上達(誤字を失くす)にはそれしかない。
鹿威しの音が閑静な和室に響く。
場所は老舗料亭の個室。
彼女がいれば、静かではなかっただろうが、今回はいないほうが正解である。
今は只、張り詰めた空気だけが支配していた。
時は、紗夜が
その間、紗夜は純心の実家から学校に通っており、学材は彼女がやって来た次の日に何処からか一式準備されていた。
手配したのは、紗夜の恋人である純心。
紗夜の通う羽丘女子学園と彼が通っている風代学園は兄弟校であるため、教材も同じなのだ。
即ち準備するのは容易いと言ったのが純心の言葉だが、昨日の今日で準備できているのはやはり異常である。
しかし、そのお陰で紗夜は普段通り学校に通うことができた。
学校では、気まずそうにしながらも日菜が接触しようとしたが、紗夜は悉く避けた。
二人の関係が悪化した時点で紗夜は日菜との接触を極力避けていたので、傍から見れば普段の通り、仲の良くない双子と認識されている。
そんな日々が続く中、紗夜は純心から自分の両親が彼女に話したいと伝えられた。直接、紗夜から連絡が来なかったのは、彼女が実家からの連絡を無視していたからだ。
以前では考えられなかった反抗的な彼女に氷川夫妻は困惑し、小笠原の家に何度か連絡した末での
この場を設けた純心は紗夜をこの場に送り届けた後、別室で待機している。
話し合いは、紗夜とその両親のみ。
あの日、娘を連れ去った男も同席するだろうと思っていた氷川夫妻は、正直内心安堵している。
夫妻は自分たちの年齢を半分にしても届かない少年に畏怖の感情を持っていた。
規格外の存在は己たちの娘で慣れていたと思っていたのは、二人の勘違い。
自分たちの想像など遥かに凌駕した存在に、自分たちの娘は見初められたようだと今更嘆いている。
「……小笠原の家には随分と良くしてもらっているようね」
「……えぇ」
紗夜の後で両親がこの部屋にやって来て、久しぶりの挨拶を交わしてから数分後。母親からの質問に対し、紗夜は簡素に答える。
言葉だけでなら嫌味にも聞こえなくもないが、母親が浮かべる感情は安心と寂しさが入り混じったものだ。
「私たちは寂しかったわ。日菜は特にね」
「…………」
妹の名前を出した途端、紗夜の瞳が冷気を纏うのを母親は感じ取る。
胸に走る痛みに、表情が崩れそうなのを何とか抑えた。代償に言葉が続かなかったが、代わりに父親が口を開く。
「家に帰ってはくれないか……」
「────」
娘の無機質な目が向けられた。
訪れた反抗期。むしろ周りからすれば遅かったかもしれない。
しかし、来るべくして来たのではなく、自分たちが招いた事態と両親は考えた。
「お母さんと二人で話し合ったよ。私たちは随分と紗夜に負担をかけてしまった」
母親と父親は今までのことを省みて、紗夜を蔑ろにしていたのではと気づく。
愛してなかったわけでない。
ただ、双子という立場だから、日菜と同列に扱い過ぎた。
同じ子供だからと、分け隔てなく接したのがそもそもの間違い。
同じ娘で、同じ日に生まれた双子であるが同じ存在ではない。
日菜は日菜で、紗夜は紗夜なのだ。
紗夜が周りから見ても優秀だったので、天才の域の日菜と同じ場所まで行けることが当たり前だと思っていた。実際、小学生の頃は今ほど差がなかった。
しかし、中学に上がり、何かと双子の差が目につく機会が増え、その度に不甲斐ない姉と諫めた。
結果しか目もくれず、紗夜の努力に見向きもしなかった。
後に知る、紗夜が結果を出せなければ努力は総て無駄だと思うようになったのは、間違いなく自分たちの責任である。
母親は紗夜が家を出た後、整理の為、彼女が残した勉強ノートを見た。
怨嗟と感じるほど、端から端まで書き綴ったノート。それを見て何も思わないはずがない。
少し考えれば、分かったはずだ。
もしも、紗夜が憤りを発露していれば、今回のような事態にはならなかったかもしれない。
だが、そんなことはなかった。紗夜は誰にも打ち明けられず、耐え忍ぶ日々を繰り返していた。
