「さて……。どうしたものかのぉ」
実に二百四十三年ぶりに五老峰の滝の前から動いた天秤座《ライブラ》の黄金聖闘士……童虎は、竹林の中で顎に手を当て思案していた。その身は細い細い一本の竹の上に片脚だけで
「ろうっ……! あ……」
そんな彼に声をかける者が居た。艶やかな黒髪を編んだ美しい娘……幼き頃より童虎が育ててきた少女、春麗である。
呼び慣れた呼称を躊躇するその様に「まあ、当然じゃなぁ」と童虎は苦笑した。
「見た目は変わったが、いつも通りに呼んでくれてよいのじゃぞ? ワシは、ワシじゃ」
「で、でも。その若々しい見た目に老師と呼びかけるのは、少し抵抗が……」
自ら育てた赤子、最早孫のような存在である春麗がこの若い姿に戸惑うのも無理はない。遠慮がちなその様子に笑いながらも、童虎はしばし考え込んだ。
童虎は
(だが、本当に感心するべきは奴よの)
自分とは違い自らの力で二百年以上をも生きた戦友、前
だがその死に様こそ不本意なものであったが、経過した時間をこそ思えばこの時代にいなくて当然なのだ。
二百四十三年。それはけして軽い数字ではない。
童虎はふっと息を吐き出すと、顔を両手で張って一抹の寂しさを拭い去った。若い体に戻った影響なのか、どうも心が昔へと戻っていたらしい。
童虎がこの姿に戻ったのは、まだ昨晩のこと。封印されし魔星達が解き放たれたことを確認してからは、数日後であった。
本当はもう少し早く戻っても良かったのだが、そこは慎重をきした。急な戦闘でやむ得ず戻るのでなく、せっかく緩やかに封印を解く時間を得たのだから。
なんといってもメソペタメノスは神々の秘法。今までそれを実際に身に受けたものの話は聞かない。
解いた後で体にどんな反動がくるのかわからないため、万全の状態で戦うために時間をかけて封印を解いていたのだ。そのおかげもあるのか、若々しい十八歳の肉体の何処にも支障は無い。
馴染ませるために動き回ってみたが、絶好調だ。
「ほっほっほ。十八歳か。肉体的には、今のあやつより若くなってしまったな」
つい癖で今はもう存在しない長い顎髭を撫でる仕草をしつつ童虎は笑う。
「あやつ……ですか?」
「なに、そこそこ古い知り合いじゃよ。体は二十代半ばほどじゃろうが」
「はあ」
童虎の言い方に要領を得ないといった様子の春麗が呆けた返事を返すが、童虎は若々しい顔に悪戯気な笑みを浮かべるばかりだ。
……童虎の言うあやつとは、これもある意味神の秘法と言えばそうなのか。古の神の呪いによって女になってしまった男、リュサンドロスのことである。
白銀聖闘士、エリダヌス星座のリュサンドロス。これまで彼が記憶していた前世という非常に不安定で不確定な要素を利用し……
シオンという大きな犠牲が出てしまった以上、内輪もめという矮小な表現はいささか適切ではないが。同時に最も適切でもあるため、なんとも言えない。
聖域の者達には件の事件の元凶はサガに乗り移った軍神アーレスのものだと説明しているが、その真偽はサガの体から追い出されたアーレス(仮)しかわからないのだ。あれが外部のものでなく正しくサガの第二人格であったならば、やはり内輪もめという他ない。
色々と苦くは思うものの、しかしシオン以外の死者はゼロ。それどころか海界まで味方につけたのだから、おそらくこれまでの聖戦においてこれ以上ない状態で冥界に対抗する陣は整ったといえる。
その手を組んだ海界と後に改めて戦うことを考えれば双刃の剣とも言えるが……。今の
赤子だった女神もずいぶん頼もしくなられたことだ、と。
などなど、思考しつつ口を開いた。言葉を向けた相手は春麗ではない。
「のお、どうじゃデスマスク。今のあの方を見ても、以前のようなことを言えるか?」
「……お気づきで」
「え!? あ、あなたは!」
