ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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fgo原作と同じく二十節ぐらいで終わるので、それまで気長に付き合ってね。

今回は長い。一万三千字超え。




第五節 英雄旅団(ヘーラクレイダイ)(中編)

 

 

 

 

 十年間、待ち望んでいた。

 

 最初は罰を与えて欲しかった。殺して欲しかったのだ。アタランテを手に掛けた愚かな男を、最も偉大な英雄に糾弾して欲しかったのである。

 彼は無繆の勲を掴んだ栄光の雄。彼に悪として断罪される事は、そのまま己の愚昧さを証明するものとなる。彼に殺される事で、エリュシオンにいるだろうアタランテへの贖罪としたかったのだ。

 

 だがそれは甘えだと糾され、逃げでしかないと叱咤された。償った気になるだけの逃避でしかなく、死が意識の断絶に繋がらない以上は、いつかはその逃避を自覚して後悔する事になる。――その言葉の意味を理解してからは、人生を懸けてオリンピアの為に世界中を旅して廻った。嘗て己の使命であると定めた同行者としての任を果たせなくとも、英雄は自身の事業に関わる事をこの身に赦してくれていたのだ。

 故に迷いは晴れた。オリンピア、すなわち戦士王の意志を最も理解する者として、彼の言葉に秘められた使命を汲み行動した。ギリシャとエジプトの折衝に始まり、国から離れられない王に代わって友好国のコルキス、イオルコス、サラミス、アテナイ、トロイアを巡り必要になるであろう支援の内容を審議した。その他の国にオリンピア復興への支援を取り付けた。

 旅人としての素行はカモフラージュだったのだ。世界各国の文化文明を記録し、時に詩を紡ぎ、息抜きついでにメディアの逸話を広め、人々を撹乱する反英雄や怪物、堕ちた精霊を討ち、荒ぶる神々を宥め神罰を予防した。

 

 一つを除いて、全ては一刻も早く敬愛する英雄の国を復活させるため。

 

 国が完全に立ち直ったなら絶対に王は国を出て、必ず自分に会いに来てくれると信じていた。そう期待していたのだ。夢見ていたのである。今日この時、再会できる時を。

 この世で最も価値のない物、惜しくもない命を使う中、唯一の未練が敬愛した大英雄からの賛辞だった。認められたかったのだ。『お前は私の誇りだ』と。

 

 ――実母イピクレスは幼少の頃から偉大な兄と触れ合ってしまった。だから双子の兄以上の男を見つけられず、男を愛せず。故にただの肉体関係しか男とは持たずにいて、生まれたイオラオスは父親を知らなかった。

 だからだろう。ずっと押し隠してきた。自分にとっての“父”とは、ヘラクレスをおいて他にいないという想いを。

 

 母を看取った時に聞いた、異父兄妹への道ならぬ恋。自らの子を兄の従者として付けさせ、傍にいさせる事で我が子を兄の擬似的な息子とし、内心イオラオスを自分と兄の間に生まれた子供と見做してきたと懺悔された。

 薄汚い代替行為だったと母は悔いた。怒りも失望もなく母を赦したのは、ヘラクレスを父のように想う気持ちが、他ならぬ自分の裡から生じた想いだったからである。寧ろ感謝した。あのヒトを俺の父にしてくれて有り難う、と。母は生涯秘めていた後ろめたさから救われたように安堵して息を引き取った。

 

 ……面と向かってヘラクレスを父と呼ぶ事はない。今までも、そしてこれからもだ。だが認められたいという承認欲求は常にあった。

 

 甥として認められたいのではない。一人の男として、一人の英雄として――この私に次ぐ英雄であると言われたい。世はテセウスこそがヘラクレスに次ぐと評するが、そんな外野の評価などどうでもいい。

 お前こそが、とヘラクレスに指し示される事。アタランテ亡き後、生きる目的はそれしかなかった。イオルコスを訪れる前、自分の息子と娘は独り立ちさせている。もはや一片の憂いもない。後は親としてではなく、自分として動ける。

 果たしてその時は来た。数奇な運命に導かれる様にして。残念な所があるとすれば、王の目的が自分ではなく、トロイア戦争への参戦である事。だが構わない。オリンピアを追放された自分は、その国の地を踏む資格がないのだから、王がオリンピアから出さえしてくれたなら何でも良かったのだ。

 昂揚に歳甲斐もなく貌を上気させ、進路を予測して先回りし、オリンピアの軍勢前に姿を現した。待ち望んだ瞬間を迎える為に。

 

