Episode ─Ⅰ【黄金の獣】
人の記憶というものは曖昧なものだ。
一番古い記憶は何かと尋ねられ、母から生れ落ちた瞬間と答える者はどれほどいるだろうか。
胎児の頃から記憶がある。そんな人間も探せばいるやもしれない。
だが、多くの人間は主に強い記憶を残し、それ以外の記憶は色褪て、忘失する。
例えば、生涯忘れないほどの初恋ならば、死んでも覚えているだろう。
ある男は、初めて人を殺したときが忘れれず、猟奇殺人を繰り返している。
彼の家は小笠原流日輪派指南所という道場を営んでいる。
原型は室町時代中期、小笠原氏家伝の故実。小笠原流と呼称される流派は歴史上いくつか存在し、彼の家のもその一つ。
教えるものは一つではなく、茶道、礼儀作法、合気道、琴、弓道の五つ。主にやんごとなき家柄のお嬢様が学ぶ習い事が詰め合わさった場所であり、彼が弓と出会うのは至極当然であった。
──ずっと、忘れることができない。焼きつかれた景色。
雲ひとつない晴天の下、誰かが射った一本の矢が的中した。
場所が何処だったのかは、純心には解らない。
実家にある道場なのか、あるいは別の道場だったのか。
赤子の頃、親は純心を家に一人させぬよう、出かける際には可能な限り連れて回ったそうだ。
よって、彼が記憶している射がいつの頃だった、それは彼自身にも解らぬこと。
ただ、無音に一つ。叩くように矢が刺さった音が、頭から離れない。
これが切っ掛けで弓に魅入られたのか。彼は物心ついた頃に既に弓の稽古をしていた。
家芸を習わさせる運命であったが、聞くとことによると彼は稽古を嫌がったことはなかったそうだ。
「なんにせよ、あの日の一射が、私に大きな影響を与えたことには違いあるまい」
でなければ、これほどまでに記憶に焼きつくわけがないのだから。
あの一射を思い返す度に、彼はそのように呟いている。
未だ、十七の身であれど、あの一射は果てるまで忘れぬだろう。
ならば、未来永劫自分の中に刻まれた軌跡なのだろうと、彼は思う。
そう、あの時と同様に……。
始まりは、教育者の間では小学3年生は『魔の学生』と呼ばれている年頃だ。
この頃になると学ぶ勉強が急激に増加し、自然と子供たちの間で『競争心』が芽生える。
学内という閉鎖空間にて明確な差が出来上がるのだ。
テストの点数。運動の成績。
自分はあの者よりも上等であり、あれは己よりも劣等。
このような区別思想は人間関係に大きな軋轢を生むことに繋がる。
無論、競争心を煽ることは成長を促すこともあろう。だが、まだ一桁の歳しか経てない子供全員に反骨心を持てというのは酷な話だ。
よって、その頃になると学校側は様々な対策を取ることが多い。
場所により様々だが、競争心を極力生徒に促さなくなる場所。あるいは仲の良い人間を集めて、けして孤立させないよう配慮している所も存在する。
その学校は
これによりクラス間の争いで、容易には覆されない優劣がつく。
テストの総合成績。運動の成績。一番はいつも同じクラスである。
常に勝者は決まっており、定められた敗者はその枠組みから逃れられない。多少の研鑽を積んだところで、その差は埋まらぬのだ。兎がどれ程爪を研ごうが、獅子を殺すには至らないように。
差別による軋轢を避けた思索が、圧倒的な格差を生み出したわけだ。
当然、妬みは生まれる。蔑みは生まれる。何故自分たちだけと。
しかし、そのような不満は些細なことである。
一部の合同参加を除けば、普段から同じ場所で過ごす人間関係を良好にするのが重要だ。
正気であれば兎の檻に獅子を混ぜたりはしない。すれば惨劇が目に見えている。
実際、同レベルが集まった閉鎖空間、教室で争いは少ない。仮に問題が起きれば教師が即座に対処するのだ。
別のクラスへ劣等感を抱く者たちが多いが、更に遅かれ早かれ競争社会に踏み込まなければならない。早期の段階で意識させるのも教育の内である。
