ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
はじまりは、愛ではない。自らの神格が、原始の猿でしかなかった者共よりも、遥か上位であるが故の憐憫であった。
寒さに震える犬猫に、餌をやるようなもの。捨てられていた愛玩動物を、拾って世話してやる程度のもの。愛はなく『可哀相だから救ってやろう』という偽善である。
火で焼いた肉を、一人の人間に与えた。仕留めた獣の肉を生で喰らい、貪るだけ。食の楽しみを知らず、飢えを凌ぐだけの家畜に上等な食事を施した。
人は、とても喜んだ。こんなに美味しいものを食べたのははじめてだと。感謝され、そして問われた。この赤く温かい、けれど触れたら焦がれる熱いものはなんだと。当方は答えた。これは火である。太陽の輝きの欠片である、と。
火とはなぜ物を焼くのか。――その素朴な疑問に、当方は答えに詰まった。神々の内に在りて、叡智を以て知られる神格が、火がなぜ物を焼くのか答えられなかったのだ。火は、ただ炎だから焼くのだ。触れたものを焦がすのだ。そう答えるしかない。炎の在り方など、ただそのままであり。そこに意味や理論を求めても意味がない。
当方は然し、そのようには返さなかった。知恵者の名に懸けて、底の浅い答えを述べる事など矜持が赦さなかったのだ。故に答える。火とは、扱う者によっては豊穣を、あるいは破滅を齎すものである、と。すると人は素朴に笑った。ああ、あなたは神かと。そんな自明な事すら気づいていなかった猿に、苛立ちを覚えたものだが。然しその者の答えに、なぜか胸を衝かれた。
――火は触れてはならない。遠巻きにすれば今のように暖かく、触れようと手を伸ばせば焼かれてしまう。まるで火とは神のようではないか。
そんな事、考えたこともなかった。そうか、と思った。その通りだと納得した。そしてふと、哀しみに包まれた。
――焼いた肉は美味しかった。すると
――火を扱う術を持たぬ我々に、どうして
衝撃、だった。
ほんの軽い慈悲、憐憫であった施しが。当方の考えなしな浅慮を浮き彫りにした。
不敬であると断罪するのは簡単だった。然し人はそれを望んでいる。もう何も口にできぬと嘆く故に、死んだ方がマシだと考えている。
それはつまり、彼に施しを与えた故に、彼を当方が殺したという事になる。当方は、なんと無慈悲で残酷なのか。彼の言い分は何も間違っていない。
当方はそのまま、彼を罰さずに天界に戻った。まさか自死を選ぶ事はないだろうと。居た堪れなくなり、彼の前からいなくなりたかったのだ。そう、逃げたのである。神であるこの身が、脆弱な人間などから。
天界から下界を見る。彼は生きていた。やはり生命の本能が忌避し自死を選ばなかったのだと当方は安堵し、次いで傲慢な神らしく怒りを懐いた。折角の施しを無下にされた怒りである。
然しそれはすぐに霧散した。人は、泣いていた。泣きながら狩りをして、不味い、不味いと嗚咽を溢して糧を喰らっていたのだ。腹は満たされても心が渇いている。当方が彼の人生から彩りを奪ってしまったのだ。
無視すればよかった、いや実際に無視しようとした。だが何かにつけては、ふと気づくとあの人間を視ていた。そして、遂に罪悪感から居ても立っても居られなくなってしまった。
冬の寒さに凍え、寒い、寒い、と縮こまる彼を視た。冷たい肉を喰い、冷たい水を飲み、冷たい大地に触れ、冷たい風に吹かれる。獣のように分厚い体毛があるでもなく、故にこそ寒さは人間にとっては辛いものだった。
当方は、彼に火を与えたいと思ってしまった。赦されないことだ。大神ゼウスを謀り原初の火を盗み出すと、当方は彼に――否、彼だけにではなく、全人類に火を扱う権限を……権能を与えた。それは神の権力を削ぐ冒涜的な大罪である。大神は断じた。
貴様の仕出かした行いにより、人間は争うようになり、多くの命が散るだろう! 過酷な自然の中で折り合いをつけ、自然の一部として生きてきた人間を、火で炙り出し、人間を自然から弾き出したのだ! 貴様の罪は重い。厳粛に受け止め罰に服せ!
