ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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九夜 剣の陣、聖杯の器(上)

 

 

 衛宮士郎にとって、最近は訳の分からない事の連続だった。

 

 事態の急変、日常の崩壊を告げる先触れが何であったか。事の起こりとして思い当たるのは、当時は不気味に感じながらも白昼夢に近い夢幻と思い込んでいたものだ。

 夜道を照らす頼りない街灯の明かりを頼りに、バイトを終えて間もなく自宅に着こうかという時の事である。白い妖精のような少女と、威圧感のある巨漢と擦れ違った際、士郎は囁かれたのである。

 『早く喚び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん』

 見るからに外国人の幼い少女。その保護者らしい巨漢。なんとなく関わり合いになってはならないと思い、目を合わせる事なく通り過ぎようとした。その時に囁かれて、士郎は思わず振り返って――そこには誰もいなかった。

 何を喚び出さなければ死ぬのか、なぜ死ぬのか、謎めいた予言、予告とも取れる言葉の意味を考えるよりも先に、先立ったのは不気味さと現実感の欠如である。疲れているのだろう、幻聴が聞こえたに違いないと思い込み、以降はその邂逅を意図的に忘れた。

 

 そしてそれから数日と置いて、あの夜に遭遇した黒服の偉丈夫に、桜と下校している最中に出会った。

 

 聖杯に関する意図の解らない質問の後、唐突に告げられた殺害予告。なのにこちらを思い遣る忠告。そして、桜が事情を知っているという断定。

 桜は、怯えていた。恐怖していた。それはあの死の具現化とも言える巌のような男の指摘が正しいと証明している。その日はずっと震え、慄く桜が落ち着くまで宥め――翌日、意を決した桜に全てを明かされた。

 聖杯戦争。七人の魔術師と七騎のサーヴァントによる聖杯の奪い合い。殺し合い。今回が五回目で、前回は十年前に行われたという。間桐家は聖杯戦争の黒幕とも言えるアインツベルン、遠坂と連なり御三家と呼ばれている事、自身も魔術師としての技能を、最低限度は備えている事。士郎は遠坂の家名が出た事に何より驚いたものだが、それより先に気に掛かるものがあった。

 

 ――十年前。

 

 あの冬木の大火災が起こった年と符合する。背筋が凍り、ソラに空いた黒い太陽のような孔を幻視した。立ちくらみを起こしながらも、桜は洗いざらい告げる。

 前回の聖杯戦争の勝者は、衛宮切嗣。士郎の養父である。これだけでも天地がひっくり返ったような衝撃に襲われたが、そこで話は終わらなかった。桜が士郎と関わる事を許され、衛宮邸に通う事を許されていたのは、間桐家の当主が衛宮切嗣を警戒し、次の聖杯戦争までにどんな後継者を残しているかを見定める為だったのだという。

 罪を告白するような桜の様子に、士郎は首を傾げた。確かにその事情には驚いたが、それだけでしかない。士郎は桜の事を良く知っている。日常の象徴のような存在だ。そんな彼女が自分よりも魔術師としての世界を識っている事は驚くに値するが、それでも桜に裏切られたとは感じない。寧ろ幾らでも誤魔化せるのに自分から切り出した事に、誠意と謝意を感じて信じられると改めて確信できた。

 その日は血の繋がらない姉のような人、藤村大河に言って学校は休んでいた。桜から申し出て、その深刻な表情に大河は事情を訊いてきたが、何も言わず暗い顔をする桜に、大河からは今日だけは見逃してあげるけど、明日からはきちんとしなさいと教師然として言われた。桜は大河がいなくなるのを見計らい、事情を説明してくれたのだ。話に聞く冷酷な魔術師なら、そんな真似はしないだろう。そもそも士郎に説明しようとすらしないはずだ。

 

 故に桜は自分の味方なのだと理解している。そしてそんな桜が怯えているのだ、先輩として彼女を守ってやらなくてはならないと、この時士郎は身の程知らずにも思っていた。

 

