指南所の紗夜の服が隠された一件以降、それ以上の危害は彼女の身に及ばなかった。
相変らず嫉妬の目があるが、報復を恐れてか誰も彼女に手は出さない。
これは、あの一件以降結んだ沖田紗羽との親交も影響している。紗羽は男勝りな性格なため、些細な悪口も見逃さなかった。
お陰で紗夜は問題なく指南所に通っている。
そして、紗夜と沖田紗羽とは随分と仲良くなった。
互いの名前に同じ字を見つけて親近感を抱き、日菜も交じって、数度遊んでいる。
今日も練習帰りに、近くのコンビニでお菓子を買ってから公園でお喋りをしていた。
「すごいね、二人とも。毎回テストの点数が満点だなんて」
「別にそれくらい普通だよ」
紗夜からこの前あった学校のテストの話を聞いた紗羽の称賛に対し、日菜は素っ気なく返した。
三人一緒にいるが、別に日菜は紗羽に懐いたのではない。
大好きな姉が別の人と遊んでいるのに拗ねて、半ば無理やり交じっているだけだ。
「はぉ、さすが天才少女。言うこと違うね」
妹の態度に一言文句を言いたかったが紗夜だが、紗羽は軽く笑っているので押し黙る。
日菜の態度を紗夜は気にしたが、紗羽は別に気にしなかった。
曰く、懐いてない猫を靡かせるのも楽しいとのこと。
そういう大らかさは紗夜が持っていないところなので、素直に尊敬した。
「あっ、そろそろ帰る時間かな。そろそろ私は行くね」
時計に気づいた紗羽が帰り支度を始める。
夕方になる前だが彼女の家は遠いため、帰宅時間が早いのだ。
「……大変だね、遠くから」
「いつもご苦労さまです」
紗夜が労い、懐いてない日菜もこれには同情している。
紗羽の家は県を跨いだ随分と遠方にある。態々、遠方の小笠原指南所まで通っているのは親同士の付き合いだからだそうだ。
一度、遠くまで通うのは苦ではないかと紗夜が尋ねたことがあったが、自分が住んでいるのは田舎なので都会に近い場所に行けるのは嬉しいとのこと。
「よし。では、また今度ね!」
「うん、ばいばい」
ちゃんと挨拶をするあたり、日菜も徐々に気を許しているようで紗夜は安心する。
「お疲れ様でした」
紗夜も挨拶をして見送り、自分の変化を貴ぶ。
まさか、年上の女性とここまで親しくなれるとは思わなかった。
これも沖田紗羽の社交性が高いからであり、人付き合いが苦手な紗夜だけでは無理なことだ。
あの時、逆の立場であったら。紗夜は悪戯を見過ごさなかっただろうが、そこから被害者と交流を深めようとは思わなかっただろう。
紗夜は姉という立場であるが、もしも姉がいたらこんな感じなのかと想像するくらいには、彼女は紗羽に心を許していた。仮に日菜と立場が逆転しても、ああいう性格なので同じにはならないだろう。
変化といえば、変わらず純心との関係は進展なし。
会話もするし、嫉妬をされるくらいには仲がいいと思う。
しかし、紗夜は勇気が出せず、切欠も作れない。
かつては純心の悪癖を知りながらも、告白していった女性たちを愚かだと思った。
そんな過去の自分に、紗夜は恥ずかしくなる。
彼女たちは皆、後先のことは考えなくとも、告白する勇気はあったのだ。好意を受けながら応えられない臆病な自分よりも尊敬できる。
だが、分かっていても紗夜は動けない。
もう少ししたら紗羽に相談でもしようかと、燻ぶったまま月日は流れる。
紗夜に更なる変化が訪れたのは、純心が十本目の弓を使い潰した時だった。
「しばらく弓道禁止、ですか……」
「ああ、自分で買っても道場は使わせてくれぬようだ」
小学校の昼休み。昼食を終えた教室にて、自分たちの席に座ってやった取り留めのない会話でのことだ。
なお、誰かの作為的なものか、純心と紗夜の席は隣同士である。
純心が何本も弓を破壊した反省として、彼の母親から弓道禁止を言い渡された。幾ら自分の力に弓が耐えられなくても、そろそろ加減を覚えなさいと叱られたそうだ。
「別に家のじゃなくでも、違う場所で引けばいいじゃない」
紗夜を間に挟み、座って話を聞いていた日菜が気軽にそう言うと、純心は苦笑した。
「近所の場所でやっても、母上にすぐ知られる。そもそも、隠れてやる気などないさ」
「えぇ……、獣殿。あれだけ弓道楽しみにしてたじゃん。我慢できるの?」
日菜の言葉は紗夜も同感である。
純心が前々から弓道を好んでいたことを知っている姉妹たちは、加減知らず、我慢知らずの彼が平気なのかと訝しんだ。
「思うがままに行った結末だ。悔いはない。ゆえに後ろ暗く日陰で引くつもりはない」
憂いた表情を見せない純心を不思議そうにする日菜。彼女は我慢弱いので、彼の考えが理解できないのだろう。