 

 

 そして――イオラオスの貌は凍りつく。

 

 

 

 驚愕。そして、絶望。

 

 培ってきた経験と、磨いてきた眼力。それが視たものは、何か。同行してきたマシュはその些細な変化に気づけない。鍛え抜かれた軍勢を目前に、肌に感じる覇気を感じ圧倒されていた彼女に気づけるわけがなかった。

 そして狂化してそもそも理性がない黒騎士を除き、人の心の機微に疎い、円卓の騎士達に到っては何をか況や。騎士であるが故に、彼らは夢でも視ているように呆然としてしまっている。

 

 英雄がいた。

 人類史に燦然と煌めく伝説がそこにいた。

 

 僅か五人で自分達の進行方向に立ち塞がった者達に気づき、脚を止めた戦士団。その先頭に並び立つ複数人の英傑ら。

 

 十代後半に差し掛かっている、若かりし頃の『獅子の軀』のヒュロスと『獅子の腕』アレクサンドラがいた。戦士としてのヘラクレスの後継とまで謂わしめた、大アイアスが――影に日向に主を補佐した戦士王の右腕、スーダグ・マタルヒスがいる。

 彼らに劣るものの、英雄と冠するに足る勇士も五人いる。ヘラクレスの弓術の弟子、ピロクテーテス。戦神の子にしてヘラクレスの槍術の弟子、アスカラポスとイアルメノスの兄弟。アマゾネスにしてヒッポリュテの妹アンティオペーとメラニーペ。いずれも豪勇で鳴らす勇士である。

 

 そして、ヘラクレス。彼ら十人と、此処にヒッポリュテと死したアタランテ、永遠に空席とされたイオラオスを含め、後世に『英雄旅団』と号された。

 

 生きた伝説であろう。ブリテンの者らが幼少より慣れ親しんだ無双の勇者達である。円卓の騎士達の自失は責められたものではない。人の心を持つ故の失陥だ。

 

 金色の獅子の鎧を纏った王の威光。何も変わっていない。白亜の魔槍を提げ魔獣の駿馬ディオメデスに跨る戦士王の武威は、見る者を圧し潰す迫力を醸し出している。ただ――老いていた。ヘラクレスは老いていたのだ。

 艶を持っていた純黒の髪は白く染まり、肌に刻み込まれた皺は深い。漲っていた生気は限りなく無に近く、充謐していた嘗ての躍動感は失われていた。

 然し、その双眸に込められた深い理知の光と、炯々と光る意志の奔流は些かの衰えもなかった。戦士王の肉体は衰耗してこそいるが、紛れもなくヘラクレス本人であった。

 

 そのずば抜けた視力によって、とうの昔にマシュ達の存在へ気づいていたのだろう。彼に動揺はない。戦士の一人がマシュ達に怒鳴る。邪魔だ、道を開けろ! と。偉大な王と共に心躍る戦場へ赴かんとしているのだ。くだらない道草など食っていられるかと苛立っている。

 ヘラクレスに威圧感はない。ゆったりと嘗て人食い馬と恐れられた駿馬を進めると、彼は片手を上げて戦士らの憤りを制し、軍勢の進軍を止めて兜を外す。

 貌を露わにした老ヘラクレスの瞳が、ゆっくりとマシュ達を見渡し、そしてイオラオスの下で止まった。

 

 イオラオス……。そう呟いたのは、七枚の赤い円環を重ねた大盾を持つ細身の乙女、大アイアスだった。彼女はヘラクレスの世代を除き、唯一イオラオスと面識がある。頻繁に故郷のサラミスに訪ねてきては、土産話をしてくれる親しいヒトだった。

 

「……イオラオス」

「……お久し振りです、伯父上」

 

 万感の想いの籠もった呼び掛けに、イオラオスは堪えるように体を震えさせ、目礼すると共に貌を伏せた。

 

「まさかな……生きている内に再び会えるとは夢にも思っていなかったぞ。大きくなった……体がではない、その在り方がだ。それに、何だ。私にも丁寧に話せるようになったらしいな。こそばゆい反面、寂しくもあるが……これも一つの成長の形か」

「………っ」

「それと……大儀だった。お前を追放した時の言葉をよく覚え、真意を汲み、よくぞオリンピアを助けてくれた。動けぬ私に代わり果たした数々の功業、これに並ぶ者を私は他に知らん」

 

