しばらく四人のRoseliaだけど、応援してます。
年が変わって既に四月。文字通り四月のある日。
ほとんどの学生たちは新年学期が始まっておらず、春休みを満喫している。夏休み、冬休みと比べて短い期間だが、長期休暇というものはありがたいと思われるものだ。
氷川と表札に刻まれた家の中でも双子の姉妹は春休みである。
彼女たちは母親が作った温かい昼食を、同じくらい温かい春の陽気が差し込むダイニングにて食べていた。
休みであるが、堅実な姉は規則正しい生活を続けている。姉と一緒に過ごすのが大好きな妹も同じように続けており、偶に夜更かしをしようとして怒られることもあるが、それは今に始まったことでもない。
ここ毎日同じ時間、昼食ならば十二時に開始し、後片付けは娘たちも手伝うのがここ最近の
しかし、今回は少し違った。
「貴女達、お稽古しないかしら?」
双子が丁度昼食が終った頃に母親が提案する。
「お稽古?」
「お稽古? どんなどんな!?」
始まりの言葉こそ同じだが、双子なのに態度が全く異なっていた。
紗夜は突然何を言い出すのかと怪訝そうにしており、日菜はどんな稽古なのか興味を抱く。
同じ日に生まれ、顔も双子らしく似ているのに趣味も性格のバラバラな愛娘たちの反応は母親も想定内だった。
「どんなと聞かれたら色々ね」
「そんな沢山の習い事をさせるつもりなの?」
今まで塾なども通わせる素振りを見せなかった母親による突然の教育方針に、紗夜は戸惑う。
別に習い事が嫌なわけではないが、その時間を割いたことで学校の勉強に遅れないか、日菜やとある少年との差が広がらないかと不安なのだ。
しかし、彼女の困惑は母親の言葉で別のモノに変化する。
「沢山の習い事をさせたいのは事実だけど、通わせる場所は一つだけよ。小笠原指南所というところなんだけどね」
「────」
紗夜の顔が固まった。
習い事に興味を惹かれていた日菜もこれには少し驚き、姉を尻目で見る。
小笠原指南所とは紗夜に恋しているクラスメイト、黄金の獣と呼ばれる小笠原純心の実家だ。
「色々と教えている場所だから、何かお稽古するならそこがいいかなって。そこの息子さんは紗夜が好きみたいだし、きっと懇意にしてくれるわ」
そこの息子が自分の娘に御執心なのは既に母親は知っている。
半年近く前にあった小学校の運動会。
小笠原純心が全校生徒の前で大胆に行った紗夜への発露は、子供たちを応援しにやって来ていた保護者たちにも目撃されている。無論、紗夜と日菜の両親もその場にいた。
彼女たちの母親が指定した習い事の場所に自分の娘へ色目を向けている子供がいるのを知ると、父親は反対的だった。だが、母親は面白そうだからという理由を伏せて夫を説得した。
二人の娘はどちらも学力が高いので勉学系の塾は不要。
体験させるのであれば現在の学校では習えない技術を学ばせるべきだ。
そう意味で小笠原指南所は良い場所である。
茶道、礼儀作法、合気道、琴、弓道と異なる教育を複数学ばせる習い所は少ない。
特に礼儀作法は大人になってからも役立つことで保護者には人気があり、他の技術もやっていて損はないだろう。
そもそも習い事をさせる必要はあるのかと尋ねた夫の言葉に対して、妻はないと断言した。加えて習い事をさせるメリットも説明する。
幼い日に見つけた技能は腐ることもあれば開花することもある。させて損はない。
更に夫が気にしている指南所の子供についてだが、母親は気にしていない。
いや、興味があると言ったほうが正しいだろう。
そもそも、紗夜がその少年に迷惑しているなら、母親は純心の親へ既に抗議している。
しかし、紗夜は純心と何度か二人だけで出掛けており、互いの誕生日にプレゼントを渡す程の関係は築いている。
