世界の海を支える柱を有する海皇ポセイドンの居城……海底神殿。
数百年の時を超えて
私自身もまた緊張故に生唾を飲み込むが、視線だけ巡らせて周囲を確認する。緊張感は必要であるが吞まれてはならないのだ。視野を広く持ち、場の状況を正しく理解しておかねば。
この海底神殿という空間は神の恩恵なのか、本来は陽の光など届こうはずもない深海だというのに不思議な光で満たされていた。けして明るいとは言えないが、幻想的な光源はこの場所が
気まぐれに
海とは生命が生まれ
ポセイドンの戦士たる
いや、そう考えるのは危険だ。ギリシャ神話の神がいかに人間らしいというか結構俗っぽいとはいえ、神は神。逸脱したそれらの思考を読む気もしないし読めるとも思っていない。
ともかくどんな状況になっても対応できるよう、警戒だけはせねば。
さて、現状だ。
地上の女神たるアテナ……沙織ちゃんがポセイドンの依り代であるジュリアン・ソロと、私たち聖闘士を連れてこの場に現れてから一刻ほどが経過した。
現在この場には両陣営の戦士たちが揃い踏み、互いを視線で牽制しながら神々の話し合いのテーブルを囲っている。とはいえ、未だ依り代たるジュリアンの中でポセイドンの魂は目覚めていないのだが。
牡羊座のムウ、牡牛座のアルデバラン、蟹座のデスマスク、獅子座のアイオリア、乙女座のシャカ、蠍座のミロ、射手座のアイオロス、山羊座のシュラ、魚座のアフロディーテ。
……白銀はこの私、エリダヌス座のリューゼもといリュサンドロスだ。改めて思うが、なかなかの場違い感である。いや、経験者という面で見れば私が一番年長であるのだが……事情を知らない面々からすれば、経験の浅い女聖闘士だからな。その視点を踏まえると、やはり多少居心地が悪い。
それにしてもデスマスクめ、つい最近蟹座の黄金聖衣にお許しを頂いたばかりだからか心なしか着られている感があるな。少々この空気に息苦しくもなるが、奴の間抜けっぷりを思い出して心を落ち着かせておくとしよう。
蟹座の黄金聖衣も甘いものだ。もう少し反省させておいてもよかったものを。
そして対する海皇陣営であるが、こちらもそうそうたる顔ぶれだ。目にするのは初めてだが、彼ら……
そして当の彼らは、この世界では留守番だ。今回はあくまで話し合い。戦闘での成長は見込めないため、彼らには普通に修行にあたってもらっている。
海皇ポセイドン本神は未だ覚醒していないため、あちらの首領格はカノンとみていいだろう。
妻と出会うまで周囲への関心が薄かった私にとって、彼の存在は認識こそしていたものの直接の関りは無かった。教皇シオンにも「仮の双子座」としか聞き及んでいない。
紙面の上という非常に薄い情報しか知らない私にとって、厚みを持った実在の人間として生きている彼の事はほとんど知らないといってよいだろう。
そのため彼がこうして神をも謀り、世界を手に入れようとした心情の深いところなど知る由もない。ほとんどの者に認識されずサガの陰で生きてきたようなものだろうから、捻じれる要因くらい想像つくが。あくまで憶測だ。
カノンがサガにより岩牢に閉じ込められたのが十四歳の時で、現在二十七歳。実年齢五十を超えた私にとってまだまだ彼も若者。仕出かす内容が厄介極まりないが、実行に至っていない段階ではまだ若気の至りですむ。というかすませろ。
味方になれば冥界三巨頭が一人、ラダマンティスを討ち取るほどの頼もしい戦力なのだ。是非とも経歴的にも身体的にも無傷のまま仲間に引き入れたいところである。このさい海龍としてでも構わん。双子座はサガが健在だしな。
悲壮な過去があろうがなんだろうが、まだほとんど知らぬ相手。利己的な考えで悪いが、今は貴様の事情など知らぬ。まず対外的に穏便に、しかし確実に! 取り込むために全力で対応させてもらおうか! 今の私に何ができるわけでもないし細かい事は兄のサガに投げる気満々ではあるが!
