ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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第二節 放浪の賢者(後編)

 

 

 

 使い込まれた短剣であった。

 

 元は宝剣の類だったのだろう、豪奢な拵えをしているのに、長年の戦塵に塗れた結果手入れの甲斐なく摩耗している。刀身は罅割れ、刃は毀れ、柄の装飾は剥がれていた。

 だがそれは短剣の価値を損なわせはしない。寧ろ力ある戦士が視たなら戦慄するだろう。担い手の経た戦歴を、何より雄弁に物語る損傷だからだ。そして何より、そこまで毀れていながら尚も実戦に耐える頑強さの証でもあるのだ。

 高尚な芸術品を上回る戦士の装飾。宝剣は真の意味で戦士の剣へと昇華されている。正にありとあらゆる武人が憧憬の念を懐く完璧な戦化粧であった。

 

 太く、節くれ立った指が掴む柄。覗き見える獣の爪。短剣を翳して見せてくるのに、マシュは首を傾げた。その横で短剣を検めた騎士達が息を呑む。

 少女の無色な反応に男は虚を突かれ、照れくさそうに頭を掻いた。この剣を見れば己が何者か名乗るまでもないと嘯いたのに、知らないと示されたのである。若干の恥ずかしさを覚えつつも、見たところ少女は戦士でもないのだから、剣を見せられても分かるはずないかと納得した。

 仕方なく、というわけでもないが。男は被っていたフードを外す。顔を見せ、姿()()()()、名乗ったのなら流石に通じるだろうと。

 

 露わになったのは、精悍な男の面構えである。

 

 右の頬に浅い傷跡を残し、左の口元には鋭利な爪で切り裂かれた痕がある。人の頭髪にしては不自然な性質を持つ金の毛はくすみ、短く刈り上げられていた。

 秀でた額と濃い眉。その下にある青い瞳は人生の酸いも甘いも噛み分けた、深い知性と厭世感に染まっていて、長身とも合わさり野生的な男の色気が立ち上っていた。

 獅子の耳を頭頂部に持ち、縦に伸びた瞳孔と強靭な犬歯を覗かせている。その容貌を目にしてマシュはハッとした。半獣半人の男、その存在をマシュは識っていた。少女のその反応に満足しつつ男は名乗る。後世に於いて賢者と讃えられ、知識の保護者として記録され、多岐に渡る分野に才能を示した故に『万能』と呼ばれた英雄の名を。

 

「わたしはイオラオス。……流石にこの名ぐらいは知っているんじゃないか?」

 

 イオラオス。女英雄イピクレスの息子にして、ギリシャ神話最大の英雄ヘラクレスの甥。輝ける同行者の異名を持つ執筆者。

 戦っては英雄を斃し、怪物を殺す。狩りに出ては魔獣を屠る。筆を執れば精緻な絵を描き、多数の文献を書き遺す。そして調停に出向けば神々の諍いすら治めた代理人。誰が呼んだか放浪の賢者……ヘラクレスの偉大さを物語る時、それは同時にイオラオスの功績をも刻み込んだ。

 

『イオラオス! まさか、あの!?』

「あの、というのが()()かは知らないが、確かにわたしはイオラオスだ。それよりその反応、流石にわたしの名ぐらいは知ってるみたいだ。良かったよ、これで知らないなんて言われたら、わたしも立ち直れなかったかもしれない」

 

 ロマニの驚嘆の声に、冗談めかしてイオラオスは肩を竦めた。ガウェインらは剣を下ろす。相手の名を知り、双眸から眼が溢れそうなほど見開いて、今を生きる男が危険な敵ではないと認識したのだ。

 マシュは高揚に頬を染める。彼女は沢山の本を読み、知識を蓄えていた。無趣味に近い少女だが、およそ唯一と言える趣味として読書を嗜み、故にこそイオラオスとの邂逅を無邪気に喜べる。大多数の少年がヘラクレスに憧れ、殆どの女性がヒッポリュテやメディアに夢を見る様に。知識を尊ぶ者はイオラオスに敬意を懐く。

 何を隠そうマシュ・キリエライトは、ギリシャ神話の中で最も好感を持っていた憧れの存在とは、この英雄イオラオスなのだ。それも少年期から大人になるまでの彼ではなく、各地を旅して文化や国の仕組み、信仰の在り方など様々な資料を遺し、孤独な旅を生涯続けた目の前のイオラオスが好きだった。そしてマシュ本人が現在の境遇に身を置く事で、過酷な旅を死ぬまで続けたという彼に無意識な共感を懐いてすらいた。