よもや、小学生が誕生日プレゼントで純金の髪飾りを贈るとは思いもしなかったが、自分には似合わないと困りつつも、部屋で一人の時にひっそりと大事そうに眺めている紗夜を母はこっそり眺めていた。
尤も、件の少年がいる指南所に通わせる理由は子供の恋路を応援するためではない。
単なる小学生の間に色んな経験を積ませたいという母心が大半だ。
新しいことに目がない妹への配慮や、堅物の姉が思われている男の下へ習い事しにいけばどんな顔をするだろうという妙な考えは四割しか持ち合せていない。
このような愉快な部分が日菜に受け継がれたのだろうと、紗夜はもう少し大きくなった後で理解する。
とはいえ、習い事を強要することはしない。
「貴女たちが興味なければ無理強いはしないわ。お母さんは今のうちに色々と経験した方がいいんじゃないかと思って、貴女たちにお稽古を勧めているだけよ」
偽りなき本音。
子供たちの恋路も、あと数日で学校が再開する。手出ししなくとも、進展はそのときであるならあるだろう。
指南所に通わせることができれば、学校とは違い送り迎えと称して様子を覗き見できるので面白いだろうな、と思っているだけだ。
だが、強引に通わせる気もないが、愛娘たちに色んな経験をさせたいという親心も偽りではない。
「二人はまだ小学生だけど、中学生、高校生と上がって度に将来の選択肢は迫られて選べる道も限られてくるからね。
お稽古に通うとしても紗夜に夢中な子がいる場所じゃなくてもいいわ。私は其処がこの辺りで色々と学べる場所だから勧めているだけ。二人が好きなようにしなさい」
「日菜はどうしたい?」
「おねーちゃんがするならする! しないならしない!」
迷っている紗夜が隣の日菜へ尋ねると、予想していた通りの返事がやって来た。
「日菜は紗夜が大好きね」
「うん! おねーちゃん大好き!」
曇りなく宣言する日菜を微笑ましく母が見つめる。
いつも紗夜の後をついて行くので日菜の反応は予想通りだ。
あとは。むしろ最初からであるが紗夜次第だと母親は彼女の答えを待つ。
紗夜はしばらく悩んでから、小さな口を開いた。
「じゃあ、お稽古してみる。場所は、お母さんが言っていたとこでいいわ。べ、別に彼がいるからとか、そういうのじゃないんだから!」
解りやすい反応だな、娘よ。
そんな紗夜を微笑ましく見つめる母親であった。
小笠原指南所がある場所は古い家々が建ち並ぶ旧住宅街にあった。
近マンションやアパート、モダン住宅が増え続ける近年ではあるが、この場所のように百年単位で昔の景観を維持している場所は貴重である。
静かで寂れた所だと揶揄するものもいるが、旧き日本住宅が健在しているこの場所を好む者も多い。目立った名所はないが、稀に海外の観光客が眺めに来ることもある場所だ。
見事な桜並木を横切り、最初は母親と同伴して指南所にやって来た氷川姉妹は目の前に建つ屋敷に圧倒される。
大きな瓦屋根に長屋門。傍には『小笠原指南所』と大きな看板がかけられており、その両端から白地の壁が何処までも続いてる。角に辿りつくまではしばらく歩きそうなほど広大な敷地だと見て解る。
時代劇で見かけるような純日本の屋敷だ。
彼女たちを連れてきた母親も初めて来たのか予想以上の外観に圧倒されている。
しかし、このまま立ち止まっていても何も始まらないので、母親は門には不釣合いなインターホンを見つけると、意を決してボタンを押す。
『はい。小笠原指南所でございます。どちら様ですか?』
周りを意識しているためか無粋なチャイム音は響かず、インターホンから大人の声が聞こえた。
察するに声の持ち主は年輩の男性である。
「ご免ください。私、今日からお世話になります氷川という者ですが──」
