紗夜さんの恋人は総てを愛している。   作:貫咲賢希

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 平成最後の八月が終わり、平成最後の九月が始まる。


Episode ─Ⅵ【逢引】

 

 彼は己が何者であるか解らなかった。

 物心つく頃には既に成熟した精神。

 同じ年頃の子供と果てしない隔たりがあることを理解し、それを苦痛とも感じることもなく、周りを蔑視することもなかった。

 

 ──総てを愛している。

 

 この身は只の人間。指先で撫でたくらいでは壊すことなどできない。壊さず、愛せる。

 何故、何ゆえこのような渇望抱いているのか彼は未だに疑問に思う。

 前世というものがあるとするならば、その渇望は以前の自分が餓えていたものだと理解できるが生憎とそれらしい記憶はない。

 しかし、感覚はあった。

 ああ、これは以前にも見たことがあると。経験したことがあると。

 既知感。彼は大抵のことは以前にも経験があると認識し、目新しさを感じない。

 多くは勉学であり、武芸であり、人心掌握であり、天才逸材と祭り上げるものの殆どが彼自身にとって既に持ち合わせていた機能であった。

 できて当然。既に知っているものだ。ゆえに達成感もない。

 常人より高い評価を出したところで、彼自身は大した男でもないと誇りも驕りもしなかった。

 生まれる以前から持ち合わせている知識、経験。更には並外れた肉体。

 それでも所詮は只人だと彼は思う。石ころ一つなら潰せても星は砕けぬ。どれ程持て囃されて、心酔されて、畏縮されようとも、彼は己を只の人だと位置づけた。

 常人ではないことは理解している。奇妙な既知感に苛まれることもある。己が何者であるか、何一つ理解できない。

 それでも、己は只の人間なのだ。

 己が何であるか、理解してなくても何も問題ではない。達成感に憂いておればいい。満足できないからこそ、生涯をひたすら疾走するのだ。

 無理に自制しているのでなく、穏やかに克己復礼する。

 

 だからこそ──最初は共感だったのだ。

 永遠になれない。かつて、同じような言葉を誰かから聞いた。

 それが誰だったか彼には見当もつかないが、真理であると受け入れた。

 

 次に感じたのは──未知である。

 我が愛は異常であることを理解しており、それを尊ぶ者もいれば忌避する者もいた。

 清濁合わせて受け容れられたのは彼女が最初である。

 別に特別な価値観ではない。

 例えば人間とは罪を犯し自然を破壊する星の病魔だが、世界を開拓し他の生物を救済する善の側面も持つ。人間とはどんなものかと聞かれれば、如何様にも例えられる混沌とした存在だろう。

 しかし、齢八年ではあるが、彼女の言葉は彼にとって何億年砂漠を彷徨って偶然拾い上げた宝石のようだった。

 果てない旅路で輝きを目にした。

 言葉を重ねた御託を省くならば単純なこと。

 彼はそのとき見せた彼女の微笑みに見惚れたのだ。

 幼少ながら数々の女を求められれば応じ、欲しければ摘んでいた。拘りなどなく、今更少女の微笑に絆されるような初心など持ち合わせていないと思っていたが、それは彼の勘違いだったようだ。

 

 それからは──気づくと目で追っていた。

 視野を広げると、彼女のことをより多く知った。

 真面目で勤勉。妹のことを戒めながらも、妹を愛さずにはいられない。

 氷のように冷めた目で俯瞰していると思いきや、水のように感受し色を変え揺れ動く。

 ほんの一瞬魅せる、穏やかな顔。

 有り触れた人間でありながら、唯一無二のものだと思い馳せた。

 苦しみ足掻き、涙を抑えながら踠く姿に形容し難い思いを募らせる。

 自分だけの物にしたいと、そう考えだしたのに時間は掛からなかった。

 独占したい。蹂躙したい。砕けるほど抱きしめたい。だが、何よりも大事にしたい。

 壊れないでほしい。他の者たちとは違った芽生えた感情。何も求めないと誓ったはずの独占欲。

 認めてしまえば簡単なこと。

 

 彼は彼女に恋をしたのだ。

 

 