笑む童虎が林に向かって声をかければ、高い身の丈の影。その正体を見た春麗が狼狽しながら声を上げた。
どこか憮然とした声を辿れば、そこには以前も自分の元へ遣いとしてやってきた
以前は偽教皇をしていたサガの遣いで童虎を抹殺しに来たデスマスクであったが、今日は女神の遣いだ。一度蟹座の聖衣に見放されたらしいが、再び聖衣に認められてからは黄金聖闘士としてこき使われているらしい。機会があれば是非とも聖衣に許してもらえた経緯を聞きたいものだ。
それはさておき。
「招集の件でよいかな? 見ての通り、ワシの準備は整っておる」
「ええ。……しっかし、話には聞いていたが本当に若返ってますね。小宇宙は確かに老師ですが……」
普段粗雑なデスマスクも、童虎に対しては少し敬語を使う。しかしそれが今の童虎の姿を見て、ややぎこちなくなっているのがどこかおかしい。童虎は笑いをこらえながら気楽に答えた。
「ははっ、驚いたか。まあ若返ったというより、今までの姿が外装だったのじゃがな。あれの下はずっとこの姿のまま。……神の秘法とは、誠に摩訶不思議なものよ」
「俺としちゃあんたと同じ世代の聖闘士だってのに、サガに殺されるまで生きてた教皇の方が摩訶不思議ですがね」
「違いない」
丁度今しがた考えていた男の話題を出されて、童虎は目を細める。
デスマスクは前教皇を指してあっさりと「サガに殺された」と言ってのけた。そんな彼はリュサンドロスはじめ、自分たちが作り上げたサガ、アーレス憑依説を信じていないのか……それとも真偽など、どうでも良いのか。
おそらく後者だと思われるが、この男……浅慮なところがあるようでいて、その本質は一番ドライで自らのこだわり以外は平均的な視点をもっているのではないか、とはいつかリュサンドロスが述べていた感想だ。前に出ているようで、本当は一歩下がった位置で冷めた視線でもって周りを見ていると。昔の自分に少し似ているとも言っていたか。
「さてさて、もう少し話したいところじゃがそうもいくまい。さっそく聖域に向かうとするかの」
「さっきの質問の答えは聞かないので?」
「ほ? 意外じゃな。答えてくれる気があったのか」
自分としてはほんの揶揄のつもりで投げかけた言葉で、答えが返ってくるとは思っていなかった。童虎は片眉を上げてデスマスクを見る。
答えてくれるというならば、今の女神に対してどういった感想を抱いているか気にならないわけではない。そのまま童虎が促すように黙っていると、先ほど以上に憮然とした声でデスマスクは一言。
「図太い」
「こりゃ」
「って!」
あまりな一言につい光速でデスマスクの頭を小突いた童虎であったが、その実口元は笑っていた。
「まあ、否定はせぬが
「口の端が上がっているようですが?」
「おっと」
童虎はワザとらしく口を隠すが、今度は目元がにやついている。本気で隠す気はなさそうだ。
「ふふ……。なんというか、嬉しいものだの。こうしておぬしと軽口を叩けるというのは」
「軽口ぃ? 藪から棒になんだってん……ですか」
「そう中途半端に取り繕うくらいなら普通に話せ。いやなに……。長きにわたって続いた内乱、誰が死んでもおかしくなかったからのぉ。現におぬしとも敵対した。それが今、こうして年寄りの問いかけに答えてくれておる上に、正しき主を認めている。喜ばしく思えば顔もにやけるというものよ」
「認めるって、俺は別に」
「図太い。そう評したのであれば、少なくともひ弱な小娘とはもう思うておるまい。じゃろ?」
「…………」
さらに憮然として黙りこくってしまったデスマスクに今度は隠そうともせず呵々大笑した童虎は、不安そうに見守っていた春麗に声をかけた。
「では春麗、聖域の招集に応じてくる。……わしも紫龍もしばらく戻れぬが、おぬしなら大丈夫じゃな?」
「は、はい! ……老師、どうかご無事で。この五老峰で紫龍と老師の健勝と健闘を、心より祈っています……!」
