群れなす塔の間を、ビークルが浮遊する。それを上下から、あるいは左右からじわりとアーマードスーツたちが包むように取り囲む。連中の、笠をかぶったような頭部が一斉にビークルをにらみ、左手をぐいと前に突き出した。先端は拳ではない、銃口だ。
機上のエステルはいかにもなめるなと言いたげに鼻を鳴らす。
アーマードスーツたちの一斉射撃。
ビークルは急上昇して回避。正確に追尾する射撃の包囲網。……しかしほんの一瞬でも振り切れれば十分と、エステルは確信していた。
包囲網を再び狭めんとアーマードスーツたちも背中より噴射、上昇して続く。ビークルにも決して引けを取らない飛行能力はすぐさま目下の敵の再包囲を完成したかに見えた。
エステルは手早くコントロールパネルを弾いた。するとビークルをはさむ銃器の側面を覆うフタが開く。こちらも怪しげな銃口がいくつも見える。
たちまち放出された閃光は流星群が空を踊るようにあらゆる方向へと飛び出した。ことごとく、包囲するアーマードスーツたちに命中する。
辺りを包み込む爆風の中をただ一機、颯爽と突破したビークル。
こんな雑魚どもに時間を食っているわけにはいかないと、ハーネスで押さえつけたエステルの身体は自然に前傾となる。……彼らは彼女から見れば結局は雑魚だろう。しかし今までと違い、都市の中でも平然と戦闘を挑んでくる。それもかような大部隊でだ。今までと比べてなりふり構わぬその戦い方に、彼女は内心恐れを抱いた。自然と、唇がゆがむ。
ビークルは城壁のはるか上を飛んで抜け、荒野を突き進む。モニターに映し出された鳥瞰図が赤い光点をこの上なくまぶしく点滅させたとき、エステルは思わず息を呑んだ。
視界のはるか彼方にそれははっきり見えた。……大の字にうつ伏せた深紅の竜。紅いはずの瞳には輝きが失われている。四肢も翼も鶏冠も力なく、荒野に投げ出されていた。その上、腹部の辺りに血溜まりならぬ油溜まりができあがっている。
ビークルは竜のかたわらに近付くと、空中で静止した。ハーネスが拘束を解いてせり上がり、エステルが身を乗り出しゴーグルを額に持ち上げる。既に彼女の頬にも血色が失われ、視線はゆらゆらと泳いでしまい全くもって定まらない。目前に突き出された現実は到底受け入れがたく、身体も細長い指までもが震えを抑え切れぬまま。
「何よ、これ……」
腹の底から絞り出すような声でようやくつぶやいた。
「ギル! ブレイカー!」
大声で、怒鳴る。竜はピクリともせず、モニターに映像も表示されない。
再び静寂が辺りを包み込む。エステルは何ごとかつぶやきかけた。だがそれを打ち払うように首を横に振ると、ビークルをさらに竜のそばに寄せるべく早々に座席に腰を下ろそうとした。
そのとき、向こうからゆらりと空を泳ぎ、近付いてきた別の竜がいる。海竜ゴジュラスマリナー。左の胸びれはべっとりと油で汚れている。
濃緑色の海竜はエステルをあざ笑うかのように一声吠えた。このゾイドとその主人はきっと確信している。次に彼女がいかなる行動をとろうが、体当たり一発でビークルもろとも粉々に砕け散る運命にあると。
だがその確信はものの数秒でいとも簡単に揺さぶられたのである。……斬りつけるように解き放たれた蒼きまなざし。突き刺さった眼光に、よもや人の何十倍もの大きさを誇るゴジュラスマリナーが身震いした。
エステルはすぐさま額のゴーグルをちぎるように外し胸ポケットに突っ込むと、瞳をカッと見開く。すると額にまばゆく浮かび上がった、青白き刻印の輝き。だが輝きは額だけに留まらない。端正な顔立ちを切り刻むように、至る方向へと光の筋が走っていく。彼女は両腕を胸の辺りで十字に組むと、きっと愛弟子にはいまだ見せたことはないだろう凄まじい形相で、海竜ゴジュラスマリナーをにらみつける。
眼光がこのゾイドに突き刺さったとき、異変は起こった。海竜の全身の関節が突如、きしみはじめたのだ。ヒレが、尻尾が、首が、徐々に不自然な角度に曲がろうとしている。
