ブレイカーは鼻先をギルガメスの顔に近付け、念入りにキスをした。両手にはビークルが再び抱えられている。その座席の上にはエステルがベッド代わりに横たわっていた(とりあえずびしょ濡れになったタンクトップは脱いで、ブレイカーのコクピット内に常備しているギルガメスの着替えを着用し、バスタオルを布団代わりにかぶった。少年の体格には大きめなTシャツは、背の高い彼女には丈がかなり際どいが、少年が照れたり女教師がからかったりする余裕はさすがにない)。
優しき深紅の竜の一つの使命は、高熱に倒れたエステルを無事キャンプまで送り届けること。少年にしばしの別れを告げると数歩ほど離れ、そして桜花の翼を、六本の鶏冠を目一杯広げた。
蒼き炎を鶏冠より吐き出しながら、深紅の竜は飛び立った。何度も背後を振り返りながら。
ギルガメスはしばらくは蒼い軌跡を眺めていたが、意を決すると素足のまま波打ち際まで駆け寄っていく。右手にはゾイド猟用のナイフ、左手にはリュックをつかんでいたが(夜通しの特訓のため、バゲットや水筒、バスタオルなどを詰めておいた)、それは靴と一緒に砂浜にまとめておく。少年は波間に足を踏み入れた。
ふわり浮き上がったブレイカーはテントの残された丘に到着すると胸をなで下ろした。勢いを殺して慎重に着地すると、ビークルをそっとテントの隣りに置いてやる。
横たわっていたエステルはどうにか両手を支えにその身を起こすと、この優しき深紅の竜に語りかけた。
「ありがとう。あなたはこれから腹ごしらえに行ってきなさい」
餌を狩りに行ってこいというのだ。ブレイカーはためらった。若き主人もこの女教師の体調も非常に心配だ。しかし、自身の体力もまた万全には程遠いのはよく理解していた。あの憎い強敵ゴジュラスマリナーを倒すためには竜も少年と同様に準備が必要だ。この深紅の竜は、女教師の頬にもキスをすると、またそっとその場を飛び立った。
一方、ギルガメスは無我夢中で、自分の手にはやや大きめのゾイド猟用ナイフを何度も何度も振り回し、斬りつけている。そのたびしぶきは彼をあざ笑うかのように飛び越し、波間へと消えていく。
困ったことに、振り回せば案外と「当たる」のだが「切り裂く」域にはほど遠い。そして鍛え抜かれた彼の動体視力は、それくらい見えるのだ。それがいやが上にも悔しさを倍増させる。
さて既に陽射しは傾いた。乱反射する海面は容赦なく、少年の円らな瞳に光のつぶてを浴びせる。そして、不意にふくれあがった波のカーテンに少年は意表を突かれた。身構えるのが精一杯で、大波は容赦なく彼の小さな身体に降り注がれる。
何度もこういう場面を繰り返すうちに、少年は水かさが増していることに気がついた。さっきまで足首辺りまでの水かさだったのが、いつの間にか膝下辺りにまで到達している。やむを得ず、足を取られながらも砂浜の方へ駆け上がっていく。彼は満ち潮というものをはじめて体感した。彼の試練は時間と空と、そして海の神々たちに逆らわなければいけないのだ。
いつしか闇のとばりが降り、双子の月と満天の星々、そして刻印の青白い輝きが、シンプルだが鮮やかな彩りを添えた。気がつけば、背後より左手の方角には街の灯がいくつもまたたいている。明かりを必要とせぬほどの輝きは、同時にギルガメスを監視していた。
少年の奮闘はいまだ、成果が見えない。大波に、満ち潮に叩きつけられ、追いやられるのはこれが何度目だろうか。畜生、畜生と、悪態をつきながらまた再び立ち上がる。
今さらながら、ギルガメスはこの試練の難度の高さに呆然とさせられた。ちょっとした波ではしぶきに向かって斬りつける時間などほとんど確保できない。かといって大きな波を待っても、斬りつけるより前にあっさり圧力に押され、時には昏倒させられるありさまである。そして足を取られたまま荒波に流されかけたところで、彼はあわてて両手で砂をえぐって踏みとどまるのだ。