あの日、純心が垣根を破壊してやって来なければ、家族間は修復できない状態まで壊れただろう。
「すまなかった。だから、家に戻って来てくれ」
そうやって、父親は頭を下げる。
紗夜の無機質だった目が、驚きと狼狽に変わった。
親が子に頭を下げるなど、親の自尊心で簡単にできるものでない。
「頭を上げて、お父さん」
紗夜もこれ以上見たくなかったので、おもてを上げるよう乞う。
あれだけ苛立ちを募らせた相手の謝罪を見ても、いい気味だと思わず、ただ、悲しい。
両親が傲慢な態度をすれば、一生家に戻らない覚悟もしていた。
けれども、二人が自分にしたことは一生忘れそうにもないが、恨み続ける程は両親を憎み切れていないようだ。
「分かった。家に帰るわ」
ほっと、緩みかける両親を見て「でも──」と、紗夜は言葉を続けた。
「日菜とは前のように仲良くできない。学校も別にしたいし、部屋だって分けてほしい」
父親は顔を曇らせたが、少しの間を置いて頷く。
「分かった。すぐには無理だろうが、そうしよう。双子だからと言って、一緒にし過ぎたのが今回の過ちだからな。日菜からは私から説明しておこう」
どれだけ邪険にされても、昔から変わらず姉を好いている日菜を説き伏せるのは苦労しそうだ。
しかし、今の状態で本人同士話し合わせるのは更なる軋轢を生みかねない。
今度は日菜から恨まれそうだが、親の責任として受けることにした。
「…………。えぇ、お願い」
求めていた回答であるはずなのに、紗夜の顔は緩むことはない。
それが一縷の希望に見えた父親は、微笑みを苦渋で塗りつぶし、徐に立ち上がる。
「では、父さんは純心くんと少し話したいことがあるから、席を外すよ」
「純心くんと?」
「男同士、必要な話し合いがあるのだ。では、行ってくるよ」
疑問を持つ紗夜に恰好をつけてはみたが、実際、純心と一対一で会話するのは気が引ける。
しかし、これは父親としての責任であり、家長としての役割。逃げるわけにはいかないと、震える足を動かす。
心配そうにする妻に見送られて、父親は純心が待機している別室に向かった。
「失礼するよ」
予め言われた場所の襖をゆっくりと開くと、縁側で酒でも飲んでいるかのようにお茶を啜る純心がいた。
金色の髪を靡かせて和室に君臨する様は、異国からの侵略者にしか見えない。日本人でまだ中学生など、実は嘘だったと言われたほうが信じられる。
紗夜の父親の来訪に、黄金の瞳が動く。
まるで、獅子の檻にでも踏み入った気分だ。
純心といえば、相手は恋人の父親だというのに尊大な態度を崩しはしない。
「紗夜は、家に戻ることになったよ」
カラカラになる声で、何を言おうか迷った彼は、一番言わねばならぬことを口から出すことに成功した。
「そうですか。では、荷物はこちらが後で届けましょう。紗夜が望むなら、今日はそのまま三人で家に帰れば良いでしょう」
言葉だけなら丁寧だが、妖艶な声は押し潰してくるようで重い。
しかし、重圧を受けながらも、安々とした態度に紗夜の父親は怪訝する。
「あっさりしているね。半ば強引に娘を連れ去った男の言葉とは思えないよ」
「紗夜が貴方がたと共に過ごすと決めたなら、そうするべきでしょう。いずれ娶ることは決まっている。最後に私の隣にいればそれでいい」
最早、結婚することは何人も覆すことができない決定事項のようだ。
思わず、紗夜の父親は苦笑いを浮かべる。
まさか、こんなに早く娘の一人を取られるとは思わなかった。
「本当に君は中学生なのかい? それと、私たちが紗夜を無理矢理連れて帰ろうとしているとは思わないのかな?」
「その時はまた連れ去らうのみ」
当然のように宣言する純心に、紗夜の父親は全身から冷や汗をかく。
「……………紗夜はとんでもない相手に好かれたものだ。二人が長年付き合っているのは知っていたのに、交際相手を正しく理解できなかった。
いや、私如きが君を推し量れるのは烏滸がましいか……。
自分の娘たちですら、ちゃんと分かってやれなかったのに」
「だが、光明はありましょう。気に病んで改善できるなら、間違いを正せる力が卿にはある証拠ですよ」