 肌寒い日々が続く近頃に比べると、とても過ごしやすい温かさだった。

 雲一つない空から陽気が照らし、程よく快適な居場所を作ってる。

 出掛けるのであれば最良の状態(コンディション)。日曜日に外出を計画していた者たちにとってありがたい日和であった。

 休日だけあって街路は人は多く、やはり駅周辺の往来は雑多に溢れていた。

 待ち合わせでこの付近を指定する者は多いが、合流する相手をすぐに見つけられる者は多くはないだろう。その中で氷川紗夜の場合は指定された場所に近づいただけですぐに相手を見つけられていた。

 

「ねぇねぇ、君どこの子? 外人さん? 良かったら一緒に遊ばない?」

 

「折角の誘いであるが人を待ち合わせている最中だ。その機会は次に出会ったときにとっておこう」

 

 大学生くらいの女性にナンパされていた。

 

「貴方、日本語解る? 実は私こういう者なんだけど」

 

「生憎と芸能界には興味がない。今は人と会う約束をしているので勧誘は改めてもらおう」

 

 次は頬を赤らめるスーツ姿の女性から勧誘された。

 

「あぁ、なんと。貴方こそ光だ! 世界に変革を齎す覇者だ! どうか我らに救いを!」

 

「私はそれほど大した男ではない。救いを求めたければ教会にでも赴くが良い。聖職者は何人も拒まんからな」

 

 更には四十代ほどの男性に崇められた。

 数十メートル歩み寄る間に三者三様の光景を目の当たりにした紗夜だったが、今更なので特に気にしない。あのようなことは純心にとって日常茶飯事だ。誰かが彼に近づいては歩みを止めて、次は自分の番かと声をかけた。

 

「おはようございます、小笠原さん」

 

「おはよう、氷川。ご足労感謝する」

 

 太陽よりも眩しい黄金の髪を照らしながら、小笠原純心は微笑んだ。

 本日は純心の提案で紗夜は彼と逢引(デート)することになっている。

 紗夜が誘いに乗った訳は半分は運動会で自分と妹を助けてくれた引け目からであり、もう半分は彼の勢いに飲まれたからだ。

 このことは誰にも言っていない。家に出るときも反対側のベッドで寝ている日菜に気づかれないようにこっそりと出掛け、母親には友人に会うと伝えている。

 別に嘘ではない。純心はクラスメイト。すなわち学友。ならば友人と言ってもいいはず。

 こじ付けなのは重々承知しているが、だからといってクラスの男子とデートしに行くなど口が裂けても言えない。言ってしまえばどんな反応するか解ったものではないからだ。

 母親は娘たちが男子と接触することを別に拒んではいないが、無関心を決め込むとは想像できない。下手に騒がれて妹に気づかれるのを避けたかった。

 ちなみに紗夜は異性と二人きりで出掛けるのはこれが初めてである。父親ですら傍らには妹がいた。

 話がまた変わるが、紗夜は初めて何かする場合には雨が降ることが多い。此度は幸いなことなのか晴天に見舞われ、ほんの少しだけ晴れたことに感謝する。尤も、楽しみにしていたと聞かれれば首を傾げてしまうが。

 相手は自分に惚れている男。しかも、女性経験は小学三年にしては豊富すぎる。

 噂だけでも彼は夕焼けが見えるレストランや貸切の空中庭園に女性と出掛けたそうだ。贈り物は何処から金銭を工面したのか高価な貴金属。贈り、贈られ、時には朝帰りしたこともあるらしい。

 全てが真実ではないかもしれないが、そんな相手と出掛けると思うと穢れを知らない純粋無垢な少女が気負うのも自然だ。

 身なりを最低限整えた紗夜だったが、別に普段学校に行くような格好とそう変わらない。

 行き先を知らない彼女はこの服装で大丈夫なのかと不安だった。

 純心は到着してからのお楽しみだと言って、彼女に教えていないのである。

 もしかしたら目的地の前に衣服店に寄り着せ替えを求められるかもしれない。大人でもそのようなデートは一握りの人間がすることだが、小学3年生とはいえ普通じゃない純心ならやりかねない。

 

「緊張しているのかね? 安心するがいい。別にとって食うつもりはない」

 

 紗夜の内面を黄金の瞳で見透かした純心は彼女と違っていつも通りだ。

 誘ったのは彼の方なのだが一切緊張の色を見せず、余裕の様で紗夜をエスコートする。

 

「では、約束の刻限には早いが折角なので移動をしよう。そこに車を待たせてある」

 

「く、車ですか?」

 

