うたかたショートストーリー、またはやる気のない短編集 作:塩崎廻音
「スコットランドのヒツジというジョークは知ってる?」
「それは気持ちよく休日の朝を寝て過ごしていた僕をたたき起こしてムリヤリ連れ出したことに関係あるんですかね?」
ある土曜日の朝、前日の夜にバイトが長引いたせいで寝るのが遅れ、ぐっすり眠っているところをこのワガママな先輩にたたき起こされた。これはいつものことであるのでちょっと予想はしていたのだが、正直今回は勘弁してほしかった。眠い。
そんな僕の状態は分かり切っているはずなのに、彼女は上機嫌にそんなことを聞いてくる。スコットランドのヒツジ。聞いたこともあるような気がするが、思い出せない。というより、思い出す気も起きない。眠い。
「スコットランドのヒツジというのは、あれだよ。天文学者と物理学者と数学者がスコットランドに旅行に行ったときの話で」
「ああ、それは前に聞いたような気が…」
「ふむ。まあ、一応説明しておくと、電車の窓から黒いヒツジを見たときのそれぞれの反応で学者の性質を現したジョークだね。天文学者は『スコットランドのヒツジは黒いんだ』と言い、物理学者は『いや、スコットランドのヒツジは少なくとも一匹が黒いというべきだ』と言い、数学者は『いやいや、正確にはスコットランドのヒツジは少なくとも一匹の、少なくとも片側が黒いヒツジがいるというべきだ』と言ったというものだ」
「…まあ、ジョークの内容は分かりましたけど、それと僕がたたき起こされて今電車に乗せられていることに、何か関係があるんですか?まさかスコットランドに行くとは言いませんよね?」
「いやまさか」
そう言って肩をすくめる先輩。確かに、特急電車の向かいの椅子に座っている彼女は軽装で(白いサマードレスに麦わら帽子と、いかにも夏らしい服装だ)荷物も少ない。さすがに国外旅行はあり得ないか。
「このジョークは昨日聞いたんだけど、そのせいでちょっとヒツジが見たくなって。調べてみたら近くに牧場があるみたいだから、ちょっと見に行こうかと」
「…だったら、自分一人で行けばいいじゃないですか」
「つれないなあ。こんなか弱い乙女を一人で放り出そうって?後輩君」
「か弱い乙女ねえ…」
先輩をじっと見つめる。まあ、少なくともこの先輩の見た目がか弱い乙女っぽいことは認める。濡れ羽色の黒髪と黒ぶちメガネの容貌はしばらく見つめたままでいたくなるくらい魅力的だし、口調に似合わず振る舞いも結構上品だ。ただ、もう付き合いが長い僕は、この先輩に「か弱い乙女」なんてくくりに甘んじるような可愛げがないことは分かっているし、そもそも出会ったばかりのころにそういう扱いをして大爆発したのはこの人自身だ(曰く、嘗められたように感じて腹立たしいとのこと)。
先輩が本当にその扱いを望むのであればしてもいいが、どうせただの軽口だし、適当に流しておいた方がいい気がする(前に気まぐれでやってみたらすごく怒られた)。
「まあいいですけど。で、なんてとこに行くんです?」
「ん?ああ、なんだっけ、山神高原牧場とかなんとか…」
「うろ覚えじゃないですか」
「まあ、行き方は調べてきたから」
若干不安になるが、これもいつものこと。今まで道が分からなくなったことはないし、放っておけばいい。それより、睡眠時間を削られた分ここで寝ておきたい。
「…下りるまで、どれくらいかかります?眠いので寝てていいですか?」
「え、ダメ。同行者放って寝るとかマナー違反でしょ」
…鬼か。
***
牧場にたどり着くまでに、それほどの時間はかからなかった。先輩は「近くに牧場がある」としか教えてくれなかったが、思っていたよりもずっと近かった。電車もすぐに降りたし、牧場までの山道も15分かそこらで終わった。
…ここまで近いのであれば、あんなに朝早くにでなくてもよかったのではないだろうか。と、文句の一つでも言ってやろうかと思ったのだが、ウキウキと妙に楽し気な先輩の様子を見ると、そんな野暮なことは言い出しづらくなってしまう。美人は得だ。
「見て見て、後輩君!ヒツジだ、生のヒツジだよ!」
「生のヒツジって食べ物みたいですね」
頭を叩かれた。痛い。この人はすぐ手が出る。
「なんだか、思っていたよりもこもこしてないね。意外とスリム?」
「まあ、あんまりもこもこだと動きづらそうですよね」
「確かに。あ、こっち見てる!おーい!」
「や、声かけても分かんないでしょう」
「あの子、鳴くかな?メ~って!」
「メ~はヤギでは」
頭を叩かれた。痛い。
そんなこんなでヤギの群れを見つつ移動していると、遠くに妙な影が見えた。丸っこいので多分ヒツジなのだろうが、模様がおかしい。
そのヒツジ?は縞模様をしていた。
「…先輩、あれ、何でしょう?」
「ん、なになに?…え、何あれ?」
先輩も驚いているところを見ると、この牧場の名物とかでもないらしい。じゃあなんだあれ?