気がつけば仁王立ちが猫背にへし折れていた。口や肩で荒く呼吸しうつろな目で海面をにらんでいたとき、ふと彼は腹に手を当てた。
まだ湿り気に乏しい上方の砂浜に逃げるとかがり火をたき、肩にバスタオルを引っ掛ける。バゲットに食らいつき、水筒の水を流し込む。その間、ずっとギルガメスは波間を見つめていた。……随分、押しやられたものだ。
荒々しく息を吐くと、彼は立ち上がった。無言で、波間へと向かう。
何度も斬りつけ、そのたびナイフは空を切った。しまいには足を取られ、転び、その上に荒波が降り注ぐ。
長い奮闘を経て、ついに五体に力が入らなくなったとき。ギルガメスは流木のように波間をただよう己の無様なありさまに気がついた。
満天の星空が見える。彼は目前の敵からまなざしをそらしていた。不覚にもそれは、心地良かったのだ。
円らな瞳は濁っていた。ナイフを握る右手からは感覚が失われつつある。
不意に、星空が欠けた。銀色の影が少年の視界を縦に切ると、頭のすぐ近くで波紋を作る。魚だ。人の気配が失われたのを察知し、たわむれはじめた。まさかこの瀬戸際にこんな光景を目の当たりにするなんて思いもよらなかった。
……また、跳ねた。たわむれは少しずつ、大胆になっていく。
ギルガメスの口元がかすかに動いた。銀色の影が再び彼の視界を突き抜けようとしたそのとき、雷鳴のような雄叫びが静寂を引き裂いた。
星空に向かってまっすぐ伸びたナイフの一撃は、たわむれる魚の横っ腹をかすめ、ウロコを数枚はいだ。そのただならぬ感触に、少年は我に返った。彼はすかさず小さな身体を起こすと辺りを見渡す。
「ご、ごめん! 大丈夫……?」
足元に沈んだ魚はすぐに姿勢を戻し、逃げ去っていった。少年は安堵のため息をついた。もう少しでむやみに命を傷つけるところだったからだ。……だがそこに思いが至ったとき、彼は思わず声を上げ、円らな瞳を刮目した。
今一度、憎き海原を見つめ直す。しかし彼は、次にすべき構えの動作を放棄した。両腕をだらりと下げ、背筋は伸ばすがその一方で肩の力を抜き、じっと、目前にうごめく波間を凝視する。
時に高く、時に低く叩きつけ、押し寄せるその姿は少年を盛んに挑発しているようにも見える。
しかしもはや、少年が翻弄されることはない。
彼は気がついたのだ。あまりにも無我夢中で、自分から斬りつけることばかりを考えていた。無駄な力みを落とすため、わざと大きな深呼吸を繰り返すと不動の姿勢で標的をじっと待つ。
海面が揺らいだ。……いや、これはさざ波だ。すぐさま肩の力を抜く。
続く波は大きいが、近すぎる。左前にかわしていなす。先ほどまでなら無様に押し流されてしまっただろう。
好機はすぐに訪れた。彼の小さな身体より三歩ほど離れた辺りから、膨れ上がった潮。目標はその落下点だ。
「跳ねる魚が見切れるのに……」
腰を落とし、渾身の踏み込み。
「波のしぶきが見切れないわけ、ないだろう!」
ナイフを水平に構え、左手を添える。
無数のしぶきが、目前で降り注がれる。それら一粒ひとつぶに映り込んだ星空が、横薙ぎに砕け散った。破片は波間に無数の波紋を作り出す。
波が収まったとき、ギルガメスは水平にナイフを構えたまま微動だにしなかった。かすかに全身が震えている。やがて感極まったのか、星空をあおいで雄叫びを上げた。
そのとき、背後より不自然な強風が押し寄せてきた。振り向いたとき、少年は大いに歓喜した。
「ブレイカー!」
桜花の翼を水平に広げ、ブレイカーは水面すれすれを浮かんでいる。不思議なことに、この優しき竜の口からは湯気が漏れているではないか。ギルガメスは何だろうかと首をひねったが、竜は構わず右手を差し伸べる。
少年が竜の右手に飛び乗ると、竜は彼を口元に近付けた。そしてそっと、口から何か液体をこぼして彼の冷えきった身体に浴びせた。不意打ちと同時に暖まる己の小さな身体に、少年は湯気の正体を理解した。正真正銘、真水の湯だ。……彼の体調を案じてどこかの川の水をすくって温めたのだろう。
