表現できているか不安だけど、獣殿すごいな。
まぁ、ぽいだけで獣殿ではないんだけどね。
この日、小笠原純心が図書室に訪れたのは借りた本を返却にしに来たといった平凡な事情である。
本人曰く読書家でもないが、見覚えないものには何でも興味を惹かれる性質。知らない内容の書物ならば、どのようなジャンルであれ手を伸ばす雑食なのだ。
今回、純心が借りた本の内容は世界のシンボル集というこれまた一風変わった本。
中でも、かの国で悪名高き国家社会主義労働者党の象徴には妙な愛着を感じた。
その国では提示するだけでも犯罪なので、背徳行為に刺激されたのかもしれない。
あるいは──、と其処まで到ってから詮ないことだと思考を打ち止めし、その本を受付にいる図書委員に返却する。
そのまま退室するのではなく、別の本を探しに適当に歩いていると生物に関する本棚に足を止めた。
何度も通っているため、純心はどんな本を蔵書しているかは全て把握している。
ゆえに新書があればすぐに気づくのだ。
純心の視線に留まったのは、『犬の大全集』というタイトル。
犬という身近な動物はどれ程の種類がいるのか。
幾つかの種類と大まかな性質は既に知っているが、一般知識として知られない知識に好奇心を抱く。あれほど分厚い本であれば、自分が知りも知らなかった新しい発見があるかもしれない。
彼は手に取って軽くページを捲った後、このまま借りようかと受付に向かおうとした。
「あ──」
すると、耳に気の抜けた声が届く。
純心が振り向くと、其処にはクラスメイトの氷川日菜の双子の姉。
同じクラスメイトの氷川紗夜がこちらを見ている。
視線が自分が持っている本に向いていると察すると、純心は彼女に近づいた。
「これに興味があるのかね?」
純心は手に持っていた本を紗夜に見せる。
話しかけられるとは思わなかったのだろう。
紗夜は明らかに動揺した後、さっと視線を逸らす。
「い、いえ、私は別に……」
「ふむ。私の勘違いだったようだな。話しかけてすまない」
純心はそう言うと手に持っていた本を元の場所に戻す。
すると別の棚から適当に本を取ると何も言わず立ち去る。
あまりにも自然な動き。
一連の行動を紗夜が理解できたのは、純心が図書室から消えていたからだ。
女には真摯に。強情な女には絡め手で。
これは彼の実家による教育であり、彼に根付いた自然な行動だった。
純心が図書館へと訪れた翌日───。
「おはようございます、小笠原さん」
朝のホームルーム前。
少し騒がしい教室にて純心は自分の席に座ると、氷川紗夜が挨拶しにやってきた。
それに気づいた他のクラスメイトたちは、彼女の行動に少し驚いている。
紗夜は双子の妹である日菜以外に、自ら事務的会話以外をすることは滅多にないからだ。
更には相手が純心であることも注目された理由である。
彼に絆された女子は数え切れぬほどいるが、紗夜も彼女たちと同類なったのかと、特に女子たちが気にしていた。
「昨日はお気遣い頂き、ありがとうございます」
周りの視線を感じつつも意識しないように努め、紗夜は彼に昨日の礼を言う。
彼に話かける時点で注目されるのは解っていたこと。
周囲に晒されるのは好まないが、それで礼儀を避けるのは彼女の矜持に反するのだ。
紗夜の声に純心は振り向き、優雅に微笑む。
「おはよう、氷川。そして、気遣いとは私が持っていた犬の本のことかね?」
「──ええ、そうです。貴方が戻した後、私か借りました」
純心の言葉に紗夜は少々戸惑いの色を見せつつ、首肯した。
「そう仕向けるように動いたのだから、そうでなくては困る。いや、予想が外れてそれは愉快だな」
「……驚きました。てっきり、初めは惚けるのだと思っていたので」
昨日、純心が取った行動は本を紗夜に譲るためだと少し考えれば誰でも解る。