海竜の全身から火花が吹きこぼれはじめた。至るところに埋め込まれた突起が、この不可解な攻撃を阻止せんと体全体で抵抗を試みているのだ。
エステルの額の刻印も一層まばゆく輝き、この得体の知れない力でねじ伏せていく。
互いの身体が動かず触れ合いもしない異様な攻防。数十秒ほど経過したとき、それは突如として決着を見せた。不意に地面に叩き付けられた海竜の巨体。腹ばいのまま、陸に上がった魚のようなけいれんが止められずにいる。当分の間、追撃どころかまともな飛行も不可能だろう。
ほどなくしてエステルは構えを解くと、乗り出していた身体を崩れ落ちるようにシートに預けた。顔全体に浮かんだ刻印は急激に輝きを失っていく。代わりに彼女の額や頬には玉の汗が浮かび上がった。
上気した彼女の表情は危ういくらいに艶やかだ。隙だらけで、今この瞬間を襲撃すれば果たして抵抗できるかどうか。だが彼女は汗を手の甲でぬぐって疲労の誘惑を断ち切ると、肩で何度も呼吸を繰り返しつつ懸命にレバーを捌いた。
うつ伏せたブレイカーの頭上に、ビークルがたどり着く。
「ブレイカー! ブレイカー!?」
鬼気迫る表情で、エステルは怒鳴る。
わずか数秒の何とももどかしい沈黙を経て、深紅の竜は紅い瞳を点灯させると少し、首をもたげた。
エステルは表情を緩めず、さらに怒鳴った。
「ギルは!?」
すぐさまビークルのモニターに映像が表示される。とは言っても、内容は少年を示すワイヤーフレームと彼の現在の状態を示すさまざまな数値の羅列で占められていた。
それによると、少年は意識を失っている。原因は竜の切り裂かれた左脇腹を見ればすぐに理解できた。尋常ならざる外傷をシンクロ機能により再現したため、そのときの痛みや出血などが彼の精神をも厳しく揺さぶってしまったのだ。今はこのゾイドの機能による治療が進行中だ。一時的には止血も済んでいる。今のところは……。
エステルは胸をなで下ろすと、すぐさまビークルを竜の左肩より数メートルほど前につけた。後部からワイヤーが射出され、竜の左肩に巻きつく。
深紅の竜はか細い声ながら甲高く鳴いて、ワイヤーがしっかり固定されていることを伝えた。傷口からの油の流出もひとまずは収まっている模様だ。
エステルはうなずいたが、一瞬、物凄く不安げな表情を浮かべかけた。唇を噛んでそれを押し殺す。……可能ならば、コクピットの中に入り込んでじかにギルガメスの状態を知りたい。しかしそんなことをしていたら追っ手に追いつかれてしまう。ブレイカーは少年の生存を伝えているのだから、今はそれを信じるしかなかった。
(ギル、ごめん、ごめんね)
音を立てビークルが浮かび上がる。竜の背中の鶏冠もわずかながら蒼い炎を噴き出した。
向こうでは海竜ゴジュラスマリナーが依然、全身をけいれんさせてのたうち回っている。今のうちだ。地表すれすれを浮きながら、竜とビークルはこの場を離れた。
深紅の竜と牽引するビークルは、できるかぎり遠くへ、遠くへと離れるしかなかった。幸い、強敵は一時的にせよ戦闘不能だ。そして我らが深紅の竜ブレイカーは敗れたりとはいえ、どうにか地上を浮かびつつ逃げおおせた。これは大きい。追撃しても返り討ちにあうかもしれないと、水の軍団の連中が思ってくれたならしめたものだ。そうなることを一方では祈りつつ、エステルは何度も何度も、後方を振り返る。あるいはビークルのモニターをにらんで「大丈夫? 大丈夫?」とギルガメスの容態を繰り返し確認する。
ようやく手頃な丘を見つけると、竜とビークルは土ぼこりを立てぬようにゆっくりと着地した。ビークルは竜の左肩より前に止まる。
ここからが大変だ。エステルは足元をふらつかせながらもビークルから降り立ち、腹ばうブレイカーの胸元にまですぐさま駆け寄る。
胸部ハッチも応えるように開いた。……コクピット内は血なまぐささと汗の匂いでむせ返りそうだ。球の内側のような室内は全方位スクリーンも全て消灯し、計器類の淡い輝きだけがぼんやり室内を照らしている。