そうして、当方は万年の罰を受ける事となった。
だが構わない。当方が見届けたのは、火を支配する術を得て当方に感謝し、喜ぶ人間の姿。彩りを失くした人間の彼が、再び生きる喜びを取り戻して涙する姿。それで満足であった。それだけで良かった。だが当方の憐憫は、人間に予期せぬ変化を齎した。
山の山頂で鎖に繋がれ、内臓を神鳥に啄まれる日々の中、遠くを見透す眼で視たもの――それは発展だった。当方の与えた火を元に築き上げられていく豊かな文明だった。それを視ているのが、鎖に繋がれている当方にとって、唯一の楽しみだったといえる。
だが破壊もあった。争いもあった。火が自然の破壊にも用いられ、人と人の争いを激化させている。大神の言う通りだった。だが当方には……それすら美しく見えている。あれは争いを通して競争し、文明の発展を……先鋭化を齎すものだったのだ。
戦争もまた文明である。そう、人間は文明を発明した。神の手ではなく、人の手で。そしてそれを助けたのが当方なのだ。……誇らしく、喜ばしい。歓喜と言えた。内臓を啄まれる痛みなど気にもならない。もう人の世の営みを視ているだけで満たされた。ああ、愛おしい。人よ、もっと築け。天の玉座に届くまで。
憐憫は愛となった。
だが当方は獣にはならぬ。憐憫の座は既に埋まっている。故に試練とはなれぬ。そも何故に神如きが試練と化すのか。人は人によって試練を齎されるだろう。それを超えられると信じる。森羅万象を支配するに至る試練こそが人類そのものの歩み。当方はそれを視たい。見届けたい。人間賛歌の詩を謳わせてくれ、声が枯れ喉が引き裂かれるほどに!
そのためには――
ああ、そうとも。故に歓喜と戦慄に震えるのだ。人間の忍耐の究極よ、人類の集合的無意識の総括、総体にも勝る空前絶後の意志の巨雄よ。お前こそ神を駆逐する人の尖兵である。はじめて出会った時に感じた慄きを覚えている。そして探り当方は知ったぞ、復讐の女神を捕らえ、彼の復讐心を聞き出し、復讐の女神――
ああ――然し、その、なんだ。
恥ずかしながら、当方の愛は有限である。というより、この身がギリシャの世界に根ざす神格故か、どうにもよそのテクスチャの人類は愛せない。
どうでもいいのだ。当方はギリシャの人類のみを愛している。獣に化身せしめぬのは我が身の狭量な愛ゆえなのだろう。つまるところ――ギリシャの人類、人理さえ無事であるのなら……
いと尊き志によって立ちし魔術王よ。貴様の発生した時代より古の代に、迂闊に聖杯などを送り込んだのは失敗だった。
この
もう遅いぞ魔術王。光帯回収の為に魔神柱を送り込んで来ようと――そぉら、我が英雄が薙ぎ倒してしまった。伐採してしまった。彼は既に死人だが、その身に宿りし英霊ヘラクレスは、生身を持つ故に
だがそんなリスクなど冒せまい? だから指を咥えて視ているといい。当方と、我が英雄、そして我が愛しの人類が築く未来を! この星を! 白紙化した惑星に在りながら、紡がれる人間賛歌の詩を網膜に焼き付けるがいい!
