女神に抱擁されるというご利益有りそうな、しかしあまり主要人物達にこちらの事情を知られたくない私にとっては、早速存在を捕捉されるというよろしくない事態になってしばらく。
「まあ冗談はさておき」
(冗談だったのか……)
(よく考えれば当然なのだが……父に母などと……。それにリュサンドロスの実年齢ならともかく、私はまだそこまで老けていない……)
硬直した私たちから腕を外し、上機嫌な笑顔を振る舞うのは女神アテナこと城戸沙織。鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌っぷりに怖気付きながらも、私とアイオロスは「どうする」とばかりに視線を交わした。
しかしそんな私たちを置いてけぼりに、アテナ沙織はぴしっと指を立てて胸を張りつつ話し始める。「沙織お嬢様、ご無事なのですね!? よ、よかったぁ~!」と駆け寄ってきておんおん泣き出した辰巳殿には女神然とした凛々しい表情で「辰巳、心配をかけましたね」などと言っていたが……。私たちに向ける表情は、どこか幼い。
「ですが、わたしにとってあなた方は名付け親! 両親としてお慕いするのも間違ってはおりませんわ!」
「ちょっと待ってください
聞捨てならないことをさらっと言われて、思わず再び動揺が走る。……鉄面皮などと言われていたリュサンドロスは遥か昔。今は主に慌てふためく様で表情豊かになった気がする。嬉しくはない。
しかし私の呼びかけに、アテナ沙織は眉尻を下げて寂しそうな顔になった。……それは庇護欲をそそる、"子供"の表情だ。
「沙織ちゃん、とは呼んでくれないのですか……?」
「え……」
こちらにトトトッと駆け寄ってきて私の胸に手を添えると、心なしか潤んだ瞳で私を見上げてくるアテナ。
こ、これは……! いったい私にどうしろというのだ!?
『た、助けてくれアイオロス! 私はどうすればいい!?』
困り果てた私はアテナの肩に手を添えてご尊顔を見つめ返しつつも、テレパシーでアイオロスに問いかけた。しかしアイオロスは先ほどまで私と同じく狼狽えていたくせに、何か考えるような間を置いた後に快活な思念で答えてくる。
『よかったなリュサンドロス。どうやら女神の好感度は高いようだぞ!』
『そんなこと今は聞いておらんわ! いや光栄ではあるが、方向性がよく分からん! 父に母!? 名付け親!? いったいどういう事だ!』
『簡単だろう。つまり我々は先走り過ぎたのだ』
『……え?』
『アテナの誕生日を伝えることを優先するあまり、うっかり日本人としての名前が決まる前に手紙を送ってしまったのだろう』
『…………。あ!?』
『おそらく城戸光政翁は、手紙を見てアテナの名前をお決めになられたのだろうさ。まあ、あれだ。正真正銘、お前はアテナの名付け親なわけだな』
『た、他人事みたいに言わないでくれ!』
『そうは言ってもなぁ……。お前の知識あってこそ、書いた名前であるからして』
『ぐ、ぐうう……!』
『丁寧にうめき声まで送って来なくてもよいぞ?』
『う、うるっさいわ!!』
わずか十秒ほどの間でやりとりされた会話に、私は頭を抱えたくなる。頭を抱えたくなるのは、もう何度目だろうか。そしてきっとこれからもこの機会は多く訪れるのだろうなという確信めいた予感がする。……頭だけでなく、胃まで痛くなってきた。そして後ろに居るだろうオルフェと魔鈴からの視線も痛い。くっ、あの二人め。自分達だけさっさと隠れおって……! もうここまで来たら隠れる意味はないではないか!
ともあれ、無言で私を見上げてくるアテナに何か答えなければ。
「………………」
「………………」
…………いかん。とても期待のこもったキラキラした瞳をしておられる。
結局私は、それに負けた。
「さ、沙織ちゃん……?」
「はい!」
とてもよい子のお返事だった。くそ、いかん! シュラの幼き日を思い出す……! しかしお仕えすべき上司、女神をそんな気安く呼ぶなど……!
「ところで、あなた方のお名前をお聞かせ願えませんか? そちらの方に関しては、少々察しがつきますが……」
そう言って私と、隣のアイオロスを見るアテナ。……まあアイオロスはアイオリアにそっくりだからな。素顔を晒している今、正体を気づかれてもおかしくない。
「さ、沙織お嬢様~! そんな得体の知れない奴らにくっついていては危険です! 早くお離れになってください!」
「黙りなさい辰巳! わたしは十三年間、この瞬間を心待ちにしていたのですよ!? いつ会いに来てくれるか、いつ会いに来てくれるかと……!」
「! わ、我らの存在にお気づきになっていたのですか……?」
「当然です! 毎年誕生日プレゼントを贈ってくださったではありませんか!」
どうやら我々の不格好な手作りプレゼントは、ちゃんと彼女の手元に届いていたらしい。ほとんど捨てられているだろうと思っていただけに、驚きは大きい。
「贈り物にこめられた、わたしを見守ってくれているような小宇宙。間違いようがありません。日本に居る時も、もしかして銀河戦争開催以降遠くから見守ってくれていたのでは? わたしもアテナとしての覚醒はまだ十分とは言えませんが……それくらいは察せられます。だって十三年も会いたくて仕方が無かった相手の気配ですもの」
きゅっと私の胸元に添えられた手が握られ、大事な宝物のように言葉をひとつひとつ噛みしめながら口にするその姿に……一児の父として、つい父性がくすぐられる。そのためか、自然と私の手は彼女の頭に添えられていた。
「……私はリュサっ……んっん゛ー! 失礼。リューゼと申します。あなたをお守りする聖闘士が一人。白銀聖闘士、エリダヌス星座のリューゼ」
「リューゼ……。それがあなたのお名前なのですね」
女神の艶やかな亜麻色の髪の毛を撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。この方の髪の色は我々には時々不思議な光を帯びて見える。それはおそらく女神たる小宇宙の煌きなのだろう。神秘的なそれは、時々亜麻色の髪を赤みを帯びた紫色に染める。間近で見るその輝きにしばし見惚れるが、はっと我に返って慌てて女神から距離を置いた。
「し、失礼いたしました! とんだ御無礼を……!」
「まあ、もっと撫でてくださって構いませんのに!」
「い、いえ
「沙織ちゃん」
「え」
「沙織ちゃん」
「…………」
なおも、呼べと。そうおっしゃるのか。
私は天を仰ぐと、すかさず隣に居た男を目の前に押し出した。お前も当事者のくせに、傍観者に徹しようなどと許さんぞ!!
