巨蟹宮。そこを未だ出ることなく、私は悩んでいた。早く紫龍と星矢を追わなければいけないというのに何を悩んでいるのかと言えば、アホ面でのびているデスマスクをどうするか、についてだ。
回復させはしたものの、よほど沙織ちゃんのビンタが効いたのかデスマスクが目を覚ます様子はない。瀕死から私の技による無理やりの回復で傷を治すと、対象者は反動でしばらく動けなくなってしまう。が、デスマスクは聖衣に見放されて丸腰とはいえ腐っても黄金聖闘士。白銀たちと同じように考えるのは危険である。聖衣に見放されたとしてもだ。
放置して肝心なところで邪魔をされても困るし、やはり気は進まんが連れていくか……。目を覚ましたらその場で再び大人しくさせればいい。聖衣も無いわけだし。
「女神、申し訳ありません。下手に放置するのは危険なので、こいつを連れていきます。オルフェに合流するまで、しばらく歩かせてしまいますが……」
「その必要はありません。デスマスクは私が持っていきましょう」
「! その声は」
思わず驚いた拍子に持ち上げかけたデスマスクを落としてしまった。……まあいいか。
声のした方を振り返ると、そこには一度金牛宮で別れたムウ殿がいた。それにアイオロスまでいるではないか! いつの間に!
「また、派手に吹っ飛ばされたな。ははっ!
「いつからそこに……」
「あなたが戻ってくる少し前に、瞬が紫龍に追いついたのです。それを追ってきた彼らとも、つい先ほど合流しました」
「お前の魂が戻ってきた時にはもういたんだが、よほど女神の張り手に面食らったようだな。回復作業にも集中していたようだし、終わるまでは声をかけなかったんだ」
「フフッ、瞬が来たときは何処に隠れようか焦りました。アイオロスとムウがそれぞれ高速でわたしたちを回収してくれなければ、見つかってしまっていたかもしれません」
アイオロスと沙織ちゃんの言葉に呆然とする。ま、まさかこれほど近くに居て気づかんとは……! 不覚……!
聖闘士にあるまじき感覚の鈍りに羞恥で顔が赤くなりそうになるが、そこは堪えて咳払いでごまかす。
「そ、そうか。待たせてしまったようだな。……紫龍と瞬は追わなかったのか?」
「なに、この距離ならすぐに追いつく。それなら先に合流しておいた方がいいだろう。……短い別れだったな」
「ああ、そうだな。ところでそちらは何か変わったことはあったか?」
私が問うと、アイオロスは一瞬目を泳がせてから「いや……」と言いかける。
「何かあったんだな」
「ま、まあそれは紫龍たちを追いながら話そうではないか! 星矢も、もう先に進んでいるんだろう? ……オルフェを信用していないわけではないが、次は獅子宮だ。出来れば早く行きたい。先を急ごう」
「…………わかった」
アイオロスの言う事はもっともだし、その心情もわかる。次の宮はアイオロスの弟、アイオリアが守護する宮だ。…………しかもサガに操られた状態の、な。アイオロスは聖域を探ってくれていた魔鈴からその事実を聞いたときは怒りに震える体も理性で抑えてみせたが、内心穏やかではないだろう。だから今はなぜ上半身裸なのかは聞かないでおいてやる。
魔鈴と言えばシャイナの説得を任せてきたが、果たして間に合っただろうか。沙織ちゃんに化けた辰巳殿の護衛は邪武たち他の青銅聖闘士達が到着せねば交代できんからな……。
「では、そろそろ無駄口を叩いていないで行きますよ。
ムウ殿に促され、私は再び沙織ちゃんを背負う。……それはいいんだが……。
「あの、ムウ殿。一応そいつも先ほどまで死にかけていたので、もう少し持ち方を……というかサイコキネシスを使えばいいのでは……」
デスマスクの運搬を引き受けてくれたムウ殿だが、どう見ても今のままだと十二宮を抜けるまでにデスマスクの顔が愉快なことになってしまう。何故ならムウ殿はデスマスクの両足だけを掴んだ状態だからだ。
……あれでは顔と上半身が地面についたまま引きずられることになり、階段ではあらゆる角にぶつけるだろう。ムウ殿、わざとか?