『あぁ。新しい生徒の。はい、存じております。お迎えに参りますので少々お待ちください』
「わかりました」
静かに三人が待っていると大門の脇にある潜扉が開かれた。
最初に目に映ったのは長い黄金の髪。宝石の如き円らな
顔は完全に異国のものであるのに着物を着こなしており、凛とした佇まいで優雅に微笑む。
「お待ちしておりました氷川様。私、指南所の指導員を務めさせていただいております、小笠原
思いがけない麗人の登場で息を呑む双子の母親だったが、子供たちに気後れはなかった。
「ねぇねぇ、おばさんっておがさーのお母さん?」
「ちょっと日菜!?」
こちらも挨拶する前に日菜が遠慮なしの言葉を投げ、氷川姉妹の母親は焦った。
「申し訳ありません! 娘がご迷惑を!」
謝罪する母親を不思議そうにする日菜に対し、紗夜もばつの悪い顔を浮かべる。
おばさんとは言うつもりはなかったものの、日菜が言わなければ自分が挨拶する前に尋ねるとこだったと反省した。
何故なら目の前にいる麗人の金髪は、純心によく似ていたからだ。
金髪の麗人──小笠原莉那は日菜の不躾な質問は特に気にした様子もなく、謝ってきた母親に対して自分の方が申し訳なさそうな態度を見せた。
「構いませんですよ、かしこまらないでください」
「そう言ってくれると助かります。遅れましたが私、お電話させて頂いた氷川です」
「お伺いしております。では、貴女は──」
「氷川日菜です!」
莉那が日菜に視線を向けると、悟った彼女が遅れながら挨拶した。
元気一杯の声に莉那は綻んだように微笑む。
「日菜さん、ですね。おがさーとはうちの息子、純心のことでしょうか?」
「うん。そうだよ! 『おがさはら』だから『おがさー』!」
「あらあら、これは可愛い渾名ですね。そうですよ。私が彼の母親です」
予想はしていたが、彼女はあの小笠原純心の母親のようだ。
雰囲気は子供が豪胆なのに対して、母親の空気は何処までも優雅。瞳の色も異なるが、整った造形が似ていていた。
彼女はそのまま母親を挟んで、日菜の反対側にいる紗夜へと目を向ける。
「となると、そちらのお嬢さんが紗夜さんでお間違いないかしら?」
「!? 氷川紗夜です。今日からお世話になります」
呼びかけられた紗夜は慌てて挨拶した。
そんな彼女を莉那は興味深く眺める。
自分の息子が恋している相手だ。関心を持つのは当然だろう。
「遠目から見かけたことがあるけど、可愛らしいお嬢さんね。いつも息子が迷惑をかけてるようでかける言葉がありません」
「いえ、ご迷惑なんてとんでもありません。こちらこそお世話になってます」
「ご丁寧にどうも。そう言って貰えると此方もありがたいです」
粛々とした言葉に莉那は頭を軽く下げた。
子供でも礼節を忘れない仕草に双子の母親は流石だと感心する。今のところ評判と違わないようで子供を預けるのに安心した。
「では、息子のことは置いといて、今日は見学でよろしいでしょうか?」
「はい、その通りです」
莉那の確認に姉妹の母親が頷く。
指南所に通わせることは決めているが、教授している総てを習わせる必要もない。
今回は見学だけに留めておき、実際に習うのは見学で興味を持ったものを後日改めて行う予定である。総ての教えを請うことも可能だが、娘たちの母親としては最低でも礼儀作法は習わせたいと思っていた。
「では、順にご案内させてもらいますので、ご一緒にお越しください」
「ありがとうございます。ほら、行くわよ」
ここからは二人の手を離し、娘たちの後を追う形で母親はついて行くつもりだ。
何回か送り迎えをするつもりだが、実際に通うのは娘たちなので建物内も自分たちの足だけでしっかりと覚えてほしいからである。
母親に促されて、日菜は好奇心に溢れ、紗夜は緊張気味で莉那の案内について行った。