……原作でカノンが改心するきっかけとなった、岩牢で生き延びることが出来た要因。それについては
そのカノンの背に控えるのは海皇にとっての黄金聖闘士と言うべき存在、
通常ならば各方位に対応する海を支える柱を守護している彼らだが、話し合いの場にこちらだけ戦力をそろえては不公平だと、沙織ちゃんが呼ばせたのだ。
すでにここは敵地。せっかく先手をとったとのだからそのような事をする必要はないという意見も出たが、今回沙織ちゃんは同盟締結という"交渉"のために来た。
護衛兼初回のインパクトとして聖域最高戦力をそろえ自身も完全武装してきたが、対等な立場でなければ交渉など受け入れられまい、という沙織ちゃんなりの誠意である。……原作で単身海底神殿に乗り込んだ胆力は伊達ではない。
とはいえ、それで相手側がほだされるかといえばそうでもない。
彼らも他の神が自分たちの主の依り代を人質のようにして乗り込んできたとあらば、黙っているはずもなく。カノンの招集にはせ参じた彼らは、敵意に満ちた視線をこちらへ向けてきていた。まあ当然だろう。
だが我らとて話し合いを重ねた末にこの決断をし、アテナについてきたのだ。どうあっても交渉のテーブルにはついてもらうぞ。
「…………」
(ん? あの青年は……)
自身を奮い立たせるべく改めて相手側を見るが、ふと一人の青年が目にとまった。
そういえばエピソードは微妙に思い出せないが、あの片目に大きな傷のある緑がかった髪色の青年……アイザックはカミュ殿の弟子だったか。気づかれないようにしていたのだろうが、敵意ではない視線で一瞬黄金の面々を浚っていた。おそらく師を探していたのだろう。
そしてミロ殿が視線に気づいてぴくりと反応していた。もしかしたら彼の修行時代、会ったことがあるのかもしれない。
……アスガルドに彼の師も弟弟子も残してきてしまったが、これは誰かと交代させた方がよかったか? いや、それが吉と出るか不可と出るかはわからん。今さらどうこうなるわけでもなし、考えまい。
ことが穏便に済んだら……今後のためにも、会う場くらいは整えるか。
「……では先ほどは回答を急くようなことを言ってしまいましたが、改めて話し合いをいたしましょうか」
「ああ、少しいいかなミス沙織」
「はい、どうぞジュリアン」
現在石のテーブルをはさんで沙織ちゃん、ジュリアンが向かい合って着席しているが、背後に控える戦士たちにジュリアンは落ち着かなさそうだ。
無理もない。信じたとはいえ、やはりまだ自分がポセイドンなどと実感が無いのだろう。原作ではポセイドンの魂が覚醒する前、結構ノリノリで神として振舞っていた気もするが。
「私としてはすぐにイエスと頷きたいところだが、私はポセイドンであってポセイドンではない……依り代なのだろう? ならばこの場には私でなく、私の中に眠るポセイドンの魂を呼び出さなければならないのではないかな」
その言葉に少々驚く。自分の中に神の魂……自分ではない意識が存在するなど恐ろしく思っても仕方がないのに、彼は交渉するならそれを呼び覚ませと言ったのだ。
こちらとしては最初からその気だったが、まさか彼が自分で言い出すとは。
「…………いいのですか? ポセイドンの魂が目覚めれば、あなたの自意識は一時的に魂の奥底へと沈みます」
「確かに恐ろしいが、自分が居ない場所で勝手に部下と交渉を進めたとあっては、神の機嫌を損ねるだろう。そうすれば私の意志など関係なく、きっと自我を奪われてしまう。ならばそうなる前に自分の意志で決めたい」
「ジュリアン……」
「……こんな場所に来たのです。私はミス沙織が今まで私に語ってくれた内容を信じましょう。なれば地上の平和のため、ソロ家の次期当主として、出来る限りのことはさせていただく覚悟だ」
「……わかりました」
