出遅れ気味の朝陽を浴びつつ、進むグスタフが一匹。左右には鋼鉄の白き狼コマンドウルフが随伴している。定期便は真夜中も休むことなく荒野を駆け抜けていた。
この巨大なダンゴムシの尻より後ろには車高の高い客車が数台(横幅は地球人の見慣れた列車の倍以上はあり、寝室以外にシャワー室や食堂などを詰め込んでいる)。それに平台車が数台、連結されている。ブレイカーは平台車の上で丸くうずくまっている状態だ。
積み荷扱いは深紅の竜には不満かと思いきや、思いのほかおとなしくしていた。ゾイド専用の拘束具で平台車にくくりつけられて運搬されているから、うっぷんは相当たまっているはずだが、それが爆発する危険はギルガメスの不断の努力でどうにか抑えていた。何しろ途中休憩で一時停車するたびに、若き主人が平台車の方にやってきてはキャッチボールなどして構ってやったのだ。その甲斐あって、このゾイドには退屈かつ苦痛な旅路もここまでやんちゃせずに行っている。
さてギルガメスたちは故郷アーミタへの帰郷の途についた。レヴニア山脈を越えてリゼリア平野を西へ西へと進んでいたが、今度は東へ東へと戻ることになる。
ロブ行きの夜行特急(シャワーつき二階建ての寝台車両だ。しかも個室ときた。ギルガメスは非常に驚いたが、それくらいの贅沢ができるくらいには稼いでいた)に乗って一夜を明かし、昼頃に途中のボーグマで下車。あとはブレイカーの足で故郷アーミタまで駆けていく段取りだ。年越しまであと半月ほどはあるが、帰省や出稼ぎのラッシュは大いに予想できたから早めに移動することとなった。
エステルは淡々と、折りたたみ式のベッドをもとの対面式の座席に戻していた。天井ではガサゴソと音がする。ギルガメスも起床し、着替えているのだろう。自分の方は着替えはまだだ。初心(うぶ)な少年はきっと降り辛いだろう、さっさと済ましてやらねば。
ジャージから背広に着替えた彼女は伸びをすると、勢いよくシートに腰をおろした。カーテンを広げてみたが、陽射しはいまだ柔らかく、荒野の彼方までよく見える。
と、そばのはしごを伝ってギルガメスが下りてきた。いつぞや女教師に買ってもらったジャケットを羽織った姿は、まだまだ若さから来る頼りなさ、照れくささが抜け切れないものの、年不相応な落ち着きが少し感じられるようになってきた。
「おはようございます」
「おはよう。まだ寝てても良かったのよ?」
「習慣、ついちゃってますね」
微笑む女教師。すると少年の左手につけた腕時計型の端末がアラーム音を鳴らしはじめた。この時間にセットしたつもりがないのは彼も承知している。
「ブレイカー、おはよう。あとお休み」
やり取りを横で聞いた女教師は、窓を少し持ち上げる。たちまち注ぎ込まれる冷たい外気に縮み上がりつつ、少しだけ顔を出して後方の車両に目を向ければ、深紅の竜は尻尾の先を軽く立てて左右に振ってみせた。少年も窓に寄ると、手を振って返す。夜行性の相棒がこのまま到着時間まで熟睡してくれることを彼は願った。
少年が窓を閉めたところで、女教師はステンレスのマグカップ二杯に備え付けの電気ケトルのお湯を注ぎ、インスタントコーヒーを淹れはじめた。早くに目が覚めてしまったが、食堂エリアがオープンするまで若干時間がある。
湯気の香るマグカップを差し出しながら、エステルは切り出した。
「ボーグマに到着したら、あの子すごくはしゃぐと思うから注意してね」
ギルガメスは笑顔で「わかりました」と返した。屈託のなさに女教師はおやといぶかしんだ。
「あら、余裕ね」
笑顔の少年はちらりと窓の向こうを見つめた。
荒野の彼方には山脈とも蜃気楼ともつかない起伏が延々と続いている。あの起伏の、どの辺りに行けば都市にたどり着けるのだろう。
「……僕が家出したときは、夕方にアーミタを抜け出して、ボーグマまでずっと歩き続けたんです。着いたときは夜の十時を回っていました」
注ぎ込まれた外気のせいで少し冷たくなった指を暖めるように、彼はマグカップを両手でつかむ。
「すごく、心細かった、です……。