 

『霊基反応はない、という事はサーヴァントじゃなくて()()()()英雄本人か! いいぞ、幸先がいい! まさか現地で最初に出会ったのがあのイオラオスだなんて! この幸運を逃す手はない、マシュ!』

「はいっ。了解しました、ドクター。マシュ・キリエライト、当たって砕けろの精神で対話交渉を継続します! ――イオラオスさん!」

『砕けちゃ駄目だから落ち着いてっ!?』

 

 唐突に前のめりになり、鼻息荒く意気込むマシュにイオラオスは鼻白んだ。

 困惑しながらも片手を上げて制し、イオラオスは問いを投げる。

 

「ちょっと待ってくれ。下手な好奇心はスフィンクスをも殺すが、性分でね。おまえ達の素性が気になる」

「素性ですか?」

「ああ。見慣れない衣装の少女、後ろの三人の戦士。どこからともなく聞こえてくる声……特に戦士達だ。名のある英雄なら私が知らないのもおかしな話だし、何より装備がおかしい。わたしの知る限り、全身を覆う甲冑なんて物を纏っている英雄は一人しかいない。その上で鎧の()()が似通っている。物真似かとも思ったが……着慣れている。鎧に着られていない。おまえ達は何者なんだ? さっきの話でもまるで()()()()()()()みたいな物言いじゃないか。――イオルコス、サラミス島の戦争、これはいい。だがトロイア戦争、その最中の出来事を詳細に識っているのは解せない。ヒュロスとアイアスが夫婦になる? ()()()()()()()()?」

「あ……」

 

 イオラオスの指摘にマシュは声を上げる。然し気に病む事ではない。どのみち自分達の目的と素性を全て話し、協力を仰ぐつもりだったのだ。

 きゅ、と唇を引き結び、気合を籠める。マシュは頭の中で口にする言葉を組み立て、こう言われたらこう返す、と想定されるパターンをシミュレートした。他者とのコミュニケーションを苦手とするマシュが、フランスとローマの特異点を経て構築した話術である。それは淡々として感情の籠もらない、機械的なものだったが、少なくとも分かり易く事実を羅列して理解を得られるものだった。

 我が強く、癖の強い者相手には『つまらない』と烙印を押されるものでしかない。然し色彩のないマシュにはこれが精一杯で。その気持ちを汲めて、そして柔軟に取り入れる理知的な頭脳がイオラオスにはあった。

 

「私達のこと、お話します。どうか最後まで聞いてください」

 

 強い意思――とは言えない。吹けば飛ぶ弱い意思だ。

 所詮は臆病な女の子。それを無様とも情けないとも笑わずに、放浪の賢者は先を促した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――人理焼却。西暦。紀元前。カルデア。特異点。聖杯か。まあ……眉唾だな」

 

 当然と言えば当然の反応だった。

 “今”を生きる人間からすれば、自分のいる“今”が特異点であり、それを修復すれば、全てが“無かった事になる”と説明されて、はいそーですか大変ですね協力します、等と言えるはずもない。

 だからマシュは重ねて事実を真実として受け入れてもらえるように言葉を重ねる。

 

「納得してもらえませんか?」

「当たり前だろう? 賢者だのなんだのと持て囃されても、わたしは人間だ。魔術師ではないし、ましてや腐れケンタウロスのティターンが持つっていう千里眼も無い。神に与えられた予言の力も当然持ち合わせていない。これでどう信じろって? 狂言を吐く異邦の一党にしか見えない。それに……サーヴァント、英霊か。夢のある話だ」

 

 イオラオスは湖の騎士、太陽の騎士、弓の騎士を見遣る。胡散臭げに探る視線に、騎士達は小揺るぎもせず事態の成り行きを見守っている。

 彼らはイオラオスよりも後の時代を生きた“騎士”とかいう連中らしい、という程度の認識だ。そしてサーヴァントであるという彼らは、イオラオスから見ると()()のである。

 

 宝具の力は認めよう。スキルとやらの恩恵もあるようだ。その身に積んだ技量の高さも、黒騎士の放ってきた銃火器という武器も認めよう。

 だがそれだけだ。圧倒的に彼らには“力”が足りない。技量に見合った力がないのだ。これでは何度戦っても安定して勝てる。負けそうになっても撤退できる。

 力と技量が不釣り合いな彼らがサーヴァントとなって弱体化している、という話は理解する。彼らが高度な術式によって使役される使い魔だというのも解る話だ。マシュの説明を受けて、よくよく観察すると確かに人間ではないと解る。