逆に紗夜は仕方ないと思いつつも、純心らしいと納得した。
好意を自覚してから、彼に対して肯定的意見を持つことが多くなったが、絆された為に正当な判断ができていない訳ではない。
より深く惹かれたからこそ、彼の思想を理解しているのだろう。
「けど、お咎めがなくなった後でまた壊せば同じことの繰り返しではないですか?」
「だろうな。そうならぬ為に今度は手間をかけて頑丈な弓でも作らさせるさ」
「……一番、最初の弓が貴方に合わせて丈夫に作られたオーダーメイドだったと記憶していますが?」
「そうだ。あれが一番長持ちしたゆえ、それ以上を作れないかと考えている。それまでは廃棄処分行きの弓を道具屋で探し、使い潰すつもりだ」
「あははっ、それって毎回弓が壊れそうだね!」
「そんなことをしたらまたすぐに禁止されますよ」
常に悠然なる純心にからからと笑う日菜。二人に挟まれて呆れる紗夜。
昼休みのこの教室で定番の風景である。
そのまま放課後。
下校時刻になれば帰る場所が一緒の日菜は当然紗夜と一緒に帰ろうとし、純心が紗夜に一緒に帰らないかと誘うのが常だ。
それで途中まで三人で帰るときが多いが、偶に日菜が純心の同行を拒否するときがある。
純心がいると紗夜が日菜を構う時間が減るので、おねーちゃん分が不足(日菜談)している際は二人きりで帰ろうとするのだ。
すると純心は大人しく引き下がる。内心両想いとはいえ、互いの関係は友人止まり。姉妹睦まじい時間を壊してまで、無理矢理同行するほど彼は不作法ではない。
つまり、紗夜の下校は用事がなければ、二人に為されるがままだ。
そして、今回は用事がある。
本日は姉妹だけで帰宅するが、その前に紗夜は担任の櫻井に聞きたいことがあると言って日菜を職員室前に待たせ、丁寧に挨拶して入室する。
「失礼します。櫻井先生、少しお時間頂いてもよろしいですか?」
「うん? 大丈夫だよ。なんだい、氷川?」
突然の来訪に少し驚きつつも、紗夜の担任である櫻井は嫌な顔を一切見せず、優しく微笑んで出迎えた。
櫻井は基本的苗字で生徒を呼ぶが、兄弟、姉妹が同時にいる場合は名前で呼ぶ。今回は紗夜だけなので氷川と呼んだ。
「以前、先生の実家が鍛冶師だった話をされましたが、お間違いないですか?」
「そうだね。祖父の代で終わったけど」
それは偶然、櫻井がクラスメイトの男子と会話しているときの話だ。
盗み聞きするつもりもなかったのだが、男子生徒たちが五月蠅かったので紗夜が注意すると、いつの間にか会話に彼女も交じっていたのだ。
曰く、彼の祖父はとても腕の良い鍛冶師であり、実家の倉庫には彼が鍛えた刀剣類。資料で集めた武具が数多く存在するらしい。
祖父が他界した後、武具の幾つかは博物館へ寄付したそうだが、まだ倉庫には武具が残っており、それを聞いた男子生徒たちが見たい欲しいなど騒いだのだ。
櫻井は危ないから見るのも却下したが、それを踏まえた上で紗夜は話を持ちかける。
「まだ実家の倉庫には幾つか処分待ちの道具が残っているそうですが、その中に要らない弓はありますか?」
「弓かい?」
紗夜の言葉に少し驚いた櫻井だったが、すぐ納得したように頷く。
「いくつかあるね。殆どが試しで作った粗悪品と資料価値もない骨董品だけど。
氷川は小笠原の道場で弓道を習ってるね。そのためにお古が欲しいのかい?」
「いえ、私ではなく、彼、小笠原さんの分で……」
「小笠原の分? 弓道もしている実家なんだから、自分の弓は新品を既に持っていると思うけど」
「彼、弓を壊してしまって。今度はより丈夫なものを準備するそうですが、その間に使う、壊れても平気な古い弓を探しているそうです」
弓が壊れるなど乱暴に扱わなければないことだが、体育での純心を見れば彼がどう壊したのか櫻井は容易に想像できた。
「……話は分かったよ。つまり、要らない弓を小笠原に譲ってもらえないかと、そういうことだね?」
「図々しいとは承知ですが」
「別にそこは構わないけど。なんで小笠原じゃなくて氷川が頼むんだい? 彼が使う分だろ?」
「彼にこのことを話す前に、実際譲れるか確認するほうが先だと思ったからです」
「期待して落ち込むような人じゃないと思うけど。なるほど、氷川の言いたいことは分かった。
つまり君は、小笠原のためにお願いしてるんだね」
改めてそう櫻井に言われた紗夜は戸惑う。
確かに彼女の行動は純心のためであるが、はっきり言われてしまうと反応に困った。
「……そうですね。あの人には普段、何かと良くしてもらっているので。少しは助けになりたいと……余計かもしれませんが」
