今心がとても痛いのだが、私はどうすればいいだろうか。
磨羯宮の中でシュラと紫龍の会話を、気配潜めて聞いていた私たちだったが……。聞こえてくるその内容に私の心は大きく揺れた。それは私の行動理念が大きく揺らいだからだ。…………かといって、私は方針を変える気はないのだが。それでもまったく動揺しないというのは難しかった。
私にとって優先すべきは、息子たちが生きて幸せになれる未来。……しかしシュラが発した言葉は、まっすぐに私の心に突き刺さる。
『俺は人間すべてが自分のために戦うのだと思っていた。自己の利益のためだけに、命を懸けるのだと。……いつからだろうな、こんな風に考えるようになったのは。俺の父は自己の利益など考えず、他者を助けるような人だったのだが』
と。
────息子よ。私は、父はそんな素晴らしい人間ではない。
少しでもシュラに父親として頼もしい姿を見せていたかった。妻と息子の住む世界を守りたかった。
そんな風に思えるようになるまでの私は使命こそ果たしても、ただただ無気力でどっちつかず。地に足がついていない根無し草だったのだ。そんな私を変えてくれた愛すべき者たちを、守りたかった。
だから私は今シュラが言ったように利害を考えずに、他者を助けるような男ではない。私は利益によって動いている。私が欲する未来のために。
他者を助けていたのだって、それに起因する感情の延長線上にすぎない。
…………それも聞きようによっては、己の利害でなく他者のためだと言われるだろう。対象が家族であるだけで、自分以外の者のために動く慈しみある行動だと、美談にでもなってな。が、私はこれが自分のわがままであることを自覚している。
なんといったって、もしシュラが望まぬとも私はシュラに生きていてもらいたいと……そう願い、無理にでも貫くつもりだからだ。
この先無事生き延びて、その中で命を懸けてシュラが戦うことがあれど……私はきっと、それの邪魔をする。
私がこの世界で生きるための
これは間違いなく、私のわがままだ。
……どうあっても、私は私が愛する者に生きていてほしいのだ。死した相手にも、安寧で居てほしいのだ。
(……チッ、五十代にもなって情けない。半世紀も生きて、これか)
割り切って、進もうと思ったではないか。なにをいつまでもグダグダと。
こんな時、妻がそばにいてくれたら私のケツを蹴飛ばして気合を入れてくれたのだろうな。「わがままで何が悪いの? 人はみんなわがままだわ。もっと自分の欲に胸を張りなさい! まったく、根暗なんだから」……とかなんとか、言われるのだろう。
こう言われるのだろうなと、それを想像しただけで私の背中を押してくれるのが妻だ。……彼女が冥界で心安らかにあるためにも、私は自分の欲を握りしめ進まねばならぬ。
…………シュラよ。こんな不甲斐ない父で、すまないな。
とまあ、色々と心に刺さる言葉が多かったのだが、これでも現メンバーの中では最年長。記憶の中の妻に頬を張り飛ばしてもらったつもりで気を取り直すと、紫龍の覚悟に感動したのか、少し涙ぐんでいる沙織ちゃんの肩を叩く。
「良い聖闘士に育ちましたな、彼らは」
「ええ。……ええ……! ねえリューゼ。わたしは……彼らの期待に応えられる女神になれると思いますか?」
「なれますとも。成長しているのはなにも星矢達だけではない。……陰ながら見守らせていただいた我らが保証します。貴女は立派に成長している。今も、これからも。なあ、アイオロスよ」
「ああ! もちろんだ」
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいですね。……ごめんなさい、少し弱気なところを見せました」
言うと、沙織ちゃんはしゃんと背筋を伸ばしてシュラと紫龍の様子に目を向けた。その姿は十代の少女でありながら、立派に女神の風格を備えている。その様子をミロ殿とオルフェも眩しいものでも見るように眺めていた。
……そうだ、これが真にお前たちが仕えるべきお方だぞ。私のような半端ものに代わって、お前たちには心から彼女を支えてほしいと思う。勝手な言い分だがな。
そんな風に私が自嘲じみた感傷に浸っていた時だ。……叩きつけられた怒声に、思わず肩が跳ねた。
「いい加減出てきたらどうだ!!」
「ぅえあ!?」
お、驚いた。思わず妙な声が出たぞ。
シュラの声を聞いて外と私を見比べたミロ殿が腕を組んで息を吐き出す。
「流石にあんな派手なことをしておいて、完全に気づかれんはずはないな。どうする?」
「ふむ、そうだな。ここはリューゼに任せて私たちは先に行こう」
「ぇうぉ!?」
また変な声が出てしまったではないか!
