。夫のように簡単に巨人ギガースを打倒できる訳もない。

 それでも。

 オリンピアは死力を尽くした。

 

 ケルベロス、ディオメデスの人食い馬、エリュマントスの魔猪、クレータの牡牛も戦線に動員され、全力で戦った。

 

 そして、勝った。炎の巨人ミマースを討ち果たしたのである。

 だが被害は余りにも大きかった。多かった。

 国は半壊している。これまで築いた総てが台無しになっている。復興するには十年単位の時が掛かるだろう。アルケイデスは、呆然とするしかない。

 己の不明が、私欲にかまけた罪が、纏めて総て返って来てしまったのだ。

 そしてアルケイデスにとって、最も衝撃的だったのは。

 

 最愛の妻ヒッポリュテが、右腕を失くして眠っている姿であり。

 

 疲労困憊でありながら、休むこと無く民や戦士たちの統率を執るマタルヒスであり。

 

 そして。

 

 ――戦の戦火に巻き込まれぬように、アルケイデスの子ヒュロスとアレクサンドラを乗せて走り。然し幼子には負荷が強すぎるため全力で走れず。逃げようとする()()に気づいたミマースが、オリュンポスに気づかれるわけにはいくかと火炎の旋風を吐き出したのに灼かれ。

 

 然し。

 

 主人の子供達を見事、護りきって、

 

 ()()()()、ケリュネイアの牝鹿の遺体だった。

 

 

 

 

 賢者は忠告していた。警告していた。

 

 ――人としての情を捨てきれない貴方の王道は、どこかで必ず綻ぶでしょう。史に転換を齎す王たらんと欲するなら、今の内に人としての幸福も、人としての情も全て捨ててしまいなさい。私などの拳を甘んじて受ける人らしさなど、王たる者には不要です。

 

 私人としての怨恨を捨て切れなかった、王への報いがそれだった。

 

 

 

 そして、私人として動けなくなった王に早馬が報せに来た。

 

 

 ミュケナイにて叛乱が起こった。

 英雄アトレウスとテュエステス、アイギストスが反旗を翻したのだ。

 そしてエウリュステウスはこれらと相討ち、アトレウスの子アガメムノンがミュケナイ王になったという。

 

 アルケイデスには、どうしようもない。国の復興のために、何を捨ててでも働かねばならず。そしてエウリュステウスの仇を討とうにも、間もなく大神より発された号令により、アガメムノンがアカイアの宗主となった故に手出しが叶わなくなってしまった。

 

 アルケイデスは、動けない。以後十年間に亘り、アルケイデスはオリンピアから離れる事はなかった。

 

 

 

 


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