中央に着席するギルガメスは、依然として気を失ったままだ。少年の傷付いた小さな身体を拘束していたハーネスが持ち上がり、気丈な美女をそばに招く。
「ギル、ギル!」
少年の横から覆い被さり、彼の右肩を叩くが反応はない。胸の辺りに目をやれば、筋肉が動いているのがわかる。呼吸はしているが、小刻みで、荒い。そしてTシャツ。朱に染まっている。
エステルは傷付いた少年を早速両手で抱きかかえてみた。思いのほか、軽い。二人の体格差はここでは幸いしたのだ。彼女は壁に肩を何度もぶつけながら、どうにか表に出た。
頭上では、ブレイカーがずっと首をもたげながら観察していた。エステルが己の胸の中から出てきたとき、この優しき竜は安心のあまり大きなため息をついた。
「ブレイカー、もうちょっとだけ、我慢してね」
汗だくとなったエステルの言葉に、竜はか細いながら甲高い声で快く返事をした。
エステルは少年の身体をビークルの座席に乗せると自らは足場に回って仁王立ち。そして朱に染まったTシャツを強引に脱がした。
痩せた少年の上半身が露になった。左の脇腹には刀で斬りつけられたように深く、長い切り傷ができており、血がにじみはじめている。治癒能力を持つブレイカーのコクピットから離れたため、傷口が開きはじめたのだ。
再び汗を手の甲でぬぐいつつ、彼女は額に指を当てた。刻印が浮かび上がり、青白い輝きが辺りをまばゆく照らす。そしてすぐさま両手を傷口に当てると長い指で覆う。
両手からも青白い輝きがほとばしりはじめた。
気を失っているはずの少年は時折苦悶の表情を浮かべ、身をよじらせる。そのたび、大きく乱れる吐息。
気丈な美女は、怖じ気づくことなく少年の傷口に両手をかざし続ける。瞳は見開かれたまま、まなざしを注ぐのを決してやめない。
そして両手が一層まばゆく輝いたとき、彼女はバランスを崩し、片膝をついた。……両手から放たれた輝きは失われ、額の刻印も一気に弱まっていく。それでも瞳だけはしっかりと見開かれていた。
少年の呼吸が落ち着いていく。代わりに彼女は何度も肩で息をしたが、それは安堵から来る乱れにすぎない。彼女は治療がひとまず成功したと、確信した。座席の下のトランクに忍ばせてあったバスタオルを取り出すと、彼の上半身にかけてやる。
エステルは右手で背中側にあるコントロールパネルをつかみ、左手で足場に手をつくと、バネのように立ち上がった。だがすぐ足元がふらつき、コントロールパネルにもたれかかってしまう。しかしハラハラするブレイカーに気付くと「お待たせ」とにっこり微笑んでみせた。
ブレイカーは不安げだ。彼女は相当に疲労している。だが逆らってどうなるというのか。この深紅の竜は意を決すると、うつ伏せていた巨体を右に傾け、横になった。
あの濃緑色の海竜に斬りつけられた刀傷が露になる。人の何倍はあろうかという長く、深い傷口だ。金属生命体ゆえにZi人のようなグロテスクな内臓は確認できないが、得体の知れない金属細胞がむき出しになり、脈動を繰り返している。そこからは何本ものチューブが断線し、傷口からこぼれ出てのたうち回っていた。その先端からは油のしずくが垂れている。
エステルは壁のような竜の腹部に両手をかけると、その余力が残っていたのが不思議なくらい鮮やかに飛び乗った。彼女は傷口のそばに立つと、のたうち回るチューブを次々に束ねて、傷口の中に押し込んでいく。チューブ自体に極端な欠損が見られない以上、こうしてやればあとは勝手につながっていく仕組みだ。
問題は、傷口自体の方だ。エステルは飛び降りると、ビークルに戻り何かしらコントロールパネルをいじる。すると座席の後ろ側のハッチが大きく開いた。特大のトランクの中身はキャンプ道具以外にも、こういったときに必要な資材(主にゾイドの残骸から採集した装甲や内骨格の切れ端)が積まれている。
エステルはブレイカーに合図を送ると、この深紅の竜は心持ち、横になった胴体を斜めに傾けた。彼女は自分の腕の太さほどもある資材を数本、両手に抱えると竜の腹部にまで持ち運び、傷口に放り込んでいく。多分、これが最後の山という確信があるのだろう、軽やかな足取りでビークルと傷口とを往復していく。
