深紅の竜ブレイカーは真昼の陽射しで焦げつく荒野を駆け続けた。背後には夕陽がひたひたと迫る。竜自身にとって闇夜はむしろ天国だが、今しばらくの間だけは恐るべき脅威だ、早く逃げるべきと確信していた。
竜は地平線の彼方に視線を定めつつも、時折チラチラと己が胸元を見やる。胸部の分厚いハッチの中には、今まさに我が若き主人が鎮座し、器用にレバーを捌いて竜に対して指示を出しているところだ。……しかしその指示に比べて、主人の頭脳から漏れ伝わってくる電気の波の、何と頼りないこと。
主人は「家族」を亡くしたという。金属生命体ゾイドはそういう概念を持たない。だが賢い竜は、今もし、我が主人か、もしくは己のすぐあとを年代物のビークルを駆って追随する古代ゾイド人の女の反応がこの世界から消えてしまったらどんなに辛いだろうか想像すると、今の主人が心に負った傷の深さを案じずにはおれない。そしてそれゆえに、竜は夕陽から懸命に逃げ続ける。今の主人のこの状態では、強敵に出くわしたらとても生き残れまい。生き延びることについてはひたすら冷静に判断する、判断できるのが畜生の強みだ。
竜の懸命な疾走が功を奏し、陽が落ちる前にボーグマを取り囲むコンクリートの城壁が見えた。しかしながら、いつあるかもしれない刺客の襲撃を考えたら、この街の宿に泊まるわけにはいかない。そのため手近に丘を見つけて、今晩はそこにキャンプを張ることになる。
「ブレイカー、お留守番をお願いね?」
エステルはそう告げるとビークルを駆ってボーグマの城壁の方へと向かっていった。夕食の調達と、明日の早朝に出発する定期便の予約を済ませにいくそうだ。……その間に竜は主人らの使うテント張りや仮設風呂・トイレの設置を手伝うことになる。
荒野にも丘の上にも夜の帳(とばり)が落ちつつあるが、特に怪しい気配は感じない。表面上はのんびりとした野宿の夕べ。心配なのは主人の精神状態だったが、今のところは取り立てて心配はなさそうだ。テントや風呂などの準備は手慣れたもの。急にボオッとしてしまうことが何度かあったのは少々気掛かりだが、疲れもあるだろうし、あんな出来事があったらそういう瞬間もあるだろうというくらいに、深紅の竜は漠然と考えていた。
ひと通りの準備が終わり、あとはエステルが帰ってくるのを待つだけだ。……ブレイカーはうつ伏せて少々ため息をつくと、横になろうとした。竜は今これくらい穏やかな時間が訪れているなら、我が肉体の隅々に油を注してくれるよう、優しき主人にねだっても良いんじゃあないかと考えたのだ。
ところが、だ。か細く鳴いて甘えようとしたとき、ブレイカーはおかしなことに気がついた。……視界の向こうに、奇妙なノイズが時折、走る。
深紅の竜は首をもたげると、低く、小さくうなって虚空を威かくする。Zi人が辺りに誰もいないのにひどく恐怖する現象を、このゾイドは何度も目にしている。彼らがよくいう「お化け」なるものがどうもそこにはいるらしく、そのときこういうノイズが竜の眼には写るのである。幸い、威かくすればノイズもどこかへ消えてしまうのが普通だ。だから竜はひとしきりうなり続けた。
うなりながら、竜はこの上なく不愉快な気分になった。我が若き主人は身体は小さいが芯の強さはきっと誰にも負けないはずだ。ところがこのノイズによって本来の力を発揮できなくなってしまったら……と考えるとぞっとする(実際、主人は臆病だ)。
そう、思いを巡らしたとき、竜は大変なことに気がついた。我が若き主人は一体、どこへ行ったのか。右へ、左へと首を振り、生体反応が感知できないことに気付くと、にわかに色めき、腰を浮かせる。
そのとき、竜は首の付け根辺りに静電気が走るような不快感に襲われた。苛立ち、歯ぎしりしながら振り向いてみる。
一瞬、視界を覆う激しいノイズ。忌々しげに首を揺さぶって焦点を定めると、ようやく深紅の竜はその向こうに若き主人の姿を見つけた。と同時に、彼を取り巻く状況がひどいことになりつつあることに気がつき、素っ頓狂な悲鳴を上げた。……我が主人ギルガメスは、崖の縁に立っている!