……出来た子だ。それに沙織ちゃんに負けず劣らずの胆力じゃないか。キザったらしい印象を持っていたが、見直したぞ。
さてそうなるとここからが正念場だ。
海皇ポセイドン。奴は敗北した後ジュリアンの中で再び眠るのだが、作中でもうひとたび表層に出てきたことがある。……ハーデスおよび、その従属神である双子神との戦いの
ポセイドンはその時、敗北しそうだった星矢達に遠方にあった黄金聖衣を送っている。ハーデスに地上を奪われるのが気に食わなくて嫌がらせでしたのかもしれないが、まったく話の通じない相手ではないと信じたい。
そして私たちが固唾を飲み込む中。
神である沙織ちゃんが、ジュリアンの中のポセイドンへと呼びかける。
「海皇ポセイドン。あなたに、お話があります」
「話? ふっ、愚かなる女神よ。地上を汚す人間をのさばらせているあなたの話など、何故聞く必要がある?」
「!」
それは劇的な変化もなく、あまりにも自然に……ジュリアンの声でもって"別の誰か"が受けごたえた。
「何を驚いているのだ。あなたが呼びかけたのだろう? 我が姪よ」
「…………そうですね。では、あらためて。お久しぶりですわ、ポセイドン伯父さま」
オリュンポス十二神が一柱にして、女神アテナの父であるゼウスの兄。紛れもなく強大な神格を持つ海皇ポセイドンが、傲岸不遜とアテナに対面した瞬間である。
+++++++++
冥界。黄泉平坂の先、魂が行きつく場所。
つい数刻前に忌々しき二百有余年に及ぶ封印から解き放たれた冥界の神と、配下たる魔星達は……仕事をしていた。
なにしろ冥界は忙しい。一日にいったいいくつの魂がこの地に流れ着くというのか、数えるのも馬鹿らしいとは三途の川の渡し守がこぼした愚痴である。
封印されていたとはいえ、それはいわば戦うための機能を封じられていただけのようなもの。封印から魂が解放され現代における体と冥闘士としての自覚を得て集った魔星達であるが、冥界という世界を回していくために彼らを彼らたらしめる概念は封印中も粛々と働いていたわけだ。三途の川の渡し守しかり、裁判の館の裁判官しかり。
彼ら冥闘士は冥衣によって選ばれ、戦士に相応しい肉体と小宇宙を与えられるが……。まず復活後に最初に行ったのが、体になじんだ魔星の魂が行っていた業務の引継ぎだというのだから世知辛い。
もう一度念を押すと、冥界は忙しいのだ。
そして彼らの主。冥王はといえば玉座にその身を委ねているだけで、あまり仕事をしている風には見えない。というのも、彼の存在そのものが冥界を支えているからだ。そのため、居るだけで仕事をしているといってよいだろう。
未だ依り代を手に入れていないため仮初の外殻に、本来の体が眠るエリュシオンより意識を飛ばして宿している。
「ハーデス様」
神の名を呼び、御前に膝をつく少女が居る。艶やかな黒髪をもつ美しい少女は、名をパンドラといった。
「この度は御身の魂が解放されましたこと、誠に喜ばしく。……嗚呼。以前よりいっそう、ハーデス様の至高なるお力を感じることができます」
少女の言は滑らかに紡がれるが、端々に感極まったような色をはらんでいく。待ち焦がれていた、というにふさわしいそれに神……冥王ハーデスは淡々と尋ねた。
「パンドラよ。地上の動向はどうなっている?」
「は。聖域は内乱後……封印が解かれた海皇ポセイドンの軍勢と交戦。海皇こそ再び封印したものの、少なくない打撃を受けたようです。……攻めるならば、今がよろしいかと」
「それは余が決める」
「! 出過ぎたまねでございました。お許しを」
歓喜をにじませていた様子から一転、敬愛すべき神の機嫌をそこねたかと少女は震えながら
ハーデスは気だるげに玉座へ体重を預けると、一言。
「三巨頭をここに」
「は! かしこまりました」
二百年の時を超え、再び聖戦が動き出す。