往復を繰り返していくうちに傷口が資材で埋まった。すると徐々に、金属質であるはずの資材がアメのように溶け、竜の身体に同化していく。金属生命体であるゾイドの自己修復機能が働きはじめたのだ。
それを見届けたところで、エステルは特大のため息を吐いた。身体を横に戻したブレイカーは首を心持ち持ち上げると申し訳なさそうにか細く鳴いた。
エステルは笑顔を浮かべると、ビークルのトランクに向かう。中からテントを引っ張り出して設営をはじめた矢先、突如、ブレイカーが甲高く鳴いた。しつこいくらい繰り返し鳴く深紅の竜は、しきりにビークルの座席側に顔を向ける。
竜の仕草を見たエステルは、ハッとした表情で座席の方に向かった。
座席の上で眠っているギルガメスの呼吸が荒い。先ほどよりも顔色が青白くなり、額に玉の汗を浮かべている。
エステルは少年の額に手を当てる。冷たい。彼女までもが青ざめた。唇を噛んだ彼女は一転、トランクまで駆け寄るとすぐそばにテントを組みはじめた。五分もしないうちにテントを一つ立て終えると、悶え続けるギルガメスを両手に抱え、テントの中に入り込んだ。
床は応急でシート一枚。その上に毛布が二枚、敷いてある。
毛布の上に少年の身体をそっと乗せ、もう一枚の毛布をかけてやる。その上でエステルは、テントの出入り口からひょいと顔を出してブレイカーに伝えた。
「何かあったら、遠慮しなくていいからね?」
深紅の竜は横たわったままか細く鳴いて応えた。
エステルは少年の枕元に両膝立ちすると、一寸、何か躊躇するような表情を浮かべた。だがひとたび首を横に振り直すと、自らの襟のボタンに手をかける。
テントの外からやや荒々しい衣擦れの音が漏れてきた。それを聞いた深紅の竜は、顔を丘のふもとの方へと向けた。
ギルガメスが目覚めたとき、視界にはテントの屋根が広がっていた。布の屋根は外側から陽射しを浴びて、やや透けている。
寝ぼけ眼のまま上半身を起こそうとしたが、節々がひどく痛む。両手で身体を支えてどうにか起き上がったところで、彼は背筋が凍りついた。
(……もう、陽が昇っているじゃあないか!)
早朝の練習はどうした。朝食は。何もかもすっぽかしてしまったのか。オロオロしながら周囲を見渡す。……枕元にはTシャツやズボンなど着替え一式が丁寧に折りたたんである。そしてその上には、腕時計型の端末が置かれていた。
端末を鷲掴みにしてにらんでみると、時刻は九時を回っていた。彼は舌打ちし、早速置いてあった着替えに手をつけた。
Tシャツもトランクスも、汗でじんわり、濡れている。着替えながらギルガメスは妙なことに気がついた。……テントの中は少し、良い匂いがする。きっと、嗅ぎ続けていたら理性をどれだけ維持できるか自信のない、危うさをも秘めた匂いだ。そしてもう一つ、いつもは寝袋に包まって寝るのに、今日はなぜか毛布を被っていたのだ。わけがわからないが、それはそのままにしてとにかく今は着替えを急いだ。
テントから首を出し、すぐさま師匠はどこかとキョロキョロ見渡す。すると向こうから、凛とし切れず少しへたれた声が聞こえた。
「おはよう」
テントのすぐ左隣りにはテーブルが設置してあった。エステルはそこで、ジャージのままじっと座っていた。笑顔には眠気も混じっているようで、彼女は口元を右手で軽く押さえてあくびをこらえた。
ギルガメスは困惑した。まずおはようございますと言えば良いのか、それとも寝坊してごめんなさいと言うべきなのか。いやそもそも、彼女は全く腹を立てていないようだ。そしてよくよく考えてみれば、寝坊したら彼女は普通、少年を叩き起こすのではないか。
そしてそう思い至ったとき、そこまでしそうな者が「もう一匹」いることをすっかり忘れていたことに気がついた。
向こうでは、なぜか横たわっていた(大抵は丸くうずくまっている)ブレイカーが起床した少年に気付き、腹ばいになってピンと胸を張った。そして尻尾の先端を立てて振りつつ、小鳥が餌をねだるように騒がしく鳴きはじめた。