さて……そのために、カルデアは邪魔だ。エジプトと同じ、異邦の民如きが踏み入っていい世界ではない。今はまだ特異点なのだ、剪定事象の魔の手から脱するため、人理定礎を完全に破壊せねばならんのだ。異聞の帯として世界を括り、固定するために。よその人理まで修復せんとする存在など不要。
然しそう目くじらを立てる事もない。何故ならどう足掻いた所で、カルデアではオリンピアの英雄達には勝ち目がない。よしんばマタルヒスを、ヒュロスを、アレクサンドラを、大アイアスを打ち破ったとして……トロイアのヘクトールを、カッサンドラを捕殺せしめたとして。総ての特異点の原因を排除したとして。そんな奇跡を連発したとしても――それらを一つに纏めたよりも強き英雄、至強の戦士には絶対に届かない。
彼さえ無事ならそれでいいのだ。それで終わるのだ。目標は達成される……ギリシャ以外の人理を踏み台に、ギリシャはさらなる発展を遂げるだろう。
当方の最善手は、何もしない事だ。黙って視ていよう。余分な情報が戦士王の耳に入らぬように手は打ってある。放浪の賢者、半馬の賢者は気づいているだろうが、いまさら動けまい。賢しい者ほど戦士王に余計な事など言えないのだから。
警戒すべきは思慮の足らぬ
『メドゥーサ。私と共に来い』
――その出会いを、覚えている。
無味乾燥とした絶望の海に浸る、この罪深い魂に差し伸べられた、大きな手を。例え死して別人に生まれ変わったとしても、その恩義を決して忘れる事はない。
スーダグ・マタルヒスという英雄の仮面を被り、人として生きて、英雄として死ぬ。その機会をくれた彼には感謝の念しかない。
エリュシオンへ逝く。それが私の目的。二人の姉がいるだろう、英雄の楽園。女神である姉たちが、そんな所にいるはずがないとは想う。然しいるとしたらそこしかないのだ。英雄の楽園エリュシオンにだからこそ、完成された偶像としての女神は不可欠なのだから。
だから、私は英雄に成らねばならず。救いの手を差し伸べてくれた彼は、私を英雄にしてくれた。
オリンピアを襲ったギガースの残党との戦いに始まり、数多くの無理難題を押し付けられた。最たるものはエジプトから流れてきた神獣スフィンクスの討滅だったか。
英雄としての逸話を積み上げ、功績を重ね、勲を得て。それだけでよかった。言われた事を熟すだけでよかった。酷使され、そのまま死なせてもらえればそれでよかった。
だが彼は、そうはせず、私に自分の子供の世話役までさせて。人と触れ合う喜びを、教えられてしまった。
ひどい人だ。未練ができた。簡単には死ねない理由ができた。
ヒュロスはカワイイ。彼には反抗的だが、私やヒッポリュテにはひどく甘えん坊で。ついつい甘やかしてしまう。その道程を見届けたいと思ってしまった、
アレクサンドラもカワイイ。根っから真面目で、凛として、毅然として、誇り高いのにふとした拍子に甘えてくる。苦渋を舐める事を苦とせず糧にする精神もある。何よりカワイイ。
友人ができた。ヒッポリュテと、メディア。彼女達の行く末が幸福なものであるようにと祈ってしまった。願ってしまった。それほどに、親しくなってしまった。
恩義がある。ただ利用させてもらうだけだったはずの大英雄に、忠誠心を懐いてしまっていた。
――死するその時まで、彼のために戦う。それでこそ、エリュシオンに至る英雄というものでしょう。
私は自分にそう言い聞かせてみて。ふと姉たちが笑っている気がした。
悪くない。怪物として討たれたはずの私が、英雄として死ぬなんて、あの忌々しい女神に対する皮肉としても上等だろう。
マタルヒス。この偽りと共に死ぬ。オリンピアの総ての人々に幸あれという願いを抱いて。
だから。
――不愉快ですね。
私は。
殊更に
殺意すら覚える。
故に私は、数少ない彼の神が戦士王の影である事を知る者の中で、ただ一人あの神を信じていない。
何か企んでいるのだろう。それはいい。いいが……。
――あの方の影になるにも、相応の
故に、だ。
私はアレを表舞台に引き摺り出したい。
傍観者を気取るなど赦せるものではないのだ。
関わるのなら、表に立て。裏に潜むなど、戦士王と同じ道を歩む者のするべき行いではないのだから。
だから――
斬り伏せる瞬間、白い鎧の戦士にそう囁いた。
眼を見開く彼には見向きもしない。これは嫌がらせだ。私の仕える王、その道に立ち塞がる者には、王の豪腕が振るわれる。
こんなもの、王の道の妨げになりはしない。利敵行為などではない。何故なら――忘れているのかは知らないが、堕ちたるとはいえ私も
あの神は、確実に、私の王の意志にそぐわない企てを立てている。
ならそれを潰し、王に勝利と栄光を。カルデアとやらとイオラオスの会話は迂闊だった。些か私に近い所で交わされた会話は、こちらには筒抜けになるのだ。
カルデアをプロメテウスにぶつけ、彼の神の企てを明るみにする。その上であの神が王の意志に反する事をしていたのなら、カルデアと潰し合わせ、弱らせ、そしてこの私が
真に王の共犯者だと言うのなら、堂々と並び立てばいい。横に立てないというなら、プロメテウスは敵だ。敵は排除する。よくよく弁えなさい、プロメテウス。これは踏み絵なのだと。カルデアがどう動くにしろ、私が生きている内は好きにはさせない。
王の眼の行き届かない部分を視るのが、私の役目だ。
だからカルデア。
プロメテウスの失墜は、ともすると