しかし、臆面もなく白状するとは彼女も想像外であった。
予想では気取った仕草ではぐらかされるのだと思っていたので、紗夜は唖然とする。
「私はあの本を卿に譲るように行動したのは事実だ。素知らぬ顔をして何の意味がある?」
何も捻りもない自白に紗夜は目を見開くも、少しだけ納得した。
「……そうですか。では、何故あのように回りくどいやり方で私に譲ったのですか?」
「あれほど視線を向けたものを興味ないと言ったのだ。こちらが単に渡したところで、拒絶されるのは目に見えている」
「それは──ええ、貴方の言うとおりですね」
否定しかけた言葉を飲み込み、紗夜は素直に肯定した。
目の前の相手に、下手な言い訳は無駄だと察したからだ。
「すみません、私が素直でないばかりに、余計な気を使わせました」
「謙虚なだけであろう。我が物顔であの本を奪い取る気概を見せていれば、それは愉快だった」
口端を緩める純心に殊勝な態度だった紗夜は冷ややかな目を向ける。
「そのような非常識なことはしません。もしかして貴方は私をからかって楽しんでいるのですか?」
「不快にさせたのなら詫びよう」
高慢な言葉だが、不思議と誠意は感じた。
紗夜はまだ何か言いたげだったが、これ以上に言及しても心労が溜まると悟り小さく息を吐く。
「……とにかく、お礼は言いましたので。読み終えましたら、貴方に渡します」
「私に気にせずゆっくりと読むといい。あの本は気まぐれで手に取ったもの。借りようとしたのは事実だが、急ぐものでもない」
「解りました。では、遠慮はせずじっくりと拝読させてもらいます」
そもそも、本は学校の備品。貸し出し期間内にならば、どれだけ読んでいても文句は言われない。
だが、紗夜は譲ってくれた手前、できるだけ早く純心に渡そうと律儀に考えている。
もっとも、気まぐれに手を取ったと聞けば、急く気持ちは小さくなっている。
けれど純心が最初に借りようとしたのは事実だ。読み終わったら再度貸し出し手配をし、彼に渡すつもりでいる。
「──小笠原さんは、犬が好きなんですか?」
「ああ、好きだとも」
こんな質問が紗夜の口から出てくるのは自然な流れだろう。
彼女の問いに対し、純心は答えも自然だろう。
質問に対し、自然な回答。何も変哲もない言葉。
だが、ここから純心の素性に触れる会話に繋がるとは、紗夜は思いもしなかった。
「犬というのは人が生れ落ち、最も付き添った他の生き物だ。愛着を湧かないわけがない」
「な、なるほど。そこまでお好きなのですね」
意外な壮大な言葉に紗夜は少々戸惑いを抱く。
しかし、気持ちは解った。
彼女自身も犬はかなり好きだからだ。
本人に尋ねれば照れ隠しするが、好きでなければ犬の図鑑を借りたりしない。
壮大だったが純心の言葉も紗夜は理解できる。歴史においても、人と犬が密接に関わったことは何度もあるからだ。
だが、僅かに芽生えた同属意識は、次の言葉で砕けた。
「犬だけではない。猫だろうが、人であろうが、獣でもなかろうが、無機物でも構わない」
「?」
「私は総てを愛している」
あまりにも当然のように口にした言葉に、紗夜は目を丸くする。
「つまり、博愛主義というものですが」
「然り。どんなものであれ私は等しく同様に愛している」
彼から出た言葉は本物だった。
まだ一桁の歳しか重ねてなくとも、勤勉で聡い紗夜は理解する。
総てを愛している。非常に美しい思想だと、多くの者が思うだろう。
「同様ですか……」
しかし、紗夜はその言葉を聞いた途端、酷く違和感を感じ取った。
身近に天才と呼ばれる双子の妹がいるからだろうか。
彼女の妹、日菜はよく独立した感性で物事を話す。
理解不能な言動で他人を混乱させることは日常茶飯事。
けれども、同じ時に生まれ、長い間寄り添っている紗夜にはある程度、日菜の考えを把握できる。