「…縞模様のヒツジなんていましたっけ?顔が黒いとかなら見ましたけど…」
「いやあ、いないでしょ。じゃああれはなんだってことになるけど…」
「ヒツジ、ですよね、見た目は。あ、草を食べてますよ」
「ヒツジ、だよね、見た目は。あ、こっち見た」
僕も先輩もすっかり混乱して、しばしそのヒツジ?の挙動を眺める。見たところは(縞以外は)完全にヒツジで、他のヒツジと同じようにトコトコと歩き回り、草を食べる。縞模様がなければ、すぐに他のヒツジと見分けがつかなくなるだろう。
「いや、縞模様のインパクトが大きすぎますね、これ」
「見事な縞だよねえ。この牧場には縞模様のヒツジがいるんだ…」
「…ここは、『少なくとも一匹の、少なくとも片側が縞の羊がいる』って訂正したほうがいいんでしょうか」
などと言って見ていると、その羊は逆の方向に歩き出した。もちろん逆側も縞になっている。
「『山神高原牧場のヒツジは、少なくとも一匹が縞模様だ』ってとこね」
「あ、先輩、あっちにもう一匹います」
「……」
しばらくぼーっとそのヒツジを見ていると、先輩が疑問の解決方法を思いついた。
「あ、観光案内の人に聞いたら、何か分かるかな?」
そんなわけで、来た道を戻り観光案内の事務所に来た。あまり観光に力を入れている牧場ではないようで、事務所も味気のないプレハブ小屋に新聞を読んでいるおじさんが一人座っているだけ。小屋に入って今見た謎の生き物のことを話すと、おじさんは何でもないように説明を始めた。
「それは縞ヒツジだね」
「縞ヒツジ…」
「ヒツジとは言うけど、ヤギの一種らしいね。前に学者さんが来てそんなこと言っとったわ。まあ確かに、言われてみれば鳴くときは『めえ』だね。見た目はヒツジみたいだから、ヤギでもヒツジって呼ぶんだと」
なんでもないかのようにいうその様子からは、あのヒツジが珍しい生き物であるという認識はないように見える。
「あの、縞模様のヒツジって珍しいんじゃないでしょうか?」
「そうかね?おれはこの牧場しか知らんからどうだかわからんが、おめさんたちが言うならそうかもしんね」
「…はあ、多分珍しいです」
「そか。じゃあよく見てくと良い。うちにはそこそこいるでな」
そう言って、また新聞紙に目を向ける。あまり「縞ヒツジ」が珍しいとかどうとかに興味がないようだ。そんなおじさんの態度を見ていると、なんだかこっちまでなんでもないように思えてきてしまう。
「とりあえず、さっきの場所まで戻って先を見に行きましょうか」
「…そうね、ここに留まっていても仕方ないし」
というわけで、元の場所まで戻る。先ほどと同じように縞模様のヒツジ、の見た目をしたヤギがいる。夢ではない。
よく見るとこの縞ヒツジは一匹だけではなく、おじさんの言う通りそこそこの数がいるみたいだ。ちょっと遠くに群れで草を食べている縞ヒツジがいる。群れで見るとなおのこと奇妙だ。
「遠くから見るとシマウマみたいなんだけどね」
「でも、シマウマはこんな寒いところにはいませんよ?」
「そうよねえ」
そんなこんなで、先へ進む。一応の説明を受けたからか最初のような驚きはなくなり、縞ヒツジを横目にどんどん先へ進む。朝起こされたときは軽く殺意が沸いたが、こんな珍しいものを見たおかげで今は得をした気分だ。