潜扉を抜けると外観からでは解らない宏闊な空間が広がっていた。
建物と建物の間は丸砂利の中に石畳の道が続いており、建物も門と同じように瓦屋根に汚れが見当たらない白壁。道の外れには綺麗な池もあり、日本庭園と呼ぶに相応しい眺めである。
古き良き、日本伝統の屋敷。
外来の文化を取り入れることへ抵抗のない昨今では珍しくなった、静謐な空間であった。
「入り口手前にある居舎の殆どが指南所であり、それぞれ異なるものを教えております。奥に行けば私たちが生活で住まう区域であり、立ち入り禁止なので注意してください」
「はーい」
「わかりました」
「良い返事です。指南する指導役は外部からの雇人もおりますが、殆どが小笠原の家の者たちが指導しております」
「ん? んんんん?」
「? どうしたの、日菜」
いきなり日菜の様子が可笑しくなったことに気づいた紗夜は彼女を訝しむ。
先程の説明で解りにくい場所などなかったと思うのだが、妹のことだから自分には気づかないことが気になっているかもしれないと勘繰る。
「大変だよ、おねーちゃん。つまりここはおがさーの家族の人だらけなんだよ」
「…………それはそうでしょう。彼の家なんだから」
これだけ大きな家であれば直系以外にも血縁が多いのは不思議でもない。
どうでもいいこと気にしたのだと解り、紗夜は呆れる。
そんな姉を余所に日菜は困った顔を浮かべた。
「これじゃあ、おがさーがって言っても誰のことは解らないよ! 既に似たような渾名があるかもしれない」
「気にする必要はないと思うわ。そもそも先生を渾名で呼ぶなんて失礼なのだし」
「私が気にするよー。よーし、今度からおがさーは獣殿と呼ぼう」
「獣殿って、また変な呼び名を勝手につけて」
「なんとなく、ぎにょるん、ときたんだよ」
「なによ、 ぎにょるんって。今まで一番解らないわ」
「獣殿ですか……」
そう反芻したのは話していた紗夜ではなく、彼女たちを案内した莉那だった。
「す、すみません。ご案内してくれているのに無駄話を」
「いえ、構いませんよ」
謝る紗夜をやんわりと流し、彼女は神妙な顔で頷く。
「獣殿……。黄金の獣と敬われ、畏れられている所以でしょうか。不思議と嵌る呼び名ですね。まるで誰かがずっと前にも既に呼んでいたような響きです」
立ち止まり、遠い目をする。
その仕草で彼女が己の息子をどの様に見ているのか、僅かだが感じ取れた。
産み落とした人間であっても、彼の存在を普通に扱えないようである。
同じ天才でも、日菜は両親に何処にでもいる娘のように接せられている。
良いことは褒め、悪いことは叱る。天才だと呼ぶこともある。変わった子だと言われるときもある。
だが第一に娘として扱っている。紗夜の妹として扱っているのだ。
妹が問題を起こせば姉の責任だと怒られる時もあるので、紗夜はそれが苦痛に感じている。
だが、遠い景色でも見ている青い瞳を見ると、天才だと妹を
「失礼を承知の上でお尋ねしますが、宜しいですか?」
「おや? なんですか?」
神妙な顔を向ける紗夜に何事かと莉那は首を傾げる。
「息子さんのこと──愛してますよね」
懇願の問い掛けたっだ。
どう思っているかの疑問ではなく、苦手なのかと悪意を曝け出す言葉でもない。
只、彼女がそうであって欲しいと願う言葉を求めた。
紗夜の言葉に僅かに驚いた莉那は、慈しみに満ちた、母親の顔を浮かべる。
「ええ、愛してますよ。総てを愛しているあの子が、私たち両親のことも他のものと平等に扱っていようとも、私にとっては特別な存在。私はあの子の母で。あの子は私の子供ですから」
「そうですか……」
それを聞いて安心したような顔を浮かべた紗夜に今度は莉那が問いかける。