そんな彼女だからこそ、目の前の少年にある異端を直感した。
「その言葉が本当なら、自分の家族と他人との間にも一切差がないと受け取れますね」
それは無意識に出た言葉。
「ああ、その通りだ。私は他人も両親と同様、愛しているとも」
肯定され、紗夜は理解した。
──そういう価値観なのか。
血肉を分け与えられた親すら、他人と平等に扱っている。
万物平等で逆に傲慢不遜。
同じ人間とはとても思えなかった。少なくとも、紗夜には。
同じ価値観を持てる人間は世界中、どれだけいるのだろうか。
これを魅力と思う者たちもいる。
事実、聞き耳と立てていた者たちは、特に騒ぎ立てる者はいない。
むしろ、中には熱を感じさせる眼差しを純心に向けていた。
まるで、崇めているような視線。
既に彼らや彼女たちは今日までまともに言葉を交わしたことない紗夜と違い、純心のことをそのような存在であると認知し、その上で羨望の抱いているのだ。
確かに、優れた容姿と能力に常人とは違う思想に対して、憧れを持つなと制するほうが厳しい。
まるで黄金の如く輝きを放つ彼を、神のように敬畏する者もいる。
そんな男に、紗夜は言った。
「……そうですか。その考えは、私には無理ですね」
少なくとも、自分の妹と両親、家族と他人を同列に扱うことはできない。
産み落としてくれた者たち。共に生まれ落ちた者。
この世に命を芽吹かせてから傍にいた者と、一瞬すれ違った人間を一緒に扱うことは無理だ。
仮に。もし、できたらとした。
…………彼女は、楽になれるかもしれない。
紗夜は妹の日菜と常に比べられてきた。
天性の天才が日菜なら、紗夜は努力の秀才。
紗夜自身の実力はとても優秀だ。
テストの点は高得点であり、運動神経も良い。真面目を絵に描いた優等生。
だが、日菜に比べると見劣ってしまう。
学力も。運動も。芸術も。発想も。何においても常に妹より下。
紗夜が模範通りの行動で納得させるならば、日菜は常識外の行動で仰天させる。
何事においても妹のほうが勝っていた。
それが悔しくて、紗夜は努力を重ねている。苦しくても研鑽し続けている。
もしも、彼女が妹を、他人と平等に接することできたなら。
この苦しみ、開放されるかもしれない。
純心のように万人と愛し、共に日菜を愛したら。妹に劣等感を抱かず平穏に過ごせることだろう。
──そんなことはできない。
どんなに妹のことで辛くても、紗夜に彼女はとって『特別』。
だから 純心の考えは受け入れられない。
価値観は理解しても、自分の価値観と組み込むことはできないのだ。
「私は永遠にはなれない。限られた時間で知らない誰かに眼を向ける余裕なんてないわ」
未だ、只一人の妹すら折り合いをつけれていない。
そんな人間が、全ての人間を見る時間はどれほど人生を繰り返せばいいのか。
それこそ、永遠にならなければ到底不可能であろう。
永遠など幻想だ。只の人間が幻想に到ることはない。もしもあれば、それは人間でない。
「なるほど、卿の言うとおりだ」
彼女の言葉を聞いた純心は、雰囲気が変わる。
妙に納得したような、神妙な顔であった。
彼は豪然であるが、意固地ではない。
思うことがあれば、それを認める度量は持ち合わせている。
「永遠にはなれない。確かにそうだ。我々は所詮、只の人間に過ぎない」
噛み締めるように頷きながら、皮肉下に言葉を吐く。
「その限られた刹那で全てを愛していると口にするのは、傲慢であると理解しているとも」
「かもしれません」
総てを愛しているなど、本気ならば傲慢だ。
彼自身、傲慢だと自覚している。
己で苦言を零しても、考えを改める全く気はない。
彼との価値観は相容れぬものだと感じ、彼女は言った。
「ですが──その気持ちは悪いものではないしょう」
