ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
命からがらの遁走、否、敗走か。
もはや語るまでもなくカルデアは敗北し、森の中に逃げ込んでいた。
『――というか、今更思ったんだけども。
ロマニの本当に今更な発言に、マシュは力のない声音で絞り出す様に相槌を打った。本当にそうですね、と実感を込めて。
人理継続保障機関フィニス・カルデアが誇る発明の一つ、英霊召喚システム“フェイト”は、そのモデルとなった冬木の大聖杯によって喚び出されるサーヴァントよりも、召喚される英霊の霊基強度は脆い。その理由についてはさておくにしろ、それを補うための霊基再臨であり、本来のものよりも強制力は低いものの、一日一画補充される最大三画の令呪によるバックアップ機能である。
戦士王の面前での腕試しは、カルデアの惨敗に終わるところだった。本気の戦闘に突入しかねない危険から宝具の使用は禁止し、純粋な身体能力と技量のみを駆使してサーヴァント陣は戦闘に突入。結果ランスロット、ガウェイン、トリスタンの三騎はスーダグ・マタルヒス一人に斬り伏せられ、あわや一時戦闘不能に陥る所だったのである。
致命傷を避けられていたのは、マタルヒスに殺害の意図が無かったから。ガウェインやランスロット、トリスタンの技量はマタルヒスを上回っていたが、人間の英雄を遥かに超える膂力に捻じ伏せられる結果となった。
マシュの勝敗は言うに及ばず。相手を務めた大アイアスは戦ったつもりすら無いだろう。冬木で相見えた騎士王を、どこか彷彿とさせる顔立ちと声のせいでやり辛さを感じてはいたが言い訳にはならない。大盾の使い方を指南され、盾だけでなく蹴り、砂を蹴り上げての目潰し、零距離に詰めてからの拳打の撃ち方などをその身に叩き込まれた。
後にダメージを残さない、痛いだけの打撃。盾を扱う戦士としての格の違いをまざまざと見せつけられただけで……マシュは却って勉強になっただけである。
唯一、勝ち星を上げたのがイオラオスだ。ヒュロスとアレクサンドラという後の英雄を相手に翻弄し、肩で息をしていたとはいえ傷一つ負わずにやり過ごしていた。本気を出さずに戦闘を長引かせるようにしていたのだ。
然しイオラオスが敗れるのは時間の問題だったろう。アイアスはマシュの指南に熱が入り、マシュはどうにもならず。マタルヒスが三騎の騎士を下し援護に加わろうとしていたのだ。
だがそこで時間切れだった。イオラオスの見立て通りに。
遂に業を煮やしたトロイアの王子パリスが激昂し、戦士王に直談判したのだ。
――こんな茶番をいつまで続ける気なんだオリンピア王! どうせ倒す気がないんならさっさと逃してトロイアに急いでくれ! こうしてる間にもアカイアが攻め込んできてたらどうするんだ……!? 頼むよ、お願いだ! トロイアは……カッサンドラはオリンピア王を待ってるんだ!
戦士王はそれに頷き、アレクサンドラ達を退かせた。不服そうな娘にも有無を言わさぬままである。ここで足を止めた分だけ急ぐ事を約束し、前座は終わりだとその場での戦闘を打ち切ったのだ。
そうしてカルデアは、なんとか事なきを得たのである。
『でもどうしたらいいんだ……? あんなの勝てっこないぞ。カウンターのサーヴァントと合流したって焼け石に水だ、七騎英霊を集めたって、戦力比がまるで釣り合ってないっ』
ロマニが苦しそうに呻く。戦力差は歴然だ。サーヴァントとはいえ円卓の騎士、その中でも特に優れた三騎が、たった一人の英雄を下すどころか、手加減されて敗北したのである。マシュに関しては相手にもなっていなかった。切り札である宝具の温存はしたが、それとてどれほど有効か判断は厳しい。
敵となる相手の戦力は、アレクサンドラ、ヒュロス、アイアス、マタルヒスの他にも綺羅星の如く英雄が控えている。そしてトロイアにはあのヘクトール……そして全てを下せたとしても、全員を併せたよりも強いであろうヘラクレスがいる。勝機がまるで見えない。
ロマニの悲観は分かる。そんな彼に、マシュは考え込むように顎に手をやり言った。