「? 何か問題があるのか」
「い、いや。無い……」
シュラの命が助かったことで油断していたが、当然助かったなら助かったで事情を説明しなければならない。……そしてここでシュラに説明するのは、当然父である私の役目だろう。
星矢達はいくら進みが遅いとはいえ、もう宝瓶宮に近いはず。ならばアイオロス達に先に行ってもらうのが一番だと分かっている。分かっているが……!
(こ、この姿でシュラと話すのは苦手なのだ……!)
我ながら情けない心境であった。だがそれを見透かしているはずのアイオロスは容赦がない。
「ならば時間が惜しい、先に行くぞ。……僭越ながら女神、シュラが作り出した崖も飛び越えねばなりませぬゆえ、しばしリューゼの代わりに私がお運びいたします。お体に触れる許可を頂きたい」
「ええ、よろしくお願いしますねアイオロス。……ところでリューゼは大丈夫ですか? その、顔色が悪いですが……」
「奴も男です。問題ありません」
「いやリューゼは女だろう。……というか、こいつに任せて大丈夫か。なんなら俺が説明しておくが」
どうもミロ殿は私に対してシュラの当たりがきついことを気にしているようだな。まともに説明できるのかと。……いや、だがな。
「早く出てこないか! 貴様がそこにいることは分かっているぞリューゼ!!」
何故かばれているようでな! ここにいるのが私だと!
さっきの土煙で何故バレたのか分からんが……。いや普通に考えて小宇宙か……。この中で怪我を負った私だけが小宇宙が乱れているからな……。
まあ、そんなわけだ。ここは私が行く他ないのだろう。
「あ~……。まあ、頑張れよ」
「止血したとはいえ、傷も深い。星矢達と
どこか同情の籠った声で両肩をそれぞれミロ殿、オルフェに叩かれる。……なんというか、黄金、白銀共通した認識で私に対するシュラのあたりが強いことを知られていて辛さを覚えるのだが。好き好んで嫌われているわけではない。
「……私が出た後で、隙をついてシュラの横を抜けていけ。引き留められては面倒だろう」
「わかった」
項垂れた肩をなんとか気力を振り絞って元に戻し、背筋を伸ばす。
そしてちらと四人を見てから……私は磨羯宮の外に足を踏み出した。
++++++++++++
磨羯宮の暗がりから出てきたのは顔半分を仮面で隠した、癖が強くうねった黒髪を無造作にひとくくりにした見慣れた女。
予想した通り、それはエリダヌス星座のリューゼだった。
シュラは気絶した紫龍を横たえると、鋭い視線で女を睨みつける。
「やはり貴さ……」
貴様か。そう言いかけたところで、相手の惨状に思わず言葉を止めた。
全身に打ち付けられたような打撲痕が残っており、ところどころ膨れ上がっては青紫に変色している。それだけでなく足首と胴には何かに締め付けられたような痣と、引き裂かれた肌から流れる血液。
どうやら血そのものは止まっているようだが、土で薄汚れた体と相まって、夜目に見てもなかなか酷い有様だった。
シュラは先ほどまで何故自分と紫龍が助かったのか分からなかった。
しかし紫龍と話す中で心を落ち着け冷静さを取り戻した頭は、それが何者かの介入によるものだという当たり前の答えをはじき出す。それさえ分かればあとは介入者が誰であるか……ということになるが……。
先ほどまでシュラの小宇宙ごと飲み込むように膨れ上がり、高まっていた紫龍の小宇宙。それが無い今、落ち着いて探れば磨羯宮内から忌々しくも見知った小宇宙の揺らぎを感じた。シュラはそれが何者なのかをすぐさま理解する。
(何故、姿を消したお前がここに居る……!)