 だからといって信じられるかと言われれば、簡単には頷けない。海千山千の難物を相手にしてきたイオラオスからすると、どこかに嘘があると思ってしまう。

 

「サーヴァントの話は信じる、けど他は信じないってのは筋が通らないと思うかもしれないが、相手を騙したい時は真実の中に嘘を混ぜるものだ。英霊召喚だったか? それを召喚する術式は、神なら再現できても不思議じゃない。それを使役する力を行使する権能をおまえが借りているという解釈もできる。あまりしたい仮定じゃないが、伯父上のように異邦の世界からやって来て、なんらかの目的のために暗躍しているという仮説も成り立つ。そうだとすれば異邦の神が千里眼か何かでヒュロス達の未来を視た、とも考えられるな。考えたくないが。さあ、わたしのこの考えを否定できるのか?」

「出来ます」

「……なんだって?」

 

 すらすらと信じられない理由を列挙するも、確信のあるマシュの言にイオラオスは反駁する。

 あるというなら聞こう。腕を組んだ半獣半人を前に、ぺろりと唇を嘗めて潤わせると少女は意を決する。そして、言った。

 

「私は……いえ、私達カルデアは、イオラオスさんの疑惑を晴らす術があります」

「……言ってみるといい。納得させられたら、信じよう」

「ありがとうございます。では――イオラオスさんは、神話をご存知ですか?」

 

 この問いにイオラオスは首を左右に振った。当たり前の話だ、自分の世界が神話などと呼称されるなど想像の埒外である。

 まして、神話という単語は西暦以降に生まれるものである。神話の当事者にそのまま言って伝わるものではない。

 

「大雑把に言うと私達の時代には二つの史があります。一つが人類史、つまりは歴史です。そしてもう一つが神話……記録が散逸し詳細に知る事のできない過去の時代、その間隙に想像の余地が生まれ、そこに物語が挿入される形で構成されたものです」

「その口ぶりから察するに、おまえは歴史と神話でわたしを識っているから、それを材料にすると言いたいわけか」

「はい。ですがわたしがお話しするのは、歴史ではなく神話になります。何故ならこの時代の正確な文献は、その多くがイオラオスさんの遺したものになるからです。よく出来ている嘘話、捏造だ……知識に穴があれば誤魔化しだと、そう言われてしまえば反論できません」

「……神話。つまりそれは伝承の類いって事でいいのか?」

「はい」

 

 イオラオスは腕を組んだまま口を閉ざす。何事かを思案しているようだが、然し好奇心があるのだろう。無言で先を促した。

 

「神話には、全て描かれています」

「……全て?」

「はい。歴史や人には語られなかった、神話の登場人物の心境や目的などです」

「………!」

「ご想像の通り、私がお話するのはあなたの伯父……ヘラクレスについてです」

 

 瞠目するイオラオスは、咄嗟に周囲を見渡し、そして即座に外套を脱ぐやマシュに投げ渡した。

 え、と目を丸くしてフード付きの灰色外套を受け取ったマシュに、イオラオスは鋭く命じた。

 

「被れ。それはエジプトの神々に頂いた、隠蔽の魔術式の編まれた外套だ。おまえの語る内容が嘘であれ、本当の事であれ、下手に口にするものじゃない。いいか、神の土地だぞ、ここは。ギリシャの神に聞かれたらどうする」

「あ……す、すみません」

 

 険しい顔で発されたイオラオスの警告に、マシュは謝りながらも驚いていた。

 神の持つ力の強大さは想像よりも上だったのだ。まさかなんの変哲もない会話をするのにも注意を払わねばならないほどだとは理解していなかった。

 マシュは外套を羽織る。そしてフードを被った。気を取り直して語る。

 

「えっと……イオラオスさんは、ヘラクレスが十二の試練に挑む前に懐いた心境をご存知ですか?」

「当たり前だろう」

 

 怒りだ、とは口にはしない。彼の外套は今、マシュの手にある。発言に気をつけているのだ。

 

「彼は怒りを懐きました。そして憎しみを。ヘラクレスは終生に亘りその憎悪を抱え、一つの目的を持つに至ります。……ヘラクレスは戦士王、勇者などとも号され、様々な称号で語られる大英雄ですが、一つ異色の呼び名があるんです。それは()()()()()()()()というもの」