ギルガメスは挨拶する前にそのけたたましさにうろたえた。見かねたエステルが早速助け舟を送った。彼女が目配せしただけで、ブレイカーはすぐに鳴き止み、腹ばいのまま首まで伏せる。それでも虫の羽音のようにか細くも鳴き続ける竜の様子はやけに必死だ。一体、何があったのだろうか。
エステルは驚きっ放しの少年に首を傾げつつも、言葉を続けた。
「風呂、湧いてるわよ。入っちゃいなさい」
ギルガメスは心を整理する時間を確保するためにも彼女の言葉に従った。もちろん、相棒には「ごめん」と謝りながら。
仮設風呂の湯船に浸かったギルガメスは、自身の身体に不自然な点がいくつかあることに気がついた。まず、垢が随分多い。数日、風呂に入ってなかったかのようだ(それはないと、少年は心の中で断じたのだが)。そしてもう一つ、自分の左の脇腹がやけにつるつるしている。皮をむいた跡のようだ。自分の身体がこんな風になっていたという記憶はない。
さて風呂から出たギルガメスの前に用意された食事はオートミールであった。別に嫌いではないが、ただギルガメスはいぶかしむ。もしかして、自分は高熱でも出したのではないか。
だが、テーブルに向かい合い一緒にオートミールをすするエステルは、至極平静だ。あまりに不自然なくらいに……。
ふと、ギルガメスは頭を抑えた。しびれるような頭痛。指を滑らせ、スプーンを皿の上に落としてしまう。
「大丈夫!?」
すかさずエステルが血相を変えて立ち上がった。向こうではブレイカーが伏せていた首をピンと持ち上げる。
過剰な反応に少年は驚いたが、今は痛みの方が辛い。
「大丈夫、大丈夫です……」
「食べ終えたら、また少し休みなさい」
無言で少年がうなずいたとき、それは起こった。
先ほどまで愛らしくしていたブレイカーが腹ばいのまま身構えた。尋常ならざる殺気を突如解き放ったその瞬間、風を切る音が聞こえてきた。
エステルが両手を左右に広げてギルガメスの頭上を覆う。さらに彼女の背中を守るように、ブレイカーの巨大な左手が二人をかばった。風圧は凄まじく、テーブルがぐらぐらと揺れる。
丘の下で、遠ざかる足音が聞こえる。にらみつけるブレイカー。竜の眼には、砂ぼこりを上げて逃走するバトルローバーの透き通る青い鎧が確認できた。どうやってここまで近付いたのかと竜は歯ぎしりしつつ、そっと左手の覆いを持ち上げる。
「ブレイカー、ちょっとそれは……?」
取り払われる竜の腕を見上げたエステルが、声を掛けた。
言われて竜が左手の甲を見れば、子供の腕ほどの長さの矢が突き刺さっていた。恐らくはボウガンによるものだろう。巨大なゾイドに対してはこの通り、刺さったことすら気付かない。だが人相手には殺傷能力十分だ。
差し出された矢をエステルはむんずとつかんで抜き取った。……矢柄には、古風な矢文がくくりつけられている。
エステルはすぐさま矢文をほどき開いた。ちり紙よりは大きめの紙に、ペンの走り書き。文章は公用ヘリック語によるものだ。
「今晩三時、同じ場所で待つ。
逃げれば街を襲う。
惑星Ziの平和のために」
蒼きまなざしを険しくしながらも、彼女は努めて平静を装い矢文を二つに折った。
まず、猶予が与えられたことにエステルはホッとした。彼女の奮戦で生身の兵士やアーマードスーツ部隊のみならず、かのゴジュラスマリナー「GM18」さえも一時的には戦闘不能に陥った。それが主な理由だろう。あちらも立て直すには時間が掛かったのだ。
問題は「街を襲う」と言ってきたことだ。単なる脅しかもしれない。だがこのまま彼女たちが逃走したとき、本当に襲撃が行なわれるのなら、最悪の風評だけが残る。たかが二人と一匹を始末するためにあれだけの兵力を用意し、しかも白昼堂々と仕掛けてきた以上、十分にあり得るだろう。
「さて、どうしようかしらね?」
エステルがくるりと愛弟子の方を向いたとき、彼女はアッと声を上げた。上げてしまった。