「な、リュサ……リューゼなにをっ」
「あなたは、アイオロスで間違いありませんね?」
「! し、失礼しました女神よ。ご挨拶が遅れましたが……私は
隣で事の成り行きをどこか面白そうに見ていたアイオロスは、表情をきりりと引き締めて片膝をつき
「あ、
困惑するアイオロスに、アテナ沙織……ちゃんはこてんと首をかしげてみせた。その様子は可愛らしいが、どうも謎の圧を感じる。
「あなたは沙織ちゃんとは、呼んでくださらないのですか?」
「そ、そのような恐れ多い事は出来ませぬ!」
「どうしても?」
「そ、それは……」
分かるぞアイオロスよ。私とて先ほど葛藤していたのだ。真の女神の聖闘士と誉れ高きお前ならば、なおさら女神をちゃん付けなど出来ようはずもない。だがそれを所望しているのも女神だ。……どう出る?
「……ご、ご勘弁を」
言えなかったらしい。
沙織ちゃんはそれに対して一瞬だけ不満そうに頬を膨らませるも、首を振ってから女神然とした表情を取り戻す。
「命の恩人を困らせるのは、本意ではありません。すみませんでしたね、アイオロス」
「いえ。私などに謝る必要はございません、女神よ」
…………。言わなかったら言わなかったで、一人だけ女神をちゃん付けで呼んでしまった上に頭まで撫でてしまった私の肩身が狭いではないか。
そう思って途方に暮れていると、そばで話を聞いていた辰巳殿が素っ頓狂な声をあげた。
「あ、アイオロスぅぅ? お嬢様、今アイオロスとおっしゃいましたか? 確かその者はお嬢様と射手座の聖衣を光政様に託し、十三年前に死んでいるはずでは……」
「ええ、わたしも今日までそう思ってきました。ですが彼はこうして生きて、わたしの目の前に居てくれています。……わたしを長年見守ってくれていた方の一人が、命の恩人だったのです。こんなに喜ばしい事はありません。アイオロス。よくわたしの命を救ってくださいました。感謝します」
「……そのような勿体なきお言葉を賜れたこと、このアイオロスにとって最高の誉れにございます」
感極まったように、再び頭を下げて跪くアイオロス。私も隣でそれに倣った。
「…………。無理を言ってすみませんでしたね。でも、時々でいいですから、沙織ちゃんと呼んでくれると嬉しいです」
どこか寂しそうな、拗ねたような声に私とアイオロスは顔を見合わせた。……私たちはもう少しアテナがまだ幼い少女であることを、よく考えなければならないのかもしれない。悲しい顔をさせることなど、本意ではないのだから。
だから対外的には無理な話だが、それを忘れないように私は心の中でくらい彼女を沙織ちゃんと呼ぼう。多分、それくらい許されるはずだ。
しかし見つけられてしまった今、これ以上なれ合っている場合でもない。
一応星矢達は本当に沙織ちゃんが射抜かれたと思って十二宮を上り始めた。彼らの成長こそが、我らの目的。彼らが必死にならざるを得ない状況はまだ幸いにもバレていない。十分にプランの修正が可能だ。…………この先々の事を考えると、少々不安ではあるが。
ともかく今は沙織ちゃんが星矢達を追って十二宮を上り始める前に、我々の考えに納得してもらわねば。
「時に、
「……聞きましょう。ですが、その前に言っておきます。わたしはあなた方がわたしを無意味に、あるいは悪意を持って欺こうと考えていたなどと思いません。あなた達はわたしを、黄金の矢から守ってくれましたもの。感謝こそすれど、罰など与えましょうか。…………星矢達をそのまま行かせたのには、なにか理由があるのでしょう? 今になって姿を現したのも、私が教皇との対決を決意したから。あなた達が私の味方で、協力してくれようとしていることに疑いはありません。ちゃんとお聞きしますから、安心して話してください」
その言葉に安堵するも、私とアイオロスは同時にピンっと背筋を伸ばした。
何故なら沙織ちゃん……否、神としての気高いオーラを身に纏った女神アテナが、真っすぐに私たちを見据えていたからだ。
「そのかわり、偽りなき真実を」
この時私たちは、彼女に嘘は通用しないであろうことを悟った。