「ッッッ!」

「この呼び名の通り、彼は十二の試練を経ても、片時も復讐心を忘れませんでした。そしてギガントマキアの折、ついに女神ヘラへの復讐を果たし、然し復讐に我を忘れた彼はオリンピアの危機を見過ごしてしまいます。結果としてヘラクレスは自国の復興のために尽力し、様々な要因によってそれは遅れてしまい、オリンピアを復興した時にはトロイア戦争が勃発して十年の時が流れていました。彼はトロイアの王子パリスが救援要請に来た時、病床に伏せていて、援軍には駆けつけられず代わりに子供のヒュロス、アレクサンドラを派遣する事になり、その年にヘラクレスは病死しました」

「――――何?」

「? あの、何か……?」

「……いや、なんでもない。続けてくれ」

「は、はい。……こほん。それで……“人間としての”ヘラクレスは死亡するのですが、女神アテナの導きにより、彼の中の神の部分は神の座に招かれ、ギリシャに唯一の武神が誕生しました。神となったヘラクレスは、人間同士の争いに関わらず、またそこに関わろうとする神を諌めるためにオリュンポスと敵対します。奇しくもトロイアの守護についていた戦神マルスと結託し、オリュンポスから戦女神アテナを引き抜くと、三柱の神はオリュンポスと戦い、これに勝利します。この戦いは北欧神話の原典として、神々の黄昏(ラグナロク)と呼ばれました。

 ――プロメテウスを味方につけていた彼らは、捕らえた神々の権能を自然に還し、自分達は人間界に滅多な事では関わらない『君臨はするものの統治はしない神』として、稀に人の願いを聞き届ける存在になりました。そうしてギリシャ神話は終わるのです。ヘラクレスという大神ゼウスの最高傑作が、神々の時代に終止符を打つ事で。時は移ろいギリシャ神話はローマ神話として姿を変え、偶像としてのゼウスなどを信仰しましたが、実像を持つことは叶わず、神々は生き残っていた僅かな神格のみでした。然しこの事実を人々は知らず、いつしか姿を見せない神々を忘却していく事になり、だからギリシャ神話は『忘れ去られた神話』とも『忘れられた神々』とも称されるのです」

 

「………」

 

 イオラオスは、呆然と立ち尽くした。マシュの話を最後まで清聴しこめかみを揉む。

 嘘の気配は、一応ないように見えてるし、聞こえている。話に粗がないか考え――彼は思う。

 

(伯父上なら、有り得る。いや寧ろ、伯父上なら()()()し、()()。復讐心を持っていた事は身近な人間でも話されない限りは悟れなかったはずだ。わたしでも……俺でも、アタランテの事がなければ悟れなかった。……ヘラの事を聞いても、ああやっぱり伯父上がやったのか、としか思えない。……神と人の分離、これも有り得ない話じゃないし、その後の神としてのヘラクレスなら確かに聞いた通りに動くだろう。神の時代を終わらせる……自分が死んだ後の事も考えて、人としての自分にできる事、神の自分にできる事を切り離して行い、神になったのなら人の世には関与しない……ああ考えれば考えるほど()()()と思ってしまう。という事は、だ。この子達は本当に未来から来たのか? 神話なんてものが存在する時代、世界から? それが人類史から外れ、人理焼却を防ぐために人理定礎を復元しようとしている……? 特異点……本来のそれから外れたものを正す……)

 

 熟慮を終え、顔を上げたイオラオスにマシュは訊ねた。

 

「あの、信じていただけますか? 何か質問があればお聞きしますが」

「いや……」

 

 英雄は、少女に歩み寄ると、外套を剥ぎ取り纏う。

 

「信じよう。質問はない。だが確信とも言えないな。だから確かめに行こう」

「確かめる……?」

「ヘラクレスに――伯父上に会いに行く」

 

 そう言われると、少女は目を白黒させた。まだヘラクレス王はご存命の時代だったんですね、と。

 イオラオスは答えなかった。

 今の話が全て事実だとしたら、きっとこれは無視できない事態だから。

 

 オリンピアを出立した、()()()()()()()()()()()()()()()()()と聞けば、彼女は驚愕するだろう。もしも見当外れだったら笑えばいい、だが今は笑えない。

 人理定礎復元に協力するかはともかく、まずは確認からだ。二度と会えないものと思っていただけに、緊張はあるが。

 

「だがその前に野暮用を済ませる。付き合うか?」

「野暮用?」

 

 イオラオスは苦笑し、懐から壺を取り出す。

 

「イオルコス王イアソンの骨だ。簡単なものだが墓をイオルコスに建ててやって、金をやる。今頃冥府の前の河で立ち往生して困ってるかもしれないからな」

 

 

 

 

 

 

 


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