あわてて強く地を蹴ろうとしかけたのをぐっとこらえ、竜は努めてそっと跳躍。すぐさま己も崖の縁に着地すると、主人の小さな身体を両手の長い爪で囲う。そしてささやくように甘く鳴きながら鼻先をすぐさま彼の頬に近付けようとしたのだが。
「ブレイカー? 離して」
優しき深紅の竜は、全身に流れる油が凍りついたかと錯覚した。
振り向いた若き主人の円らな瞳は虚ろで、何を見ているのかもわからない。そのくせ、どこから湧いてくるのかわからぬくらいの腕力で、竜が爪で覆った囲いを押しのけようとしている。
「ほら、行っちゃうよ。急がないと。
父さんが、母さんが、みんなが向こうに行ってしまう。
ブレイカー、離してよ。急いで、追いつくんだ」
少年の視線が流れる向こうには、地面すらない。代わりに、あの忌々しいノイズが虚空をただよっている。
かつて魔装竜ジェノブレイカーと呼ばれ恐れられたこの深紅の竜は、思いあまって空を見上げると悔しそうにわめいた。……どうすれば良いのかわからない。実体さえもわからないノイズに誘われて、我が主人が自ら命を絶とうとしている(いや、そもそもそういう自覚があるかどうかも疑わしい)。唯一の砦は自分の爪で覆った囲いだが、彼はそれすらも押しのけようとしているではないか。かといって、これ以上己の握力を強めたら繊細なZi人の身体は潰れてしまう。竜の心はへし折れそうだ。
そんな、一切の時間が停止してしまいそうな危うい空間を切り裂いたのは、渇いた張り手の音だった。鋼鉄の囲いを押しのけようとする少年の目前にエステルが仁王立ち。
「ギル!?」
すぐさま、肩を揺さぶる。
それでも当初はキョトンとしたままのギルガメスだったが、憧れの女性にまじまじと円らな瞳をのぞき込まれ、ようやく何か異変が起きていることを悟った。なぜか自分の身体が相棒の手の中にある。そして肝心の相棒はひどいうろたえようだ。……それだけではない、師匠でもある憧れの女性までもがなぜここまで息を乱しているのか。
一方、ブレイカーは胸をなで下ろすとようやく握力を緩めた。と同時に、ギルガメスの小さな身体は彼より頭一つ分ほども高い女教師エステルの胸元に吸い込まれた。
少年はアッと声を上げたが、悲鳴はすぐに呑み込まざるを得なくなった。……頭上ですすり泣く声が聞こえる。
竜の方は虚空を再度にらみ、忌々しげに吠えた。その様子を横目で見た女教師は奇妙にも、何が起きたのかすぐに理解できたようだ。
「……見えたのね?」
ギルガメスの頭を胸元に抱え込んだまま、女教師は問いかける。彼女にはおよそ似つかわしくない涙混じりの口調に、少年はようやく自分が何かひどいことをやらかしかけたことを悟った。彼は小声で「はい」とささやいた。
女教師は愛弟子の頭を優しくなでながらつぶやく。
「誰も迎えになんか来ないわよ……来るわけ、ない。ついていったら、駄目」
その言葉に少年は、今や自分の心にどうしようもない風穴のような傷口が開いてしまっていることを改めて悟った。そしてそこを突かれたらいとも簡単に命尽きてしまうこと、それが相棒や憧れの女性をひどく悲しませてしまうことも。回避するためには、強くなるしかないのだ。傷口を埋められるほど、強く。
だから彼は、今一度「はい」とだけささやいた。それしかできない自分が本当に憎らしい。
ギルガメスは例え深い悲しみのどん底に突き落とされようとも次の朝陽は昇り、年は明けることを、この冬はじめて知ることとなった。
心臓に風穴でも開けられたかのような虚脱の日々を、彼はひたすら練習に明け暮れることでどうにかしのいだ。もっと強くなって、春の新人王戦に臨むのだ、と。