「では、今度はこちらから質問しても良いですか?」
「え? なんでしょうか?」
「あの子の──純心の駄目なところを十個ほど言えますか?」
「え? 何故いきなりそんな質問を?」
戸惑う紗夜を莉那は面白そうに笑う。
「突然、ごめんなさい。聞かなかったことに──」
「一応言いますが。八方美人。加減知らず。負けず嫌い。頑固。陰険な部分もあります。自分のことを大した男じゃないと過小評価しています。なのに偉そうです。独善的。誰とでもスキンシップが多い。
なにより、何でも求められたら応えようとする困ったところ、でしょうか。
あっ! こうは言いましたが、私は彼を別に嫌っているわけでは──」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
請われたとはいえ言い過ぎたと焦る紗夜に、莉那は口元を袖で隠してくすくすと笑う。
「貴女はあの子を畏敬でも妄信でもない目で見てくれているのですね」
「言っている意味がよく解りません」
「あらあら、そこは年齢相応の感性なのですね。そこも安心しました」
「?」
言葉に引っかかりを感じる紗夜。
その様子を傍から見ていた日菜も莉那の態度が解せなかった。
「ねぇねぇ、お母さん。何で、獣殿のお母さんは獣殿の悪口をおねーちゃんに言わせて嬉しそうにしているの?」
「日菜も大人になったら解るわよ」
感慨にふける母に益々首を傾げる日菜。
天才と呼ばれる彼女であるが、他人の感情は難解のようである。
あの後、莉那の案内が再開して紗夜たちは主な施設を見て回る。
広い敷地内だけあって、見る場所は数箇所でも移動距離がそれなりにあった。
そろそろ双子たちが歩き疲れた頃、一際大きい建物の場所に案内される。
「では、ここが最後にご紹介する弓道場になります」
「弓道場ですか?」
ほんの少し疲労を見せていた紗夜の顔色が変わる。
弓道といえば、あの少年が羨望しているものだ。
「丁度この時間は射芸が始まるので静かにお願いします」
「あっ! つまり、弓を引くのを見れるってことだよね。楽しみ!」
時折、純心から弓道の話を聞いていた日菜も興味が引かれていた。
はしゃぐ妹の姿を見て、紗夜は呆れる。
「日菜、静かにと言われたばかりよ。中に入ったら、しー、だからね」
「うん。しー、だね」
何やらスパイにでも潜入するような仕草に大丈夫なのか不安になる紗夜だが、破茶滅茶な妹ではあるが公の場くらいTPOをわきまわえる常識は持っているはず、と信じたい姉だった。
「騒がしくされるのは困りますが、射手が皆中──持っている矢が二本または四本全てが的に中ることですね。その場合は、誰であっても 必ず拍手をしてください。
理由は単純に皆中することが困難であることであり、即ちできたら素晴らしいことだからです」
「わかりました」
「わかりましたー」
揃った返事に確認すると莉那は満足そうにした。
「ええ。そうしてくれるとあの子も喜びます。あの子のことですから、初めてでもやってしまうでしょう。あぁ、これはお恥ずかしいながら、親馬鹿になるのでしょうね」
「あの子?」
首を傾げた紗夜が心当たりを頭に浮かべる前に、莉那が答えを告げる。
「はい。今日はあの子、純心が初めて弓を引く日なのです」
この日に氷川姉妹が訪問するのは偶然だった。
純心が弓を引く日は前々から決まっており、氷川家の都合が良い日が偶然重なっただけだ。
しかし、その偶然を運命と認識するのは人それぞれの自由である。
莉那に先導されて妹と共にゆっくりと道場の中へ足を踏み入れた紗夜の目に映ったのは、束ねた黄金の髪だった。
風に吹かれて、光の束のように結った長い髪を揺らめかせるのは眉目秀麗の美丈夫。