「ドクター……多分ですが、相手が一人という条件であれば、勝ちの目はあると思います」
『――本当かい? 確かに宝具は温存してたけど……』
「いえ、宝具を込みにして考えて……
マシュ・キリエライトは、その
そう、マシュは
もちろん他のA班のマスターよりも習熟に時間は掛かるだろうが、それでもその能力は嘘は吐かない。
ロマニは、はたと気づく。
『まさか……
「はい。この特異点に臨む前に試みた訓練の結果、令呪により一時的にサーヴァントの方々の
硬い貌で肯定するマシュにロマニは息を呑み。そしてマシュの努力に喝采を上げた。『凄いぞ、希望が見えてきた! 霊基再臨に宝具の解放を同時に行えば、初見相手なら実力を発揮する前に倒せるかもしれない!』――そう手放しに称賛されるも、マシュの表情は硬いままだ。
そのまま、告げる。右手にある令呪をカルデアのモニターに見せて。
「先の戦闘で令呪を一画使用し、サー・ガウェインの『
『す、凄い機転じゃないか! でかした! 道理でガウェイン卿がすんなりやられたわけだ……でもお蔭で情報戦は上回ったぞ! こっちは一応全力だったんだ、見破り様がない!』
「………」
マシュは無言で空を見る。正体不明な、空にある光の帯。円を描くそれを見詰め、深刻に押し黙っている。
様子のおかしさには気づいていた。だから殊更大袈裟にリアクションを取っていたロマニである。然し流石に見て見ぬふりはできそうもない。マシュを徒に不安がらせたくないが故の気遣いだったが、とうのマシュが何かに気づいて不安を抱えているのなら話を聞く必要がある。
『マシュ、どうかした?』
「……いえ、イオラオスさんは、どうして戦士王のご嫡男とご息女を同時に相手取り、優勢を保てたのかと思って……」
『……? 経験の差、じゃないかな。逸話的には英雄イオラオスよりも武力に秀でた二人だけど、まだ二十歳未満の少年少女だ。個人戦闘力では全盛期の従兄にはまだ及ばなかっただけなんじゃ……』
「んなわけあるか。ロマニ・アーキマンは戦闘に関しては素人以下なんだな」
イオラオスは霊体化し傷が癒えるのを待つサーヴァントを見遣りながら、視線も寄越さずに否定する。
『え? えっと……ボクは確かに荒事の素人だけど、その素人目にもイオラオスさんの方が優勢に見えたんだけど……?』
「確かに経験値は雲泥の差で、
『え、演じ切った……?』
「……ドクター、お忘れですか? 英雄アレクサンドラは
「未来であの小娘が何をするかなんてどうでもいいが、直情的に見えたんならその印象は変えといた方がいい。小娘も本気じゃなかった。口にした言葉は全て本音で、こっちを殺す気なのは本当だろうが、別にそれは
ロマニが呻く。そうだった、と。
『アレクサンドラはともかく、ヒュロスが本気じゃないっていうのは明らかじゃないか……
「それで? マシュ、おまえは何に
イオラオスは見抜いていた。マシュがアレクサンドラとヒュロスを気にかけていただけではないと。もう一つ、
どういう事? と、素で返すロマニは鈍い人間なのだろう。貌も見たことはないが、話してみる感じ知性は高い。教養もある。特別に凡人であるとも思わない。ひどい違和感だが、まるで人生経験が薄いかのように、ロマニに関して感じていた。
マシュは指摘を受け、難しい貌をする。
「その、アイアスさんは強かったです。でも稽古を付けてくれてる感じで、私は必死に戦っていた訳じゃなくて……でも彼女の技術を真剣に学んではいたのですが……戦闘ではなかったから周囲に気を配れたんですけど……それで……その、なんというか、ヘラクレス王が、ジッと私達の事を見てたような気がするんです」
不気味だったのだ。自分の愛する息子たちと信頼する部下、そして自分を慕う戦士としての後継者である盾戦士を見守っていて。悪意なく事の成り行きを傍観していた、あの戦士王が。
マシュのその着眼点に、イオラオスは仄かに貌を綻ばせる。
「よく見てる。視野が広いな」
「いえ、そんな……」
「謙遜する事はないぞ。その
『えっと……ヘラクレス王がこっちを見てるのは当たり前のことなんじゃ……?』
「意味合いが違う。眺めてるんじゃなく、