ギルガメスは潮の香りを断ち切る湯の清々しさに、満面の笑みを取り戻した。ブレイカーは若き主人の反応に満足すると彼をつかんだ右手を口元に寄せる。口の中に入れというのだ。束の間の休息であり、戦う前のみそぎにもなるだろう。少年は快く応じた。
足下では海原が一層高く波を打ちつけている。だがこの瞬間だけは、ギルガメスは何もかも忘れた。すぐに全てを思い知ることはわかっていたからだ。
左右を銃器ではさまれた無骨なビークルもまた、満天の星空と双児の月に照らされ鈍い光沢を闇夜に浮かび上がらせていた。
座席には漆黒のパイロットスーツに包まれた者が仁王立ち。しなやかな身体に密着したスーツは、美しき曲線のシルエットを星明かりの下にさらけ出す。彼女……エステルの左手にはフルフェイスのヘルメットが抱えられており、残る右手はタオルを握って汗ばむ額をぬぐっている。
ひと眠りはした。熱は一旦、引いたようだ。しかしにじんできた汗の冷たさから、万全にはほど遠いと自覚できた。
抱えたヘルメットのシールドにも星くずが映り込む。……普段はうっとうしいから滅多にかぶらない代物だが、今だけはそうはいかない。己が気力を奮い立たせようとしたそのとき、空気がしびれた。忽然と現れた無数の殺気。まなざしが禍々しく解き放たれ、刻印の青白い輝きがシールドに映る星くずをかき消す。
彼方から、ゆらりゆらりと流木のようにただよってきたのはゴジュラスマリナーだ。星明かりはこの濃緑色の海竜も平等に淡く照らす。だがエステルが体感する無数の殺気は、紛れもなく海竜と連携するアーマードスーツ部隊やバトルローバー部隊がそこらの岩陰に忍び込んだに違いないと確信させるものだ。
エステルは軽くため息をついた。浮かべた微笑みは何とも寂しげだ。おもむろにヘルメットを装着しようとしたそのとき、彼方から張り裂けんばかりの雄叫びが聞こえてきた。
ブレイカーだ。桜花の翼を、六本の鶏冠を目一杯広げ、深紅の竜は星空より舞い降りた。無数の殺気が一斉に降り注がれる中、着地とともに地響きを轟かせる。もうもうと立ちこめる土煙。
不意打ちのアラームがビークルのコントロールパネルから鳴り響いた。
「エステル先生、お待たせしました!」
モニター越しとはいえ、愛弟子ギルガメスの笑顔を目の当たりにしたとき、エステルは思わず待ちわびた想い人を前にした少女のような笑顔を浮かべた。だがすぐに自身の表情の緩みに気がつくと、せき払いして顔を作り直す。
「遅かったわね。レディーを待たせるものじゃあないわよ?」
モニターの向こうのギルガメスは途端に神妙な面持ちになる。
「す、すみません……」
その落差に、さしものエステルもこらえ切れず、少々噴き出してしまった。
和やかな時間は続かない。またたく間に銃声が鳴り響く。
エステルは手早くヘルメットをかぶるとレバーを一気に押し込む。
闇の中から解き放たれた無数の銃弾を、ふわりと浮き上がったビークルはすぐさま軽やかに旋回してかわす。ヘルメット据え付けのマイクを通じて、エステルの凛とした声がブレイカーの胸部コクピット内に鳴り響く。
「雑魚は私が引き受けるわ。
特訓の成果、見せてもらうわよ?」
はい、とギルガメスが返事を終えるや否や、轟音が辺りにこだまする。濃緑色の海竜ゴジュラスマリナーの刀のようなヒレと、深紅の竜ブレイカーの鞭のような尻尾が早速激突、辺りに火花を散らす。
その場から遠ざかるビークル。闇に潜む戦鬼たちはすぐさま追撃をはじめ、星空の下に躍り出てきた。……エステルはほくそ笑む。その方が、気兼ねなくこの雑魚共を始末できるからだ。あとは愛弟子の武運を祈るのみ。
濃緑色の海竜ゴジュラスマリナーは、又しても悠然と空を泳ぎながら近付いてきた。しかしながらヒレから解き放たれたる殺気の凄まじいこと。四本の鎌を持つ死神は、死する運命から首の皮一枚で逃れた少年を今一度地獄に引きずり込むべく、星明かりに照らされた刃を上に下にと傾け幻惑する。
