太陽が照り付ける晴天の下、闘技場……コロッセオには濃い影が落ちていた。
その中でおよそ人体から発せられたとは思えない破壊音に似た音が響く。
「がッ」
胃液と唾液を吐き散らかしながら吹き飛ばされたのは、顔の上半分を覆う仮面をつけた女。年のころはまだ十代のようで、少々背は高いが少女と言って差し支えないだろう。少女は受け身を取ろうとしたのか吹き飛ばされながらも身じろいだが、その体は数メートルもの飛距離を叩き出しコロッセオの壁に激突することで止まった。これでは受け身も何もあったものではない。
壁からずり落ちる少女を見て舌打ちするのは、たった今少女の体を壁に叩きつけた男。こちらも年若く、少年と青年の間くらいの年齢に見えるが、鋭い眼光を宿した顔立ちと苛立たし気な表情が外見年齢を押し上げて見せていた。
双方ともに黒髪。太陽の熱を十分に吸い取っただろうその色以上に、燃焼させた小宇宙の影響なのか闘技場内は熱気に支配されていた。
それを遠目で見学していた他の訓練生の内、誰かが言う。「相変わらず攻撃するほうも受ける方も化け物だ」と。
殴り飛ばされた少女は、エリダヌス星座の
殴り飛ばした少年は
現在彼らは
「弱い」
荒らげるわけではないが、吐き捨てるような一言。それに対してリューゼは腹部を押さえながらもフラフラと立ち上がり、口の端を伝う胃液と唾液の混じったものをぬぐいながらかろうじて言葉を発した。
「……ッ、申しわけ、あり、ません……。ご指導、感謝、いたします……」
その殊勝な言葉にもシュラは機嫌をよくすることなど無く、それどころかますます気に入らなさそうにリューゼを睨みつけた。リューゼは焼き付くような視線に身を震わせ体を小さくするが、その仕草は余計にシュラの中に燻る怒りを煽っては燃え盛る炎へと変える。しかし訓練以上に痛めつけるような八つ当たりに似た理不尽はせず、彼はただ怒りを胸に秘めたまま脆弱な父の後継に背を向けてコロッセオを後にした。
その背中を、仮面越しに揺れる瞳が見送った。
シュラの父……リュサンドロスは任務先で殉職した。父に指示を与えた教皇に問えばその任務先は、
聖闘士の中でも古参だった父は、丁度他の聖闘士とタイミングが合わず任務に一人で向かった。信頼され実力を認められているからこその采配だったが…………聖域に帰ってきたのは屈強で頼もしかった父ではなく、その弟子を名乗る脆弱な女であった。
父リュサンドロスは聖闘士や聖闘士候補生の面倒をよく見ていたが、直接の弟子がいるなど一度も聞いたことが無い。だというのに女は父の聖衣を……エリダヌス聖衣を纏った姿で現れた。巨漢だった父と華奢で未成熟な少女では聖衣の大きさが合うはずもないが、彼女は帰還する途中でジャミールに立ち寄り聖衣修復師であるムウにサイズ調整を依頼したという。その勝手な行動にもまた、シュラは苛立った。そのうえ父の遺体は本人の希望により燃やし、母が眠るスペインの地にて海へ遺灰を撒いたと言うではないか。
シュラは父の遺体に対面するどころか、それを弔う機会も何処の馬の骨とも知れぬ女に奪われたのである。
女……リューゼと名乗った父の後継者は、実力不足ゆえに一時的に父から託されたという白銀聖闘士の地位を剥奪された。だがそこからの研鑽と努力により、一年も経たないうちに実力を認められ正式に白銀聖闘士の地位を与えられた。
そのあとはまるで父の真似事でもするように、積極的に世界に散る聖闘士への連絡係やサポート役などの雑務、そして教皇宮で書類の整理まで手伝うようになった。
その行動すべてがシュラの気に障った。
父の聖衣を継ぐに値しない弱者が父を模倣するたびに、喉の奥が焼けつくような苛立ちに襲われる。
何故このような弱者に託した。何故この女はこんなにも弱い。何故偽物が父の真似をする。
亡き父とリューゼに向ける怒り。それを振り払うように己の更なる研鑽を続けたシュラは、ある日……デスマスクの任務について聖域を出ていたリューゼが帰ると、そこを捕まえて闘技場へ連れてきた。この怒りは自らを鍛えるだけでは消化できない、せめて父の後継にふさわしい実力をつけさせるべきであると思ったからこその行動だ。見ないふりをするだけでは、怒りと向き合わず逃げるようなことをしていては、この感情を捨てきれない。
だが己を前進させるべく起こしたシュラの前向きな行動は、結果的に悪手といえた。
とにかく、情けないのだ。リューゼが自分と対するときの態度が。