『……なるほど。つまりイオラオスさんが終始、手出ししなかったのは実力を隠すためだったんだ』
「まあな。見るからにパリスが我慢の限界だったんで、時間切れは見えていた。昔から使っていた技と体捌きしか見せなかったし……でもまあそれを使い回せる立ち回りは見取られただろう。ついでにわたしはともかく、伯父上は
「っ……」
『それの何が問題なんだい?』
「ギリギリまで追い詰めはした、だが隠したものがある、って事に気づかれてるんだ。ならそれはいざって時に出す切り札があると伯父上に見切られたって事だろ。札は伏せたままだが全力で戦ったのには違いないんだろ? なら技と身体能力、連携力は把握され、ついでに切り札があるのに気づかれた。そして……
さ、休憩は終わりだ。そう言って立ち上がり砂埃を叩く落とすイオラオスに、気負った様子は見られない。マシュはイオラオスを見上げる。片手で引き上げられ、無理矢理立たされた少女は困惑し。白い獣がイオラオスの腕に跳び、そのまま肩の上に立つのに男は微笑する。
なんだこの白いの、人懐っこいじゃないか、だなんて。神代高位の魔術師が見れば目を剥く獣だが、賢者ではあるが魔術師ではないイオラオスには小動物にしか見えていなかった。顎の下を指先で掻かれ、ふぉ〜、と心地良さげに鳴く獣をよそに、マシュはイオラオスに訊ねる。
「どこに行くんですか?」
「戦力差は歴然、戦況は絶望的だ。が、何もしないで指を咥えてたんじゃあなんにも変わらない。ならできる事からはじめて、打てる布石は全部打つ。質問だマシュ、わたし達とあちら、比べてみて違うところはなんだ?」
「え? ……っと……数、ですか?」
「そう。伯父上達は軍勢で、こっちは少数だ。足の速さならこっちが上なんだよ。つまり先回りが出来る」
『先回りって言ったって、どうするんだい? 正直言って、アカイアの連合軍にはなるべく近づいてほしくないんだけど……四の五の言ってる場合じゃないのは分かるけど』
「だろうな。マシュが行けば食いもんにされて終いだろうし……」
「……?」
分かっていなさそうなマシュに、イオラオスは肩を竦める。分からないならそれでもいいさ、と。
マシュの無垢は無知からくる。無知とは、知識の有無ではない。保有する知識と結びつく経験、想像力がないのだ。然しマシュの知性は極めて高い、それこそイオラオスに匹敵するか、上回るだろう。遥か未来まで連綿と受け継がれ、積み上げられた膨大な知識を持ち、それによって育まれた教養が知能を磨くのだ。
人間の知とは、歴史の蓄積により位階が上がるもの。古代の賢者など、未来の水準で見れば平均的なものでしかないかもしれない。少なくともイオラオスが遥か未来の人間なら、今のイオラオスより桁外れに知略の冴えが違う。
古代中国の三国時代、随一の知恵者、諸葛孔明の計略を。未来では優れてはいるが随一とは言えない知恵者に十全に使い熟せる点で見ても、歴史の蓄積による知性の研磨がどれほどのものかを知れるというもの。個人の知は、集合知には到底及ばず。その集合知を学べる環境にいたマシュの知力は、紛れもなく優秀なのである。
そのマシュが無知でいられ、無垢でいられるのはある種の強みではある。純粋でいる事は、純粋でいられなくなってからは身につかないものだ。
だから薄汚い欲望の対象に、自分がなるのだという事に気づかないならそのままでもいい。その無知による無防備さを守るのも大人の務めだろう。いずれ、純粋ではいられなくなるのだから。せめて今少しは無垢なままでいてもいい。
戦場と、生と死が隣り合う世界で生きているイオラオスからすると、マシュの魂は眩しいほど尊い。無垢な命に感動すら覚えるほどだ。
だから首をひねるマシュに、ロマニとの共通認識を告げはしない。そうしたことを教え、あるいは導くのは親……この場合はロマニの仕事であるのだから。
イオラオスは気を取り直して言う。今後の趨勢を少しでも自分に傾けるために。
「アテナイに行く。伯父上の要請がいけば、テセウスまでトロイアに着いてしまうからな。そうなったら確実に一矢も報いられなくなる」