「ああ。目的地は徒歩には距離が遠く、また電車などは周りが億劫だ。移動するなら車がいい」

 

 言葉で説明されれば理に適っているが、小学生がデート使うのに車を使うのは漫画の世界でしか聞いたことがない。

 

「まさか、貴方が運転されるのですか?」

 

「可笑しなことを言う。普通自動車の免許は十八歳からだ。一日貸切のタクシーを手配している。それで移動するのだ」

 

「なるほど。解りました」

 

 それで納得した紗夜。家が裕福ならばお抱えの運転手と自家用リムジンで移動するかもしれないが、小笠原純心の家は名家であっても富豪でない。貸切タクシーが自然なのだと、気負う気持ちを少し減らした。

 彼女は騙されている。デートで貸切タクシーを準備するのも大概であるし、純心は自家用車で送り迎えをやろうと思えばできる。彼は運転ができないしお抱えの運転手はいないが、家には何人か小間使いがいるのでそれらに頼めばいいだけだ。これは紗夜ができるだけ畏まらないための演出なのである。

 そうとは知らない紗夜は少しだけ緊張を解し、純心に案内されるまま停車しているタクシーに向かった。

 純心が開いた扉から最初に紗夜が車内に入り、純心がその隣に座る。

 一瞬、肩が触れ合ったのに紗夜はドキッとするが、純心は平然とした顔で運転手に車を出すよう指示を出す。

 後部座席の二人が安全のためシートベルトをつけるた頃には車が動き出していた。

 束の間の静寂。

 ここまま目的地に着くまで静かなままなのかと紗夜が思った矢先、純心が口を開いた。

 

「ところで今日は随分と早く来てくれたのだな。思いの他、卿も今日は楽しみにしていたのかね?」

 

「そ、それはっ! ……お待たせするのは悪いと思ったので少し早く家を出ただけです」

 

「なるほど。律儀な卿らしい行動だ」

 

「貴方こそ随分と早いお着きなのでは? 私が着いたのは待ち合わせの三十分前ですけど、いつからあそこに?」

 

「何、精々卿が来る一時間前かそこらだ」

 

「一時間、って。退屈ではなかったのですか?」

 

 一時間も待たせたのかと思った紗夜は少し罪悪感と共に、それまで何をしていたのかと疑問に思った。

 もしかしたらさっき見かけたように多くの人間から声をかけ続けられたのではないかと心配したが、純心からは疲労の色は見えない。

 

「別に退屈ではないさ。惚れた女を待つことは初めての経験だったが、悪くはなかったな」

 

「ほ、惚れたって……また貴方はそうやって私をからかうんですね」

 

「何度も言うが惚れたのは事実だ。だからこそ、私は卿を今日誘ったのだ。卿がいずれ呆れかえって聞き流すようになっても、変わらず私は卿に恋心を示そう」

 

「本当に貴方って人は……豪胆というか自分に正直な人なんですね」

 

 そうやって一瞬、紗夜の顔が和らいだが。

 

「そういう卿は素直ではない」

 

 純心の言葉にむっと顔を顰めた。

 彼の言葉は真実であるので否定はしないが、自覚してる短所を他人に面と言われれば腹が立っても不思議ではない。

 

「どうせ私は素直ではありません」

 

「いや、卿を貶める気はなかった。気に障ったのなら謝ろう」

 

「でも、貴方が素直でないと言ったのは事実ですよ。私自身そう思いますが」

 

「ああ、その通りだ。だが、私はそれを美徳と思える。うむ、言い方の問題であったな。素直ではないということは恥じらいがある。即ち奥ゆかしいということだと私は思うがね」

 

「無理に良いように言ってませんか?」

 

「どうであれ、私はそんなところを卿の魅力だと思い、可愛いと思っているのだよ」

 

「…………」

 

 可愛いと言われた途端、顔を赤らめる紗夜。

 それを見た純心は苦笑を浮かべる。

 

「このような言葉で赤面とは少しは口説き慣れておきたまえ。いや、これは単なる私の我侭ではあるのだがな。他の男共にも嗾れてそんな顔されてると思うと嫉妬してしまう」

 

「……言っときますが、男性に煽てられる度に狼狽えている訳ではありませんよ」

 

 紗夜は告白こそ純心が初めてではあるが、綺麗や可愛いと家族以外から褒められたことがない訳ではない。双子の日菜と同様、容姿は綺麗に整っており同性からも評価されている。大半は戯れであるが日菜共々男子からも褒められることはあった。