苛立ちが自分の勝手なものだと分かっていた。この怒りを向けられる方は理不尽だとしか思えないだろうことも、理解していた。
そのため自分の感情から切り離した頭の冷静な部分で、リューゼの向上心や努力だけは認めていたが……。いかんせん自分と対面するリューゼのおびえたような、顔色を伺うような態度が気に入らない。
他の者、特によく任務で組まされるデスマスクなどにはよく食って掛かる様子を見る。魔鈴やシャイナ、他の聖闘士や雑兵などへの態度も普通だ。だというのになぜかシュラにだけは必要以上に顔色を伺ってくる。……それは師匠の息子相手だからか、それとも初対面時に怒鳴りつけた影響か、あるいは両方か。
ともかくその気に入らない態度のせいで、時折訓練してやるものの関係は改善されることはなかった。
今日もまた苛立ちと怒りを消化できないまま、シュラは自宮へと戻る。
シュラはその後も八年間。まさか実の父が女になってしまったことなど知るべくもなく、感情を持て余したまま過ごしていくこととなる。
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私に背を向けて去るその姿。私のようなうねりのあるくせ毛ではないが、私とよく似た黒髪が遠ざかる。それを見えなくなるまで見送ると、私は詰めていた息を吐き出して表情を極限まで緩ませた。
鏡はなく仮面で隠されてもいるが、おそらく人に見せられるような顔ではないだろう。現に遠巻きに私とシュラの訓練を見ていた聖闘士候補生と雑兵数人が気持ち悪いものでも見たような顔を向けてきている。
ええい、散れ散れ! 見世物ではないわ! 誰がマゾだ違う! 妙な誤解をするな!!
いかんな、シュラがいなくなった途端にこれだ。こんな表情を見られては舐めているのかと余計に怒らせてしまう。
せっかく訓練に誘ってくれるようになったのだ! それだけは避けたい。
「いやぁ……。それにしても、流石は我が息子。また強くなったか。ふっ、以前の私を追い越す日も近いな。まったく誇らしいものだ!」
自分の小屋に戻るなり盛大に独り言をつぶやいてしまうが、ここなら誰も見ていないし聞いていない。女に成るなどというふざけた現状に耐えているのだ。少しくらいよかろう。
父の後継者がこんなに弱くては情けないというのが、シュラが私に訓練をつけてくれるようになった理由らしい。これが無ければ黄金聖闘士である息子とは時々書類を届ける程度の接点しか無くなるので、私はどれだけぶっ飛ばされようと任務帰りで疲れていようと、この訓練を断らなかった。愛する息子との唯一のスキンシップだからな……成長も感じられることだし、拳などいくらでも受けてやろうとも。憎々し気な視線が毎回心をえぐってくるが、それも父である私を慕ってくれていた感情に由来するものと思えば耐えられるというものだ。
どうもリューゼとしての私はシュラに随分嫌われているようだが、無視されないだけましだろうと納得もしている。とても辛いが。とても辛いが。
それにしても、シュラ相手だとついぽろっとリュサンドロスとしての言葉を出してしまいそうで危ういな。この体になって一年ほど経つが、まだ慣れん。
常々緊張感をもって接するようにしているが、今日とて「実に素晴らしい拳だったぞ!」と素で褒めそうになってしまった。すんでのところでとどまって無難な言葉で返したが……いかん、女になってから本当に感情の抑制が以前より利きにくくなった。シュラには寡黙で頼りになるかっこいい父親だと思われたくて、常にそのキャラで通してきたというのに。これではもとに戻った時が思いやられる。
「それにしても、シュラも十五歳か。大きくなるわけだ」
言いながら自分の……修行によって厚い皮が張っているものの、以前とは比べるべくもなく小さくなった掌をぐーぱーと握って開いてみる。一応私もこの見た目に合わせて年をサバ読み十五歳だと周囲に説明しているが……四十三のおっさんが十五の少女のふりとは、改めて考えなくてもきついぞ。主に私の心が。
これをあと八年……いや、もうすぐ七年か……。
やることはたくさんあるため過ぎ去ればあっという間だろうが、長いな。
(絶対に、絶対にもとに戻ってやるからな! シュラよ、父は生きているぞ!!)
魂の慟哭を胸に今日も私はエリダヌス星座のリューゼとして生きる。
いずれ元に戻り、運命に逆らい息子の命をつなぎとめたうえで再会する日を夢見て。