 労いの言葉は、暖かかった。辛そうに眉根を寄せ、歯を食い縛るイオラオスは、否定するように首を左右に振る。

 ゆったりとした語調が耳朶を打つ度に、胸を締め付けられる心地を味わいながらも、イオラオスは貌を上げる。そして土気色の風貌の老ヘラクレスを直視した。

 

「わたしは……当然の償いをしたまで。未だ償いは終わっていません。欲に駆られ、会いに来るのではなかった。そう……後悔しています」

「……? 何故だ、イオラオス。私はお前とまた会えて良かった。久闊を叙すのも悪くないだろう。どうだ、積もる話もある。我が陣に加われ、お前の席は残している。私は最後の戦に出る。その戦での功績次第で、追放を取り消してやれる」

「伯父上。それより、お訊ねしたき儀があります」

 

 老ヘラクレスは喜んでいた。忌むべき追放者との再会を。彼は最後の戦と言い、その場に自身の黄金時代に同行した甥の存在を求めたのである。

 その泣き出したくなる栄誉を、丁重に明言を避けて跪く。それを視たヘラクレスは哀しそうに目を細めた。然し王に対する態度を取られれば、王として接するしか無い。仕方なさそうに嘆息する様は王者らしくはないが、ありのままの姿で君臨する様こそ人のまま王となった老ヘラクレスの完成形である。

 威厳は損なわれない。威圧するのではなく、包み込むのでもなく、ただただ惹きつける。相対しているだけで世界全てが味方になってくれたような安心感がある。それに、イオラオスは目を逸らした。

 

「なんだ。言ってみるといい」

「はい。――ああ、その前に一つ、伝言を預かっています」

「伝言? 誰からだ」

太陽王(ファラオ)オジマンディアスからです」

 

 その名に、老ヘラクレスは目を見開いた。そして懐かしそうに遠くを見る。

 約束を……果たせていないな、と。未練を見つけたように。それを振り払うように頭を振る。共に過ごしたのは僅か半年、然しその期間だけで縁は切れた。

 再会を互いに望んでいて。だがその機会はなかった。それだけの事である。王となり身軽に動けぬようになった老ヘラクレスが、遠い異国の地に出向く事など叶わない。それだけの話で、それで終わりだ。

 

「『オジマンディアスたる余との約定を違えるとは見上げた不遜である。断じて赦してはおけん。星々が巡り太陽が幾度も沈み、昇り、その果てに再び相見える時があれば、その時は余自らの手で死を賜わしてやろう。せめてその余生、心穏やかにあるがいい。叶わぬならば悔いなく逝け』との事。一言一句違える事なく、確かに伝えました」

「……フン。王としてならともかく、個としての私と戦って勝てるつもりでいるのか。相変わらずだな、あの小僧め」

 

 憎たらしげに吐き捨てるが、その目は優しかった。

 

 束の間、静寂が過ぎる。過去の輝かしい思い出に浸っている。老人の感傷だ。

 だが心穏やかで居られない者もいる。生唾を呑み込むマシュと、円卓の騎士だ。彼らの霊基は感じていた。戦士王の秘めた圧を。

 ――次元が違う。生前の己達を相手取っても……否、生前の、全盛期の円卓総出で掛かり勝負が成り立つか否か、といった脅威。これが古今に於いて無双、最強と称される、戦士の格。数多の神話、史実、全てを総括した中で最強は誰かと論議した時、真っ先に挙げられ、議論を盛んにさせる存在。

 カルデアは老ヘラクレスを観測して驚愕していた。サーヴァントを遥かに超え、神の域にある瀑布の如き計測結果。その力の総量、カルデアを以てして計測不能である。ロマニは確信した。戦ってはならない――勝てるわけがない。老いたりとはいえヘラクレスはヘラクレスのままである。

 

 白い獣が、全身の毛を逆立たせ。色彩のない少女の懐に隠れる。

 

「――さて。伝言、確かに聞き届けた。それで……私に訊きたい事とはなんだ?」

 

 この時。ヘラクレスの赤い眼が、マシュを視て、そして円卓の騎士達を見据える。純粋な人間ではないなと、その眼力は見抜いていた。

 イオラオスは伏して言上する。その瞳に渦巻くのは悲哀、そして疑念。懐いた疑惑を晴らす為にか、それとも超常の域にある観察眼を持つ賢者の絶望を覆す為か。

 放浪の果てに望外の幸運を得たはずの男は、つくづく運が悪い、と溢した。

 

()()()()()()()()?」

「――――」

 

 その問いに、息を呑んだのは誰か。

 