 思春期の男子は気になる女子を照れ隠しで貶める輩もいるが、それが悪い効果しか生まないと解っている男子たちは早い段階で女子に優しくする。紗夜も純心が隣に現れる前は男子からの人気が高かった。今は純心の女だと囁かれているので、そういった声は少なくなっているが。

 

「それが真実ならば、卿の心を揺れ動かせる男は今のところ私だけということになるな」

 

「!」

 

 純心は自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

 実際、紗夜でなくても純心が甘い言葉を出せば、同じ台詞でも他の男子とは雲泥の差で成果を上げられる。

 その辺りの男子が『愛している』と女子に囁いても馬鹿にされるのが関の山だが、純心が『愛している』と囁けば真意を理解している者でも色んな意味で少女淑女たちは崩れ落ちてしまう。

 だが、今、純心に重要なのは恋しい女が自分の言葉をどのように感じ取っているかだ。

 

「ならば卿が他の男共に目移りする前に心を奪ってみせよう」

 

 不意に純心の体が紗夜に近づく。

 急に距離を詰め寄られてた紗夜は混乱した。先程までも少し動けば触れ合う距離間だったが、今は数ミリしか相手の体と間がない。

 何をされるのかと焦った瞬間、カチリとシートベルトのロックが外れる音がした。

 気づけば、二人を乗せたタクシーは停車していた。

 

「到着したようだ。降りよう」

 

 そう耳元で囁いた純心は紗夜から離れ、自分もシートベルトを外すと先に外へ出る。

 自分側の扉が純心の手によって開かれる合間に紗夜は大きく息を吐いた。

 私の心臓、今日一日大丈夫かしら?

 

 

 紗夜は覚悟を決めて、車から降りた。

 純心との会話で走行中の風景に気づいてないが、少なくとも空港や港の類には来ていない。ならばここからクルージングや貸切遊覧飛行の線は薄いだろう。

 では、デートの定番で遊園地か。時間には早いが高級レストランという線も考えられる。

 いずれにせよ、これ以上醜態を晒すのが嫌だった紗夜はどんな光景が来ても毅然であろうとう心に誓った。

 降りる前に瞼を閉じ、意識を強く持つ。

 純心の掌で良いように踊っている感覚は好かない。散々、からかわれ続けているが、紗夜とて好きでからかわれているのではないのだ。

 たとえ、お城のような場所を見せられて「この城は卿に贈る。早速だが舞踏会だ」と言われても動じない覚悟を持った。物件を贈られようものなら即座にお断りする。

 そうして意思を固めた紗夜は僅かの間に閉じた瞼を開き、広がる光景を視線で射抜く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おいでよ! ∪・ω・∪弦巻わんわんパーク( U ・ᴥ・) ☆世界のわんちゃんたち大集合☆』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前にあったのは動物園のような施設。

 だが、アーチに刻まれた解りやすい名前や遠くに聞こえる人の賑わいと混じった鳴き声でここがどんな場所か想像つくだろう。

 

 

「色々と考えたがやはり卿を楽しませるためにこの場所を選んだが、正解だったようだな」

 

 キラキラとした星のように輝く紗夜の瞳を見て、純心は満足そうに笑ったのだ。

 

 

 

 弦巻わんわんパークは名前通り、犬専門のテーマパークである。

 遊園地のような遊具が皆無ではないが、一番の特徴が在園している犬の種類だろう。

 その種類約200。世界には非公認犬種を含めて約800の犬種がいるとされるが、ここには国際畜犬連盟により公認された約300犬種の内、約200犬種がいる。

 大型犬や室内犬など大まかな犬種ごとにエリア分けされており、広大な敷地内では自分の飼い犬も連れて園内の犬と遊べる場所が数多く存在する。

 これほど広大な敷地に多くの犬種を集めることができるのは、ここの経営を世界有数の大企業が行っているからだろう。園内にある施設はトップクラスから一般人の敷居まで幅広く、どの客層にも対応したテーマパークだ。

 

「──あの黒い毛玉の子はブービエ・デ・フランダース!? 入り口手前にはソフトコーデッド・ウィートン・テリア!! あちらは定番のゴールデン・レトリバーたち! いけない、どの子たちから行けば良いのか私には解らない!」