しかし、想定外は常にあるものだ。
仕組みを作りだした者たちにとってソレは想定外であった。
そのクラスは
即ち、勝ち組。常勝を約束された栄光の集団。
二年の歳月で振るいにかけられた将来を期待される子供たちだ。
いずれは宝石になるやもしれない原石、あるいは既に宝石になっている者もいる。
だが、幾ら磨かれた宝石とて、己で輝きを放つ光の前では総じて存在を見失う。
新たな学生が始まる日、最初にその少年が立った。
理由は出席番号の一番と単純な理由。
それでも、彼こそがこの場の首魁であるように忘失したような瞳で皆が凝視している。
空いた窓から流る風で漂った鬣の如き黄金の髪。豪気を秘めた王者の瞳も黄金。
妖艶であり苛烈であり、尊厳で華美あり、この世で誰よりも眩い黄金の輝き。
生まれる世界が違ったような、屈服せざるえない光の童子。
「私の名は小笠原純心」
このクラスに、あるいは世界の総てを慈しみながら己の名を告げた。
日本男児の名前だがその容姿は明らかに異国の風貌。祖父がドイツ人のクォーターであるがこの地に住まう地を一切感じさせない。所謂隔世遺伝というものだ。
「──
慰撫するように少年は呼びかける。
まるで麻薬のような声だ。未成熟な子供声であるが万人を酩酊させる響きである。
強いカリスマ性を持つものが要する魅力。この少年はまだ十にも届かない歳でこの魔性を所持していた。このまま成長すれば其処に存在するだけで主導者となる逸材だ。
「臆するな。この身は卿らと変わらぬそこいらの童子に過ぎぬ。多少、見た目や口調が変わっているがそれは生まれや育ちによるもの。その様に畏縮することはない」
冗談なのだろうかと誰かが引き攣った笑みを浮かべた。
彼の実家は異国の血を混じ合わせたが古い名家。仰々しい言葉遣いはそれ故、らしい。
だが、そんな事情を聞こうが本人から臆するなと言われようが、無理な相談である。
始まりはその容貌で。次にその所業で。彼は入学して瞬く間に存在を知らしめた。
黄金の獣。
光の天才。
絢爛の君。
彼を飾る言葉はどれも眩しいものばかりだった。
態度が変わらぬ周囲に少年は落胆、することはなくそれも良しと思う。
「では、これから良しなに頼む」
その言葉を最後に席に座った。
周りの視線など今更だった。無理に変えようと思わないし、己自身が周囲に合わせることもしない。
ありのままの自分で今生を謳歌する。それが小笠原純心の姿勢だ。
彼の自己紹介が終ったものの彼から視線を外すものはいなかった。凍りついたように止まった教室を動かしたのは苦笑を浮かべた担任教師である。
彼は純心の存在に圧倒されていたが、それでも周囲ほど影響は受けていない。彼の言葉よって次の者が自己紹介を恐る恐るし始めた。
それでも、他の者が語る言葉など良くて片耳で聞く程度。多くの者は未だ純心に注視している。
『彼女』がいなければ、純心は一年間周りの視線を独り占めにしただろう。
「
味気ない自己紹介を一人の少女がした後。
「氷川
先程の少女と同じ顔をした少女が快活に声を上げた。
説明するまでもなく、先に自己紹介した者との関係は明白。
双子。中身は違うが、顔は瓜二つ。好奇心旺盛の年頃には物珍しさの塊。容姿も愛らしいければ目にも留まりやすい。
そして氷川日菜という少女は純心と同様に噂になっていた。
天才少女。
理解不能女子。
波乱の姫。
最初の呼び名以外で彼女が周りからどの様に見られているか理解できるだろう。
純心は存在事態が異常だが、その行動は常道。
逆に氷川日菜という少女は行動が異常なのだ。
成績は天才と呼ばれるだけあって優秀。テストの成績は満点であり、噂では偏差値80超え高校の入試問題を試しで解いてみたら全問正解した。
だが、彼女の目立つのは何よりその行動。時には周りから引かれてしまうような言動をするのだ。
授業中教師のケアレスミスを指摘するのは当たり前。それで怒らせるどころか泣かせたこともある。