遅まきながら気分がよくなりずんずんと先へ進むと、牧場の一角のやぶのようなところに近づく。他より高い木が生い茂って、中は若干薄暗い。地面には背の高い草が生えているが、ちょっと長すぎるのでヒツジの餌にはなりそうにない。
そんなことを思ってやぶの中を眺めていると、奥の方にヒツジの影が見えた。ちょっと妙だ。エサはやぶの外にたくさんあるし、わざわざ視界も日当たりも悪いやぶの中にヒツジが入り込むようには思えない。それに、あのヒツジはなんだかちょっと高い位置に登っているように見える。倒木でもあるのだろうか。
少し興味が湧き、見通しのいい位置に移動する。少し奥にいるとはいえ、場所を選べば良く見えるようになりそうだ。そう思って歩き回ると、ちょうどよくやぶが開けて見える位置が見つかる。さっきのヒツジも良く見えるようになった。
いや、倒木にでも乗ったヒツジかと思ったそれは…
「……。ちょっとちょっと、先輩。あれ、見てください」
「ん?えぇ…」
ヒツジが地面から生えていた。
なんだこの牧場!
「あれ、バロメッツですよね?」
「…だねえ」
「実在したんですね…」
「……あったんだねえ」
バロメッツらしき植物の先になったヒツジは風に吹かれてゆらゆらと揺れる。ついでに僕たちの頭もめまいでゆらゆらと揺れる。驚きの連続でキャパオーバーだ。
「…とりあえず、もう一回あのおじさんに聞いてみましょうか」
「…そうね。そうしよう」
***
おじさんに聞いたところ、あれは「ヒツジモドキ」という植物らしい。これも見たことがないと伝えると、やっぱり何でもないようにたくさん見て行けと勧められた。豪胆すぎる。
ヒツジモドキも牧場には結構生えているようで、事務所の裏に生えた一本を間近で見せてもらった。よく見るとヒツジっぽい綿状の実がなっているだけで、本当にヒツジそのものがなっているわけではないらしい。顔や脚の部分も種が大きく突き出しているだけで、近くで見ればそこまでヒツジそのものというわけでもない。
「…何というか、おなかいっぱいですね」
「そうね。ちょっとここまですごいものが見れるとは思わなかったわ」
「本当ですよ。小さい牧場だと思って侮ってました」
「見かけに騙されちゃダメね」
「なんちゃって清楚の先輩が言うと説得力がありますね」
頭を叩かれた。痛い。
帰り道、先輩と今日の驚きの思いを共有する。先輩の妙な思い付きがとんでもない発見になったわけだが、終わってみればいい思い出になりそうだ。
…今後は、もうちょっと先輩に優しくしてみてもいいかもしれない。
あれだけの驚きがあったため結構な時間が経ったように思えたが、時間はまだまだお昼過ぎ。この牧場は家からあまり遠くないので、結構時間が余っている。
――まあ、今日はもう帰って休もうかな?
そう考えていると、牧場で驚きつかれたらしく珍しく静かにしていた先輩が回復して顔を上げる。
…また何かたくらむような表情をしている。帰りたい。
そうげんなりしていると、(見た目だけは)少女のような先輩はいつものごとく爛々と光る目をこちらに向けて、こう切り出した。
「ねえ、後輩君?カフェに集まった理系学者のジョークは知ってる?」
理系ジョークは物理学者が牛を球と仮定するやつがかなり笑いました。