 

 

 入場口で貰ったマップと敷地内の光景に目を向けならが紗夜は興奮している。

 紗夜は前々からこの場所を知っていたが、遠方にあり、妹の日菜は犬がそこまで好きでないため、家族に連れて来て貰ったことがなかった。

 大きくなったら自分一人でも来ようと密かに秘めていた夢が叶ったので、喜びを隠せずにはいられない。

 だが、彼女は悩んでいた。楽しみ過ぎて冷静ではいられなかった。

 珍しい犬のところにも行きたいが、見たことある犬に興味がないわけでもない。ここは触れ合って遊ぶこともできるので、何処に行けば良いか選択を拱いていた。

 

「迷うのは構わないが足は動かしたほうがいい。時間は有限。立ち止まっていては何もできない」

 

 何時になく気持ちが高ぶっている紗夜を黙って眺めていても純心的には構わなかったが、立ち往生して時間を無為に潰し、後悔はさせたくなかったので行動を促す。

 

「!? そ、そうですね! しかし、どの子から」

 

「では、あそこにいる犬から一周していこう」

 

「わかりました! では、早速!」

 

 園内の犬は豊富のため、急いで眺め回らなければ全種を見ることは難しい。

 そして紗夜は犬たちと触れ合うつもりでいるため、彼女が犬種全てに出会うことは時間的に不可能だ。そこも純心の狙いであり、まだ遊び足りない紗夜をここに再度誘える口実作りになる。

 尤も、紗夜に不満足な思いをさせるつもりはない。

 純心は出来る限り誘導して、彼女を楽しませるつもりだ。姑息な思惑などついでに過ぎない。

 

 手始めに二人がやってきたのはアイリッシュウルフハウンドと呼ばれる犬種がいるエリアだ。

 

 灰色の毛並を持つ巨体の犬たちが人と戯れている。アイリッシュウルフハウンドは犬の中でも一番高い体高を誇り、個体によっては100cmを超え、後足で立ち上がれば小柄な女性などよりずっと大きいものもいる。体毛は粗く硬質でここにいる灰色の毛色の他にも赤色の毛色が存在する。

 けして飼育し易い犬でないのだが、多くの人に慣れている様子を見れば此処の飼育員が如何に優れているか理解できるだろう。

 紗夜が柵の中に入ると、彼女がどうやって近づこうか悩むより先に向こうの方から一匹走ってきた。その犬は紗夜に近づくと、構ってほしいと言わんばかり彼女に擦り寄る。

 先程説明したようにアイリッシュウルフハウンドは巨大な犬。立っている紗夜の胸下には頭部が届いている大きさだ。

 犬に慣れていてもこの大きさがいきなり近づけば泣き出す子供も多いだろう。

 しかし、紗夜の場合は嬉しそうにやって来たアイリッシュウルフハウンドの頭を撫でる。

 

「利口で人に懐いている。とても良い子ね」

 

 警戒心を全く感じさせない、綻んだ笑み。

 そんな紗夜の姿を純心は少し離れた場所で眺めていた。

 視線に気づいた彼女は振り向いて、純心に呼びかける。

 

「貴方は遊ばないのですか?」

 

「いや、私は遠慮しておこう」

 

 怪訝の念を抱いた。犬に臆してるわけでないないだろう。

 純心の愛は別に人間だけが対象ではない。それこそ虫ですら彼は愛をみせる。 

 以前、学校の教室に季節外れのクマバチが彷徨ってきてパニックになったことがあった。櫻井教諭が生徒たちを廊下に避難させている最中、純心はわざわざ指先で蜂を掴んで外に逃がしたのだ。

 遠足で行った動物園では偶然逃げ出した獅子ですらその場で手懐けた。

 そんな彼が大きいだけの犬に気おくれするとは思えない。

 紗夜が不思議に思っていると、彼女の疑問に答えるよう純心は口を開いた。

 

「私が近づけば卿らも楽しめないだろう」

 

「どういう意味ですか?」

 

「周りを見ているといい」

 

 言われた通り、紗夜は周りを見渡してみると先程まで他の人間と遊んでいたアイリッシュウルフハウンドは何処か静かであり、他の者もその様子に首を傾げていた。

 紗夜は手元を見下ろしてみると、自分の傍に入るアイリッシュウルフハウンドも先程まで見せた活発が嘘のように大人しくなっており、ある一点、純心を見ていた。

 まるで怯えているような視線に純心は苦笑する。

 