ゆえに理解不能女子。彼女と意思疎通ができるのは双子の姉だけだと囁かれている。
もっとも、小笠原純心に置いては氷川日菜も周りと同じだ。
純心にはとって天才とは星のようなもの。見ようと思えば簡単に目に付く存在。
所詮その程度。輝いてる存在にしか過ぎない。
見ようと思えばテレビや雑誌なので幾らでも見られる。特別興味を抱くほどでもない。
そもそもな話、彼も天才といえば同類。実家の習い事も最初から覚えてたかのようにすぐこなし、テストも当然満点。
ゆえに彼はその天才やその姉も他の同輩と同じようにしか見てなかった。
「ねぇねぇ! 君の家って道場してるの?」
しかし、自分が特別興味なくても、向こうが興味が話は別だ。
開口一番、氷川日菜が小笠原純心に放った言葉は好奇心で一杯だった。
三年生初めの授業が終わった途端、日菜は純心の元へやってきたのである。
日菜にとって大抵のことは何でもやれるため、常道とは掛け離れたものには敏感だ。
ゆえに日菜が純心に近づくのも必然。自己紹介で彼は実家が道場を営んでいることは語っていないが彼の素性は有名であり、それは日菜の耳にも入ってきている。
そして、彼らの会合は周囲の人間からも注目されていた。
「あぁ。合気道、礼、茶、琴、そして弓を教えている」
突然やって来た日菜に対し、純心は一切驚かずさらりと答える。
話したこともない相手にいきなり話しかければ大抵の人間が警戒や驚くだろう。
だが、純心は一切動揺したことはない。
初対面の人間に気後れする可愛らしい側面など生まれる前からないのだ。
尋ねたきた日菜はというと解っていなさそうに首を傾げている。
「ユミ?」
「弓道と言えば解るかな?」
「あっ! もしかして、プリセラのレンカちゃんがしてたの? ビュンとしてバシっとしたの」
日菜が例えたのは日曜日の朝に放送されているアニメのキャラクターである。
レイカというキャラクターは弓道部に所属しているが、純心はそのアニメは知らなかった。
しかし、日菜が言いたいことは理解し彼は首肯する。
「レイカなるものは知らぬが、間違いないだろう。卿の表現は、私が知る弓の趣と合致している」
「うわぁ! すごいね! 君もバビュンってできるの?」
バビュンと擬音と言われたが、射芸のことだと純心は察した。
期待に満ちた表情の前に、純心は首を横に振るう。
「いや。私は弓を引いたことはない」
「え?」
「体が出来ていない内は親が握らせてくれなくてな。作法や他の稽古を今は励んでいる」
幼い体の内は、骨が形成されている途中であり、そこに強い力が加わると歪曲する危険がある。
そのため、弓道を始める時期は体が出来上がってきてからだ。
中には小さい頃から大きな体で弓道を始めている人間もいるが、まだまだ成長すると見越されている純心は親から弓を引くのを禁止されていた。
「ふーん、そうなんだ」
「無理をして体を壊してしまった方が大事だからな。楽しみは後でとっておくよ」
「あれ? 君は弓が引けないのに、弓道が好きなの?」
日菜の疑問はある意味当然だろう。
やったこともないことを好きだと言うのは、聊か性急過ぎるのではないかと。
しかし、純心ははっきりと答える。
「好きだな。でなければ、こうも弓を引ける日を一日千秋の思いで待ってはおらん」
今はまだゴム弓で型しかできない。稽古が終われば他人の射を眺めるばかりの日々。
だが、二、三年後には必ず自分で的を射抜く。その日を彼は心待ちにしているのだ。
「へー! できないことなのに好きなんて、君って可笑しいね!」
周囲の空気が凍った。
言葉だけ聞くと相手を馬鹿にしたようにも捕らえられる。偶然、耳にしていた周りのクラスメートたちは彼女の発言に大層驚いていた。
羨望を蔑ろにした、あまりにも無神経な言葉と受け取られても不思議ではない。
しかし、当の純心は気にした様子もなく微笑んだままだ。