深紅の竜ブレイカーは桜花の翼を水平に広げると、ぐいと腰を落とした。
その胸部コクピット内。ハーネスでガッチリ固定されたギルガメスはタオルで汗をぬぐうと深く、深く息を吐いた。実のところレバーを握る両手さえも震えて仕方がない。何しろ一度は殺されかけた相手なのだ。円らな瞳で全方位スクリーンの向こうを凝視するとつぶやいた。
「『翼の刃』はギリギリまで抜かないよ」
深紅の竜は首を傾け、胸元の分厚いハッチをちらりと見たがすぐ小気味良く鳴いて返事をした。
その隙を狙うかのごとく、海竜は急速接近してきた。背中のブースターを噴射し、激流と化して深紅の竜めがけて迫る。
ギルガメスは震えてはいたが、この前よりははるかに落ち着いていた。
(とにかく、相手の動きを見よう。波を見極めるのと同じように、だ)
一キロ……五百メートル……百メートル。汗ばむ手の平。右からか左からか。前ビレか後ろビレか。一足一刀の間合いに近付いたそのとき、少年は確信し、レバーを捌いた。
「左からだ!」
すり足一歩で、岩盤が削れ砂が舞い上がる。
右に一歩、踏み込んだ深紅の竜。その左脇を濃緑色の旋風が抜けていく。
少年はすぐさま次のレバー捌き。応えて相棒はくるりと向きを変え、後方へ抜けていく強敵の行く先をにらむ。
見切れた。それだけのことで、たったそれだけのことで少年は頭のてっぺんから足の爪先までしびれるような感覚に襲われる。
果たして濃緑色の海竜は五百メートル以上も間合いを離してから、ゆらりと旋回に転じた。
(あんなに離れたのは、こちらの動きが予測できなかったからだ)
相手は驚き、一旦仕切り直ししたのだ。……それは決して長い時間ではないが、実に貴重な時間だ。だがそれゆえに、正面を向き直した海竜は先ほどの交叉を上回る急加速に転じた。
「今度は、右から!」
再び踏み込んだ深紅の竜。左に一歩踏み込み、長い尻尾の遠心力を頼りに、こちらも一層素早く後方を振り返る。
海竜の長い尻尾の先端が、目の前で遠ざかっていくところだ。深紅の竜は桜花の翼を水平に広げ、時計回りに振り抜く。
澄み切った音が星空に轟いた。桜花の翼が海竜の尻尾を捉えたのだ。
かすっただけではある。だから音がきれいだったのだ。だがそれ以上に、かすったという事実は大きい。
海竜は七、八百メートルほども離れた。さっきより遠いのは格下の善戦に沸き立つ怒りを抑え込む時間が欲しかったからだと、少年は思う。その想像で合っているのなら、全力で潰すべく、次は続けざまに来るに違いない。
ビークルのモニター上に映る赤と緑の光点。それが何度か交叉する様子をちらりと見ていたエステルは、やがて軽くうなずいた。この程度の情報でも彼女にはかなりのことが理解できるようだ。
(まずは大丈夫かしら……ね)
特訓の成果は確実に現れている。大丈夫、しばらくの間なら愛弟子とその相棒だけで立ち回ってもどうにかなる。そう確信した矢先、頭上をよぎる影。ただビークルが機体を横倒しにしたのもほぼ同時だ。
銃声は虚しくビークルの下方を抜けていく。星の彼方にはあの巨大な笠をかぶったような面構えのアーマードスーツをまとった兵士が、エンジンを吹かしつつ大きく旋回して仕切り直すさまが見える。
その間にも、星くずの中から他のアーマードスーツ部隊が躍り出た。五十やそこらでは効かない数だ。頭上にも、東西南北にも浮かび上がると次々にビークルめがけて向かってくる。
一方、地面には透き通る青い鎧をまとった竜の群れ。バトルローバー部隊だ。背中には頭巾とマントの兵士たちが小銃を抱え、こちらめがけて照準を定めた。
休む間は与えない。一斉の射撃は艶やかですらあった。至るところから泉が湧き出るように銃弾が浴びせられる。幾度も、幾度も。
ビークルを爆炎が包み込んでいく。一分、二分……。多くの兵士が勝利を確信し、それが静電気となって大気を震わせかけたときのことだ。