だが所詮は自己満足にすぎないのではないかと、何度も思考が反芻される。そのようなことをしても死んだ者が甦ったりはしないのだ。それを彼は、憧れの女性と、可愛い相棒を思い浮かべることで何とかして打ち払い続けた。絶望の淵に立った自分に手を差し伸べてくれた者たちは、生きて同じ時を過ごしているのだ。せめて胸を張って立てるようでありたい。思考の反芻を何度も、何度も打ち払い続け、少年は奮闘を続けた。
そして、その日はやってきた。
腕時計型の端末が目覚ましのアラームを告げる。寝袋に包まったギルガメスは頭上のそれを手を伸ばしてつかみ、チャックを降ろしてむくむくと起き上がる。
昨晩、少年は相棒ブレイカーの胸部コクピット内で一夜を過ごした。Tシャツの上にセーター、そしてジャージと厚ぼったい格好は、無駄な電力を使わせまいとする彼なりの配慮である。
少年の動きに呼応するように、薄暗い室内はパッと明るくなった。……辺り一面の銀世界が、全方位スクリーンに描き出される。まだ明け切らぬ冬の夜は、昨晩も彼らの行く先を雪で染めた。
「ブレイカー、おはよう」
少年が天井を見上げて挨拶すると、相棒の甲高い鳴き声が外から聞こえてきた。
すると少年の左側にある操縦席を隔てて、エステルがゆっくりと伸びをする。
「あ、先生。おはよう、ご、ざ、……!?」
何気なく操縦席の向こうを見てしまった。彼女は黒のタンクトップに白のパンティーという出で立ちだ。相変わらずの無防備な姿に少年はあわてて目線を反らし、背中を向ける。同じように寝袋に包まっていたのにその格好は少年とは正反対だ。
エステルはギルガメスの様子に気がつき、苦笑しながら告げた。
「ああ、おはよう」
伸びをやめるとかたわらに置いてあった水筒のフタを開ける。
濃厚な苦い香りが向こうからただよってきた。エステルの長い腕がコーヒーの入ったコップを差し出す。何気ない、いつも通りの朝が訪れたことに少年は感謝した。
ギルガメス一行は新人王戦が開催されるというヘリック共和国軍の演習場に向かっている。百名を越す参加者が集まり、しかも一日で決着をつけるという。そのため相応に広大な試合場として演習場が借りられるのである。
問題は移動手段だ。演習場はとにかく広い上に、こういう物騒なものがある土地柄のため付近に街らしい街もない。移動の途中で補給や小休止は困難だ。
幸い、演習場内の拠点に向けて定期便が出ている(巨大なダンゴムシ・グスタフが何両もの平台車を牽引するごく一般的なものだ)が、もともと軍人や物資を搬送するための便だ。先の帰郷のように贅沢な旅行用車両も用意されてはいない。そこでブレイカーとビークルを平台車に乗せ、師弟は胸部コクピット内で一夜を過ごすことにした。結局はいつも通りに近い旅路だ。
既に背中の翼や鶏冠には雪が十センチ以上も降り積もっているが、それでも苛立つ様子は見られない。気むずかしいこの深紅の竜にとって、主人がごく身近にいることの方がはるかに大事ということだ。他の車両にゾイドが乗っていないこともあり、この旅路の間はおとなしくしていてくれそうだ。
コーヒーを一口また一口すすりながら、少年はぼんやり天井を見上げる。雪自体は故郷でもよく見た光景だが、凍える心配なく眺めていられるのが嬉しい。
手洗いだけは少々問題で、仮設トイレが平台車の左隅に設置されてあるが、ご覧の通りの積雪である。猛烈に寒い外に出るのはともかく、雪を踏み越えるのは大変だ……と少年が思っていたら、相棒がビークルを抱えていた左手をスッと伸ばした。深紅の竜は引っかくように雪を掘り起こして道を作ってくれたのである。彼は天井に向かってありがとうとささやいた。
ギルガメスの穏やかな様子を流し目で見て、エステルは内心ホッとした。
虚しく悲しいあの帰郷以降、愛弟子は厳しい練習を着実にこなしてきた……痛々しいくらいに。