彼は日菜に悪意はないと感じ取ってる。仮に悪意があっても変わらず今のように笑っている。
「私が変わり者なのは自覚している。だが、それが私だ。変えるつもりもないし、変わる気もない」
「ふーん、やっぱり君は変わってるね。他の子とは違うな」
またもや無遠慮な発言。やはり気にした様子もない純心。
むしろ、純心は日菜の反応が好ましかった。
多くの人間が未だ経験のない弓を好ましいと言う純心に対して、取り繕うような反応をする。
正面から棘のある言葉を突き刺さないのは、良心的な態度の一つだ。
しかし、日菜にはそれがない。
在りのまま感じたことを、隠さずに表現している。
裏表がないのはいい事だが、これでは余計なトラブルを生むに違いない。
純心も理解してる。しかし、それを諭すつもりはない。
逆に、日菜のあり方は一つの魅力だと、寛容に受け止めた。
ならば、触れずに慈しむこそが、唯一許される行為だろう。
「それは光栄だ。家はともかく、私自身はこれとて詰らない人間だからな。卿のような女性にそう言われるのは男冥利に尽きるだろう」
口角を更に緩め、微笑みながらそう紡ぐ、純心。
改めて、純心の容姿について説明しよう。
彼は生まれも育ちも日本であるが、顔の造形は西洋人。
慎ましやかな色香が漂っており、整った美顔。十代未満の童が持つ、特有の純粋さの中に秘めた大人びた風貌。
このまま成長すれば、多くの貴婦人を魅了する美丈夫になる。
安易だと弁えて言うならば、眉目秀麗。
彼に軽く微笑まれれば、大抵の女子は頬を赤くして狼狽するものだ。
「あはは、君は全然子供ぽくないね。学校で習ってない言葉を沢山使うし、やっぱり可笑しい!」
だが、日菜はその辺りの女子たちとは感性が違った。
愉快に笑う日菜と同様、純心も心なしか楽しそうであった。
「それは卿もだろう? 癖ゆえ自然と出てしまうが、私の言葉は同輩には難解のようだ。それを理解している時点で、卿も同類だ」
「かもしれないね」
互いに以心伝心したところで小休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「おっと、授業だ。じゃあね!」
やってくる時も急ならば、去るときも急。
授業が始まるので慌しく自分の席に戻るのは当然ならが、日菜は純心の反応を見ずに去った。
純心は授業の準備を整えながら、自然と先程まで会話した日菜がいる場所を目で追う。
日菜は自分の席に戻った途端、純心と話しているときとは比べ物にもならないほど楽しそうに、隣席の双子の姉、紗夜に話している。
そんな妹に姉は授業の準備をしなさい。静かにしなさいと注意しながらも妹の話を聞いていた。
──優しい姉だな。
会話もしていない相手を純心はそう評価する。
先程も純心が日菜と会話している最中、ずっと紗夜は妹を気にかけていた。
見るからに自由奔放な妹ならば姉も気苦労するだろうが、嫌っているようには見えない。
事実、日菜の問題発言に周りが驚く中、彼女だけは日菜を心配そうに見つめていた。
日菜の性格ならば、当人にその気がなくても反感を買ってしまうのはよくあるはずだ。
妹に助力するのが姉なの役目か紗夜は終始、純心と日菜の会話を見守っていた。
そんな彼女の視線を感じ取っていた純心は、先のように紗夜を計り、美しき姉妹愛と尊んだ。
だが、抱いた感想はそこまで。
彼はそれ以上に彼女たちを興味を向けなかった。
教師が教室に入ってきたことで始まった授業に意識を傾ける。
これ以降──純心が彼女達を触れ合う機会は必要最小限のものだった。
偶に日菜の方から純心に話しかけることはあっても、基本的に彼女は姉から離れようとしない。
純心に到って、必要でなければ自分から話かけることはなかった。
姉の紗夜に関しては、挨拶しかしていない。
ただのクラスメート。その程度の関係。
そのような味気ない人間模様に色を生じたのは、しばらく経ってからだ。