爆炎の中から漏れ出た、禍々しい輝き。煙が、炎が風に流され現れたビークルを、光の球が包み込んでいる。
コクピットでエステルは鼻で笑っていた。光の球の正体はE(※エネルギー)シールドという奴だ。あまりにもエネルギーを食うので並以上のゾイドでなければ搭載しない。……その燃料は、フルフェイスのヘルメットの中で妖しく明滅する刻印の輝きが暗示していた。
「じゃあ遠慮なく、やらせてもわうわ」
大胆にも彼女はレバーから両手を離すと、胸の辺りで交叉させる。
光の球が、弾けた。
兵士たちは何ごとかといぶかしんだが、しかしこれ以上の好機はない。アーマードスーツ部隊が、地上の兵士たちが肉迫し、銃口を解き放つ。
ところがこのとき、彼らの視界は真っ白に飛んだ。理不尽な輝きが、彼らの視界を奪ったのだ。
フルフェイスのヘルメットから、解き放たれた青白い閃光。その場にいきなり彗星が放り込まれたかのようなまぶしさは、一瞬ビークルの無骨な機体まで閃光の中に隠した。
アーマードスーツの兵士たちが、地上の頭巾たちが、こらえ切れずに手をかざす。
輝きの中から無数に放たれた、流星群。いや、その異様な軌道は鬼火ともつかない曲線を描き、包囲網を築く数多の兵士やゾイドめがけて次々に襲いかかっていく。
闇夜に、そして地上に。次々に爆炎と断末魔の悲鳴が轟く中、輝きの中から現れたビークルは機体側面のフタが開いていた。……前回も包囲から逃れるために使われた銃砲だが、ここまで異様な軌道が単独で描けるわけがない。
青白い閃光の正体ももちろん、彼女の額に浮かび上がった刻印だ。もしそこに因果関係があるなら、流星群の異様な軌道は刻印の力がもたらしたものに違いない。刻印の力は時には巨大なゾイドをねじ伏せ、時には銃弾の軌道さえ変えるのだ。
この恐るべき力を行使したあとでも、闇夜から、地上から銃声が聞こえてくる。ヘルメットの中で、切れ長の蒼き瞳は冷酷な輝きを浮かべた。愛弟子が彼方で奮戦している今、己が本性をさらけ出すことには何のためらいもない。
座席の後方から物干竿のようなアンチゾイドライフルがぬっと伸びてきた。飛び掛かってきたアーマードスーツの兵士たちを正確に狙撃し、それすらもかいくぐってきた強者にはライフル自体を振り回して殴りつける。
鬼神のごとき奮闘を続けるエステルにも不安が二つあった。一つは愛弟子。もう一つは自身の用意してきた弾薬の量だ。
それを察知したかのように、アーマードスーツ部隊は散開し、地上のバトルローバー部隊も円形の陣を敷いて一杯に広がりはじめる。
エステルは再び鼻で笑って悪態をつくと、レバーを捌きに転じた。ならば追いかけて潰すだけ。
赤と緑の竜たちの決闘も、佳境を迎えつつある。
ギルガメスの読み通り、濃緑色の海竜ゴジュラスマリナーは続けざまに斬り掛かってきた。頭上をかすめるように見せかけて急降下し足首を狙うかと思えば、今度は反対に地面すれすれを滑るように見せかけ、急上昇して首筋に狙いを定めたり。……ところがそんな、ひねりにひねった攻撃を、深紅の竜ブレイカーはことごとくかわし、桜花の翼で払ってみせた。
異様な高揚感にギルガメスは襲われている。波を見極めるのと同じように、ギリギリまで腰を落として見極めんとした結果がこれだ。今、確かに彼の集中力は極限に達しているはずである。特訓の成果だ。
すると全方位スクリーン左方にウインドウが開いた。声はないが、ワイヤーフレームで目前の宿敵が描かれ、さまざまな武装について矢印が示されている。四本のヒレ、尻尾に仕込まれた誘導弾、腹部の隠し腕、などなど改めて見ればとんでもない武装の数々である。
ところがある箇所について、指し示した矢印は極太で何度も明滅を繰り返している。少年はハッとなった。
そのときだ、海竜が雄叫びを上げたのだ。遠くでぐるり、大きく旋回。背中に積んだエンジンを目一杯吹かし、これまでとは一線を画す急加速で突っ込んできた。