「あなたは、ヘラクレスだ。古今無双、老いては賢王、比類無き大英雄。間違いなく、あなたはヘラクレスだ。そんな事は解っています。だが――()()()()()()。わたしの……俺の知っている伯父上なのか?」

「……何を言うかと思えば、愚問だな。私は私だ。それ以外の何者でもない。もしや、私が魔術に操られ、あるいは神に魅入られた愚者にでも視えるとでも?」

「いいや。いいや――()()()()()()()()()()。ヘラクレスをヘラクレスたらしめられるのは、後にも先にもヘラクレスしかいない。だからそんな愚問を口にするのは避けたかった。だが言わずにおれない。だって……」

 

 半獣半人は、少年のように泣きそうだった。

 言葉にすれば現実を確定させてしまうような気がして。

 然し、言わねばならない。糾さねばならない。なぜならこの身は同行者。その使命は果たせなくなっても、誰よりも身近で在り続けた者なのだから。

 イピクレス亡き今、本当の意味でヘラクレスの異端の価値観、思想を理解してあげられる存在なのだ。逃避できない。弾劾せねばならない。

 

 イオラオスは、言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

「………」

 

 驚愕の声が上げられる。カルデアの面々と、そして英雄旅団から。

 眼を見開き、ヘラクレスはイオラオスを見る。そして……誇らしげに微笑んだ。

 その事実を見抜いた甥が、息子のように想っていた者が、誇らしくて堪らない。そんな微笑。

 

「死体が動いている。そんな理不尽、幾ら伯父上でも起こせない。――聖杯に縋ったのか。だが気づいているはずだ。あなたは、あなただろう。ヘラクレスをヘラクレスたらしめるのは、ヘラクレスしかいない……()()()()()()()()()()()()()()()。カルデアから聖杯とサーヴァントについて聞いた。だから正体を察せてしまった。気のせいだと流せなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「………」

 

 告げられた言葉は矢となって大英雄を射抜く。

 

「問いを投げていながら、自ら答えを出す。相変わらずの生意気さだな」

 

 それは肯定だった。否定してほしかったのに。

 

「その通りだ。よくぞ気づいたな」

 

 繰り返し肯定される。偽りを口にする事は簡単なはずなのに。その嘘に騙されたかったのに。彼は誠実だった。残酷なまでに。

 

 戦士王の遺体ともなればそれは超抜級の聖遺物たりえる。聖杯にも引けは取るまい。故に聖杯の奇跡を以てしても、死した直後の英霊の魂を、自身の肉体に戻すのは不可能に近い。万能の願望器でも、それに並ぶ、あるいは凌駕する器に干渉するのは極めて困難だからだ。

 神秘はより古く大きな神秘には抗し得ない。その法則を覆し、死体に憑依し続けられるのは、ひとえに戦士王ヘラクレス――アルケイデスの精神力が桁外れだからである。

 おそらく、自身の肉体とはいえ、死んでいる故に拒絶反応は生半可なものではあるまい。何故なら今の大英雄の器には、英霊アルケイデスと神ヘラクレスの魂が同居しているはずだから。半神半人である彼は今、非常にちぐはぐで、今なお途切れぬ激痛の海に浸っているはずである。だというのにアルケイデスは完全に平常心を保ち、欠片も苦しみを表に出していない。カルデアの計測にも捉えられないほど完璧な隠密だった。イオラオスですら、気づけたのは聖杯などの事前知識があったからに過ぎないのだ。

 

 げに恐ろしきはアルケイデス。全てを欺く心の静謐さもまた超常の域にある。

 

「だが――それの何が問題なのだ?」

「え……?」

 

 イオラオスは、アルケイデスの言に呆気にとられる。イオラオスだからこそ呆然とした。

 

「私が死んでいる……その通りだ。だが潔く死ねぬ理由ができた。私だけなら良い。オリンピアは既に立ち直った。私がおらずとも、何も憂いはない。大人しく世を去るのも吝かではなかった。人としての私は死のうとも、神の部分の私は私のやり残しをきっと片付けるだろう。神の私は、この私ではなく、同じ起源を持つ他人であるが、だからこそ理解している。確実に成すべきものを成すために行動するだろう。だが――聞いてしまったのだ」

「聞いた……? 何を……?」

「パリス」

 

 名を呼ばれ、軍勢の中から一騎の騎兵が進み出てきた。

 見目麗しい、美の男神が如き美貌の青年だった。窶れ、荒み、憔悴している。然し些かもその容貌を翳らせていない。爛々と輝く目の光は、苛立っている。

 何に? 言うまでもない。オリンピア軍とアルケイデスの脚を止めさせている、イオラオスにだ。

 