だから同じ道のりを今度は先生やブレイカーと一緒に行けるのが本当に嬉しいんです」
エステルは蒼き瞳を細めながらじっと聞いていた。まなざしは今の朝陽くらいに柔らかい。ギルガメスの告白は淡々としたものだが、内容は苛烈極まりない。金属生命体ゾイドが昼夜闊歩する惑星Ziにおいて、徒歩で家出することがどれだけ無茶な行為なのか……。エステルには無論、想像がついていたことなのだが、今はっきりと打ち明けてくれたことが彼女の瞳を一層細ませる。
「ご両親の方には先日もお手紙を送ったわ」
ギルガメスは円らな瞳を見張らせた。新人王戦出場決定を報告しただろうことは容易に想像がついた。彼は申し訳なさそうにうつむいた。
「……すみません」
「ふふっ、気にしないで」
エステルは首を横に振った。そもそも彼女は、今まで少年の家族についてほとんど話しを聞くことはなかったのだ。ただ、リゼリア民族自治区でのトライアウトに少年が合格したときはすぐさま住所を尋ね、手紙を書いて送った。以降何度か送っているのは彼も承知している。
彼女はギルガメスに家族のことを、執拗に尋ねることはなかった。彼にも意地があるに違いない。それを少しずつだが彼の方から話し出したのは、やはり新人王戦参加が決定してからのことだ。
両親は健在、父は農家。そして弟と妹がいるのはエステルに軽い驚きと妙な合点を与えた。前者は長男が家業を継ぐのは惑星Ziの田舎でもよくある話しで、夢破れても別の(恐らく今よりはずっと平穏な)道はあったかもしれない。それを家出までして彼は蹴ったのだ……。一方、後者はあれだけわがままで甘えん坊の深紅の竜ブレイカーを、どうにかコントロールできる理由の一端が垣間見えて、彼女は納得したのである。
ともかく、家出というルール違反を行なったのは事実だ。後顧の憂いを断つためにも今が帰郷する絶好のタイミングに違いあるまい。だから彼女は言った。
「それより、戻ったらご両親にきちんと謝るのは最初に約束したわよね?」
こくりと、ギルガメスはうなずいた。柔らかな朝陽に照らされ微笑むエステルの面長の顔立ちが少しまぶしく感じられて、少年は手元のコーヒーに視線を移す。指を暖めつつ、彼は向かいの女性が先にマグカップを口元に寄せるのを待った。
若干ただよう雲を吹き飛ばすように、ブレイカーは空を見上げて甲高く鳴きつつ軽快に荒野を駆けた。このやんちゃな竜が地面を蹴るたび、湯気が立ちこめるように砂が舞う。乾いた外気が一層砂を軽くしているのか、一歩踏み込むごとに舞い上がる様子は荒野に航跡が刻まれるようにも見える。
一方、胸部コクピット内で竜を駆るギルガメスはにわかに青ざめてきた(ジャケットは脱いで座席下部の棚の中にしまい、ワイシャツで袖をまくっている状態だが、これで正解だった。正真正銘の冷や汗をかく羽目になったからだ)。
相棒が相当ご機嫌なのは、レバーを握った両手から伝わってくる。不意を突くように全方位スクリーンに展開されたウインドウ。明滅する特大の文字が、そのまま一晩不自由をした憂さ晴らしの内容を示していた。
「じゃ、ジャンプ?」
えっと少年が息を呑むや、やんちゃな竜は強く踏み込み、砂を後に退きながら軽快に飛び上がる。一瞬襲った尻が寒くなるような感触に、少年は刻印を発動させていないことを後悔した。
すぐあとに全身を襲う着地の衝撃は、ギルガメスの表情をまたたく間に引きつらせた。反対にブレイカーの方はご機嫌で一声いななくと、駆ける速度を速めていく。
明滅する文字が切り替わる。次の内容に少年はたまらず声を上げてしまった。
「宙返り!? ちょ、ちょっと待って……うわっ!」
跳躍とともに桜花の翼を水平に広げ、空中で一回転。
着地後すぐ駆け出す深紅の竜は何とも涼しい顔だ。一方胸部コクピット内の少年はへばりつくような格好で踏ん張りながらようやく顔を持ち上げたが、まるで腹でもくだしたかのようにゲッソリとしている。
ボーグマに到着し、拘束から解き放たれた深紅の竜のはしゃぎようはご覧の通りだ。女教師エステルの予想は見事に当たったが、ここまでとはギルガメスも想像していなかった。