純心の言葉はまるで遥かからの先人からのようで、紗夜の父親は思わず耳を疑う。
「何度も疑ってしまうが、君は本当に紗夜たちと同い年なのかい? まるで、何倍も年上を相手にしているようだ」
「老骨だと自覚はありますよ」
「ひ─────、申し訳ありません!」
ぎらり邪悪な笑みにビビる紗夜の父親。
「何故ここにきて畏まるのですかね? 娘の婿だ。我が子のように接しても構いませんよ」
「それ自分から言う?」
無理な話だ。自分の子は母親に似て天使のように可愛い双子の娘だけ。
変な空気が流れたことで、少し我を取り戻した紗夜の父親は純心に尋ねることを思い出した。
「…………あと、君に尋ねたいのだけど」
「何ですかな? 結婚は大学卒業してからだと考えています。私としては年齢が達したらすぐにと考えておりましたが、紗夜の希望がそうなので」
「え、そうなのかい? それでも随分早いけど、君は既に稼げるし収入面は問題ないのかな。ではなく───君は、紗夜を苦しめた私たちや、日菜を悪く思ってないのかい?」
「いいえ、全く」
それこそ、純心からすれば当たり前の返答。
純心は総てを愛している。
家族の問題で恋人が苦しんでいると解っても、彼がその周囲に苛立ちを募らせることは微塵もなかった。
紗夜は唯一無二、恋しい女。それを傷つけるものは断じて許さないのか?
否。
そんなことはあり得ない。彼の愛はその程度では一切揺るがない。
仮に、恋人が殺されても、怒りはなく、ただ
「私は卿等が以前のように紗夜を扱おうとも構わない。それが卿等の在り方であり、私はそれを愛そう。紗夜がそれで傷つくならば、傷ついた紗夜を愛でるまで。
日菜が紗夜を追い求め、苦しめても構わない。それが、氷川日菜という在り方であり、それを愛している。紗夜がそれで藻掻き苦しむのであれば、私の口付けで息を吹き返そう。
それが我が愛であり、恋だ」
愛する総てが恋する女を苦しめるならば、総てを愛した上で恋した女を情欲で染める。
あぁ、傲慢で、業に塗れた愛なのだろうか。
「─────」
戦慄が迸る。
やはり、目の前の存在は自分如きが推し量れる存在ではなかったっ!
娘はこの男の本質を知っているのだろうか。
いや、昔、自分が付き合っている男性のことを紗夜が話してくれたことを彼は思い出す。
私の恋人は総てを愛している。
その時、単なる博愛主義だと思っていた自分が愚かだった。
これはそんな生易しいものではない。歪で壊滅的な輝きだけで焼かれる何かだ。
正直な感想を語るならば、こんな存在は関わるべきでない。
しかし、この存在と自分の娘の繋がりを見れば一目瞭然で二人が自らの意志で離れることはないだろう。
娘との繋がりを断てば、金輪際関わることもないだろうが、それができるほど、彼は薄情でもなかった。
あぁ、どうか世界が優しくありますように。
そう、まるで女神にでも抱擁されているかの如く。
そうであれば、この黄金の獣も大人しいままであろう。
凡人な男できることは、そう祈ることだけだ。
「では、戻るとしますか。店に頼んだ軽食があります。それを口にしながら、今後のことや紗夜の昔話でもしましょう」
「……………、あぁ、君に従うよ」
ぎりぎり正気を保った瞳で頷き、彼は純心と共に娘と妻が待っている一室に戻る。
廊下を歩く僅かな時間、まるで黄泉道を彷徨っているようだったが、目的の場所に近づくと娘と嫁の話し声が聞こえきた。
地獄からの光明。僅かな時間で廊下に声が聞こえる程、蟠りを解消できたのかと綻ぶ。
「──あら、この前キスしたのが初めてだったの? つまり紗夜はまだ抱いて貰ってないわけ? あれだけ熱愛で同じ屋根の下寝泊まりしたのに、意外と進んでないのね」
「何を言っているの、お母さん!」
「若いうちに慣れとかないと、計画的にするときに大変よ。あとは、紗夜は彼女なんだから解消させてあげなきゃ可哀そうよ。あれだけ貴女を好きなら、絶対溜まってるわ。
勿論、避妊は絶対だけどね☆」
おいいいいいいぃい!