「……くちばしだ!」
馬鹿でかいくちばしでの体当たり。それがスクリーンからも提示された要注意の攻撃だ。前回少年主従が敗れたときは使ってこなかった部位である。
正拳突きのようにレバーを押し込むギルガメス。ブレイカーは応えて吠えると、勢いよく背中の鶏冠を逆立てる。蒼い炎を目一杯吹かし、桜花の翼を真っ正面にかざしながら体当たりを受けて立つ。
たちまち辺りに鳴り響いた轟音は落雷のよう。土煙がもうもうと立ちこめる中、翼とくちばしとでぶつかりあった二匹の竜。両者の全身に埋め込まれた突起から火花が吹きこぼれる。
深紅の竜は盾代わりにかざした翼二枚の下から宿敵を厳しくにらみ、吠え立てる。岩盤を砕くほど踏み込んだ爪先の向こうは、自分の身体分ほどの長さに渡って地面がえぐれていた。そこまで押し込まれたのだ。しかしこの深紅の竜は両足を踏ん張り、ジリジリと押し返す。
逆立つ六本の鶏冠。先端よりひときわまぶしく蒼い炎を噴き出して、ついに海竜を押し返したとき、ギルガメスは声を張り上げて待望の指示を出した。
「翼の、刃よ!」
桜花の翼の裏側より、双剣が勢いよく展開。左、右と浮き上がった海竜のあごめがけて続けざまに斬り掛かる。
仰け反った海竜。前ビレをばたつかせて体勢を戻そうとしたとき、ギルガメスは確信した。……すぐに、次の攻撃が来る、と。だがそれは同時に、絶好のチャンスだ。
「ブレイカー、魔装剣!」
桜花の翼を水平に構え、腰を落とした深紅の竜。頭部の鶏冠の先頭が逆立ち、前に倒れて鋭利な短剣と化す。刻印が輝く少年の額にも、得体の知れぬ力が集まっていくのがわかる。
果たして少年の予想通り、海竜ゴジュラスマリナーは体勢を戻すのもそこそこに、エンジンを一杯に噴き出し向かってきた。その機敏な動きさえもが、円らな瞳にははっきり見えた。軌道は相棒の左脇腹に向かっている。
深紅の竜はさらに腰を落とす。真っ正面に、迫る前ビレ。竜は目前で首をしならせ、短剣をあざやかに宿敵の首の付け根に突き立てた。
短剣はのど元をえぐり、あごの先端がめり込んだ。シンクロの副作用でギルガメスのあごや鼻にもしびれるような痛みが襲う。だが勝利へ向けた異様な高揚感が全てを忘れさせた。彼はすぐさまレバーを目一杯押し込み、叫ぶ。
「1、2、3、4、5!」
秒を大声で数えれば、短剣がえぐる急所から光がほとばしる。そして、五秒目を数えたときギルガメスは勢いよくレバーを引き戻した。
深紅の竜は首をしならせ、短剣を引き戻す。火花が、油が吹き出る中、海竜は推力を失い、ゆっくりと地面にその巨体を叩きつけた。地面が震え、土煙が舞い上がり、辺りを包み込む。
ギルガメスは吠えた。感極まった。一度は少年の心さえへし折った海竜ゴジュラスマリナーは敗れ去ったかに見える。
ところがこのとき、突如として全方位スクリーン右側にウインドウが開いたのだ。……ウインドウ内には赤い数字が一杯に表示され、盛んに明滅している。
「4.87×××」
少年はこの数字が何を意味するのか一瞬、理解できなかった。
数字の意味は、立ちこめる土煙の中から吐き出された異物が明らかにした。ひとたび緩んだ緊張は、少年の両手に握力を再び宿させるのを遅らせた。
かくて深紅の竜ブレイカーの鼻先に、肩や腹に、足に浴びせられた異物。こらえる間もなく大の字に吹き飛ばされる。その最中にあって、ギルガメスはようやく異物の正体を網膜に焼きついた映像から理解した。……それらはゴジュラスマリナーを海竜たらしめたさまざまなパーツだ。
やがて土煙の中からゆっくりと、濃緑色のゴジュラスが現れた。邪魔なパーツをことごとく取っ払った正真正銘の暴君竜の姿がそこにあった。二足で直立し、山のような巨体を揺らしながら地響きを立ててゆっくり、近付いてくる。
ブレイカーのコクピット内は重力が逆転していた。少年は意識こそ飛んでいないものの、額の刻印は青白い輝きを弱め、風前の灯だ。地面に叩きつけられた衝撃で全身はしびれ、レバーを握り直そうにも力が入らない。