紗夜は一つ一つ言葉を出す度に苦しくなった。
自然にやったことだが、今は打算で行動しているように感じ、自分で恥ずかしくなる。
そもそも、紗夜が動かなくても純心は一人で勝手に解決するだろう。
尤もらしい理由をつけて世話を焼くのは烏滸がましいのではないか。
「余計なことでも、悪いことじゃない」
彼女の苦悩を見透かしたのか、櫻井は強く言う。
「余計でもいい。打算でもいい。大事なのは相手を大切に思っているかだと僕は思う」
「先生……」
「難しく考えるのは氷川の悪い癖で、良いところだ。だから今回は彼の助けになりたい、それだけを考えればいいと思うよ」
櫻井は優しく微笑んだ後、机にあるカレンダーを一瞥して予定を確認した。
「予定だと今週末には寄れるな。うん、弓なら来週にでも持って来れるよ」
「え? いいのですか?」
「お願いしたのは君だろ。どうせ処分に困っていたものだし、捨てるくらいなら壊れても使ってもらったほうがいいさ。僕も整理できるし、小笠原も助けになるし、一石三鳥だね」
「そこは一石二鳥の間違いじゃないですか?」
「君も得するだろ? これでもっと小笠原と仲良くなるかもしれない」
下世話と承知の上で櫻井が言った途端、紗夜は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
青春だな。そう思う自分が歳なのだからだろうと櫻井は自虐した。
このまま独り身でいるかと彼は妹に心配されているが、最早手遅れだろう自答する。
剣の道。介護の道。どれも惹かれたのは間違いないのに、今は教職でいる自分はきっと優柔不断なのだ。これでは誰も寄り添ってはくれないと思い、しかし、無念ではない。
自分で選んだのだ。こうやって子供を導くことは彼の中で本望だった。
妹には文句を言われるだろうが、生涯仕事一筋なのも悪くない。
そんな教師、櫻井戒だが数年後、異国から来た女子高生に言い寄られることになるのだが、今は関係ない話である。
数日後。櫻井は約束通り、弓を持ってきた。
布に包まれた弓は何でも昔、神の使いを射殺したという曰く付きだそうだが、価値を高めるだけの与太話だろうと、持ってきた櫻井も笑っていた。
しかし、虚偽とはいえ、大層な曰くを与えられるくらいには見てくれは立派な弓である。少しだけ布を剥がすと、中から白銀のような輝きが見えた。
とても廃棄に困った品とは思えないが、博物館に引き渡しては何故か出戻りを繰り返しているので、貰ってくれたら助かるとのこと。
放課後に紗夜は櫻井から弓を受け取ると、早速、純心に届けることにした。
純心は家で少し用事があるため既に帰っており、いつも紗夜についてくる日菜は何とか一人で帰らした。妹の前で渡すのは恥ずかしいからである。
両手で布に巻かれた弓を持った紗夜はゆっくりと純心の家に向かう。
……やっぱり、重いですね。
移動が遅いのは手に持った弓の重量ゆえだ。成長しても紗夜には片手で扱えるものとは思えない代物である。
受け取ったとき、紗夜が苦しそうにしたので櫻井が届けるのを手伝おうとしたが、彼女はせめて自分の手で渡したいと言い張った。
何度か休憩してから、ようやく紗夜は純心の家である小笠原指南所に辿り着く。
入口に向かうと、丁度外出するところだった純心の母、莉奈と遭遇した。
彼女に小笠原さんはいますかと尋ねると、今は稽古の休憩中なので声をかけたらいいと、快く屋敷に招いた。
一か月以上通えば紗夜一人でも迷いなく歩ける。踏み入れていない場所も多いが、純心がいる場所は何度か足を踏み入れた茶道場なので問題ない。
擦れ違った人間に挨拶しながら少し歩くと、目的の場所近くまで辿り着く。
あっ……。
心の中で紗夜は少し驚いた。
丁度よく外で休憩中だったのか、袴姿の純心を見つけたのだ。
建物と景観のため植えられた木々かの隙間からだが、あの金色の髪は遠くからでも目立つ。
向こうは気づいてない様子なので、声をかけようと更に足を進めると、純心の傍で別の人間がいるのを見かけた。
沖田さん?
何やら沖田紗羽が純心と話をしている。
紗羽が弓道をしており、これまで二人が会話しているのを何度か見たことあるので珍しい組み合わせではない。
ただ、彼女は遠方に住んでいるので、稽古する日以外で道場にいるところは初めて見た。
会話の邪魔をしたら悪いかと悩んで、紗夜は一旦立ち止まった。
すると、徐に紗羽が純心に近づき、そのまま彼の体にしがみついた。
「え───」
紗夜は声を出して、立ち尽くす。
現状に思考が追い付かず混乱する彼女を他所に、紗羽は純心に口づけをした。