 桜は、サーヴァントとマスターに関して、そして聖杯戦争のルールについて話した。士郎の手を取り、火傷でもしたのだと思っていた士郎の痣を指して、これは令呪の兆しであると説く。

 サーヴァントの召喚権。英霊に対し三回だけどんな命令にでも従わせる絶対命令権。マスターの命綱。昨日、士郎と桜の前に現れたあの男はサーヴァント――過去の英雄であり。多分ですけど、と自信なさげに桜が告げた真名は、士郎でも識っている規格外の大英雄のものだった。

 

 ヘラクレス。あるいは、アルケイデス。

 

 言われて思い出した。歴史の教科書に、イオラオスの遺した肖像画の写し、その掲載写真があったのだ。それとあの男は余りによく似ていた。

 文明圏の義務教育過程を経た人間の内、見た事がないという輩は余程不真面目な学生のみだろう。古代ギリシャのオリンピック創始者、多くの神殿を建築し多大な影響を後世に遺した英雄の祖。史実の英霊としてならアルケイデスが、神話の英霊としてならヘラクレスとして現界するという彼は、そのどちらであっても『戦士王』と号される武勇を誇り、全英霊中最高峰の知名度を持っている。

 士郎はふと、彼を題材にするか、あるいはその名に言及されたサブカルチャーの多さを思い出す。クラスメイトの後藤が言っていたのを、同じく友人の柳洞一成と聞いた覚えがある。原点にして頂点の勇者である、と。創作物の設定としてだけでなく、事実として神話や歴史でも同様に讃えられているのだ。

 サーヴァントの力が知名度に左右されるというなら、ヘラクレスほど脅威的な者など片手で数えられる程度しかいないに違いない。

 

 それが、己を殺しに来る。

 

 実物を見た後だからか、殊更に克明な戦慄と恐怖に襲われた。

 桜はまず間違いなく彼が今回の聖杯戦争で最強のサーヴァントだと断言した。多少、聖杯戦争について知っていれば、誰もが同じ事を言うだろう。

 そして彼に命を狙われるという事は、士郎の生存は絶望的である。その危機を脱する為には、士郎と桜は協力して当たらねばならない。桜は自身もまたマスターであり、士郎にサーヴァントを召喚してもらえば、二騎のサーヴァントで彼に対処できるかもしれないと言った。――桜は士郎の性格を知っている故にこの時は言わなかったが、一騎でヘラクレスの足止めを行い、もう一騎でマスターを狙わないと勝てないかもしれない、と胸中に溢している。マスターとしての透視能力が、ヘラクレスの保持するパラメータを明らかにしていたからだ。

 

 Bランクの幸運を除き、全てがAランク。筋力に至ってはその倍だ。A+の筋力なんて、想像を絶する。具体的な想像なんてつくはずがない。

 

 士郎はもぐり、素人未満の魔術使いに過ぎないが、事の重大さは理解できた。故に桜の言う通り、新たに召喚するサーヴァントが信頼できるか分からない以上、まずは桜のサーヴァントを兄・慎二から取り戻す事から始め――そこを、槍兵のサーヴァントに襲われてしまう。

 どこかで士郎は甘く見ていたのだろう。英霊と言っても使い魔である。ヘラクレスを見たが、実際に戦闘の現場を目撃したわけではない。故に自分ではとても勝てないまでも、人間の理解の範疇にある戦力なのだろうと思っていた。

 甘かった。槍兵の動きが、まるで視えず。もし本気で殺しに掛かられれば、一瞬で屠られる様がありありと想像できてしまった。もしライダーがその身を挺して足止めを引き受け、逃してくれなければ、その場の戦闘に巻き込まれ死んでいただろう。いや、ライダーの足手まといになり、却って邪魔にしかならなかったに違いない。士郎は自身の見立ての甘さを痛感しながらも、彼女の求めるままサーヴァントの召喚を決行した。

 

「汝、三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ――天秤の守り手よ――」

 

 ――そうして、現れたのは剣の英霊だった。

 

 小柄な体躯。白銀の鎧。青いバトル・ドレス。不可視の剣を携えた、金の髪を纏めた白皙の美貌の少女騎士。彼女との間に繋がりがあるのを感じ、手の甲が焼き付くような痛みと共に光って令呪が発現した。