「ほっほ。春麗の応援があれば百人力じゃ! なんといったって、黄金聖闘士との戦いに介入したくらいじゃからな!」
童虎が茶目っ気をにじませながら言えば、デスマスクが不機嫌そうに顔をそらす。そのどこか拗ねたような態度に、春麗は「怖い人だと思っていたけれど、意外と子供っぽいところもあるのかしら?」と首をかしげた。
そして数瞬迷ってから、おずおずと蟹座の男に声をかける。
「あの……。あなたも。どうか、ご無事で」
「!」
虚を突かれたようなデスマスクの顔に、春麗はしてやったりという気分になった。今はもう味方だというのなら紫龍たちのためにも無事を祈る言葉に偽りはないが、それでも思うところがないわけではない。どんな形でも驚かせることができたなら、少しばかり気分がよいというものだ。
「ははは! どうやら春麗の方が大人のようじゃな! いやまったく、よい娘に育ってくれたものじゃ!」
「まあ、老師。光栄ですが、それはわたしを育ててくれた老師のおかげです」
はにかむように笑った春麗の頭にぽんっと手を置いた童虎は、「では、行ってくる」と今度こそ背を向ける。
そしてデスマスクにテレポートを促しつつ、ぼそっと呟かれた一言はしっかり耳に届いていた。
「チッ。女ってのはどうしてこう、無駄に強かなんだ……」
童虎はそれに笑いをこらえつつ、その強かな女の中にはもしかして例の元男も入っているのだろうかと考え余計に笑いがこみ上げてきた。
しかし先ほどから笑みが絶えない気分とは裏腹に、その眼光はぎらぎらと猛る獣のごとく強いものへと変化していた。
(もしあやつの目論見通り、ここで長きにわたる戦いを断ち切れるのならばワシは……)
__________この場所に戻ってこられなくても構わない。
知られたら数名から怒られそうな気持を胸に秘め、童虎は最盛期の肉体を携え聖域に跳ぶ。
二百年以上の時を超え……童虎にとって二度目の聖戦が、幕を開けた。
同時刻、冥界。
『目覚めよ……』
深く暗い永遠の"はずだった"眠りの中、静謐ながら力のある声が彼の耳に届いた。うっすらと開かれた瞳の先には誰かいるようでいて、誰も居ない。……おそらく意識だけをこの場に顕現させているにすぎないのだろう。
(ふっ……他の者に比べ死の眠りもまだ浅い。この程度の事を考える頭は残っているようだな)
自嘲するように思考した男に、その世界の主の思念がふりそそぐ。その内容はといえば、誇りをかけて仕えてきた主に牙を向けというもの。
『かつて聖闘士であったお前ならば、十二宮もやすやすと突破できるであろう。もし
(馬鹿にされたものだ)
内心鼻で笑う。そのような甘言にのるほど馬鹿でも、提示された条件を信じるほど愚かでもない。たとえ条件を達成した後に本当に死から解き放たれようが、そこに自身の信念も、誇りも、願いも存在しないのだ。受ける理由が無い。
(いや)
そこでふむと思い至る。これはチャンスかもしれないと。
(私は例の事を伝える前に死してしまった。ならばこれは
彼は魂の寝床となっていた冷たい棺から体を起こす。そして己の誇りをねじ伏せ、表面上は実に優雅な礼をもって跪いてみせた。
「……寛大なるお心による大いなるご慈悲、ありがたく頂戴いたします。冥王ハーデス様」
肉体を見やる。その体はすでに死す直前の老いさらばえた二百六十一歳のものでは無くなっていた。死に疑似的な生命力が吹き込まれ、肉体の時を超え、体中に若々しかったかつての力が満ちていく。それこそ……人間が最も生命力に満ち溢れ最も輝く黄金期。
前聖戦を駆け抜けた、十八歳の肉体!!
彼はその姿を皮肉るように笑う。跪き
一瞬だけぎりっと唇を噛むと、彼は言葉を続けた。
「このシオンが、必ずやあなた様の前に
シオン。元教皇であり前
かつての戦友と同じく、若き肉体を手に入れたのだった。