「かつては狼や鹿を狩り、戦争まで借り出されたことがあるアイリッシュウルフハウンド。そんな史実を持ちながら警戒心が薄く、余所者に対して敵対心をほぼ持たないと云われているが、そんな彼等でも私は苦手なようだ。昔からね。そういった無垢な生き物には懐かれないのだよ」

 

 動物園で逃げ出した獅子を手懐けたこともあったが、あれは純心という強者に獅子が本能で屈服しただけに過ぎにない。好かれたわけではないのだ。

 それは是非もないと、純心は思う。怯えるのもまた良し。無理に触れることはしない。壊してしまったら二度と愛せないのだから、眺めて愛でるもの一興なのだと納得させている。

 

「…………」

 

「だから、触れはせん。もう少し遠くで眺めてるので、卿は思う存分遊ぶがいい」

 

「いえ、そうはいきません」

 

 今度は純心は怪訝な顔をする番だった。

 紗夜は屈み、傍にいるアイリッシュウルフハウンドの目線に合わせて首を撫でた。

 

「大丈夫ですよ。変な人ですが、貴方を虐めたりしません。一緒に行きましょう」

 

 すると彼女と共にあれほど怯えていたアイリッシュウルフハウンドが純心に近づいてきた。

 まだ、恐怖の色は残っているが、その黒い瞳はじっと黄金の瞳を見つめている。

 

「ほら、小笠原さん。手を出してください」

 

 言われたとおり、純心は黙って手をさし出してみる。

 すると、恐る恐る近づいたアイリッシュウルフハウンドが彼の手を舐めた。

 くすぐったい感触と予想外の行動に目を見開いた純心を見て、紗夜が誇らしげに胸を張る。

 

「どうですか! 犬は賢いのです! 言えば理解してくれます! 貴方が遠慮して触れられないのなら、彼等に諭して触れてもらうまでです!」

 

 まるで我が子を自慢するように豪語する紗夜。

 すると純心は肩の力でも緩めたように、穏やかな顔を見せる。

 

「ああ、凄いな」

 

「ええ、凄いですよ。この子達は」

 

「うむ、凄い。────本当にな」

 

 

 

 その後、二人は沢山の犬と遊んだ。

 最初の一匹が警戒を解くと、他のアイリッシュウルフハウンドも純心を警戒しなくなった。

 他の犬が入る場所に移動すれば、今度は純心から犬の方へ歩み寄った。怯えて逃げる犬に対しては紗夜が間を取り持ち、逆に紗夜に懐かなかった犬は純心が平伏させて彼女に歩み寄らせた。

 貸し出しのフリスビーが純心の手によって柵を切り裂き、借りたボールが地面を抉って周りをドン引きさせたが、二人とも歳相応に楽しんだ。

 流石に動き疲れたのか、純心がちゃっかり予約していたレストランで昼食を取る頃には紗夜の体はクタクタだった。

 午後は小型犬を中心にゆっくり見て周り、気づけば夕暮れ時になる。

 閉園まで時間があり全てを見て回れたわけでないのだが、門限がある紗夜のため二人はその場を後にした。

 

「来たいのならば、また誘おう」

 

「いいのですか!?」

 

 車内で後ろ髪を引かれていた紗夜に純心は提案する。

 しかし、一瞬、嬉しそうな顔をした彼女だったがすぐに難しい顔になる。

 

「いえ、そう何度もご好意に甘えるわけにはいきません」

 

「遠慮することはない。卿と共にいられるならば、幾らでも尽力しよう」

 

「貴方はそれでいいのですか?」

 

「惚れた相手と共にいられるのだ。苦労など惜しまんさ」

 

「貴方はまたそうやって……」

 

 流石に日に何度も言われたら慣れてしまい、溜息一つだけに反応が止まる。

 

「けど、あそこに連れていって貰えるのは予想外でした。犬が好きなのは話しましたが、てっきり遊園地貸切や格式高いレストランにでも連れて行かれるのではとばかり」

 

「卿がその方がいいなら次はそのような場所に赴こう」

 

「いえ! 場違い過ぎて遠慮したいです!」

 

「ならば、次も今日行った場所にするかね?」

 

「それも、遠慮します。何度も行くようでは有り難味がなくなりそうですから」

 