彼はどちらかと言えば無口な方だ。だがそれにしても、不平不満も軽口さえも、文字通り全て胸の奥に抑え込むようにして練習に明け暮れるさまは、年頃の少年らしからぬ鬼気迫るものがあった。大体、あのようなことがあれば「復讐」などという言葉をつぶやいてもおかしくないはずだし、それをきっと誰もとがめたりはしない。だが彼はそれすらも言わないのだ。
その反動か、彼は時々呆然と立ちすくむことがあった。もしや、あの日に見たような幻覚らしき何かに心を揺さぶられてしまっているのではないか。今、悪魔が彼の耳元で何ごとかささやいたら、彼の心はぽっきりと折れてしまうに違いない。
だからそのたび、エステルがかたわらに寄り添い優しく声を掛けたり、ブレイカーが鼻先を近付け甘えてみたりした。そのたび、我に返る少年の姿に、女教師も深紅の竜もホッと胸をなで下ろす場面が何度もあった。こんなやり取りを繰り返すことで、折れそうになった彼の心の平静はどうにか保たれたのである。彼女たちはある意味、愛弟子以上に苦闘の日々を過ごした。
その甲斐あってか、今朝のギルガメスは、思いのほか穏やかだ……決戦前夜であるにも関わらず。
もっとも表向きはこの通りだが、現実には不意の出来事によって一気に崩壊してしまう可能性は依然として残っているだろう。それでも、今日この日までに相当持ち直したはずだし、そう信じたい。
ブレイカーの方は安心し切っているのか、呼吸のおとなしさが胸部コクピット内からも察知できる。エステルはイブに祈りを捧げつつ、コーヒーの苦い香りを今しばらく楽しんだ。
ヘリック共和国軍演習場の駐屯地もまた、やたらに巨大で横に長いコンクリートの塀で、延々と外周を囲っていた。門の付近には続々と、平台車を引っ張るグスタフが集結しつつある。見たところ定期便が半分、残りは派手な塗装やマーキングの施されたものが散見される。これらは規模の大きなチームの所持する運搬用といったところだろう。
平台車の上には大小さまざまなゾイドが積まれている。ギルガメスが見たこともない珍しいものも散見され、さながら博覧会の様相を呈しつつある。ただし雪だけは平等に、どの平台車にも十分に降り積もっていた。
鋼鉄の門を越えると透き通った青い鎧の竜・バトルローバーが数匹、平台車の周囲に群がってきた。背中には防寒着をまとった共和国軍兵士が騎乗しており、拡声器を通じて下車をうながすとすぐさま遠巻きになった。
ブレイカーは全身をブルブルと震わせながら雪を払い、地面に降り立つとビークルを抱え直す。兵士たちが離れたのは払った雪をかぶらないようにするためだ。竜の全身から雪が払われたのを確認すると、すぐにバトルローバーの一匹が前に立って誘導をはじめる。竜はおとなしく従った。よその平台車からも続々とゾイドが降り立っているため、彼らがいなければ衝突などしてすぐにトラブルとなってしまうだろう。
ゾイドの足で十数分ほど歩くと、カマボコ状のハンガー(格納庫)が見えてきた。ブレイカーの上背をはるかに越えるものが無数に規則正しく建ち並んでおり、しかも地平線の彼方までそれが続いているように見える。
深紅の竜はハンガーの入り口前で再度全身を震わせて雪を払うと、ため息をつきつつ中に入り込んだ。既にその中には何匹ものゾイドが案内されている。彼らは舗装された床の上に白線で分割された区画内にうつ伏せてはいるものの、多くはぎらついた感情を押し殺せないまま、後から入ってきた竜たち一行をじろじろとにらんでいる。
フンと鼻を鳴らした深紅の竜。うっとうしい視線には無視を決め込み、用意された区画に到着するとビークルを抱えながら腹ばいになる。胸部コクピットハッチから師弟が出てくると、彼らにだけは徹底的に愛想を振りまいた。ことにギルガメスには念入りに鼻先でキスをしてやる。彼らには彼らの都合があるのは十分承知していたからだ。儀式を済ますと竜は、猫のように丸くなった。