呆然とする中、円らな瞳からは涙があふれてきた。……先ほど、表示された4.87という数字の意味がようやく理解できたのだ。レバーを引き戻すタイミングが、実際に読み上げ、相棒がカウントした数よりわずかながら早かったのだ。だから相棒は警告した。だが少年は、それをすぐには理解できなかった。勝ったと、確信していたから。
その結果が、このてん末だ。
ついに濃緑色のゴジュラスは深紅の竜ブレイカーのかたわらにまで近付いた。足元はふらついているが、相手が立つことさえかなわないなら大した問題ではない。ゴジュラスは宿敵の首を右手でつかみ、高々と持ち上げる。ブレイカーは締め上げられた鶏のようにピクリとも動かない。
スパナのようなゴジュラスの右手が、メキメキと音を立てはじめた。先ほど招いた危機を踏まえるなら、まずはこの首を落としてしまうのが先決だ。
シンクロの副作用で、ギルガメスも咳き込んだ。苦しい。だが首をさする気力もどこかへ置き去りにしてしまった。……そのときのことだ。
乾いた破裂音が一発、二発。
思わぬ不意打ちは濃緑色のゴジュラスの握力を一時的に失わせた。スパナのような手からブレイカーの首はすり抜け、地面に巨体を叩きつける。
コクピットごと揺さぶられた少年は何ごとかと我に返った。その意味は、続けざまに耳の奥まで飛び込んできた罵声によって思い知らされた。
「馬鹿! 根性、見せなさいよ!」
ゴジュラスの後方五十メートルほどの辺りで、例のビークルが不時着していた。エステルはあの大部隊をも粉砕し、馳せ参じた。だが敵も相当にしぶとく、銃弾は浪費された。今やアンチゾイドライフル数発程度しか残っていない。
全方位スクリーンの左側にウインドウが開く。フルフェイスのヘルメットが荒々しく脱ぎ捨てられると、瞳一杯に涙を浮かべたエステルが顔を近付け、怒鳴り散らす。額の刻印はとうに輝きが失われている。
「男なら、もう一度立ちなさい! 立って、立って……」
震える唇を目の当たりにしたとき、ギルガメスは我に返った。……彼女のこんな辛そうな顔を見たくて戦ってきたのか。違う、断じて、違う。
電波上のやり取りなど濃緑色のゴジュラスには知ったことではない。長い尻尾が見せた異様な動き。忌々しい古代ゾイド人の女を薙ぎ払うつもりだ。
ギルガメスは戦慄した。そして涙ながらに吠えた。刻印の輝きが再びほとばしる。
「ブレイカー、魔装剣!」
深紅の竜は地べたにあってその巨体をしならせた。両腕でゴジュラスの右足をつかむと、バネのように首を持ち上げ、伸び切っていた額の短剣を強敵の下腹部に突き刺す。
じたばたとゴジュラスが両腕をもがく中、傷口から漏れ出す光。
「1、2、3、4、5……これで、どうだ!?」
そう、確認するように叫んだのはとっさの思いつきだ。秒を読むのが速すぎるなら、遅らせればいいのだ。
短剣を引き抜く深紅の竜。腹ばいに倒れ込んだのち、ゆっくりと立ち上がる。
目前の強敵は巨体をふらつかせながら尻餅をついた。そしてそのまま、地面に横倒しとなる。
土煙がもうもうと立ちこめる中、深紅の竜は低い姿勢のまま強敵をずっとにらみ続けていた。四肢をけいれんさせ、やがてその力が失われたとき、全方位スクリーン左側より再びウインドウが開いた。
「……大丈夫よ。そいつのゾイドコアは『沈黙』してるわ」
エステルが厳しい表情は変えぬまま、あの震えていた唇を少しだけ緩めながらささやいてきた。
ギルガメスは口で何度も呼吸を繰り返していた。そうすることで、決着が又しても仮初めのものにすぎなかったときのために心で身構えるしかなかった。もう一度、あのような結末には陥りたくない。
ブレイカーは若き主人を案じたのか、下あごで胸部コクピットをこすりつけた。シンクロによってくすぐったく感じた少年はようやく笑みを浮かべた。
そのとき、全方位スクリーン全体をわずかなノイズが走った。ギルガメスは我に返り、レバーを強く握りしめる。