「なるほど。では、次のデートの誘いは日を改めて行うとしよう」

 

「そうしてくだい」

 

 残念そうに肩を竦める純心が何処か可笑しくて、紗夜はくすりと笑った。

 車内に赤金色の光が差し込む。

 あの告白と同じ、黄昏時がもうすぐやって来る。

 会話が止まったが、純心は紗夜を見つめたまま視線を外さない。

 黄金の瞳に見つめられ、以前の彼女ならば目を逸らすか体を強張らせたが、肩の力の抜きながら紗夜も見つめ返す。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「恋している相手に尽くすのは男冥利。報酬は既に貰っているが、卿にそう言って貰えると今回の逢引は成功したと言って良いだろう」

 

「本当に、小笠原さんは私が好きなんですね……」

 

 相手の変わらない好意に、少し呆れ、少し感心する紗夜。

 彼女も流石に言われ慣れたのか、些細なことでは照れなくなったようだ。

 そんな彼女に気負うことなく、純心は語る。

 

「無論だ。だから、卿も。一人の男が尽くすほどには魅力があるのだと、少し自惚れても咎められることはあるまい」

 

 それは自己評価が低い紗夜に対する、純心からのいたわりだった。

 一瞬、呆然とした紗夜は困ったような苦笑を浮かべる。

 

「難しいですね。私は自分が好きではありませんので」

 

「ならば、私が卿が自分を好きではない分まで卿を好きでいよう。いつか、卿が自分自身を好きでいられる、その時まで」

 

「その時が来れば、貴方は私を好きではなくなるのですか?」

 

 彼女にしては珍しく、悪戯気味に尋ねると、純心も苦笑を浮かべる。

 

「その時が来れば、それまで以上に卿を好いているさ」

 

「本当に、貴方は…………」

 

 胸の奥が擽られながら、じっくりと滲んでくる気分だった。

 何処となく、瞳の奥が熱くなりながら、紗夜は理解した。

 親に貰った愛でもなく、妹に懐かれるとも違い、況してや隣人からの友誼でもない。

 これが、人に好いて貰うことなのか。

 

「ああ、そう言えば、一つ訂正せねばならんな」

 

「?」

 

 紗夜が感傷に浸っていると、ふと純心は思い出したように口にした。

 

「今回の逢瀬は成功したと言ったが、一つだけ誤算があった」

 

「誤算ですか?」

 

 終始純心の思惑通りだったと紗夜は首を傾げるが、彼は自嘲するように口を濁す。

 

「ああ。今回少しでも卿に好いてもらうつもりだったが、私の方が卿に惚れ直したよ」

 

「………………………。ぷっ」

 

 彼の言葉にたっぷりと沈黙してから、紗夜ははしたないと自覚しながら噴出してしまう。

 くすくすと笑いながら、目尻から溢れた涙を拭った。

 

「まったく、本当に仕方のない人ですね。貴方は」

 

 

 

 少なくとも。

 前よりは好きになりましたよ?

 これが恋になるかは分かりませんけどね。




【本編で語る予定がないと思う設定】

 既に気づいており、感想欄のコメントにて察しているかもしれませんが小笠原純心は【Dies irae】のラスボス、ラインハルト・ハイドリヒ卿の転生体です。
 純心という名前も【Dies irae】の主人公とあるキャラと同じように、ラインハルトの名に因んで付けたものです。
 ハイドリヒ卿は全てを愛し、それを破壊でした表現できない困ったさんですが、それは真のラスボスであるニートに歪められたものであり、本当は触れたいだけです。破壊でしか表せないのは、彼の力が強すぎるから。
 この作品では弱体化されているので破壊という形ではなく、何かしらの接触する形で彼は愛を示します。
 【Dies irae】を知っている人ならご存知、その在り方は全てを慈しみ抱きめたい、黄昏の女神に似ています。
 だかこそ、全てを抱きしめたい女神ですがたった一人だけ特別な相手がいたので、彼にも特別な相手ができても不思議ではないと解釈しています。
 彼は獣殿ではありますが獣殿ではありません。
 だから獣殿ぽい転生したオリキャラなので、転生とオリ主のタグがついております。
 まぁ、ややこしいので獣殿と言いますが。
 他の設定に関しては、また気が向けば書くかもしれません。

 とりあえず、私は次を書かなければ。誤字指摘が多いけど。
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