さて全方位スクリーン右手にもウインドウが開き、苦笑するエステルが助け舟を伸ばしてきた。ビークルは竜の左後方をやや離れて、ずっと追随している。砂ぼこりは想定通りだ。
「ブレイカー、少しは加減しなさい。ギルが目を回しているわ」
深紅の竜は甲高く鳴いて応えたが、特に何もない限り減速する気はさらさらないようだ。少年はため息をつく間もない。ゾイドがこのように能力を見せつけながら気ままに動くのは、主人に対しての熱烈なアピールの意味がある。「ねえねえ、すごいでしょう?」と自慢する心情の現れで、要は主人に甘えたいのだ。下手に叱るとかえって萎縮したり、反発したりすることもあるので上手くコントロールせねばなるまい。
だがそんな可愛い(?)厄介ごとは、ふと少年の脳裏に去来した言い知れぬ不安によって竜自身が取り下げざるを得なくなった。……深紅の竜は走る速度を落とし、胸元を見つめる。異変はエステルも察知した。
「ギル、どうしたの?」
ビークルのモニターに映し出された少年は円らな瞳で何度もスクリーンを見渡している。
「今の時間だと、ジュニアトライアウトの志望者や士官学校の受験希望者がこの辺まで走行演習に出ているはずなんです。おかしいな、全く見ないなんて……」
言い知れぬ不安に襲われた彼は、地図を見せてと相棒に伝えた。
鳥瞰図のウインドウが全方位スクリーンの左上に浮かび上がる。曲線の連なりを経て南東方面に明滅する光点がギルガメスの故郷アーミタだ。……それを目指す赤い光点はもう、半径5キロメートル以内に入ったのだ。そろそろ丘の稜線が見えていいはずである。少年は目を凝らす。
彼の不意を突くように、鳴り響くアラーム。スクリーンにはさらに別のウインドウが開く。内容を見て彼は声を上げた。
「煙の反応だって……?」
ブレイカーに限らず金属生命体ゾイドの嗅覚センサーは尋常ならざる高精度である。それが「煙たい」と判断した。……辺り一帯、見渡す限りの荒野だ。煙をただよわせそうな要因など限られている。
ギルガメスは不安と焦燥に駆り立てられたまま、レバーを握りしめる。
ものの数分も経たないうちに、今度はエステルが眉をひそめた。
「かすかにだけど私が気付くぐらい、匂ってきてるわ。風に流されているようね」
少年は答えようもなく、ただ唇を噛むのみだ。しかしその小さな口は、無理矢理に押し広げられる羽目になった。
全方位スクリーンは既に丘の稜線を映し出している。彼自身も走行演習を何度も経験していたからよく覚えていた。丘のふもとにはゾイド溜まりを管理する掘建て小屋が、稜線の頂上付近には教会やジュニアハイスクールの校舎が見えるはずなのだ。だが、それが中々見えてこない。
距離感を忘れたのかな、とギルガメスが首をひねったところに、突如ウインドウが真っ正面に開かれた。ブレイカーが気を利かせて拡大映像を表示させたのだ。恐る恐るウインドウを見たギルガメスは突如、素頓狂な声を上げた。
「ギル!?」
ビークルのモニターが映した愛弟子はさっきまでの血色の良さが嘘のように青ざめている。円らな瞳は無理矢理に見開かれ、唇はけいれんし、声をかたどることもままならない。
その理由はエステルの視界にもすぐさま飛び込んできた。
きっとそこに、少年の育ったというアーミタという村はあったのだ。しかし彼女の目にした丘は至るところがえぐれ、覆っていたはずの森林の痕跡はすっかり炭化した樹幹がまばらに立つのみで、地表さえもが真っ黒く焦げ上がっている。教会も校舎も、そこそこあるはずの民家はおろかふもとの掘建て小屋さえも、風景からは完全に抹消されていた。
そしてふもとには、煤けた鉄のかたまりが方々に散乱している。抵抗を試みた自警団のゾイドだったのかもしれないが、ビスケットのようにもろくも砕かれ焼け焦げたありさまは、およそ原形をとどめていない。
丘のふもとに近付くにつれて、エステルは時折咳き込んだ。焦げた匂い以外にもさまざまな悪臭が立ちこめている。彼女には心当たりのある匂いだった。……人が焼け死ぬと、こんな匂いがする。