頑固ではあるが、それは純粋であるとも同じであり、誠実なのだから。
誰かに諭されただけで変質する気持ちなど不純。
惰弱な精神ではどのような渇望でも永遠に実現することはできない。
太陽より輝かしい黄金の精神。
万人平等に光を与えへ、熱さで焦がし、果て無き眩しさに畏怖を感じさせる。
同じ高みには至れない。
近づけば焼かれ、目を閉じも意識せずいられない災害でもある。
──嗚呼、けれども。
黄金が美しいことには変わらない。
「愛することそのものは、素敵なことですから」
紗夜が、静かに微笑んだ。
総てを愛することは、波乱を招く種になり得る。
けれども誠の愛とは尊いものだ。
歪であれ、危険であっても。愛することは事態に間違いはない。
紗夜は純心が浮世離れしており、己と相容れぬと解っている。
承知し、歪と認めた上で、その愛を賞賛した。
「────」
時間にして、正しく一瞬。
純心は彫刻のように微動せず、紗夜を見つめる。
永遠に思えた静止の世界が解けた瞬間、純心はゆっくりと口を開く。
「我が愛を知ったものは盲目的に認めるか、絶対的な否定する。そのどちらかであったが──」
例えるならば前者はこの学校にいる生徒や教師。後者は彼の両親だった。
零れるような声で彼は言った。
「卿のように両方とは、初めてだったよ」
対極の感想を同時に言われたのは、彼女だけだった。
「大げさですね」
紗夜が可笑しそうに微笑んだ。
「随分とおませさんですが、貴方もまだ小学校三年生。まだまだ経験が足りない子供であり、初めてのことなど幾らでもあるでしょう」
諭しながらも、労わる。
優しく嗜めるのは、随分と慣れた様子だ。
何かと問題が多い妹と関わってきた彼女だからこその振る舞いなのか。
普段澄ました様子では想像できない、氷が溶けるような、温かい柔らかさ。
「ふっ、卿の言葉どおりだ」
これはあの妹も姉に懐くと納得し、純心は綻ばさせる。
いつも余裕を表すように口端を緩めているが、今回のそれは本当に可笑しかったのか、微笑みを表現に足る穏やかなものだった。
「所詮は二桁も重ねてもいない若輩者。未知な出来事な幾らでもあると理解していたのだがね。今回は衝撃が大きかった」
「日菜──私の妹もそうですが、貴方たちは見聞が広いのに変なところで気にするのね。天才同士、似ているのかしら」
「私が天才なのは別にしても、卿の妹君、氷川日菜と私が似ているか」
純心はじっと紗夜を見つめると、納得したように頷く。
「等しいものと等しいものは共にいることを好むというが、これはまだ別だな」
「? なんのことですか?」
深々と考える様子の純心に紗夜は首を傾げる。
「気にするな、単なる独り言だ。さぁ、そろそろ自分の席に戻るといい」
それだけ言って純心は、紗夜に自分の席へと戻るようにと促す。
「チャイムが鳴って慌しく戻るのは性に合わないだろ?」
「そうですね。わかりました。では」
「ああ、
自分の席に戻る紗夜であったが、その前にクラス女子多数に取り囲まれた。
小笠原様と何を話したのかと、その質問ばかり。
彼女たちの殆どが純心の信望者であり、情欲を持っている者もまた多い。
中には単なる興味本意で尋ねる者もいる。
彼女たちが知る限り、クラスの中、あるいは学校全てを含めても先程の紗夜ほど純心と会話らしい会話をしたものはいないのだ。
思春期初期段階の彼女たちにとって、とても見過ごせない出来事である。
例外は日菜だが、彼女は姉が一番と解っているのでカウントしない。その日菜は女子に混じって、「お姉ちゃん、おがさーとなに話したの?」と誰よりもぐいぐいと質問していた。
質問攻めにあって狼狽する紗夜を純心は遠巻きで眺める。
やって来た教師が騒動を注意し授業が始まるまで、その視線は外れることはなかった。