エリダヌス星座のリューゼ。父の後継者。
厭わしく思おうとも、任務を忠実にこなす部分だけは認めていた。だというのにしばらく前から、何の前触れもなく彼女は聖域から姿を消していた。そのことで唯一認めていた部分さえなくなり、シュラはリューゼを責任を放棄して逃げた逃亡者とみなしていたのだが……。
その女が、何故ここに。
命を助けられたのだろう。だが紫龍が決死の覚悟で放った技に無遠慮に立ち入った事が癇に障った。それに持て余した怒りの感情すらも加わって、口から飛び出たのは苛烈な怒声。
しかしいざ出てきたリューゼの姿を見れば、自分たちを助けるのに無傷ではすまなかったことを察するのは容易。さしものシュラも、流石に八つ当たりだったかと少々反省の色を見せる。これはリューゼを前にすると苛立ちが先立つシュラにとって、非常に珍しいことだった。
「…………この紫龍は、ここで死ぬべき男ではない。だから先に、助けられたことに礼だけは言っておこう」
先ほどの怒声との落差に驚きでもしたのか、リューゼから息をのむ気配が伝わってくる。
ほんの少しだけ後ろめたさがわいた。
「い、いえ。……あの、お体に障りはございませんか」
「貴様に心配されるようなやわな体のつくりはしていない!」
「し、失礼いたしました!」
つい反射の域で怒鳴り返せば、いつものようなおどおどとした態度が返ってくる。……やはりどうあっても、その態度が鬱陶しい。
しかし感情のままに話していては、まともに事情もきけまい。紫龍のおかげで清々しい気分を味わったばかりなのだ。ここは落ち着いて話をしよう……そう思った時だ。
「すまん、通るぞ!」
「な!?」
磨羯宮の中から矢のように飛び出てきた存在に対応できず、横を通り過ぎるのを硬直したまま見送る。その数は三人……否、隠す気が無くなった様子の小宇宙を感じるに四人!
すでに跳躍し宝瓶宮へ続く階段へ向かったその人影を追いかけようと、シュラが方向転換する。と、動く前に強く腕を引かれたたらを踏んだ。
見ればそこには一気に距離を詰めて、腕にしがみついているリューゼの姿。
「ッ、放せ!」
「待たれよ! 今私が説明いたしますので……! ぐぅッ!?」
筋肉質ではあるものの、女特有の生柔らかい肌。その両腕で挟み込むようにホールドされた腕を振りほどこうと、シュラは勢いよく腕を振るうが……思った以上に容易に拘束はほどかれた。
「!」
どうやら無意識のままに手刀を放っていたらしく、リューゼの体には先ほどまでは無かった鋭利な切り傷が腹部から垂直に刻まれていた。
シュラは思いがけず攻撃してしまった事にわずかに動揺するも、謎の侵入者をむざむざ放っておくことも出来ない。そのため再度方向転換し、宝瓶宮に続く階段へ跳ぼうとしたが……。
その時だ。肉声と精神、二種類の声がシュラに届く。
「ッ! 待て、シュラ! よく小宇宙を感じろ! 先に行かれた方々は敵ではないぞ!!」
力強く発せられた声には遠慮も怯えも感じられず、それが誰によるものか一瞬分からなかった。
振り返れば傷を押さえながらも、なんとか立ち上がって再びこちらへ近づいてくるリューゼ。……その顔から二つに割れた仮面が地に落ち、ガランと無機質な音を立てた。
「ク……ッ! まったく、お前たちは揃いもそろって人の話を聞かなさすぎるのだ……!」
額から流れ出た血で視界が潰れたのか、リューゼは仮面が取れてしまった事に気づいていないようだ。今までと打って変わって遠慮のない語り口の彼女に違和感を覚えつつも……その晒された素顔を見て、シュラは驚愕に目を見開いた。
「いいか。急く気持ちは分かるが、まず一度説明させてくれ。そのだな……」
「…………そういう、ことだったのか……?」
「……ん?」
何も説明しないうちから納得したような言葉が出たからか、リューゼは怪訝そうに眉根を寄せる。眉間に深く皺が刻み込まれた、その一見不機嫌そうな表情。それは男女という違いはあるものの、非常に懐かしいものであった。