深紅の竜は丘のふもとに到達するとすぐに六本の鶏冠と桜花の翼を広げた。蒼い炎を上げながらフワフワと蝶が舞うように地表を浮かびながら、元は大通りであっただろう太く真っ黒い道の上をゆっくりと進む。直に歩かないのは、本当なら立ち入りが許されないはずの道だからだ。そんな奥ゆかしい竜のすぐあとをビークルが追随する。
左右には畑が広がっていたと思われるが、燃やし尽くされ煤けてしまっていることに気付き、竜はため息をついた。遅れて進むエステルには竜の心情が理解できた。大昔、戦いに明け暮れていた頃に否応もなく見せつけられた風景そのままではないか。だが自分以上に若き主人の精神状態が心配な様子で、竜は何度も胸元を見つめては小首を傾げて案じていた。
真っ黒な道が丘の頂上に達したところで、竜が周囲を見渡す。……地表は方々がえぐれ、その中に瓦礫が点在しているという状態だ。きっとここら辺が村の中心部だったのだろう。人影はなくとも遺骸くらいはあるのではないかと思ったが、それすら見当たらない。
地表のえぐれ方には種類がある。竜自身の手の平ほど広いが人の体格よりも浅いのは、きっと小型ゾイドの足跡だ。そして人の体格ほども細く、底も見えないほど深くえぐれているのは強力なビーム兵器の仕業だ。それが混在している理由が、女教師には容易に想像がついた。沢山のゾイドが乗り込み、虐殺が行なわれたのだ。恐らくここアーミタのほとんどの住民は、ビーム兵器を直接照射されて肉体を灼かれ、消滅させられたに違いない。
そもそも兵器としてのゾイドは思ったよりも効率の良い道具だ。何しろ一歩進むだけで、たちまち数人を文字通りのぺしゃんこに踏みつぶす。そして容易に人体を消滅できるビーム兵器を携行させれば、核兵器のように地表をけがすことなく奪取できる夢のような兵器が誕生する。この土地はそんな兵器が大量に闊歩したのである。
「ブレイカー、止まって」
竜の胸元で突如声が聞こえた。ちらりと左後方に振り向き同意を求めると、女教師はこくりと首を縦に振る。
腹ばいになった竜のかたわらにビークルも着陸すると、エステルが黒のコートをひるがえして降り立つ。
胸部ハッチが開き、中から出てきたギルガメスは悪臭に咳き込みながら、虚ろな瞳を泳がせる。すぐに一本の細い道に視線が動き、声もなく歩きはじめた。
少年の分のコートも抱えていたエステルは、手渡すチャンスを失いあわてて声を掛けるが。
「この先です」
振り向きもせず、ぽつりつぶやく少年。心配げに首を伸ばす深紅の竜をあとに、女教師は追いかけた。
畑だったであろう黒焦げの荒野の中に伸びる細い道をトボトボと少年は歩いていく。……道自体は百メートルもない。だからエステルの蒼き瞳にも、その先に広がる光景がすぐに見えた。
その広場はきっと民家一軒ほどは確保できる余裕はあったのだろう。しかしそこにはもはや、瓦礫すらも残っておらず、工事現場のように無数に地表が掘り起こされているだけかに見える。だが焦げた匂いをはじめさまざまな悪臭は尽きる気配を見せない。
と、その中央に忽然と突き刺さった瓦礫の破片に、虚ろな瞳が泳いだ。
突然駆け出す少年。女教師があわてて追いかける。
破片の前に少年は駆け寄ると、呆然と立ち尽くした。すぐに追いついた女教師は彼のすぐ後ろで瓦礫を見つめ、息を呑む。……瓦礫には、公用ヘリック語で文字が彫り込まれていた。筆跡は溶けた飴のようだ。
『惑星Ziの平和のために』
ギルガメスは声もなく崩れ落ちた。天を見上げて獣のように吠えるが雄叫びはすぐに嗚咽に変わり、地に伏せ泣き叫ぶ。
かたわらのエステルは、ここで何が起きたのかを完全に理解した。間違いない、水の軍団の本隊がここアーミタに乗り込み、ギルガメスの家族をはじめ付近の住民を虐殺したのだ。悪臭はひどいがくすぶったところが見当たらない以上、虐殺は相当前に行なわれたに違いない。
だが……と彼女はいぶかしむ。
(いくら報復とはいえ、なぜ家族はおろか他の住民まで巻き添えにしたの?)