 “パリスの嘆願”――神話に語られる、トロイアからオリンピアへの援軍要請。トロイアの王子ヘクトールの弟で、そしてカッサンドラの兄だ。

 

 彼を指し示し、アルケイデスは言う。

 

「殺されたという」

「……?」

「奪われたという」

「………」

「罪もない民が。国民達の財産が。不当な虐殺と略奪の憂き目に遭っているという。そしてそれを目にし続け、懸命に抗い、然し敗れるのは時間の問題で……負ければこの者の国の民は悲惨な末路を辿らされるだろう。神意なのだ、それが。ならば――それに抗し得る者に縋りたくなるのは必定だ。王女が請い、妹の嘆きを聞いた兄が遠くオリンピアにまで訪れ、嘆願した。助けてほしいと。――我が不明によって傾けた国を助けてくれた盟友の危機だ。請われまでしたのに助けにいかずしてどうする。義を見た、兄妹の勇を見た。ならば動かずして何が“人間”だ?」

「………」

「私個人の信条など取るに足らぬ。私は人間だ。人としての寿命を迎えたのなら覆せる理なくして動ける道理はない。然し私は聖杯とやらを得て、動けるようになった――死は避けられずとも、死した器に我が魂を固定する事で。故に私は自らに禁を破る赦しを与えたのだ。盟友を助ける、その時まで人としての命を永らえようと」

 

 王は、どこまでも人間だった。人だった。半神としての長寿を拒み人として生き、如何なる苦行、苦悶に呻こうとも、決して人である事を諦めていなかったのである。

 人の情を決して捨てない。だからこその行動であると戦士王は言う。

 それは覚悟ではない。()()だ。例え化け物、大英雄と謗られようと、自らに規定した人の在り方を決して損なわない。

 

 王の声はよく届いた。オリンピアの軍は畏敬の念と共に自然と頭を垂れる。

 パリスもまた感激し、深く感謝の念を胸に貌を伏せた。

 

 ――それは誰にも咎める事のできない、人間の義理人情だった。誰にも否定できない人の優しさ、義憤であった。マシュが貌を曇らせる。ガウェインには眩し過ぎ、温かすぎる王道だった。王は人の心が分からない……そう吐き捨て円卓を去ったトリスタンには、特に迷いを与えるものだった。

 だが彼らは人理の英霊である。カルデアのサーヴァントである。彼の戦士王の行いを是とはできない。それが苦しい、人理復元に立ちはだかるのが、必ずしも邪悪であるばかりではないのが辛い。

 

 マシュは、蒼白だった。言葉を紡げない。押し黙るしか無い。気づいてしまった。特異点化の原因を除くという行為は、すなわち彼らに――トロイアの人々に、死ねと。正しい歴史のために虐げられ、苦界に溺れて死ねと言うに等しいのだと。

 だから誰も否定できない。アルケイデスを止められない。だから。いや、だからこそなのか。

 

 イオラオスだけが、否定できる。

 

「それでも――伯父上は死ぬべきだ」

 

 空気が凍りついた。誰もが目を見開いた。パリスがわなわなと唇を震えさせ、怒りの余りに、激情に口をパクパクと開閉させる。

 アルケイデスは透徹とした眼差しで真意を問う。

 

「何故だと問おう」

「今度はわたしが愚問だと言わせていただく。いや、俺が言う」

 

 王に死ねと告げたイオラオスに、壮絶な殺気が集中する。それを受け流し、彼は大英雄を見据えた。剣を抜きそうな者達を制し、戦士王は甥の言葉を待つ。糾弾を甘んじて受ける。自分と完全に同じとは言わないまでも、自身の倫理観を理解してくれる甥の。自分にとって最大の理解者の弾劾を受け止める。

 

「伯父上の義は正しい。情も否定されるべきじゃない。盟友の危機を助けに行こうとする意志は尊いものだ。だが――()()()()()()()()()()

「………」

「伯父上は復讐しようとしている。憎いんだろう、殺したいんだろう、()()()()()()()。イアソンを殺したアイツを。仇を取りたいと思ってる。違うのかよ?」

「……さて」

「否定できないだろ? 確かにそれだけじゃないのは事実なんだろうさ。だが確実に、復讐したいという想いは一部分を占めている。……違うか、一部分なんて生温さはないな。伯父上は私情を公然と場に出せる口実があれば逃さないもんな。復讐心が八割、義理が二割ってとこか。でもいざとなればその二割を優先する分別もあるから普通は分からない。俺じゃなければ」

