異世界転生した俺が厄神様の厄になっていた件について   作:水無飛沫

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拾、追憶と風習と……

 

それははじめ、誰かが気まぐれに紙で作った雛人形だったのだと言う。

自らの子どもに似たてたそれに、不幸を背負わせて川に流す。

陰陽術や呪術を連想させるその儀式は、あっという間に幻想郷の村中に広まっていった。

 

「厄を背負わせて流すヒトガタ」

 

時代は流れて……。

その行為の呪術的な面を恐れてなのか、依り代に肩代わりさせる行いの後ろめたさによるものなのか、はたまた残虐な何かがあったせいか、

「流し雛」という存在そのものが忌諱されてしまい、いつしかその風習も終えてしまう。

 

そして誰も雛を流さなくなった。

 

けれども既に、厄を流すために厄を背負わされた人形は、小さな信仰とも呼ぶべき因習を手に入れてしまっていた。

 

負の信仰を得てしまったヒトガタは、それに相応しい姿で己の仕事をこなすことになる。

紙で作られた流し雛は、誰が織らなくても時期が来ると自然と川を下っていき、人里に厄をもたらした。

川を下ってくるその姿を見ると、人々はその姿を見ないように目を伏せ、自分とは縁が結ばれないようにと願う。

 

厄は流れ続け、切られ続けた縁の淀みが更なる厄を生み出す。

紙で織られた雛人形は、いつしか球体関節としての人形になり、徐々にその姿を大きくしていく。

誰からも無視されればされるほどに、人々の信仰(恐怖)心が大きくなっているようだった。

今では人と変わらない姿にまで大きくなってしまっている。

容姿だけではない。心も少しずつ成長していき、人と変わらない感情や思考を持つに至ったのだ。

その頃には彼女のことを雛人形と呼ぶものはいなくなっていた。

口に出すのも憚られる「厄神さま」として忌避されるモノになった。

 

そう。それは彼女にとっての不幸であった、と俺は思う。

誰とも関係性を結べない厄神さまに、果たして自我が必要あったのだろうか。

否応もなく雛の周りに厄は集まり、そしてそれがどのような意味を持つか知っていながらも彼女は厄を流す。

それが彼女の役割で存在意義なのだから、疑問を持つことすらせずにそうせざるをえない。

けれども流れた厄は人里へと降りて、人々を多かれ少なかれ不幸にする。

 

その生まれた経緯がどうであるにせよ、

彼女という存在は「一方的に人に不幸をもたらす悪い妖怪」となってしまったのだ。

「厄」という概念を作りだし、それを一方的に背負わせる「存在(モノ)」を作り出しておきながら……。

勝手な話だ。

 

 

……さて、ここからは俺の話だ。

 

ある日気が付くと俺は鍵山雛という妖怪の纏う厄になっていた。

流し雛に人格が生じたのだ。厄そのものにそれが起きてもなんら不思議はない。(まぁ、ちょっとした理由はあるのだが)

 

「厄」と一言で言ってみたところで、現象としての厄を説明するにはなかなかに難しいところがある。

誰かを不幸にする因子とでも言うべきだろうか。

それ故に彼女に関わろうとする奇特な者は少なかった。

 

自我を持った俺は、意識を持つひとつの個であり、また無限に集散する集合体としての厄でもあった。

鍵山雛がひとたび厄を流すと、俺の意識は千々に刻まれ幻想郷中に撒かれていく。

そして流れ着いた先々で、意識のないままに誰かを多かれ少なかれ不幸にして、また鍵山雛のもとへと戻っていく。

 

その繰り返し……。

 

その中で、幾千幾万にも刻まれた俺の総てがそれら不幸を観る。

その過程でこの幻想郷の歴史、人、妖、果ては神まで。様々なことを見聞き識り、経験した。

 

彼女のもとへ還り、意識を取り戻すほどに集積されると、また流される。

不幸と、不幸と、不幸の繰り返し。

 

 

えんがちょマスター。

いつからか……いや、意識が芽生えたその瞬間からだったかもしれない。

誰からも「縁が千代(えんがちよ)」に切られてしまう彼女を、俺は愛おしく思った。

 

 

……救いたいと思った。

 

 

 

 

 

 


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