確信を得ようとシュラはおぼつかない足取りのリューゼの腕を引き、目の前に立たせる。そして顔を上向かせ固定し、目を開かせるために乱暴に血をぬぐってやった。
「うお!? な、何を……! …………!? い、いや待て! 仮面は……」
「俺が切ってしまったようだ」
「何ィ!?」
血がぬぐわれ、ぱっと見開かれた目は限界まで開いているにも関わらず非常に切れ長で鋭い。全開でこれならば、普段はさぞ誤解を招くほど目つきが悪い事だろう。自分も人の事を言えないが。
先へ進んだ侵入者。しかし跳躍しようとしていたシュラに向かって飛ばされてきたテレパシーにより、そのうちの一人が同じ黄金聖闘士であるミロだと知った。「心配するな、敵ではない。詳しい説明はリューゼから聞け!」という非常に短いテレパシーは、奇しくもリューゼの呼びかけと重なりシュラの動きを止めた。
まだ完全には納得できていないが、度重なる珍事にシュラも多少混乱している。事情を説明するというなら、行動はそれを聞いてからでも遅くはあるまい。……そう思うことにした。
だが黄金聖闘士、山羊座のシュラとして本来優先すべき質問よりも。
突然降ってわいた可能性に戸惑った心は、その疑問を自然と吐き出していた。
「リューゼ……お前は……」
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シュラに素顔が晒されたことで、体温がざあっと体の奥底に引いていくような感覚に襲われる。
今にもアイオロス達を追いかけてしまいそうなシュラを前に、もう構っていられるかと…………ついリューゼとしての口調をかなぐり捨てて素で怒鳴ってしまったが……。
そんなことより何よりも、仮面である。仮面が割れた。
別に私は素顔が晒されようと元は男、他の女聖闘士のように素顔を見た相手を愛そうだとか殺そうだとかは考えない。当たり前だ。
だがシュラをはじめとした聖域の人間に顔を見られるのは、別の意味で困る。アイオロスやムウ殿なら私の正体を知っているから問題ないのだがな……!
正直、シュラの容姿は私似だ。癖の強い私の髪質だけは継がなかったようだが、髪そのものの色と顔立ちは瓜二つと言ってよいだろう。今でも若いころの自分にそっくりだから、きっと年をとれば以前の私にもっと似る。
そして女になった私は年齢や男女の違いはあれど、顔立ちそのまま。
それを見られた。
(くっ……! 元の姿に戻るまでは黙っているつもりだったが、これは腹を括るしか……!)
どんな顔をして言えばいいのか、どんな顔をさせてどんな思いを抱かせてしまうのか。刹那の間に目まぐるしく様々な可能性が脳内を駆け巡った。
しかし高確率で……以前寄せられていた信頼を失ってしまうだろうことは感じられた。きっと何故話してくれなかったのかと、自分はそんなに信頼に値しないのかとシュラは憤るだろう。
……そうなれば私は父として……リュサンドロスとしても、以前のような親愛を向けられなくなる。それを思うと恐ろしく、心が引き裂かれそうなほどに苦しい。
だがバレてしまっては仕方がない! 私も男だ。女々しいことを言っていないで潔く腹を括ろうではないか……!
「リューゼ、お前は……」
私は裁きを受ける罪人の心境で、シュラの言葉を待った。
「まさか俺の、妹だったのか?」
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シュラの言葉をゆっくりかみ砕き、脳内に浸透させる。
思考がはじけた。
(ですよねぇぇぇぇーーーーーーーーーーーー!!!!!! 俺が同じ立場でも自分の父親が女になってるとか思わんわ!! 似た顔立ちで年齢が近ければ普通に兄妹の可能性を思いつくわ!!!!!)
久しぶりに前世の口調がひょっこり顔を出し、その絶叫で体中が満たされた私は…………気づけば頷いていた。
我が妻アナスタシアよ。
どうしよう。息子の妹になってしまった。