なんつう会話をしとるんだ、嫁よ!
卑猥な話をする嫁に娘の悲鳴が聞こえてくる。外に聞こえてるなんて、恥ずかしい。
ちらりと横をみると、黄金の男は何やら神妙な顔つきになっていた。
「ところで義父上よ。孫はいつ頃ご所望かな?」
「せめて、結婚してからでお願いします!」
その後、紗夜は家に戻り、学校は花咲川女子学園に通うことになった。
羽丘女子学園から花咲川女子学園に通うことは珍しくもない。逆もしかりである。
両校の距離がそこまで離れていないこともあり、より勉強に力を入れたい者は進学校の羽丘女子学園。多くの可能性を見出したいものは、海外のコネクションもある花咲川女子学園に高等部から転学する生徒は少なくなかった。
なお、共学に変えたければ付近唯一の共学校、月乃澤学園が選ばれ、その月乃澤学園からは男子は風代学園、女子は羽丘女子学園か花咲川女子学園と高等部から転学する生徒もいる。
学校を変える生徒は殆どの場合、高等部からなのだが、早く環境を変えたかった紗夜は受験の手間を省くという理由を立てて、転入試験を行い、来年から中等部二年生として花咲川女子学園に通うことになる。
羽丘で紗夜はあまり他者と交流しなかったので、彼女の転校は特別騒ぎ立てることもなかった。
唯一、日菜だけは、やはり反感の意を示したが。
「なんで────!? どうして、別々にするの!! 一緒がいいよ!」
姉と同じ学校に通えなくなり、更には高校からは別々の部屋にすると知った日菜は家で騒ぎ立てたが──。
「貴女と一緒にいたくないの」
紗夜のその一言でピシャリと黙り、その日は姉と共用している部屋でなく、客室で泣きながら眠った。
そんな夜の苦い顔で過ごした紗夜は花咲川女子学園に通いなら、ギターを始める。
やはり、物覚えは良いようで、紗夜はすぐに弾けるようになり、本格的に始めて一週間後には人前で弾いていた。
高校から別々の方が区切りの良いという理由で、ギターの練習は家ではなく小笠原の家で行い、その都度成果を純心に確認してもらった。
本人はギターを弾いたことなどないはずなのに純心の指摘は的確で、紗夜の上達速度を加速させた。
紗夜は家でも練習したかったが、まだ個室を貰っていなく、日菜にギターをしているところを見せたくなかったので、高校に上がるまで家でギターを弾くことはなかった。
日菜には遅かれ早かれ、いずれ知られる。
そんな予感は隠し、ただ弾いて弾いて、弾き続け、時が経ち紗夜と日菜は高校生になった。
その間までに双子の関係性を自分たちの手だけで改善するという両親の願いは空しく叶わず、到頭部屋も別々になった。
日菜への劣等感を抱きながらも、何とか環境を変えて負担を減らし、恋人の純心に支えられた氷川紗夜は花咲川女子学園で────。
「へぇ、氷川さんの趣味ってギターなんだ。なんかカッコよね。ねぇねぇ、聞かせてよ」
「私はギターを趣味でやっていないわ。カッコいいとか、面白いとかそんな理由でやっていると思われるのは心外よ。個人練習がしたいの、さよなら」
───原作通りの狂犬になっていた。
何故こうなった。
次回か次回、その原因が明らかに!