胸当てを付けた白の胴衣に黒の袴。染めたものではなく自然の様で只一人輝く男。長い伝道を築いた道場の後継者にして、今日初めて弓を引くとは思えない誰よりも堂々した者。
名を小笠原純心であるが、少し前の彼の姿を知るものならばその変わりように驚くだろう。
紗夜と日菜も春休みに二、三度、会う機会がなければ仰天していただろうし、運動会の記憶しかなかった彼女たちの母親は目を疑った。
男子 三日会わざれば刮目して見よ、という言葉があるが彼は異国の血が混じっているせいか急成長をしたのだ。
ほんの一年前は尋常でない雰囲気はありつつも、身丈は他の小学三年生と変わらなかった。
しかし、今の彼は中学生ほど。もしかしたら高校生に間違われても可笑しくないほど身長が伸びており、前よりも精悍な顔立ちになっている。
ここは習い事の種類が女性受けするものばかりなので女性利用者が多く、前々から純心の美貌に見惚れているものは多かったが、成長した彼の姿に骨抜きにされた者たちは以前と比べ物にもならないほど増大した。
丁度、弓を引く寸前だった為、誰しもが彼に注目する最中、やって来た紗夜の存在に純心が気づいた。
視線を動かし、声は出さず紗夜に向かって微笑む。
彼の微笑を目撃した女性数名が失神し、弓道場の外に運ばれた。頻繁に起きることなので、大騒ぎにはならず、純心は平然と弓を構えた。
遠くで純心の横顔を眺めている紗夜は姿形は成長しても変わらないと思いつつ、やはり目を見張るほど変わった容姿に瞠目する。
少し前までは目線も同じであったのに、今は近くにいると見上げなければ顔を見れそうにもない。その顔もあどけなさを一切感じない大人なもの。
同い年とは思えず、その彼が自分だけを特別視しているとは、告白されて一年経とうとする今でも彼女は信じられなかった。
だが──。
一年近い時間は、彼女に心境の変化を一切齎さなかったわけではなかった。
何度か二人で出掛けた。言葉を交わしたのは数え切れない。関係を紡ぐには十分だった。
どういった気持ちになったかは、素直でない彼女は素直に表せない。
しかし、久しぶりに見た彼の姿に、
誤魔化すことが、それの冒涜にもなる。
「そうよね……」
誰しもが純心の弓に注目する中、紗夜は自分しか聞こえない小さな声を出す。
それは、まるで何かを認めるような、微かな響き。
異なるのならば、何故、あの聖夜に彼へ贈り物したのか。
異なるのならば、何故、幾度も彼の誘いに乗ったのだろうか。
異なるのならば、何故、ふとしたとき彼を思い出すのだろうか。
異なるのならば、何故、習い事で彼がいるこの場所を選んだのだろうか。
異なるのならば、何故、彼の母に問われたとき。すぐに駄目なところ言えたのか。
ドイツの詩人、ゲーテ曰く。
愛する人の欠点を愛することのできない者は、真に愛しているとは言えない。
愛していないと、言うのは簡単だ。けれども、今日は特別だから。
待ち望んだ彼が初めて自分の好きなことをできる、祝い日だと言い訳をして。
紗夜は矢を引く純心を遠くから眺めた。
彼の姿があまりにも美しくて、時が止まった。
その時が再び動きだしたのは、心の中で一つの感情が零れ落ちたから。
貴方に恋をしている。
そう、純心の矢が的を射抜いた瞬間、紗夜は心の中で呟いた。
余談①
紗夜さんのお父さんは紗夜さんと同じで犬が好きなので、お母さんを日菜ちゃん似にしました。
獣殿の母親が美人で驚いてるけど、二人の母親も美人です。紗夜さんと日菜ちゃんの母親だから美人じゃないほうが間違っている。
余談②
獣殿が放った矢は的を粉砕した。
余談③
「純心、今日から新学期ですか……」
「そうですが、母上。何か問題がありますかね?」
「ランドセルが全く持って似合ってません」