「……ふ」

 

 アルケイデスは、笑った。愉快そうに。胸の裡を汲み取られる感覚が嬉しいのだ。

 自分の思考を辿られるのを、彼は喜ぶ。なぜなら真の意味で共感してくれる人間なんて、イオラオス以上の者がいないから。ヒッポリュテですら、アルケイデスの意志を理解はしても、心の底からの共感はできていないのである。

 それにイオラオスは侮辱していない。アルケイデスの感情の巨大さは、二割ですら常人に十倍するうねりを持つ。

 

「分かってるはずだ、伯父上には。死んだ人間は……地上に正と負の、あらゆる痕跡を残してはならないんだって。死んだ人間の無念を継ぎ、後に繋げるのはいつだって生きてる人間なんだから。だから……伯父上は死んでいるべきだ。怨みも、無念も、全て後に続く人間に託すべきなんだよ」

「……イオラオスさん……」

「マシュ、言え」

「え?」

「おまえしか言えないし、言う資格もない事がある。言うんだ。ただし――」

 

 ――カルデアの事、人理焼却については言うな。

 

 マシュは蒼白な貌のまま、固まった。()()と告げられ、我知らず誰かに助けを求めるように視線を彷徨わせる。

 ガウェインはマスターである彼女に任せるしか無い。トリスタンは表情を消して佇むのみ。こればかりは、自分達の出る場ではないのだ。狂化している湖の騎士はそんな事は知らんと言わんばかりにマシュを支える。

 それで、少しだけ意志が形を持った。黒騎士の支えが、心強い。

 

「ヘラクレス王……私は、マシュ・キリエライトと云います」

「………ふむ。聞かない響きの名だな。それにその衣装、ギリシャのものではない。イオラオス、この娘は?」

「察しの通り、異邦の小娘だよ」

「……エジプトのような、か」

「まあ、似たようなものかな」

 

 アルケイデスの眼が険しくなる。その反応一つもイオラオスは判断材料にしていた。

 確信する。伯父は特異点や人理焼却については知らないと。だがそれを知らせるのは下策だ。そんなもので歩みを止める男ではない。何か想像もつかない手段を力尽くで成し遂げてしまいかねないからだ。 

 それに――抑止力。それについて長い旅の中で知ったイオラオスは、その手のものを感じさせるものにアルケイデスが好感を持つわけがないと判断している。

 過去の己の度し難い所業が、それに後押しされてのものだと知ったが。イオラオスは抑止力を怨んでいない。何故ならどんな力学が働いたにしろ、あらゆる咎も責任も、イオラオスのものだからだ。断じて訳の分からない意味不明なものが、愛する者を殺したなどと認められない。殺したのは自分だ、愛したのも自分だ、だからアタランテを手に掛けたあらゆる罪業をイオラオスは己のものであると断定している。

 

 だから怨んでいない。憎んでいない。然し――アルケイデスは違うだろう。

 

 マシュは要求する。縮こまりそうになりながらも。

 

「ヘラクレス王、聖杯を……私達に、譲ってください……!」

「………」

 

 その一言が、どれだけなけなしの勇気を振り絞ったものなのか。イオラオスとアルケイデスは、正確に認識した。

 さながら幼児が国の命運に関わる大事な交渉の場に上げられたが如く。なまじその意味を理解できる知性があるのが残酷だ。声を震えさせ、眼を彷徨わせ、それでも言った彼女の無様を、然しアルケイデスは嗤わなかった。

 

「何故だ?」

 

 端的に問う。拒むでもなく、対話に応じる。マシュは威圧された。気圧された。アルケイデスは別に、語気を荒げたでも、怒気を滲ませたわけでもない。寧ろ優しげでさえある。頑張れと、舞台の上の幼子を応援しているかのようである。

 マシュは何度もつっかえながらも、なんとか言葉を紡いだ。

 

「ぇ、その……聖杯は、世界にあっては、だめ……なんです。理由は……その、ごめんなさい。言えま、せん……」

「……理由も言わずに聖杯を渡せだと? 訳も知らぬまま私に死ねと言うのか」

「っ……」

 

 マシュは押し黙った。俯いて、何も言えない。それにアルケイデスは何を見たのか。フッ、と笑う。嘲笑ではない。純粋に慈しむような笑みだった。

 老いた瞳には孫ほどにも年の差がある少女を慮る光がある。些かの害意もありはしない。怒りも、何も負の想念がない。ただただ暖かく、だからこそマシュは辛かった。

 