「ああ、それもそうですね」
思ったよりあっさり頷いたムウ殿がサイコキネシスでデスマスクを浮き上がらせるが、もし私が言わなかったらこの方はきっとそのままデスマスクを引きずっていただろうという確信がある。…………やはりムウ殿は絶対に敵に回したくないな。というか、怒らせたくない。
そして改めて先へ向かおうとした、その時だ。
「な、アイオリア!? な、何故。お前は教皇の幻朧魔皇拳に操られているはず……それに黄金聖闘士……!?」
宮の入り口から聞こえてきた声に振り返れば、そこには巨漢の雑兵服の男がひとり。片耳が無くモヒカンヘアーのその男は私もよく知っている。
「カシオスか。どうやら魔鈴の説明は間に合わなかったようだな……」
「あ、あんたはリューゼさん!? これはどういう事だ。説明してくれ! 星矢たちはどうしたんだ!?」
現れたのはシャイナの弟子であるカシオスだ。星矢とペガサス聖衣を巡ってこの聖域で競った相手でもある。
このカシオスはヒールのような立場で登場した上に、見た目通り乱暴者なのだが……幼いころから自分を指導してくれたシャイナへの親愛は本物だ。そのシャイナは幻朧魔皇拳に侵されたアイオリアに星矢が殺されると思い、怪我を押して駆けつけようとした。そしてシャイナを止め、彼女の代わりに星矢を守ろうと……自らの死をもってアイオリアの目を覚まさせたのがこの男である。初回登場時の印象を覆したその姿は、私の記憶にも強く焼き付いていた。
確かに伝説の魔拳、幻朧魔皇拳は誰かが目の前で死ななければ解けることは無いと言われている。だがみすみすこの少年を死なせることなどするものか。
「星矢たちは先に進んでいる。……お前は、シャイナの代わりに星矢たちを助けてくれようとここに来たのだろう? だが安心しろ。星矢達は死なせん。だからお前はここで戻るがいい」
「な、何がなんだか分からないのに戻れるか! というかその女、いや、その方は
……こいつ案外情報通だな……。それにここまでの宮がほぼ無人とはいえ、よく巨蟹宮までたどり着いたものだ。アルデバラン殿も通してやったのだろうか。
デスマスクが存命のため、この巨蟹宮には未だ亡者の死に顔が張り付いている。そこを通るのは流石に怖かったのか、微妙に腰が引けているがな。
「時間がありません。ここはカシオス……でしたね? あなたもわたし達と共に来なさい。説明はその道中で」
「は、はあ……」
気高い小宇宙を纏う沙織ちゃんに気おされたのか、段々と勢いがしぼんでいくカシオス。ともあれ沙織ちゃんの言う通りだ。そろそろ先に進まねば……。すでに獅子宮では星矢とアイオリアの小宇宙がぶつかっている。
「短い間だが、よろしく頼むぞカシオス! ちなみに私はアイオリアでなく、アイオリアの兄アイオロスだ」
「十三年前の逆賊の!?」
……いかんな。下手に情報通なだけに、カシオスに押し寄せている情報量が多すぎる。……まあいいか。
「今度こそ行くぞ!」
現在四時間が経過。
……火時計の四番目が、消えた。(※ダイダロスの手動で)
「遅かったな。もう戦いは結構進んでいるぞ」
オルフェの言葉に戦いを見れば、ちょうど星矢たちがアイオリアのライトニングプラズマで吹き飛ばされているところだった。アイオリアが悪鬼のごとき形相に染まり、一切の理性を残していないところを見るに一撃こそ決めたのだろうが……。三人がかりでもやはり、今のアイオリアは厳しいか。
私たちが獅子宮についたころ、戦いはアイオリア対ペガサス星矢、ドラゴン紫龍、アンドロメダ瞬という様相になっていた。それを追いオルフェと合流した私たちは、現在このエリダヌス星座のリュサンドロス、射手座のアイオロス、