テーブルに座るギルガメスは両手で顔を覆っている。小刻みに震える肩。彼の五体は今まさに、恐怖によって支配されていた。
少年のそばに、エステルはすぐさま駆け寄った。彼女もまた、青ざめている。
「ギル、どうしたの? ギル!?」
後ろに回って少年の両肩を抱き揺さぶってみるが、凍えるような震えは収まりそうにない。
自らの顔を覆う両手から涙がこぼれ、嗚咽が漏れてきた。
エステルにはわかる。少年が過去に流した涙と、明らかに別種のものだと。悔し涙はよく目にしていた。しかし今、彼の頬を伝うのは、得体の知れぬ恐怖に怯える涙。
きっとギルガメスは、ある種の記憶障害にかかっていたに違いない。彼は死の淵に立たされることにより、肉体もさることながらとりわけひどい精神的苦痛を受けた。克服するのに一番手っ取り早いのは「忘れる」ことだ。彼の頭脳は、昏睡状態に陥っている間にあの日の記憶を強引に記憶の奥底に追いやった。……しかしあの矢文が引き金となって、彼の記憶は奥底から無理矢理引き上げられてしまったのだ。今の彼は、迫り来る濃緑色の海竜に斬りつけられた瞬間が網膜に浮かんでしまっているに違いない。
かける言葉が見つからない。エステルは途方に暮れた。身体の傷は彼女の力で癒せても、心の傷までは癒せない。
と、そのとき。かたわらでミシミシときしむ音が聞こえ、そして辺りに影ができた。ブレイカーがのぞき込んできたのだ。
深紅の竜はすきま風のようにか細く鳴きながら、巨大な指をぬっと若き主人に近付ける。エステルの目の前にまで寄せると人の涙さえぬぐえる繊細な動きで少年の背中にそっと触れてみるが、それも数秒ほど。深紅の竜は指をすぐさま引っ込め、おとなしく巨体を伏せた。泣き出したくなるのをこらえながら、このゾイドもまた全身を小刻みに震わせている。
エステルは竜のたたずまいをひとしきり見つめると、やがて大きくうなずいた。
「ギル、顔を上げて」
少年の両肩は震えたままだ。
意を決したエステルは、彼の両肩に力を入れると強引に彼の身体を持ち上げた。そしてすかさず、泣き腫らした彼の顔を左手で一発、もう一発と張り手を浴びせる。
後ろではブレイカーが悲鳴を上げたが彼女は意に介さない。真っ正面から両肩をつかみ、絶望にうちひしがれたこの愛弟子の円らな瞳をまじまじとのぞき込む。
不意の出来事にギルガメスは呆然となった。視界に飛び込んできた彼女の瞳は、怒りで潤んでいる。彼は確信した。今日この日見せた彼女の涙を、表情を、生涯忘れることはないだろう。
「折れた心はね、勝たなければ絶対に癒えないわ。
ギルガメス、あなたの先生として命じるわ。戦いなさい。
泣く力が残っているのだから、あなたはまだやれる」
ブレイカーが軽快に荒野を駆ける。両手にはビークルを抱えながら。しかしどこか力強さに欠けているのは、やはり先の戦闘で過度に消耗したからだろう。むやみにはしゃぐような走り方はしない。翼も広げず鶏冠も逆立てず、そよ風のように走り抜けていく。
「まそう、けん?」
全方位スクリーン左側のウインドウには頬杖をつくエステルの姿が映し出されている。ジャージのままだ。……ギルガメスは彼女の指示で、オートミールを食べ終えると早々にブレイカーで出発した。彼女の格好も格好だし、そもそもテントも片付けずに出たのだからきっと目的地は近くにあり、すぐに戻ってくるものだと彼は思っていたのだ。
「そう、『魔装剣』。
ブレイカーは色々な武器や技を持っているのだけれど、その中でも決まりさえすれば絶対に勝てる最強の技。それが『魔装剣』よ」
竜はいつしか傾斜を下っていく。やがて全方位スクリーンは見渡す限りの砂浜と、昼下がりの陽を浴びて乱反射するさざ波を映し出した。もしかしたらと思った少年は、スクリーンの右側に鳥瞰図のウインドウを広げてみる。海岸線を西にたどってみて、彼はすぐに理解した。……あまりにも多くの出来事があったあの都市が、数キロほど先に見える。