 その、荘厳な絵画を切り取ったような光景が、目に焼き付く。そんな場合ではないのに、士郎は彼女に目を奪われた。

 

「――サーヴァント、セイバー。召喚に応じ参上した」

 

 彼女は桜を一瞥し、然しすぐに士郎に目をやって、真っ直ぐに告げる。

 例え地獄に堕ちたとしても、この一瞬の光景は忘れないだろう――そう心のどこかで思うのに、自身のサーヴァントが少女の姿であった為か士郎は反応する事ができなかった。

 こんな女の子がサーヴァントなのか、と。侮ったのではなく、単純に驚き、女の子に戦わせないといけない事へ後ろめたさを覚えたのだ。

 

 そんな士郎の心境を察する事はなく、セイバーは淡々と続ける。

 

「問おう、貴方が私のマスターか」

 

 正規の契約が交わされている為、彼女――セイバーにも誰がマスターかは一目瞭然である。故に問うまでもないが、儀礼として問うたのだ。

 士郎は呆気にとられながらも肯定しようとして、桜がその場で蹲り片手を胸に掻き抱いたのに気づき、答える事がないまま慌てて後輩の少女を助け起こした。

 

「さ、桜っ? どうかしたのか!?」

「せん……ぱい……ら、ライダーが……! ライダーが、倒されちゃいました……!」

 

 そんな、と士郎は喘ぐように呻く。桜の令呪が消えていた。それはつまり、彼女の守護者が消滅した事の証である。

 セイバーはぴくりと形の良い眉を動かした。状況が読めないながらも、切迫した事態なのを把握したのだろう。自らのマスターに令呪があるのを見て取ると、質問に答えられなかった事に気を悪くするでもなく、冷静に状況把握のための問いを投げる。

 

「マスター、彼女はライダーのマスターなのですね? そして貴方の同盟者であると」

「あ……そ、そうだ。無視する形になって悪かった。俺は衛宮士郎。桜は何も知らない俺に聖杯戦争について教えてくれて、身を守る為にお前の、いや、セイバーだったか? その召喚に協力してくれたんだ」

「エミヤ……?」

「……?」

「……いえ、なんでもありません。彼女との関係は理解しました。確認します、現在彼女のサーヴァントと敵サーヴァントが交戦しており、結果ライダーが脱落したわけですね? マスター、敵は何処に――」

 

 言い切る前に。

 ざ、と砂利を鳴らして歩み寄って来た足音に、セイバーは素早く反応して背後へ士郎と桜を庇う。

 

「――おっと、探す必要はないぜ。こっちから来てやったんだからな」

 

 その彼女へ気さくに声を掛けたのは、青い戦装束の槍兵である。

 口調は軽く。されどその相貌に油断や慢心は欠片も見て取れない。彼の姿を見て桜の顔が強張った。ライダーの……自分が戦いを放棄したせいで、慎二に従わされ、苦々しい思いを強いてしまったのに、桜の都合で元のマスターの許に戻されることになっても嫌な顔一つせず、寧ろ貴女を護るためならどんな事でもすると言ってくれた……ライダーの仇。その顔を見る桜の目に、敵愾心が宿っていた。

 弱々しい女子供の敵意である。ランサーを警戒させるほどではない。士郎もまた、自分達のために戦ってくれたライダーを殺したらしい男へ、強い憤りを覚えていた。

 

 セイバーが警戒も露わに呟く。

 

「ランサーの、サーヴァント……」

「如何にも。そういうテメェは……得物が見えねえな。チッ、戦士が自らの武器を隠すとは何事だ? その風体、アーチャーって感じじゃあないが……真っ当な一騎打ちをするタイプか。

 少なくとも暗殺者の線はない。魔術師はあの女狐で、騎兵はさっきの女。ならテメェはセイバーか。この土壇場で、白兵を得手にする剣士のサーヴァントを引いたのかよ……面白れぇ」

 