そこに考えが至ったとき、軽い自己嫌悪に陥った。戦女神のような彼女だからそういう方面に自然と思考が働いてしまったのだろうが、今はそれを考えるべき局面なのか。
だからこのすぐあと、後方でブレイカーが上げた悲鳴を耳にしたとき、彼女はひどく後悔した。
竜の主人・ギルガメスは右の拳を振り上げ、地面に叩きつけた。何度も、何度も力任せに。
さしものエステルも青ざめ、肩から覆い被さり彼の右腕をつかむ。ゾイドウォリアーならば命よりも大事な腕を、自ら傷付けるなんて……!
「ギル!? やめなさい、ギル!」
「何の意味も、なかった!」
虚を突かれ、エステルはどきりとなった。
小さな身体を震わせ、泣きむせぶギルガメス。押さえつけるエステルの右手を振りほどこうとするがかなわず、今度は焦げた地面を引っかく。突き立てられた五本の指には既に鮮血がにじんでいる。
「僕なんかが夢を追ったから! 生き延びたから!
さっさとのたれ死んでしまえば、こんなことにはならなかったんだ! 畜生、畜生!」
めちゃくちゃにかきむしる。今にも五本の指が折れてしまいそうだ。しかしそのとき。
震える彼の両肩を、つかみ抱える長い両腕。
背中に被さる柔らかい感触、そして鼓動。首元にかかる息と涙。傷付いた右手の甲に長く白い指が被さり、泥と鮮血で汚れていく。
「やめて……もうやめて……」
耳元に聞こえる、すすり泣き。
ギルガメスはハッと息を呑んだ。
彼の嗚咽は、いともあっさりと断ち切られた。……断ち切らざるを得なかった。今、自分の背後で抱きしめている彼女こそが、誰よりも少年のことを応援していてくれたはずではないか。そこに気付いたとき、彼は狂乱の渦を蹴って現実の岸辺に流れ着いた。
(僕は、エステル先生までも傷付けようとしていたんだ)
泥と鮮血ですっかり汚れた長い指を、少年の右手がつかみ直す。
流れ出る血液が一層エステルの指をけがす。だがそれよりも、土をかきむしった冷たく太い、まめだらけの指で握り返してくれたことが、彼女には嬉しかった。
「ごめんなさい、先生」
依然、震えの解けぬ声を耳にして、エステルは顔を上げる。
間近で振り向く円らな瞳には少し、生気が戻っている。それだけで、彼女の口元が少しほころんだ。
しかしながら切れ長の蒼き瞳は目許が腫れ上がり、せっかくの美貌が台無しだ。ただそれも、彼女が少し微笑んだことで緩和されたのは間違いない。
ゆっくりと、エステルはギルガメスの背中から離れた。少年は両手をついて向き直す。
「心の整理なんて、その、すぐつかないです。
けれど……こんなことだけはもうしませんから」
女教師は何度もうなずく。すぐに、二人を分つ焦げた土の上に涙がしたたり落ちた。
後方ではブレイカーが首をずっと伸ばしてヒヤヒヤしながら様子を見ていたが、優しき深紅の竜は二人の少し落ち着いた様子に安堵したのか、ようやく頭を垂れる。
突き刺すような木枯らしはまだ吹かない。だが陽射しは着々と降りはじめて、呪いの文字の刻まれた瓦礫がぬっと影を伸ばし二人に覆い被さった。