ちなみにアルデバラン殿だが、ムウ殿によると私の予想通り金牛宮にて十二宮の守護を引き受けてくれたそうだ。これから他の宮の守備力ボロボロになるからな。頼んだぞ、アルデバラン殿。
「できれば私が目を覚まさせてやりたいところだが……」
「やめておけ。理性を失っているとはいえ、今お前が出れば余計にアイオリアが混乱するぞ」
「……お二人は幻朧魔皇拳の対処法を、何か用意しているんで?」
私とアイオロスの会話におずおずとカシオスが入ってくる。まあ自分の命すら捨てる覚悟で来た男だ……。当然気になるだろうな。
「リューゼ、本当にやるのですか? 一番確実なのはオルフェの技で意識を奪い、全てが終わった後にサ……教皇に直接技を解かせることでしょうが」
「我々の目的は星矢たちの成長ですからな。彼らには悪いしこちらも気分は良くないが、一人死んだ方が言い方は悪いがやる気が出る」
それにすでに他の精神支配を受けている相手にも、オルフェの技が効くか保証が無いしな。それにいくら技が優れていても、三度目ともなれば流石に星矢たちも気のせいでは済ませられないだろう。デストリップセレナーデは美しい琴の音を相手に聞かせて意識を奪う技。二度くらいなら空耳で済ませられても、多用すれば必ず怪しまれる。
カシオスを死なせないために、ここだけはどうしても私たちの誰かが代わりに死に役として出ていくしかないのだ。そしてそれは、一応彼ら全員と面識がありインパクトがありすぎない私が適任だろう。……インパクトが強すぎない、ここ重要な。
パンっと掌に拳を打ち付けて気合を入れる。
「では、逝ってくる!」
「これから死ぬ人間にしては随分と元気ですね」
ムウ殿に突っ込まれ思わず苦笑するが、その隙が良くなかった。
「…………ッ! 馬鹿言うな! 俺の代わりにあんたが死のうってのか!? あんただって俺より強いが女の人だ! シャイナさんの大事な人だ! ここで行かせたら俺ぁ一生、シャイナさんに顔向けできねぇ!!」
「!? ちょ、おま!」
何やら勘違いしたらしいカシオスが、私より先にアイオリアと星矢たちの前に飛び出してしまったのだ!!
おい待てカシオス! 私は本当に死ぬ気などありはしないぞ! ただ特別に調合した薬草で仮死状態を作り血のりとセットで演技をだな!? 万が一があっても回復が得意な私がその役をだな!?
ええい、ここで死なせぬ相手はお前だというのに何をしている!! このメンバーの不意をつけたのは凄いが、どうせならそのポテンシャルを生きて聖闘士になるため使わんか!
だが星矢たちに視認されたカシオスを追うわけにもいかず、歯噛みしつつその場にとどまる。
カシオスはアイオリアの前に立ちふさがると、星矢たちを背にかばいその狂拳を押しとどめた。
「お、お前はカシオス!?」
「ぬ、ぬおぉ~! 星矢、ここは俺が抑える! お前は早く先へ行け! アイオリアは教皇の幻朧魔皇拳にやられて洗脳された状態なのだ! 目の前で人が死なない限り、元のアイオリアには戻らん!!」
そして星矢たちに全部説明してくれた! アイオリアの拳を一瞬でも抑えながらそのセリフを言い切るとは見上げたものだが、まずい。このままでは……!
「私がシャイナに、顔向けできんだろうが……!」
カシオスは、躊躇なく自らの腹を貫いた。
「お前が死ぬと、悲しむ人がいるんでな……。俺にとって、女神とは、あの人のこと……だ……」
その言葉を最期に、カシオスはこと切れた。