 士郎の悪運に対し獰猛に笑いながらも、ランサーはセイバーが臨戦態勢に移るのに合わせて身構え――然し魔槍を構えはしなかった。

 それは、楽しみを得たような顔だった。

 

「なあセイバー。お互い初見だしよ、ここは手を引かねえか?」

 

 見るからに好戦的な槍兵からの提案が、よほど慮外のものだったのだろう。セイバーは薄く目を瞠る。

 

「……何? サーヴァントがこうして対峙したというのに、一合も刃を交えずして引けというのか」

「応よ。なんせこちとら連戦……消耗は少ねえし、やり合うってんなら文句もねえが、出来るなら掛け値なしの全力で殺り合いたい。オレも鬼じゃないんでね、召喚直後で互いを良く知らないままの主従を別れさせるのも偲びない。お前さんもマスターと充分な信頼関係を作ってから当たった方が万全だろ?」

「……一理はある。然し僅かとはいえ消耗している貴方を、むざむざ見逃したのでは騎士の名折れだ。ランサー、貴方が私の一太刀を浴びて生き延びていたのなら退くことを認めよう」

「――ほう? 大きく出たな……上から目線とは侮られたもんだぜ。あーあ、せっかく楽しめそうな奴だってのに……此処で殺しちまわなきゃならねえとはな」

 

 ランサーとしても、言ってみただけなのだろう。令呪の縛り故に、初見の上物相手には欲を出してしまうのが彼だ。尤も本気ではない。ちょっとした味見程度はするのも悪くないと思っている。そこに挑発を受けてはその気にならざるを得なかった。

 世知辛いなと嗤うランサー。彼は魔槍を構える。四肢に漲る豹の如き柔靭な力感に、セイバーは相手が決して侮れない敵だと直感した。

 

 だが負けるとは思っていない。自身のマスターからの魔力供給は乏しいが、皆無ではないのだ。召喚直後である故に自身の魔力も万全。後々に消耗した状態でランサーと当たらねばならぬ事態が出てくる可能性を考えると、手強い相手であるからこそここで倒してしまうか、手傷を与えておきたいという魂胆を懐くのは自然だった。

 ましてや強敵らしいランサーは連戦で、僅かであっても消耗はしている。セイバーからすると好条件が揃っているのだ。わざわざ見逃す道理はないのである。

 

 だから、戦わんとするのは間違いではない。ランサーも百戦錬磨の戦上手である。彼女の思考を読み切った上で挑発に乗ってやる事にした。

 

 ――だが、だからこそである。

 

 好戦的であるランサーが互いに退く事を提案した意味を、もっと深く考えるべきだったのだ。無論現界した直後のセイバーにそれを求めるのは酷である故に、マスターである士郎と桜が気づくべきだったのである。

 戦略的に俯瞰して考えれば、()()()()()は充分に考えつけるもので。戦略眼をどちらかが持っていれば――あるいは桜の実姉、遠坂凛であれば気づいたであろう、事態の危うさを。

 

 

 

「――あら、楽しそうじゃない。わたしも交ぜてもらおうかしら」

 

 

 

 ランサーとライダーが戦闘を行い、ランサーは宝具を使った。その魔力の波動は隠せるものではない。

 士郎が土壇場で、桜の補助があったとはいえサーヴァントを召喚した。その魔力反応は宝具の発動に引けを取らない。

 槍兵が撒いた人払いの魔術、槍兵と騎兵の戦闘の騒音、宝具の発動、そして英霊召喚――これだけ揃って、その気配に気づかない()()ではない。

 

 突如掛けられた声に、ランサーはニヤリと笑い。士郎と桜は顔を青褪めさせた。

 混迷する戦況。セイバーは舌打ちして、向かって9時の方角に目を向ける。そして、二つの意味で驚愕した。

 

 一つに、見覚えのある少女。

 二つに、一人の剣士として憧れた偉大な戦士。

 

 冬木を散策していた、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、バーサーカーのサーヴァントを従えそこに立っていた。

 

 

 

 

 




ランサーVSライダー

ランサーVSセイバーVSバーサーカー、ふぁいっ!

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