すると鳥瞰図の上に被さるように、別のウインドウが開かれた。奇妙な図は、優しき相棒の形をしたワイヤーフレームを映し出す。
ワイヤーフレームの相棒の鶏冠がふと、まばゆく明滅した。
「この子の鶏冠に仕込まれた短剣を、相手に突き刺す。
そのまま五秒間、エネルギーを相手の体内に注ぎ込めば大抵のゾイドが失神するわ。これが魔装剣の極意」
ウインドウの右手から巨大な二足竜のワイヤーフレームが現れる。相棒はふところに飛び込み鶏冠の短剣を突き刺した。相手の二足竜は全身をジタバタともがくが、相棒は見事五秒間、短剣を抜かずに密着し続ける。……相手はやがて、膝から崩れ落ちた。
やがて現実の深紅の竜は砂煙を上げつつ、波打ち際で足を止めた。砂浜の柔らかな感触は非常に重いこのゾイドには踏み心地が悪すぎる。先に砂浜にビークルをそっと置いてから、足元を確認しつつ慎重にうつ伏せる。
ビークルからエステルが、続いて胸部ハッチからギルガメスが降り立つ。むせ返るような潮の香りに少年はたじろいだ。そして、改めて圧倒された。間近で見た海の広さは、今まで目にしてきた川や湖などをはるかに凌駕している。
潮で濡れた砂浜の感触は、少年も違和感を覚えた(※ゾイドウォリアーという職業は乾いた土や鋼鉄のコクピットを踏むことが圧倒的に多い)。一歩、また一歩と確かめるように歩を進める。そのうちに、彼は気がついた。この砂浜に人影が見当たらないことを。この辺りには潮と砂浜と、竜と師弟しか存在しないのだ。
一方、エステルは着ていたジャージの上着を脱いだ。黒のタンクトップが露になる。そして靴まで脱いでビークルの機上に置くと、すらりと美しい素足で波打ち際に向かっていく。ギルガメスもあわてて靴を脱ぎ、追いかけた。
陽は傾きつつあり、呼応するように彼女の腰ほどもある満ち潮の波濤が徐々に打ち寄せている。勢いを弱め足元に流れ着いたさざ波の冷たさに、少年は顔をしかめた。
ふと立ち止まったエステルは、じっと波間を凝視していた。打ち寄せる波濤を太陽が照りつけ、乱反射させる。すぐ後ろにまでギルガメスが追いついたとき、彼女はつぶやいた。
「ナイフは?」
振り向かぬまま後ろ手に左手を伸ばす。少年はポケットに突っ込んでいたそれをすぐさま差し出した。相棒が初対面の彼を試したときに使った、あのゾイド猟用のナイフだ。
受け取ったナイフを引き抜くと、左手で鞘を返す。両手で預かったギルガメスは近寄りがたい雰囲気をひしひしと感じた。彼女は恐るべき気合いを解き放ちつつある。向こうでうつ伏せていたブレイカーもそれを感じ取ったのか、首をもたげて二人の様子をうかがいはじめた。
「魔装剣は強いけれど、ご覧の通り射程も短いし、正確に標的を突かなければいけない。それに、突き刺したらすぐさまエネルギーを増幅させなければいけないわ。
ギル、だからあなたには『極限の集中力』を会得してもらうわ。ブレイカーとのシンクロ率を一気に高める技術をね。……見てなさい」
ギルガメスはまだ気付いていなかった。エステルの額や頬には既に玉の汗が浮かんでいることに。
いつしか訪れた静寂。波濤だけが聞こえてくる。
エステルはナイフの柄を、両手で握る。
新たな波濤が打ち寄せたとき、彼女は海辺を駆けた。向かうは波濤のふところ深く。
波濤が容赦なく彼女のしなやかな身体を呑み込もうとしたとき、絶叫は波音さえもかき消し、後ろで様子を見守るギルガメスの心をも貫いた。
左から右へ、白銀の刀身が虚空に横一文字の軌跡を描いたとき、海の彼方は広がる水平線をはっきりと描いた。……波濤が、切断されたのだ。
断末魔と化した波濤は彼女の頭上を飛び越えたまま本懐を果たすことなく、虚しきさざ波への変貌を余儀なくされ、後ろのギルガメスの足元まで流れ着いた。
波間に立つ彼の師匠は、両手でナイフを水平に振り抜いたままの格好で仁王立ちしている。黒のタンクトップに目立って濡れた様子は見られない。
少年は驚嘆した。裂帛の気合いは彼の心臓を、全身を打ち震えさせたままだ。鍛錬を積めば、人はここまでできるというのか……!