「イオラオス」

 

 そして、呼ばれる名。アルケイデスは見抜いていた。その常軌を逸した観察眼は、さながら過去視の異能の如しである。

 

「これだけ心弱く、意志薄き娘を私の前に立たせられたのは、お前の入れ知恵のお蔭だな? 心を守る術を教えていると見える」

「………」

「優先順位を教えたのだろう。譲れない想いがあるのが分かる。吹けば飛ぶ程度だが。異邦の娘だったか……私が聖杯を譲らねば、大変な事になるという事だろうな」

「……それが分かるなら」

「だが甘い」

 

 アルケイデスは、あくまで柔和に告げる。まるでイオラオスを採点するように。

 

「お前は賢い。昔から知という分野に於いては私を超えていた。だが同時に賢すぎ(さか)し過ぎる。お前は賢者を育てられるだろう、だが()鹿()()()()()()()

 

 馬鹿を、育てる……? 意味が解らず、イオラオスは思わず伯父を見詰めた。

 苦笑してアルケイデスがマシュに命じる。

 

「娘。マシュと云ったな?」

「は、はい……」

「叫べ」

「……え?」

「叫べと言った。三度は言わんぞ」

「ぇ、え……? な、なんで……」

 

 反駁は、然し無視される。アルケイデスは唐突に殺気を滲ませはじめた。マシュは命の危機を感じる。

 従わなければ殺される――その危機感が、マシュを叫ばせた。

 

「ゃ、やぁぁあああっ」

「声が小さい。もっと腹から叫べ」

「やぁああああああっっっ」

「死ぬか? 叫べと言ったぞ。手本をみせてやろう。こうやるのだ。

 ――雄ォォオオオオッッッ!!」

 

 天に向け吠え立てるアルケイデスの声量は大地を震撼させた。戦慄するサーヴァント達を横に、腰砕けになりそうになりながら、マシュは必死に叫ぶ。

 

「やぁああああああああッッッ!!」

 

 喉よ裂けろと言わんばかりに叫ぶ。力の限り、全力で、恥も外聞もなく叫んだ。

 必死になり過ぎだのだろう、肩で息をするマシュは、アルケイデスが口を閉じて自分を見ているのに遅れて気づいた。

 どうして叫ばされたのか。マシュは訳がわからない。そんな表情のまま訳を訊いた。

 

「な、なぜ、私は叫ばされたんですか……?」

「なぜ? そんなもの、理由などないに決まっているだろう」

「ないんですか!?」

 

 思わず叫んだマシュに、イオラオスやガウェイン達は眼を剝いた。本人だけが気づいていない。

 老アルケイデスは微笑む。

 

「強いて言えば、それが理由だ」

「それ……?」

「どうだ、震えはなくなっただろう」

「ぁ……」

 

 マシュは声を漏らし、自分を確かめた。

 震えが収まっている。綺麗さっぱり。

 なんで――その呟きに、アルケイデスはイオラオスに笑い掛けながら答えた。

 

「お前は賢しい。だが賢しいだけの者の何が他者の心を動かす? マシュ、お前は考え過ぎだ。抱え込みすぎだ。馬鹿になれ、マシュ」

「ば、馬鹿に……ですか……?」

「譲れぬものがあるのだろう。ならばお前の事情など知るかと笑い飛ばして奪い取れ。勝ち取れ。それほどの傲慢さを持たずしてなんとするか。己の意志があるのならば、何も不安に想う事はない。人の数ほど正義はある……ならば己は己の正義を貫け」

「私の……正義を……」

「そうだ。そして私はこう答える。聖杯を渡せ? ――断るッ!」

「ええ!?」

 

 色彩がない、それは悪い事ばかりではない。早くも大きな声で驚く事を覚えたマシュに、アルケイデスは笑い掛け。

 

「聖杯は譲ろう。ただし私の目的を達してからだ。それまでは譲れんよ。もし今すぐに必要だと言うなら……奪え。私は略奪は好かんが、譲れぬものがあるなら断固として実行するだろう。貴様もそうしろ。人の意志のぶつかり合いとはそういうものだ」

「む、無理です……」

「ん?」

「無理です! だってヘラクレスなんですよ!? どう考えても無理です! だから譲ってください! 今すぐ!」

「は――ハハハハハハ! 無理だと言った。断ると言った! 奪えるものなら奪ってみろ。私はそれを恨まんし、見事と讃えてやる。……我が侭を覚えたな、娘」

「ぇ? ぁ――」

 