二つのコクピットに呪いの言葉が聞こえた。
『惑星Ziの平和のために』
「ギル、逃げるわよ。そいつのゾイドコア、温度がどんどん上がってるわ!」
地を蹴った深紅の竜。桜花の翼を広げ、六本の鶏冠を一杯に開いて滑空の開始。途中でビークルを両手でつかみあげると鶏冠の先端より蒼い炎を目一杯噴き出し、急加速する。
爆風は敗れ去った屈強の兵士たちの亡骸を、その業火に包み込んでいく。
ギルガメスはハーネスを押し返さんばかりに前のめりになった。少しでも相棒の体勢を崩せば、猛追する業火と熱風に絡め取られてしまうに違いない。
レバーを一杯に押し込んだ両腕を、けいれんが襲った。目が覚めるほど鋭い痛み。少年は唇を噛んで懸命にこらえる。
全方位スクリーンの向こうに、いつしか高い稜線が広がりはじめた。その下にはかすかな街の灯がぽつり、ぽつりと浮かんでいる。満天の星空に比べればあまりにささやか
だが、狂気の抜けた穏やかな光だ。……少年は、きっとそれが平和な下界への道しるべだと確信し、一層前のめりになった。今にも両手を伸ばし、それをつかんでしまいたい衝動に駆られる。
そのとき、全方位スクリーンは後方へ向けて矢印を表示した。恐る恐る、振り向く少年。
半円状に数百メートルほども広がった業火はそこまでで膨張を止め、ひとしきり辺りを、数多の亡骸を灼き続けていた。スクリーン正面には鳥瞰図を示すウインドウが開かれ、もう十キロ以上も遠ざかったと教えてくれた。
少年ははじめて脱力し、シートにもたれかかった。ただし両手だけはあまりにも強くレバーを握りしめていたせいか、簡単には力が抜けない。乱れた呼吸を整えつつ、彼は苦痛で顔を歪めながらも両手の握力をゆるめにかかった。
滑空を続ける深紅の竜。背後の業火は大分、小さくなった。手頃な丘を見つけて飛び乗るとビークルをその場に置き、すぐさま腹ばう。この優しき竜も相当に疲れていたのだ。
胸部コクピットのハッチがゆっくりと開き、寒い外気が流れ込んできた。辺りはまだ薄暗い。
ギルガメスは足元をふらつかせながら、ようやく、外に出た。……彼なりには疲れ切った中でも相当急いだつもりだ。そして爆風から逃げる間に決めていたことがあった。再び大地を踏み締めることができたら、まず「ありがとうございました」と礼を言いたかったのだ。しかしその気持ちは一瞬にして脳内に押しやられた。
少年はひしと真っ正面から抱きしめられた。思わぬ不意打ちにアッと声を上げてしまう。
円らな瞳のすぐ前に、はだけた胸元が飛び込んでくる。エステルもまた疲れ切っており、パイロットスーツのチャックを緩めていたのだ。良い匂いと、汗の匂いが混ざりあった何とも言えない香りがただよい、それとともに少年の鼓動はいやが上にも高まってしまう。
困り果てた少年はどうしようかと逡巡した。だがそんな気持ち自体があまりに無粋だと、すぐに思い知らされることとなる。
少年を抱きしめたエステルは、彼の小さな頭を何度もさすり、頬を重ねる。……すすり泣きが、漏れ聞こえてきた。
「よく頑張ったわね……」
彼女らしからぬか細い声は、これだけ密着していたからどうにか聞こえたのだろう。
ギルガメスは残された、やり場のない両腕を握りしめた。そして、心に誓った。……もっと強くなりたい、と。
なぜ彼女がこんなにも奮闘してくれるのか、それだけは少年にはいまだにわからない。しかしそれは、案外どうでも良いことだと彼は思った。それより、一番大事なものができた。どんなに手を汚しても守り通したい、大事なものだ。
深紅の竜は自分の胸の辺りで行なわれる二人のやり取りを、首を傾けてちらりと見ると、軽くため息をついた。主人を最初にいたわるのは自分でありたかったからだ。しかし主人から聞こえてくる鼓動が今までになく落ち着いていることは、この優しくかつ神経質な竜を安堵させた。
日の出が、稜線から割り込みつつある。