だが奇跡はここで潰えた。仁王立ちから姿勢を戻そうとしたとき、彼女のしなやかな身体は蜃気楼のように揺らいだ。そして、しぶきを上げて波間に崩れ落ちる。
「先生!?」
ギルガメスは血相を変えて、駆け寄っていく。砂に、波に、足を取られそうになりながら。
背後ではブレイカーが、すっかりあわてふためいた様子で巨体をもたげ、鳴き叫ぶ。
さざ波に呑み込まれたエステルのしなやかな身体。ギルガメスは無我夢中でその場にしゃがみ込むと、波間に引きずり込まれそうな彼女の肩を背中からすくって抱きしめる。このとき、少年は脳天に落雷を受けたかのような衝撃を覚えた。
(なんて軽いんだ。なんて華奢なんだ、柔らかいんだ……)
彼の手中にはガラス細工の女王が抱かれているのではないか。だがそんな錯覚は、すぐさま現実に引き戻された。彼女の体温は、この押し寄せる波濤の中でさえ灼けるほど熱い。
エステルは呑み込んだ潮を吐き、咳き込んだ。著しい体調不良に喘ぎながら、それでも肩を抱いて起こしてくれたギルガメスの血相を変えた顔を見つめると、彼女は自嘲混じりの笑みを浮かべる。
「最後は格好悪いところ、見せちゃったわね」
「そ、そんなこと……! 先生、それより熱が……」
「一晩寝てれば治るわよ。それより、ギル」
水平線の向こうに虚ろな視線を投げかけながら、彼女は語りかけた。
「『極限の集中力』を身につければこの程度、わけない。でも、武術の経験がないあなたがいきなりここまでやれるわけがない。
だから命じるわ。せめて、波のしぶきを自在に斬り裂けるようになりなさい。明け方三時までにね」
そうつぶやくと心持ちまなざしの厳しさが戻り、頭上に位置するギルガメスの円らな瞳にじっと視線を合わせた。彼は息を呑んだ。
「え……!?」
あまりに無茶な目標だ。期限は半日もない。
エステルは苦笑したが、まなざしは徐々に険しさを増していく。
「ごめんね。本当はね、こんなことにならなかったらそれこそ武術の基礎からじっくり教えるつもりだったわ。連日の厳しい戦いで、あなたはそれだけの実力を身につけたからね。
でも、悠長なことは言ってられなくなった。水の軍団は勝つためには何でもやるからね。戦いを避ければ無関係な
人々まで巻き添えを喰らうでしょう。
戦うのであればあなたが『極限の集中力』を会得し、魔装剣を使いこなせるようになるしかない」
エステルは額に長い指を当てた。刻印の青白い輝きがほとばしり、さざ波を照らし乱反射させる。
「……例え、その行く先が」
「い、いばらの道であっても、私は、戦う」
不意の詠唱に動揺はしたが、追随する以外の選択肢など思い浮かばなかった。
かくしてギルガメスの額にも、浮き上がった刻印。
輝きは思いのほかしっかりしている。エステルはにっこり微笑んだ。
「刻印が発動していれば身体能力も向上する。これでどうにかやってみて。
もし三時までに会得できなかったら、ブレイカーともども再戦の場には来たら駄目よ。私一人で戦う。……教え子を、むざむざ殺させるわけにはいかないからね」
さざ波に足を取られ、よろめきながらも立ち上がる二人。ギルガメスは胸を締めつける苦しさに唇を噛む。彼女は本気だ。そう断言できる理由はもう十分すぎるほどそろっているではないか。
「……やれる?」
悪戯っぽい少女の微笑みを浮かべながら、エステルは右手を差し出した。握ったナイフは逆手に持ち替え、柄を向ける。
ギルガメスはうなずくと、左手で彼女の右手ごとナイフを握りしめた。僕がやらなければ誰が先生を守るというのか。
照り返す波間を背に、少年は明日を誓った。