 マシュは、驚いた。アルケイデスを見る。もう――恐ろしくはなかった。

 馬鹿になれとは、つまり傲慢になれということ。他人の痛みに共感するのが駄目なのではなく、そういうものは自分に余裕がある時にしろと、そういう事だ。

 何も考えずに駆け抜け、悔やむのも誇るのも、全て終わってから振り返ってもいい。マシュはそう説かれた気がした。

 思い込みかもしれない。もちろん、言われた通りに振る舞えるとも思えない。何度も苦しむだろう。然し――心に芯を持つ術を、確かに教えてもらえた。

 

 王というモノは、英雄というモノは、こんなにも心が強い。マシュの胸に憧憬が宿る。そして、下ではなく、少しだけ前を向ける気がした。

 

 それをよそに、老王は瞠目しているイオラオスに採点結果を告げる。

 

「よく鍛え、知を蓄え、功を成し、勇を持った。だが人を育てる力は未熟だ。こんな幼子も満足に導けぬようでは賢者の名が泣こう。――まだまだ、だ。もっと精進しろ」

「――――」

 

 ――褒めて、もらいたかった。

 なのにまだ未熟だと、精進しろと、まだまだだと言われた。

 悔しいはずだ。なのに、イオラオスは目頭が熱くなる。

 泣きたいぐらい、嬉しかった。また教えてもらえて、嬉しくて堪らなかった。

 戦えば殺される。少なくともカルデアは。だから何も言う事はない。

 そしてイオラオスは、そんな伯父が大好きなのだ。

 

 故にこそ。()()は自分にしかできないと自認する。

 

「伯父上。俺は、例え世界中の全てがあなたを……あんたを肯定しても、俺だけはあんたを否定する」

「……そうか」

 

 嬉しそうに、アルケイデスは微笑む。

 

「だって俺だけなんだ。伯父上を理解してやれるのは。伯父上が懐く信条を、理解して共感できるのは、この地上じゃあもう俺だけなんだよ」

「――イピクレスは、死んだか?」

「ああ。寿命で死んだよ。それなりに苦しんだけど、死に顔は穏やかだった」

「……そう、か。アレは……業の深い女だったが。……あまり構ってやれなかったのは、悔しいな。大事な妹だった」

「分かってるよ。母上も、俺も。だからだ、伯父上を肯定する世界で、俺だけが伯父上の信条の味方ができる。それを曲げた伯父上を糾せる。俺は……あんたとは行けない。悪いけど、マシュの肩を持つよ」

「分かった。――あのイオラオスが、な。あんなにも小さかったイオラオスが……本当に()()()()()()

「っ……」

「お前は私の誇りだ。いつなりとも挑むがいい。私は逃げも隠れもせん。――挑戦を待つ、その時は頂きの高さを教えてやろう」

「油断してくれよ。ついでに手加減もしてくれ。夢は長く見たい」

「さて……それはお前次第だ」

 

 道を開けろ、ここで()りたいか? 楽しげに槍を動かす老王に、然しイオラオスは苦笑いして首を左右に振った。

 こんな所で無策のまま戦って何になる。ここは退かせてもらうさと、マシュ達を見遣りイオラオスは言った。

 ならば行け、急げよ。早くせねば私はアガメムノンを殺し、トロイアを救うぞ。そう嘯くアルケイデスは、此処から逃げる事を彼らに赦した。

 

 だが、

 

「待てッ」

 

 呼び止める声があった。

 

 双眸を剣呑に釣り上げ、肩を怒らせる女戦士である。歳の頃はマシュと同程度、されどその身に宿す気迫はまさに怒髪天。父の会話が終わるまではなんとか待てたが、それが終わればもはや見過ごせんと猛り狂っている。

 艷やかな黒髪と、黒曜石のような瞳。白磁の肌。母の血を色濃く感じさせる秀麗な美貌は怒りで朱に染まっていた。

 その女戦士は、名をアレクサンドラという。

 世界一有名なパパ大好き(ファザコン)娘の逆鱗を、マシュとイオラオスはこれ以上なく踏みつけていたのだ。

 

「パ――お父様の厚意を跳ね除けるばかりか、否定するだと? あまつさえパ――お父様のものを奪うだと!? 赦せん……ド赦せんッ! パパげふんお父様は貴様らを逃がすと言ったが、この私は絶対に逃さん! 八つ裂きにしてくれるッ!」

 

 

 

 

 


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